「つげ義春日記」(1983)
「貧困旅行記」(1991)
解題:『つげ義春日記』と『貧困旅行記』(高野慎三)
「つげ義春日記」は昭和50年から55年までの日記。今回初めて読んだ。面白かった。
> 横尾忠則の「私の夢日記」を買ってみたが、関心のない人の夢は面白くない。7それに状況説明が念入りすぎて、夢のリアリティが損なわれている。くどい書きこみは、あらかじめ完結性が期待される<物語>と<意味>が生じ、現実の約束ごと、道理から自在であるべき表現の究極の目的が薄められるものだ。そのへんがちょっとものがたないように思える。(P.178)
> (宮本常一「日本の宿」から「落し宿」の紹介のあと)八森で見た宿屋は、そういう類いの一般にはうかがい知ることのできぬ、世の中の裏側にある宿屋だったのかと、あとになって思った。
そこまで極端ではなくとも、そういう貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる。そして佗しい部屋でセンベイ布団に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。
世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには❝自己否定❞しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。(P.358-359)