芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。予告なくネタバレを書くことがあります。

 結末に触れています。

●アガサ・クリスティー『未完の肖像』(中村妙子訳、2004年、クリスティー文庫77)

 原著は1934年出版。ミステリでないいわゆる「普通小説」。メアリ・ウェストマコット名義で出版された。普通小説としては『愛の旋律』に続く二冊目にあたる。

 シーリアという女性の半生を綴っている。アガサの自伝的要素の強い作品だと言われている。生活の細部や家族・友人との関係、男性との関係などが書かれていて、アガサ個人としてはぜひとも書いておきたい思い出なのかも知れないが、一読者としては退屈なところが多い。

 物語が動き出すのは、540頁中の450頁を過ぎたあたりからだ。何人かの男からプロポーズされたシーリアは、ダーモットという下級将校の申し出を受け入れ結婚する。うまくいっていたかに思えた結婚生活だが、やがてそれが破綻する。

 ダーモットとの関係は詳細に描写されていて、多くの読者はここに、1926年のアガサ失踪事件の影を読むことになるだろう。

 ダーモットは、ある意味で合理的で、人付き合いが苦手で、温かみのない男として描かれている。決して悪意のある人間ではない。なんだか私には高機能自閉症のような感じに思えた。アガサの最初の夫で失踪の少し前に離婚したアーチボルト・クリスティーは、そういう人だったのだろうか。もしそうだとしたら、自閉症について理解があれば(当時としては無理だったろうが)離婚しなくて済んだのかも知れないという気もする。

 なお、シーリアとダーモットの間には一人の女の子が生まれる。この子ジュディーもまた、ダーモットと同じようなメンタリティーの持ち主である。

 ところで、この物語は、二重の枠によってくくられている。大きな枠はまえがきによって与えられる。このまえがきは、「J・L」という女性からメアリ(メアリ・ウェストマコットだろう)に宛てた手紙である。J・Lは、肖像画家だが、肖像画を描くかわりに、ある女性のことを綴った小説を書いた、というのである。そして、メアリに対して「もしよければ出版してください」と頼んでいる。以下の本文は、J・Lが書いた小説である。

 本文は三部に分かれている。第一部と第三部は「孤島」と題され、第二部は「キャンヴァス」となっている。第二部は全体の頁数の約九割を占めている。第一部と第三部が第二部を囲う枠(第二の枠)になっているわけだ。

 「孤島」に書かれているのはこういうことだ。J・Lは島である女性と出会った。ちょっとした気配から、彼女すなわちシーリアが自殺しようとしていることを悟ったJ・Lは、シーリアの話を聞き、自分でも話をした。第二部「キャンヴァス」はその内容だ。

 わかりやすいように目次を写しておこう。

 まえがき
 第一部 孤島
  1、庭園の女性
  2、行動への呼びかけ
 第二部 キャンヴァス
  1 彼女の家庭
  2 外国旅行
  3 おばあちゃま
  4 死
  5 母と娘
  6 パリ
  7 成長
  8 ジムとピーター
  9 ダーモット
  10 結婚
  11 母親となる
  12 終戦
  13 連帯感
  14 からむ蔦
  15 成功
  16 喪失
  17 破局
  18 恐れ
 第三部 孤島
  1 屈服
  2 回想
  3 逃避
  4 はじまり
 訳者あとがき
 解説(池上冬樹)

 シーリアは最終的にダーモットと結婚するが、やがて破局する。破局とその後の経緯の描写は、なかなか読ませてくれる。このくだりからラストまでは「面白い」と感じた。

 ダーモットと別れて自殺まで図ったシーリアだったが、死ななかった。やがて優しく愛してくれる男性と出会い、プロポーズされて、受け容れる。しかし、彼が言った「約束してください、いつまでも美しいままでいるって」というひとことを聞いて、すべて捨てて逃げた。この言葉はダーモットに言われた言葉と同じだったのだ。ダーモットは「美しい」私を愛した、したがって、年相応に美しくなくなっていく私は愛されなくなっていったのだ。このことがシーリアの深い心の傷になっていた。今の言葉でいえば、かの男性は「地雷」を踏んだのだ。

 物語の最後の最後、シーリアの話を聞き終えて別れるとき、J・Lは、自分は昔は名の知れた肖像画家だったが今はそうではない、と言い、「手のない切株のような腕を示した」。要するに、戦争で腕を失ったわけだ。J・Lが画ではなく小説という形でシーリアのことを綴ったのも、画が描けなくなったからだ。だからそれは肖像画の代わりなのだ。第二部が「キャンヴァス」と名づけられているのもそういうわけである。

 ところで、この切株のような腕を示されたシーリアの反応がよくわからない。

> 恐怖──そして安堵……
 安堵以上のもの──救いといった方がいいかもしれない。
 そこに彼女が見たのは、かつての彼女の恐怖のイメージだった……
 長い年月の間彼女を追いつづけてきた恐ろしい幻の男……それが私のイメージと重なった。
 その恐ろしい男と面と向かって立ってみたら……
 何のことはないただの人間にすぎなかったという事実。
 つまり私という人間をそこに見出したということ……(P.542)

 何を言っているのだろう? 何か読み落としたものがあるのだろうか?

 以下、細部のメモ。

 ガイドが生きた蝶を帽子にピンで止めるエピソード(P.106)。幼いシーリアは、そのことにショックを受けるが、それを言うとガイドを傷つけると思い、どうしたらいいかわからず泣き出す。

> 「自転車に女が乗るなんて、危険きわまりない話だからね。あのいやらしい乗物に乗ったために、一生子宝に恵まれなかった女は一人や二人じゃないんだよ。女の体にはたいそうよくないのさ」(P.120)

 自転車は女が乗るものではなかった。日本でも女が自転車に乗るとお転婆と言われた時代があった。それにしても子宝云々は大袈裟で面白い。

> 「ムーア風というんだろうね、このコーヒーは」とグラニーは瞼に皺を寄せて舌鼓を打つ。
 「もうあとちょっぴりだけ、もらおうかね」と自分の駄洒落に悦にいって、コーヒーをもう一杯注ぎ、声を立てて笑うのであった。(P.125)

 「ムーア」と「もうあと」に傍点。英語の地口を日本語の地口に移している。技ありだ。

> 折々、誰も見ていないと思うと、グラニーはちょっとした飾りや、黒玉、ルーシュ飾り、クローセー編み細工などをごみの山から拾いだして大きなポケットにそっとしまいこみ、身の回りのものを入れるべく、彼女の寝室に用意されている大きな櫃型のトランクの中に折を見てしまうのであった。(P.316)

 「折を見てしまう」がわからない。

 昨日は立川の『ウイング高松寄席』でした。私が顔付をした会で、年に一回ぐらいのペースで開催しています。主催は高松大通り商店街。

 自分で言うのもナンだけど素晴らしい会でした。いえもちろん、出演者の充実した高座と、芸をしっかり受け止めてくださった感度の良いお客さんのおかげなのですが。

 1、三遊亭ふう丈:短命
 2、一龍齋貞友:神田松五郎
   -中入り-
 3、柳家小団治:茶の湯

 前座さんナシで、まずは二ツ目のふう丈さん。豊かで愛嬌のある顔の表情と、ところどころをクサく作った「短命」で、お客さんの心を開かせることに完全に成功。両者の息ピッタリ、という感じでした。
 ふう丈さんには、中入りでの抽選会も仕切っていただきましたが、お客さん裁きも見事でした。助かるなあ。

 続いて、講談の一龍齋貞友先生(仲よくしていただいているので、普段は「さん」付けだけど、最初だけ「先生」と書いておきますね)。十八番の「神田松五郎」。マクラで声優の仕事に触れる。例えば「しんべえ」の声をやると客席が「わあっ」と驚くんですね。こういう絶対的な飛び道具を持っているからには、活かさない手はない、と思います。貞友さんの高座は、登場人物の気持ちがよくお客さんに伝わるんです。それは技術もあるんだろうけど、貞友さんの人柄によるところも大きいと思う(私の中では林家正蔵さんも同じような特質の持ち主です)。この高座も人物の気持ちがよく伝わって、とても結構な一席でした。

 そして、柳家小団治師匠の「茶の湯」! これは本当に素晴らしい一席でした。登場人物の描き方が「感情」レベルではなく「腹」レベルでした。歌舞伎などでよく言われる「腹」ですね。全ての登場人物の腹がよく伝わってきましたが、とりわけ隠居については、隠居が師匠なのか、師匠が隠居なのか、というぐらいに感じられました。小団治師匠の高座は、明るくて、わかりやすくて、親しみやすい、それでいて、品格高く、深いものでした(いつもですが)。同時にそれは、五代目小さんの芸の正統的な継承でもあるのです。口を極めて絶賛したいと思います。なお、マクラでしゃべった都議選とオリンピックの話も、とても良くできていて面白かったです。

 お三方がそれぞれの持ち味を十分に発揮し、良い流れを作ってくださって、顔付担当としては大満足でした。会場を後にするお客さんの楽しそうな顔を見て、こちらも幸せな気持ちになりました。

 でもって、打ち上げ。これも小団治師匠を中心におしゃべりの花が咲き、というか、咲き乱れて、まことに楽しい時間でした。皆さん、お疲れさまでした&ありがとうございました。

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小団治師匠(中)、貞友さん(左)、ふう丈さん(右)



●山手樹一郎『桃太郎侍』(1978年、春陽文庫/山手樹一郎長編時代小説全集1)

 山手樹一郎の『桃太郎侍』を読んだ。おそらく20年か30年ぶりぐらいの再読である。大規模な《山手樹一郎長編時代小説全集》の第一巻で、山手の出世作でもある。昭和15年に岡山合同新聞に連載され、翌年秋に単行本化された、と尾崎秀樹の解説にある。

 山手の作品は「明朗時代小説」などと呼ばれているが、近頃はあまり流行らないようだ。時代小説の案内本である『時代小説百番勝負』(ちくま新書)でも、寺田博『百冊の時代小説』(文春文庫)でも山手作品は選ばれていない。しかし、一時はこの春陽文庫から出ている《山手樹一郎長編/短編時代小説全集》が書店の棚でかなりのスペースを占めてまぶしく輝いていた。出版する側でもそうとうに力を入れ、読者も大いに楽しんでいたということに違いあるまい。

 私は、学生時代だったか、全170巻となるこの全集を全部読みたいと思い、第一巻から順に読み始めたものの、たった三巻で中断した。だから三冊しか持っていなかった。が、二、三年前におねだりして誕生日のプレゼントに買ってもらったのだ(子どもか!)。だから今は全巻持っている。しかも、最初の三巻は二冊ずつ持っている。

 以前に読んだ印象では、面白く一気に読めるが、内容はあまりない、というものだった。今回再読してみて、以前よりずっと面白く読めた。まあ、内容はないといえばないが、なくったっていいじゃないか、と思う。とにかく読後感がスカッとさわやかなのだ。

 右田新二郎は、何者かに襲われたとき咄嗟に「桃太郎」と名乗ったことで、以来桃太郎で通っている。母・千代のもとで育てられたが、千代が臨終に際して、実は自分は母ではなく乳母であり、本当は讃州丸亀城主若木讃岐守が城代家老右田外記の娘に産ませた双子のうちの弟だと言う。兄の新之助は丸亀藩の跡継ぎである。この若木家は跡目争いの真っただ中にいる。江戸屋敷にいる新之助が病弱であることにつけこんだ国家老の鷲塚主膳は、新之助を亡き者にして自分の息のかかった者を跡継ぎにし、藩政を牛耳ろうと考えていたのだ。
 桃太郎は、ひょんなことから伊之助という男と知り合い、貧しい長屋に住む子どもたちに読み書きを教えることに喜びを見出すが、否応なく若木家の跡目争いに巻き込まれていく。

 主な登場人物を書いておこう。

 桃太郎:本名右田新二郎。父は讃州丸亀藩主で、双子の兄がいる。腕っぷしが滅法強く、曲がったことが嫌いで、危機に瀕しても悠然としていて、人物も大きい。妖艶な小鈴、清純な百合に惚れられる。
 伊之助:通称サル。元掏摸だが、今はかつぎの呉服屋をしている。桃太郎に惚れ、長屋を世話し、手足となって動く。
 神島伊織:江戸家老。
 神島百合:伊織の娘。清純な美女。桃太郎に惚れる。男装する場面もある。
 小鈴:元女掏摸、今は踊りの師匠で坂東小鈴。妖艶な美女。桃太郎に惚れる。
 鷲塚主膳:国家老。新之助を亡き者にしようとする悪人。
 伊賀半九郎:主膳の手先となって働く男。

 小鈴を境に、善人と悪人とがはっきりと分かれている。小鈴は、伊賀半九郎から「悪人は神島伊織だ」と騙されて、桃太郎も謀叛側につかせようとするが、やがて本当のことに気づく。

 山手樹一郎の作品が「明朗時代小説」である所以は、何といっても桃太郎の造形に表れている。何しろ上に書いたように、腕っぷしが滅法強く、曲がったことが嫌いで、危機に瀕しても悠然としていて、人物も大きい、その上、女にも男にもモテまくるのだ。藩主の息子だから「貴種」の要素まで備えている。読者は、この絵に描いたような「英雄」に感情移入してスカッとするわけである。

 桃太郎に惚れる女も、方や妖艶な女、方や清純な家老のお姫様だ。両者は娼婦性と処女性の象徴であろう。羨ましいことこの上ない。

 とはいえ、読者の心には「最後には桃太郎はどちらかを選ばざるを得ないことになるだろう」ということが気にかかる。どちらを選んでも、他方を傷つけることになるのだ。しかし、実際には小鈴は都合よく死んでしまい、百合は武士の生活を捨てて浪人・桃太郎のところにやってくるのだ。ご都合主義の見本だが、このことを批判するぐらいなら山手樹一郎は読まないほうがいい。「まあ、まあ、良かったじゃないの」と素直にカタルシスを感じればいいのだ。

 山手文学は、何も考えずに楽しめる(考えると楽しめないかも)上々のエンターテインメントなのだ。『桃太郎侍』についていうなら、どうしても高橋英樹の顔が浮かんでしまうのが玉に瑕だが(念のために言っておくが、般若の面をつけたり、「ひとーつ、人の世、生き血をすすり…」などと決め台詞を言ったりする場面はない)。

 もくじに章名がないので書きぬいておいた。数字は頁数。

 仮の宿 2
 いろは草紙 45
 夜がらす 74
 好敵手 103
 火花 142
 悪党 179
 品川の宿 209
 第一夜 242
 宇都谷峠 271
 船番所 299
 虎穴 337
 一騎打ち 372

尾崎秀樹による解説「山手樹一郎文学の位置」もとても良い。

 ネタバレを含みます。

●アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』(山本やよい訳、2011年、クリスティー文庫8)

 いわずと知れたクリスティーの代表作。豪華列車オリエント急行の車内で起きた殺人事件の謎をエルキュール・ポアロが解き明かす。

 <クリスティー文庫>では二種類出ている。中村能三訳の旧版(2003年)と山本やよい訳の新版(2011年)である。私はこのほかに、長沼弘毅訳の創元推理文庫版(2003年新版)と蕗沢忠枝訳の新潮文庫版(1960年)を持っている。

 イスタンブールを出発してトリエステを経由しカレーに向かうオリエント急行の寝台車には、イギリス、アメリカ、ロシア、ギリシャなど様々な国の人々が乗り合わせていた。その中には仕事でロンドンへ向かうポアロもいた。やがて大富豪のラチェットが十二ヶ所も刺されて死亡した。列車は雪のためにユーゴスラビア内で立ち往生した。雪に閉ざされて誰も逃げることができない状況だ。ユーゴスラビアの警察が来るまでには時間がある。ポアロは調査を始めた。
 昔、アームストロング家の幼女デイジーが誘拐された。犯人は二十万ドルという高額の身代金を要求し、きちんとせしめたにもかかわらず、後にデイジーは死体となって発見された。そのために多くの人が不幸になった。カセッティという男が犯人であることは確実だったが、おそらく不正な手段を使い刑罰に処せられることなくどこかへ消えていた。オリエント急行での殺人事件の被害者ラチェットの正体は、カセッティであった。
 調べていくうちに、同じ車両に乗り合わせていた人々はみなアームストロング殺人事件に何らかの関係をもった人たちであることがわかってくる。十二人の人々がそれぞれの憎しみを込めて、カセッティを刺したのであった。
 ポアロはそうした解釈とは別に、単独の犯人はすでに逃げたという解釈を提示し、いっしょに事件を調べた列車運営会社の重役ブークに、どちらの解釈が良いか選ばせた。ブークは単独犯説を選んだ。

 私は本を読む前に、シドニー・ルメット監督の映画(『オリエント急行殺人事件』1974年)も、デヴィッド・スーシェ主演のテレビドラマも見ていた。どちらも原作の勘所はきちんと押さえて「忠実」と言える演出であった。したがって、プロットもトリックも知った状態で読んだのだが、それでも最後にはホロリと泣かされてしまった。

 クリスティーは、人々の憎しみを描くのがうまい。そして、複数の憎しみが一人の人間に集まるという設定が割合多いように思う。つまり、多くの人に動機があるという状態である。この『オリエント急行の殺人』はそうした設定が最もうまく機能した例ではないだろうか。

 物語の序盤、ポアロがラチェットから身辺の警護を頼まれる場面がある。しつこく金を積むと言われて断るのだが、最後にはこう言う。

> 「こんな失礼なことを申しあげるのもなんですが──あなたの顔が気に入らないのです、ムッシュー・ラチェット」(P.56)

 断る理由として「顔が気に入らない」というのは、普通に考えたら問題発言であろう。ラチェットが悪人であることを直感で見抜いたポアロが、敢えて失礼な物言いをしたということなのか、それとも原文ではもう少しニュアンスに幅があるのか…。ほかの三つの訳も調べたが、日本語では似たり寄ったりだった。

 ラチェットが殺されて、みんな悲しむどころか「殺されて当然」と喜ぶくだり、落語「らくだ」を思い出した。

 さる5月19日、念願だった415アルトを遂に入手した!

 415というのは、A=415Hzの調律、つまり通常のピッチ(モダンピッチと呼ぶ。A=440〜445Hz)より半音低いピッチのこと。通称バロックピッチ。もっともバロック時代の楽器がすべて415Hzに調律されていたわけではなく、全音低いピッチ(ヴェルサイユピッチ)やモダンピッチより高いピッチなどもあったそうだ。が、概ね半音ぐらい低いピッチが多かったようで、これをバロックピッチと呼んでいる。

 バロック音楽を演奏するならバロックピッチの楽器で、というのが何となくジョーシキのようになっている。そのことにあまり囚われてしまうのも良くないと思うのだけれど。

 西武新宿線の最寄り駅から二つ目の駅に、譜久島譲さんというリコーダー製作家の工房があり、ご縁があって一年少し前に製作をお願いした。譜久島さんのリコーダーは名立たるプロも使っている素晴らしいものだ。おまけに落語好き。

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 下が415アルト。木は柘植。ブレッサンモデル。上はずっと愛用しているモダンピッチのアルト。竹山製の楓で、モデルはやはりブレッサン。半音違う分だけ楽器の長さも違っているのがわかるだろう。

 ブレッサンというのはバロック時代のフランスの製作家の名前で、つまりブレッサンが作った楽器を基に設計した楽器という意味だ。ブレッサンモデルなら誰が作っても同じ、ということは全くなく、同じブレッサンでもちょっとした違いでいろいろ個性が出る。とはいえ、ブレッサンモデルに通有する特色というのもやはりある。一緒に注文した笛仲間の嶌田さんは、ステインズビーJr.モデルを選んだ。

 写真ではわからないだろうが、譜久島リコーダーは仕上がりが大変に丁寧で、こんなことを言うと変態だと思われて(ばれて?)しまうが、とてもセクシーだ。見ているだけで嬉しくなる。へへへ。

 もちろん音色も素晴らしい。バロックリコーダーらしい繊細で美しい音色。下から上までとてもよく鳴る。さらに素晴らしいのは、これで完成ではない、ということ。これからまだどんどん良くなる、つまり育つのだ。

 今後数ヶ月は「慣らし」期間だ。できるだけ毎日少しずつ吹いて、楽器を慣らしていく。ブロックが水分を含んで膨張していくのだ。するといろんなバランスが変わってくる。ある程度膨張したらまた調整をしてもらう。

 この楽器が今後どう育っていくか、とても楽しみだ。

 ネタを割ってます。

●アガサ・クリスティー『死の猟犬』(小倉多加志訳、2004年、クリスティー文庫)

 クリスティーの五冊目の短編集。原著は1933年出版。

 科学ですべてが割り切れるいわゆるミステリ(推理小説)ではなく、怪奇幻想味のある短編を集めている。ただし「検察側の証人」は純粋なミステリ。とても面白かった。

1、死の猟犬
2、赤信号
3、第四の男
4、ジプシー
5、ランプ
6、ラジオ
7、検察側の証人
8、青い壺の謎
9、アーサー・カーマイクル卿の奇妙な事件
10、翼の呼ぶ声
11、最後の降霊会
12、S・O・S

 「ランプ」のラストシーンは、友だちを追って旅立ってしまった幼い子どもを、足音だけで描写して素敵だ。

 「ランプ」の冒頭。

> たしかにそれは古めかしい家だった。その一画全体が古ぼけていて、大聖堂のある町などによくある、妙にもったいぶった由緒めかしい感じを見せている。だが十九番地の家は中でもとりわけ年経た印象を与えた。いかにも本家然たりいかめしさを見せ、とびぬけて古色蒼然たる趣きをみせてそびえ、ひときわ昂然として立ち、見るからに冷然と構えている。きびしく、毅然として、久しく住み手のなかった家につきもののいかにも荒涼たる感じを見せて、ほかの建物の上に君臨していた。(P.157)

 訳者は立て続けに「〇〇然」という形容語を繰り出している。これは意図的だろうか。

 「検察側の証人」は、純粋なミステリで、最後の最後にどんでん返しがある。優れた一編。ビリー・ワイルダー監督が『情婦』として映画化している(1957年)。

 解説は風間賢二。ミステリとオカルティズムについてきちんと書かれている。この短編集のもつ意味がおのずと浮かび上がってくる素晴らしい解説だ。

 創元推理文庫からは『検察側の証人 クリスティ短篇全集1』(厚木淳訳、1966年)として出版されている。内容は同じ。解説は中島河太郎。

 なお、ら抜き。

> わたしが連れて行くところへは自由なものしかついてこれないからだ……(P.361)

●アガサ・クリスティー『謎のクィン氏』(嵯峨静江訳、2004年、クリスティー文庫53)

 原書の出版は1930年。出版順に読んでいる私の「クリスティーの旅」としては、『愛の旋律』『牧師館の殺人』と同じ頃に読むべきであったが、うっかりしていた。短編集としては『おしどり探偵』と『火曜クラブ』の間の第三短編集にあたる。

 ハーリ・クィンという名の謎の人物が登場する。常に事件の起きるところに現れて、初老の社交界の通人・サタースウェイト氏に解決のヒントを与え、消えてしまう。クィン自身は何もしない。

> わたしにはクィンという友人がいるんですが、彼はまさしく触媒作用を引き起こすんです。彼が現われると、決まってなにかが起きるんですよ。彼がいるだけで、不思議なことに、意外な事実があきらかになり、新たな発見があるんです。それでいて、彼自身は一連のできごとになにもかかわらないのです。(P.206)

 ハーリ・クィンは、ハーレクインすなわち中世ヨーロッパの即興喜劇コンメーディア・デラルテの登場人物アルレッキーノをモデルにしている。この作品全体にもコンメーディア・デラルテへの傾斜があちこちに見られる。クリスティーはどうやらこのトリックスターに大いなる神秘を感じ、強い憧れを持っていたらしい。そうしたクリスティーの思いを核にした連作短編集である。

 したがって、この作品は、謎解きという一種の科学的整合性をもちながら、それには収まり切れない神秘性をも持っている。とても面白かった。

 1、クィン氏登場
 2、窓ガラスに映る影
 3、<鈴と道化服>亭奇聞
 4、空のしるし
 5、クルピエの真情
 6、海から来た男
 7、闇の声
 8、ヘレンの顔
 9、死んだ道化役者(ハーリクイン)
 10、翼の折れた鳥
 11、世界の果て
 12、道化師の小径
 解説/川出正樹

 結末を割ってます。

●アガサ・クリスティー『エッジウェア卿の死』(福島正実訳、クリスティー文庫7)

 原作は1933年出版。原題は Lord Edgware Dies だが、アメリカ版の題は Thirteen at Dinner となっている。創元推理文庫版のタイトルは『晩餐会の13人』(厚木淳訳=未入手)、新潮文庫版は『エッジウェア卿殺人事件』(蕗沢忠枝訳)である。

 ポアロ物の長編。ヘイスティングズ大尉、ジャップ警部も登場。

 女優のジェーン・ウィルキンスンは、エッジウェア卿と離婚したがっていた。そこでポアロに、離婚に応じないエッジウェア卿を説得してくれと頼む。はじめの約束より一日早く卿に会ったポアロは、卿から「六か月前に離婚に応じる手紙を出した」と言われた。その手紙はどこへ消えたのか。やがてエッジウェア卿は何者かに殺害される。ジェーンには動機があり、実際に犯行時刻に彼女がエッジウェア邸を訪ねてきたのを見たと、メイドのエリスは証言した。しかし、同時刻にジェーンは、テムズ河畔チズィックのモンタギュー・コーナー邸での晩餐会に出席していた(出席者は13人で、これがアメリカ版のタイトルの由来となっている)。

 その後、第二の殺人(物まねで売り出し中の女優カーロッタ・アダムズ)、第三の殺人(晩餐会の出席者ドナルド・ロス)が起きる。

 エッジウェア卿:女優のジェーン・ウィルキンスンと結婚している。その前にも結婚していたが別れている。「特別な趣味」を持っている(P.427)正式な名前は、男爵エッジウェア四世、ジョージ・アルフレッド・セント・ヴィンセント・マーシュ(P.75)。ポアロがジェーンの依頼で離婚に応じるよう話をしに行くと、半年前に離婚に応じる手紙を出したと意外なことを言った。その後、何者かに首を刺されて殺害される。
 ジェーン・ウィルキンスン:女優で、エッジウェア卿夫人。美貌とハスキーな魅力的な声の持ち主。頭が悪いと周囲に思われているが、本当はそう思わせているのだった。エッジウェア卿と離婚をしたがっている。実は…エッジウェア卿に離婚を求めていた時点では、映画俳優のブライアン・マーティンと再婚したいと思っていたのだが、その後、大金持ちで地位もあるマートン侯爵と再婚したいと思うようになった。しかし、マートン侯爵は前夫の生きている女とは結婚する意志を持っていなかった。そこで、物まねで売り出し中の女優カーロッタ・アダムズに一万ドル払うからと持ち掛けて、自分の代わりにチズィックの晩餐会に出席させたのだった。同じ時刻にジェーンはエッジウェア卿を殺害し、次いでカーロッタにヴェロナールを飲ませて殺害した。さらに、カーロッタとの入れ替わりに気づきそうになったドナルド・ロスを刺殺した。
 カーロッタ・アダムズ:物まねで売り出し中の女優。ジェーンに頼まれて、ジェーンのなりをしてエッジウェア卿の邸を訪れたかに思われたが、実は邸を訪れたのは本当のジェーンで、チズィックの晩餐会に出席したのがカーロッタだった。役目を果たした後にジェーンに殺害される。
 ルシー・アダムズ:カーロッタの妹。カーロッタからの手紙を受け取っている。
 ブライアン・マーティン:二枚目の映画俳優。ジェーン・ウィルキンスンと愛し合うが、振られてしまう。そのことを恨みに思い、ジェーンに罰を与えようと画策する。離婚を承諾する内容のエッジウェア卿からの手紙を盗んだのはブライアンだった。エッジウェア卿の執事になりすましていて、卿の殺害現場から金を盗む。
 ロナルド・マーシュ:エッジウェア卿の甥。貧乏だが、卿が殺されたことで新たにエッジウェア卿となる。殺人の容疑をかけられて逮捕される。
 ジェラルディン・マーシュ:エッジウェア卿の先妻の娘。
 キャロル:エッジウェア卿の秘書。
 ジェニー・ドライヴァー:カーロッタの友人。ブライアン・マーティンのアリバイを証言する。物語の終盤でブライアンと婚約した。
 ドナルド・ロス:晩餐会の出席者。劇作家。物語の後半で、晩餐会の出席者がジェーン本人ではないのではないかと疑問を持ち、ジェーンに刺殺される。
 マートン公爵:若い貴族で大金持ち。ジェーン・ウィルキンスンと愛し合うが、強い信仰を持った堅物でもある。
 マートン公爵夫人:マートン公爵の母。公爵とジェーンとの結婚に反対している。
 エリス:ジェーン・ウィルキンスンのメイド。

 二つ疑問がある。

 一つ。前夫の生きている女とは結婚しない、とマートン公爵が考える、その根拠がよくわからない。物語の鍵となる事柄のはずだが、簡単にしか書かれていない。

> マートン公爵家が代々英国国教会の大立者だということを思いだしてみてください。たとえ離婚したにせよ、前夫の生きている女と結婚することなど、夢想だにできぬことなのですよ。しかも彼は、若いが教義の熱狂的な信奉者です。だから、彼と結婚するためには寡婦とならなければならなかった。それでも、試しに公爵をつついてみたと思ってまちがいないでしょう。だが彼はその餌に飛びついてこなかったのです(P.441)

 同じくだり、蕗沢忠枝訳の新潮文庫版ではこうなっている。

> なぜなら、マートン侯爵は、英国国教会の重鎮だからです。なぜなら、侯爵は、前夫の生きている女性と結婚しようとは、夢にも考えないからです。彼は熱狂的なカトリック(訳註 絶対に離婚を認めない)の信奉者です。レイディ・エッジウェアは、夫と離婚すれば侯爵と結婚できると、かなり確信をもっていました。それで試みに、夫との離婚で侯爵を誘ってみたに違いない。しかし、彼はその餌にとびつかなかった(新潮文庫 P.386)

 福島訳と蕗沢訳でニュアンスが違っている。まず「公爵/侯爵」と字が違う。私の浅い知識では、離婚できないことに不満をもったヘンリー八世が、カトリックと袂を分かって英国国教会を作ったのではなかったか。だとすると、英国国教会は離婚・再婚についてあまり厳格ではないはずではないのだろうか? ここのところがよくわからない。

 蕗沢訳のように、カトリックだと言ってしまえばスムーズに理解できるのだが、英国国教会はカトリックから分かれたのだから、英国国教会の重鎮で熱心なカトリックの信奉者だというのがわからない。

 も一つ。エッジウェア卿の、世間に知られたらスキャンダルになる「特別な趣味」(P.427)とは何だろう? たぶん私の読み落としかも知れない。

 なお、「すべからく」について、

> 食べるときは、頭脳はすべからく胃のしもべたるべし(P.228)

 と正しい使い方がされている。

 巻末に高橋葉介の「『エッジウェア卿の死』配役」という3ページの文章が収められているが、解説の体をなしていない。もっとも解説とはどこにも書いてないから解説ではないのかも知れない。高橋葉介のマンガは好きだが、この文章は全く面白くない。誰に、どんな内容の解説を書いてもらうかは、編集者の権限であり責任であろう。この点、新潮文庫版の訳者による解説は、きちんと解説になっている。ただ、終盤近くの筋立てにまで触れているのはちょっとどうかと思う。

 アガサ・クリスティーはいま17冊目を読んでいるところなので、まだまだ旅の五分の一にも達していない。したがって全く大きなことを言える立場にないのだが、今の時点で私が感じているクリスティーの旅の楽しさをメモとして記しておきたい。

 もともとクリスティーを読みたいと思った動機は、クリスティー作品の海外ドラマ(主にデヴィッド・スーシェのポアロ物やジェラルディン・マクイーワンのミス・マープル物)を見て、そこに映し出される20世紀前半のイギリスの風景が面白いと思ったからだった。つまり、建物や街並み、車の形や馬車、人々の暮らしといったものに目を引かれたのだ。

 クリスティーは1890年生まれで、処女作の『スタイルズ荘の怪事件』が出版されたのは1920年、亡くなったのは1975年だ。私は出版順に読んでいて、今読んでいる『エッジウェア卿の死』は1933年出版。つまり今のところ1920年から1933年までの作品を読んでいることになる。作品に描かれている風俗も、この時代を反映しているわけだ。

 それで気づいたことのいくつかを記しておくと、まず、執事やメイドといった使用人が家にいるのが極めて普通のことだということがある。おそらく上層階級と下層階級の間の中間層がかなりの厚みをもっていて、中間層の家に使用人がいるのは普通のことであるらしい。この点今の私たちの暮らしとかなり違う。主人の階層と使用人の階層とは、意識構造にもかなりの違いが見られる。もともと貴族階級に属していても、困窮して使用人になり下がることもあり得るようだ。

 また、男性の名前に敬称のように軍隊での階級がつくことが多い。例えば、ポアロの友人でワトソンのような役割の人物は「ヘイスティングズ大尉」と呼ばれる。こうした例は数多い。今のところ私が読んだクリスティー作品は、上に述べたように1920年から1933年の間に出版されたもの。つまり、第一次と第二次の大戦の間の時期に書かれている。したがって階級名は第一次大戦でのものと思われる。少なくともこの時期のイギリスの人々にとって、戦争は身近なものであったことがうかがわれる。1933年ともなるともうナチスが勃興しつつあるので、今後はナチスに対する関係が作品に影を落とすのではないかと想像される。

 細かい風俗だが、小説版『ブラック・コーヒー』に「嗅ぎ塩」というものが出てきて興味を惹かれた。気持ちを落ち着かせる一種の塩であるらしい。そういう物が当時のイギリスにはあったのだろう。こういう物を知ることができるのもクリスティーを読む楽しみの一つだ。誰かこういう事柄について解説する本を書いてくれないかなあ、と思う。

 当時のイギリスの風俗を知ることのほかに、もう一つ別な楽しみがある。それは、翻訳の違いを味わうことだ。

 私は基本的には早川書房の《クリスティー文庫》で読んでいるが、他の文庫から出ている別の翻訳もできるだけ集めることにしている。読んでいて意味がとりにくいとき、「嗅ぎ塩」のように気になる物が出てきたときなどは、他の翻訳を当たってみる。

 実は一冊を通して読んでみると訳者の違いはあまり気にならないことが多いのだが、部分部分を比べてみると、「へえ、訳者によってこんなに違うのか」と思うのだ。

 すると、訳者ごとの個性を味わってもみたくなる。まだ数多く読んでいるわけではないので、そこまでは行かないが、少しずつ訳者名も意識して読むようになっている。

 それと関連して、一つの些細なチェック事項がある。こなれない日本語や「すべからく」の誤用があるかないかだ。

  この点、中村妙子は、ときどきこなれない日本語を書く人、「すべからく」を誤用する人として、私の中で「要注意翻訳家」となっている(『愛の旋律』の項参照)。

 ちなみに、今読んでいる福島正実訳の『エッジウェア卿の死』(クリスティー文庫)では、

> 食べるときは、頭脳はすべからく胃のしもべたるべし(P.228)

 と正しい使い方がされている。

●アガサ・クリスティー『火曜クラブ』(中村妙子訳、2003年、クリスティー文庫)

 原初は1932年出版。ミス・マープル物の初の短編集。マープル物の第一長編として1930年に『牧師館の殺人』が出版されている。

 何人かの人々が火曜ごとに集まって、自分が知っている「迷宮入り事件」を披露しあう(とはいえ、この設定が全編を通じて生きているわけではない)。聞いた人たちはいろいろ考えを出すが、いつも真実を言い当てるのはマープルだった。

 ジェーン・マープル:セント・メアリ・ミード村に住む老女。
 レイモンド・ウェスト:作家。マープルの甥。
 ジョイス・ランプリエール:女流画家。
 サー・ヘンリー・クリザリング:元スコットランド・ヤードの警視総監。
 ベンダー:教区の老牧師。
 ペサリック:弁護士。
 バントリー:大佐
 ミセス・バントリー:バントリー大佐の妻。
 ジェーン・ヘリア:美人女優。
 ロイド:セント・メアリ・ミード村の医師。

 第一話 火曜クラブ
 第二話 アスタルテの祠
 第三話 金塊事件
 第四話 舗道の血痕
 第五話 動機対機会
 第六話 聖ペテロの指のあと
 第七話 青いゼラニウム
 第八話 二人の老嬢
 第九話 四人の容疑者
 第十話 クリスマスの悲劇
 第十一話 毒草
 第十二話 バンガロー事件
 第十三話 溺死
 訳者あとがき
 解説(芳野昌之)

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