芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。予告なくネタバレを書くことがあります。

●アガサ・クリスティー『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』(田村隆一訳、2004年、クリスティー文庫78)

 原作は1934年出版。ノンシリーズのミステリ長編。かなり面白かった。

 ボビイ・ジョーンズは、ゴルフの最中に崖から転落して死に瀕している男を発見した。彼は「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」と謎の言葉を残して死んだ。

 読んでからかなり時間が経ってしまったので、内容をまとめる気力が萎んでしまった。なので以下省略。
 

 『語りの会 ぼてふり 第十三回公演』(2017.9.15、深川江戸資料館)に行ってきた。14:30と18:30の二回公演だったが、私は14:30の回を聞いた。

1、野間脩平:塚田圭一さんを偲んで
 この会の中心メンバーだった塚田圭一さんを偲んで思い出話。フリートーク。

2、内藤和美:大根焚きの味(川口松太郎作『古都憂愁』より)
 相変わらず素晴らしい朗読だった。「大根焚きの味」は連作短編集『古都憂愁』の中でも、比較的地味なテーマというか、大向こう受けのしにくい味わいの作品なのだが、作品のもつ味わいをよく伝えていたと思った。
 朗読の場合、原文をそのまま読めばよいということはほとんどなくて、その時その場に応じて、何らかの手を加えてテキストを整理する必要があることが多い。この場合は内藤さんの師匠でもある西澤実さんの作ったテキストを使用したようだ。
 その演出の部分に若干の疑問を感じた。一つは、本文では全く出てこない作者川口松太郎の名を正面から出していたことである。たしかに作品中の「私」は川口自身に違いないのだが、それを正面切って出すことによって「何か」が失われたような気がした。その何かをうまく言い当てることは今はできないのだが。
 もう一つは、『古都憂愁』所収の各作品の序盤には京都の街並みや季節感などの風情ある情景描写が置かれているのだが、朗読ではその部分をカットしていたことである。こういうことは持ち時間の関係などから仕方のない面もあるのだが、『古都憂愁』の持つ味わいの一部を殺いでいたように感じられた。

3、桧山うめ吉:俗曲・端唄〜江戸の彩り〜
 冒頭、北朝鮮の話をやや長めに話して、なんというか、まあ、面白いことは面白かった。

4、神谷尚武:祭半纏(山本一力作『まねき通り十二景』より)
 神谷さんのバスバリトンの美声に気持ちよくなって寝てしまった。だから感想らしい感想が書けない。申し訳ない。

 内藤和美さんが「大根焚きの味」を朗読をするというので、これを含む単行本『古都憂愁』を読んでみた。

●川口松太郎『古都憂愁』(1966年、桃源社)


 古都京都を舞台とする連作短編集。一人称の「私」が古都で見聞きするさまざまな人間模様。伴走者は、元祇園の芸妓で今は岡崎で旅館の女将をしている田村志麻女。

 第一話 名妓万栄
 第二話 円山しだれ
 第三話 洛北再会
 第四話 庖丁姉妹
 第五話 嵯峨野悲雨
 第六話 祇園祭
 第七話 霧の中の比叡
 第八話 清水寺少女
 第九話 金色の臍
 第十話 大根焚きの味
 第十一話 鹿ヶ谷遁世
 第十二話 金閣寺の白蛇
 あとがき

 挿絵は中村貞以。

 各作品は、京都の街並みや風物や季節感などを美しい文章で描写するところから始まり、やがて人間模様が動き出していく。

 とても素敵な一冊で、この本と出合えたことに感謝したい。ただ、どうなんだろう、今どき売れる本ではないのだろうなあ。残念なことに。

 あとがきに、

> 古都憂愁の登場人物は亡くなった方も多いが現存の人も多い。実名をかくさず、引き合いに出された方方にはお詫する。

 とある。ここから二つのことがわかる。一つは、この小説の登場人物が実名だということであり、もう一つは、そこから類推して、この物語がほぼ実話らしいということである。もちろん小説だからいくらかの演出はあるだろうけれども。

 一人称の「私」は、どう見ても川口松太郎自身なのだが、本文中に川口の名は一度も出てこない。

 だとすると、これは作者が自身の周辺のことを書いた「私小説」になるわけだが、なぜかこういう小説は私小説とは呼ばれない。作者が裕福だったり、内容が贅沢だったりするものは、私小説の範疇には含まれないのだろう。

 ときどき「昔は良かった。今は変わってしまって住みにくい」という師匠・久保田万太郎のテーゼが顔を出す。やはり師弟なのだなあと思う。

 「嵯峨野悲雨」のラスト、

> 「鶴羽さんは倖せに亡くなったんですか」
 と、訊いた。江藤の死を聞いていただけに、気になって訊いたが、母はじっと私の顔を見込み

 というところで139頁が終わり、頁をめくると、

> 「自殺いたしました」

 と、一言だけいった。

 とショッキングな一言が書かれている。これは計算なのだろうか、それとも偶然なのか。前者だとすれば、頁をめくるという読者の身体的動作の間合いを採り入れた見事な演出というほかはない。つげ義春「李さん一家」で使われた手法だが、「李さん一家」の初出は1967年6月号の『ガロ』だから、「嵯峨野悲雨」のほうが早い。

> 「今夜の雪は積るぞ。あんなとこで、雪をききながら一人で寝るかと思うと哀れだな」(P.290)

 「雪をきく」という表現はいいな。

 山本一力については以前から興味があって、本も何冊か買ってある。ちょうど9月15日に『語りの会ぼてふり第十三回公演』で神谷尚武さんが「祭半纏」を朗読するとのことだったので、良い機会と思い、一冊入手して読んだ。

●山本一力『まねき通り十二景』(2012年、中公文庫)

 単行本は2009年、中央公論社。

 時代物の連作短編集。江戸天保期、深川冬木町の「まねき通り」を舞台とする。

 第一話 初天神
 第二話 鬼退治
 第三話 桃明かり
 第四話 菜種梅雨
 第五話 菖蒲湯
 第六話 鬼灯
 第七話 天の川
 第八話 祭半纏
 第九話 十三夜
 第十話 もみじ時雨
 第十一話 牡丹餅
 第十二話 餅搗き
 番外編 凧揚げ

 ほのぼのとした話ばかりで、例えば悪人などは出てこない。ほのぼのは良いのだが、どれも味わいが「淡い」。

 これがいかにも平成の時代小説だという感じを受けたのが、次のような記述だ。

> 高さは六丈(約十八メートル)(P.14)

> 仲町の火の見やぐらまで四町(約四百三十六メートル)(P.14)

> 四ツ(午前十時)(P.17)

 という具合に、長さ・時刻等にはすべて括弧に入れて現代の単位でどのぐらいになるかを示している。また、

> ゴオーーン……。
 永代寺が明け六ツ(午前六時)の捨て鐘第一打を撞いた。
 夜明けが明け六ツで、五ツ(午前八時)、四ツ(午前十時)、九ツ(正午)の順に鐘が撞かれる。
 正午のあとは八ツ(午後二時)、七ツ(午後四時)、暮れ六ツ(午後六時)、五ツ(午後八時)、四ツ(午後十時)の具合に、撞かれる鐘の数がひとつずつ減った。(P.33)

 と江戸の時事風俗についての説明が多い。よくいえば丁寧だが、個人的にはわずらわしい。こんなところから説明しなくても、と思う。こういう説明は、吉川英治も、海音寺潮五郎も、山本周五郎も、よほどのことがない限り書いていないはずだ。藤沢周平はどうなんだろう。たぶん書いていないと思うが、これは後で確認しよう。だが、『まねき通り十二景』を読む現代の読者には、こうした説明が必要だと判断したのだろう。それはきっと正しいのに違いない。これが時代小説がかつてほど身近でなくなった平成の時代小説作法なのだろう。江戸は遠くになりにけり。

 考証ミスと思われる点が一つ。
 「天の川」で、父母を「おとうさん」「おかあさん」と呼んでいる。ただ呼んでいるばかりではなく、そう呼ぶことを話題にしている。

> まだ三歳なのに、かのこは大三郎を「おとうさん」と呼んだ。(略)
 が、ゑり元のしおりとかのこ姉妹のほかに、父親をおとうさんと呼ぶ子は皆無だった。
 裏店暮らしの職人のこどもも、まねき通りの小商人の子も、父親を呼ぶときは伝統と格式にのっとり……。
 男児ならちゃん。(ちゃんに傍点)
 女児ならおとうちゃんか、おとっつぁん、まかり間違っても、おとうさんと呼ぶこどもはいなかった。(P.172)

> おとうさん、だいすき。
 おかあさん、だいすき。
 おねえちゃん、だいすき。
 くまもだいすき。
 きんぎょもだいすき。
 かのこの短冊の上では、大好きなものが躍っていた。(P.178)

 しかし、「おとうさん」「おかあさん」という言い方は江戸時代にはなかった。

> この言い方(「おかあさん」)は、少なくとも明治初期の関東以北にはなかった。(水原明人『江戸語・東京語・標準語』1994年、講談社現代新書)

> その頃(=明治初期)、東京のかなり上流の家庭では「とうさん」「かあさん」という言い方が使われはじめていたようだが、それは主に女性や子供の間の呼び方で、成人の男性はあまりこういう言い方をしなかった。(同書P.98)

> しかし、その「とうさん」「かあさん」が、明治三十七年(一九〇四)、国定教科書の中で両親に対する正しい呼び方として採用されたのである。(同書P.98)

> 当時、「おかあさん」という言い方に対する人々の非難はかなり高かったと伝えられている。(同書P.99)

 『日本国語大辞典』にも、

> お-とう-さん【御父様】〖名〗(1)(明治末期以降、国定教科書により、それまでの「おとっさん」に代わって広く一般に用いられるようになった語)

 とある。

 時代考証を前提とする小説を書くのは難しい。実際に江戸時代に暮らしているのではない以上、誰にでもミスはあるとも言える。私も事細かくあげつらうつもりはない。しかし、私はこのくだりを読んで瞬間的に違和感を感じたところからすると、このミスは小さくないのではないか。ぜひ改訂を望みたいところだ。

 『第69回ハートストリングス語りと朗読の会』に行ってきた(2017.9.9)。場所は、阿佐ヶ谷駅から徒歩で15分ほど歩いた住宅街にあるハートストリングスという喫茶店。

 30人ほどいた満席のお客は全て女性で、出演者・スタッフも含めて男は私一人だった。なんだか女性専用車両に乗ってしまったような居心地の悪さ(^_^;)。誰か助けてくれ。

1、山崎勢津子:人情噺(織田作之助作)

 ベテランの確かな技術と安定感が光る。

> まる十三年一つ風呂屋に勤めた勘定だが、べつに苦労し辛抱したわけではない。根気がよいとも自分では思わなかった。うかうかと十三年経ってしまったのだ。
 しかし、三平は知らず主人夫婦はよう勤めてくれると感心した。給金は安かったが、油を売ることもしなかったのだ。欠伸も目立たなかった。鼾も小さかった。けれども、べつに三平を目立って可愛がったわけでもない。
 たとえば、晩菜に河豚汁(ふぐじる)をたべるときなど、まず三平に食べさせて見て中毒(あた)らぬとわかってから、ほかの者がたべるという風だった。
 これにも三平は不平をいわなかった。

 この河豚汁のくだり、事前に黙読したときには「なんて陰険な主人夫婦なのだろう」と受け止めていた。ところが、山崎さんはここをくすぐりのように明るく読んだのだ。客席から笑いもこぼれていた。なるほどと思った。織田作の文体から考えても、これは山崎さんの解釈が正解だろう。自分では読み込めなかったところを朗読を聞くことで教えられることがある。朗読を聞く楽しみの一つは、こんなところにもあるのではないだろうか。

2、渡辺美紀:きつねの窓(安房直子作)


 若い人。朗読は山崎さんに師事している由。既に声の仕事で活躍しているが、さらにまた、噺家として林家しん平師に弟子入りしたらしい(寄席で前座修業をするプロの弟子なのか、セミプロ/アマチュアの弟子なのかは不明)。童話を明るく表情豊かに聞かせてくれた。

3、内藤和美:子供役者の死(岡本綺堂作)

 圧巻の朗読。内藤さんの朗読は、なぜこんなに一言一言が聞く者の頭にスッと入り、情景が浮かんでくるのか。いまだにその芸の秘密が解明できない。少なくとも、数々の技巧が技巧に見えず、自然に「物語を伝える」ことに奉仕している、ということはわかる。真の技術とはこういうことを言うのだろう。でもおそらく、それだけでは説明がつかない。
 子供役者の六三郎が甲州で、吉五郎(博奕打ちの親分)の妾であるお初といい仲になってしまう。吉五郎は酒席に六三郎を呼び、お初の亡骸を見せて「これを知っているか?」と問うが、六三郎は恐怖におびえ「知らない」と答える…。
 作者は、六三郎の台詞をほぼ三回しか書いていない。台詞を際立たせるために意識的にそう書いたのだろうと思う。二回目は「いいえ、存じません。」「知りません。」という否定の言葉だ(この台詞は新約聖書のペテロの否認を思わせる。というのは単なる私の主観ではなくて、ごく短いリードにも記されているのだ。作者はペテロの否認にヒントを得てこの噺を思いついたのかも知れない。内藤さんはこの部分を読まなかったが、それはこの場の選択として正解だと思う)。三回目は、吉五郎の酒席から無事に戻ったものの、恐怖から解放されずに譫言でいう「済みません。堪忍してください。」という言葉だ。
 そして、一見重要とは思われない一回目の台詞が、物語の前半、吉五郎の酒席に呼ばれる前、座頭や太夫元からお初と別れるように諭された際の台詞だ。

> 座頭は、もしこれがばれたあかつきにはお前ばかりの難儀でない、一座の者の迷惑にもなることだから、あの女だけは思い切れと叱るように言って聞かせました。太夫元はまた、万一親分が我慢しても子分たちが承知する筈がない。大勢が芝居小屋へ押し掛けて来て、木戸を打ち毀すなどは往々ある習いだから、あの女だけはどうぞ手を切ってくれと、頼むようにいって聞かせました。六三郎はやさしい眼に涙をうかべて、長い袂を膝の上に重ねまして、「どうも御心配をかけて済みません。」と、唯ひとこと言いました。

 内藤さんのこの台詞が素晴らし過ぎてゾッとした。若い役者の未熟さ、甘さ、世界の狭さといったものがすべて伝わってくるような表情であった。この表情は、その後の「ペテロの否認」の場面への伏線にさえなっている。
 朗読は、事前に出来上がっているテキストをただ再現するだけ、と思いがちであるが、実はテキストと一体となって一つの表現を「創作」することだ、という良い証拠ではないだろうか。内藤さんの朗読は、極めて高いクリエイティヴィティを持っている。

 終演後、コーヒーと手作りクッキーをいただきながら、しばし雑談の時間。この頃までには私の居心地の悪さは7割ほど減って3割ぐらいになっていた(笑)。男性諸氏、今度は一緒に行きませんか?

●アガサ・クリスティー『リスタデール卿の謎』(田村隆一訳、2004年、クリスティー文庫56)

 アガサの六冊目の短編集。シリーズに属していない。さまざまな作風の短編が集められている。原著の出版は1934年。

1、リスタデール卿の謎
2、ナイチンゲール荘
3、車中の娘
4、六ペンスのうた
5、エドワード・ロビンソンは男なのだ
6、事故
7、ジェイソンの求職
8、日曜日にはくだものを
9、イーストウッド君の冒険
10、黄金の玉
11、ラジャのエメラルド
12、白鳥の歌

 気楽に読めるが、概ね味わいの薄いものが多かった。
 
 「ラジャのエメラルド」の主人公の名はジェイムズ・ボンド。007の主役とは関係ないようだ。つまり、イアン・フレミングがこの作品から名前を取ったということはなさそうだ。どうやらイギリスではよくある名前らしい。

 リコーダー奏者の細岡ゆき先生をお招きして、「連続個人レッスンのあと細岡先生を囲んだ打ち上げに突入!」という催しを企画しました。

 この度ひと枠分欠員が出ましたので、新たに募集します。興味のある方は参加なさいませんか?

日時:
 2017年9月23日(土)
 レッスン朝9時〜夕方5時(時間帯は選んでいただけます)
 その後打ち上げに突入(みんなで移動します)
場所:
 東京都東大和市内の集会室
 会場周辺の駅(西武拝島線・東大和市、JR武蔵野線・新小平ほか)まで車で迎えに上がることができます。
内容:
 60分
対象:
 超初心者から上級者まで
 教わる曲は自由に選んでください。
 何を選んだらいいかわからない方はご相談ください。
費用:
 レッスン代+打ち上げ費用(ワリカン)
 額についてはお問合せください。

 申込み・問合せは、この記事に非公開コメントをつけてください。メールアドレスを明記してください(アドレスは公開されません)。折り返し私からご連絡差し上げます。

 リコーダー愛好家なら絶対楽しいと思います!

※追記(2017.8.24)
 お陰様で枠が埋まりましたので、募集は締め切ります。
 「どうしようかな〜?」と迷っていた人は、ぜひ次の機会に!

 結末に触れています。

●アガサ・クリスティー『未完の肖像』(中村妙子訳、2004年、クリスティー文庫77)

 原著は1934年出版。ミステリでないいわゆる「普通小説」。メアリ・ウェストマコット名義で出版された。普通小説としては『愛の旋律』に続く二冊目にあたる。

 シーリアという女性の半生を綴っている。アガサの自伝的要素の強い作品だと言われている。生活の細部や家族・友人との関係、男性との関係などが書かれていて、アガサ個人としてはぜひとも書いておきたい思い出なのかも知れないが、一読者としては退屈なところが多い。

 物語が動き出すのは、540頁中の450頁を過ぎたあたりからだ。何人かの男からプロポーズされたシーリアは、ダーモットという下級将校の申し出を受け入れ結婚する。うまくいっていたかに思えた結婚生活だが、やがてそれが破綻する。

 ダーモットとの関係は詳細に描写されていて、多くの読者はここに、1926年のアガサ失踪事件の影を読むことになるだろう。

 ダーモットは、ある意味で合理的で、人付き合いが苦手で、温かみのない男として描かれている。決して悪意のある人間ではない。なんだか私には高機能自閉症のような感じに思えた。アガサの最初の夫で失踪の少し前に離婚したアーチボルト・クリスティーは、そういう人だったのだろうか。もしそうだとしたら、自閉症について理解があれば(当時としては無理だったろうが)離婚しなくて済んだのかも知れないという気もする。

 なお、シーリアとダーモットの間には一人の女の子が生まれる。この子ジュディーもまた、ダーモットと同じようなメンタリティーの持ち主である。

 ところで、この物語は、二重の枠によってくくられている。大きな枠はまえがきによって与えられる。このまえがきは、「J・L」という女性からメアリ(メアリ・ウェストマコットだろう)に宛てた手紙である。J・Lは、肖像画家だが、肖像画を描くかわりに、ある女性のことを綴った小説を書いた、というのである。そして、メアリに対して「もしよければ出版してください」と頼んでいる。以下の本文は、J・Lが書いた小説である。

 本文は三部に分かれている。第一部と第三部は「孤島」と題され、第二部は「キャンヴァス」となっている。第二部は全体の頁数の約九割を占めている。第一部と第三部が第二部を囲う枠(第二の枠)になっているわけだ。

 「孤島」に書かれているのはこういうことだ。J・Lは島である女性と出会った。ちょっとした気配から、彼女すなわちシーリアが自殺しようとしていることを悟ったJ・Lは、シーリアの話を聞き、自分でも話をした。第二部「キャンヴァス」はその内容だ。

 わかりやすいように目次を写しておこう。

 まえがき
 第一部 孤島
  1、庭園の女性
  2、行動への呼びかけ
 第二部 キャンヴァス
  1 彼女の家庭
  2 外国旅行
  3 おばあちゃま
  4 死
  5 母と娘
  6 パリ
  7 成長
  8 ジムとピーター
  9 ダーモット
  10 結婚
  11 母親となる
  12 終戦
  13 連帯感
  14 からむ蔦
  15 成功
  16 喪失
  17 破局
  18 恐れ
 第三部 孤島
  1 屈服
  2 回想
  3 逃避
  4 はじまり
 訳者あとがき
 解説(池上冬樹)

 シーリアは最終的にダーモットと結婚するが、やがて破局する。破局とその後の経緯の描写は、なかなか読ませてくれる。このくだりからラストまでは「面白い」と感じた。

 ダーモットと別れて自殺まで図ったシーリアだったが、死ななかった。やがて優しく愛してくれる男性と出会い、プロポーズされて、受け容れる。しかし、彼が言った「約束してください、いつまでも美しいままでいるって」というひとことを聞いて、すべて捨てて逃げた。この言葉はダーモットに言われた言葉と同じだったのだ。ダーモットは「美しい」私を愛した、したがって、年相応に美しくなくなっていく私は愛されなくなっていったのだ。このことがシーリアの深い心の傷になっていた。今の言葉でいえば、かの男性は「地雷」を踏んだのだ。

 物語の最後の最後、シーリアの話を聞き終えて別れるとき、J・Lは、自分は昔は名の知れた肖像画家だったが今はそうではない、と言い、「手のない切株のような腕を示した」。要するに、戦争で腕を失ったわけだ。J・Lが画ではなく小説という形でシーリアのことを綴ったのも、画が描けなくなったからだ。だからそれは肖像画の代わりなのだ。第二部が「キャンヴァス」と名づけられているのもそういうわけである。

 ところで、この切株のような腕を示されたシーリアの反応がよくわからない。

> 恐怖──そして安堵……
 安堵以上のもの──救いといった方がいいかもしれない。
 そこに彼女が見たのは、かつての彼女の恐怖のイメージだった……
 長い年月の間彼女を追いつづけてきた恐ろしい幻の男……それが私のイメージと重なった。
 その恐ろしい男と面と向かって立ってみたら……
 何のことはないただの人間にすぎなかったという事実。
 つまり私という人間をそこに見出したということ……(P.542)

 何を言っているのだろう? 何か読み落としたものがあるのだろうか?

 以下、細部のメモ。

 ガイドが生きた蝶を帽子にピンで止めるエピソード(P.106)。幼いシーリアは、そのことにショックを受けるが、それを言うとガイドを傷つけると思い、どうしたらいいかわからず泣き出す。

> 「自転車に女が乗るなんて、危険きわまりない話だからね。あのいやらしい乗物に乗ったために、一生子宝に恵まれなかった女は一人や二人じゃないんだよ。女の体にはたいそうよくないのさ」(P.120)

 自転車は女が乗るものではなかった。日本でも女が自転車に乗るとお転婆と言われた時代があった。それにしても子宝云々は大袈裟で面白い。

> 「ムーア風というんだろうね、このコーヒーは」とグラニーは瞼に皺を寄せて舌鼓を打つ。
 「もうあとちょっぴりだけ、もらおうかね」と自分の駄洒落に悦にいって、コーヒーをもう一杯注ぎ、声を立てて笑うのであった。(P.125)

 「ムーア」と「もうあと」に傍点。英語の地口を日本語の地口に移している。技ありだ。

> 折々、誰も見ていないと思うと、グラニーはちょっとした飾りや、黒玉、ルーシュ飾り、クローセー編み細工などをごみの山から拾いだして大きなポケットにそっとしまいこみ、身の回りのものを入れるべく、彼女の寝室に用意されている大きな櫃型のトランクの中に折を見てしまうのであった。(P.316)

 「折を見てしまう」がわからない。

 昨日は立川の『ウイング高松寄席』でした。私が顔付をした会で、年に一回ぐらいのペースで開催しています。主催は高松大通り商店街。

 自分で言うのもナンだけど素晴らしい会でした。いえもちろん、出演者の充実した高座と、芸をしっかり受け止めてくださった感度の良いお客さんのおかげなのですが。

 1、三遊亭ふう丈:短命
 2、一龍齋貞友:神田松五郎
   -中入り-
 3、柳家小団治:茶の湯

 前座さんナシで、まずは二ツ目のふう丈さん。豊かで愛嬌のある顔の表情と、ところどころをクサく作った「短命」で、お客さんの心を開かせることに完全に成功。両者の息ピッタリ、という感じでした。
 ふう丈さんには、中入りでの抽選会も仕切っていただきましたが、お客さん裁きも見事でした。助かるなあ。

 続いて、講談の一龍齋貞友先生(仲よくしていただいているので、普段は「さん」付けだけど、最初だけ「先生」と書いておきますね)。十八番の「神田松五郎」。マクラで声優の仕事に触れる。例えば「しんべえ」の声をやると客席が「わあっ」と驚くんですね。こういう絶対的な飛び道具を持っているからには、活かさない手はない、と思います。貞友さんの高座は、登場人物の気持ちがよくお客さんに伝わるんです。それは技術もあるんだろうけど、貞友さんの人柄によるところも大きいと思う(私の中では林家正蔵さんも同じような特質の持ち主です)。この高座も人物の気持ちがよく伝わって、とても結構な一席でした。

 そして、柳家小団治師匠の「茶の湯」! これは本当に素晴らしい一席でした。登場人物の描き方が「感情」レベルではなく「腹」レベルでした。歌舞伎などでよく言われる「腹」ですね。全ての登場人物の腹がよく伝わってきましたが、とりわけ隠居については、隠居が師匠なのか、師匠が隠居なのか、というぐらいに感じられました。小団治師匠の高座は、明るくて、わかりやすくて、親しみやすい、それでいて、品格高く、深いものでした(いつもですが)。同時にそれは、五代目小さんの芸の正統的な継承でもあるのです。口を極めて絶賛したいと思います。なお、マクラでしゃべった都議選とオリンピックの話も、とても良くできていて面白かったです。

 お三方がそれぞれの持ち味を十分に発揮し、良い流れを作ってくださって、顔付担当としては大満足でした。会場を後にするお客さんの楽しそうな顔を見て、こちらも幸せな気持ちになりました。

 でもって、打ち上げ。これも小団治師匠を中心におしゃべりの花が咲き、というか、咲き乱れて、まことに楽しい時間でした。皆さん、お疲れさまでした&ありがとうございました。

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小団治師匠(中)、貞友さん(左)、ふう丈さん(右)



●山手樹一郎『桃太郎侍』(1978年、春陽文庫/山手樹一郎長編時代小説全集1)

 山手樹一郎の『桃太郎侍』を読んだ。おそらく20年か30年ぶりぐらいの再読である。大規模な《山手樹一郎長編時代小説全集》の第一巻で、山手の出世作でもある。昭和15年に岡山合同新聞に連載され、翌年秋に単行本化された、と尾崎秀樹の解説にある。

 山手の作品は「明朗時代小説」などと呼ばれているが、近頃はあまり流行らないようだ。時代小説の案内本である『時代小説百番勝負』(ちくま新書)でも、寺田博『百冊の時代小説』(文春文庫)でも山手作品は選ばれていない。しかし、一時はこの春陽文庫から出ている《山手樹一郎長編/短編時代小説全集》が書店の棚でかなりのスペースを占めてまぶしく輝いていた。出版する側でもそうとうに力を入れ、読者も大いに楽しんでいたということに違いあるまい。

 私は、学生時代だったか、全170巻となるこの全集を全部読みたいと思い、第一巻から順に読み始めたものの、たった三巻で中断した。だから三冊しか持っていなかった。が、二、三年前におねだりして誕生日のプレゼントに買ってもらったのだ(子どもか!)。だから今は全巻持っている。しかも、最初の三巻は二冊ずつ持っている。

 以前に読んだ印象では、面白く一気に読めるが、内容はあまりない、というものだった。今回再読してみて、以前よりずっと面白く読めた。まあ、内容はないといえばないが、なくったっていいじゃないか、と思う。とにかく読後感がスカッとさわやかなのだ。

 右田新二郎は、何者かに襲われたとき咄嗟に「桃太郎」と名乗ったことで、以来桃太郎で通っている。母・千代のもとで育てられたが、千代が臨終に際して、実は自分は母ではなく乳母であり、本当は讃州丸亀城主若木讃岐守が城代家老右田外記の娘に産ませた双子のうちの弟だと言う。兄の新之助は丸亀藩の跡継ぎである。この若木家は跡目争いの真っただ中にいる。江戸屋敷にいる新之助が病弱であることにつけこんだ国家老の鷲塚主膳は、新之助を亡き者にして自分の息のかかった者を跡継ぎにし、藩政を牛耳ろうと考えていたのだ。
 桃太郎は、ひょんなことから伊之助という男と知り合い、貧しい長屋に住む子どもたちに読み書きを教えることに喜びを見出すが、否応なく若木家の跡目争いに巻き込まれていく。

 主な登場人物を書いておこう。

 桃太郎:本名右田新二郎。父は讃州丸亀藩主で、双子の兄がいる。腕っぷしが滅法強く、曲がったことが嫌いで、危機に瀕しても悠然としていて、人物も大きい。妖艶な小鈴、清純な百合に惚れられる。
 伊之助:通称サル。元掏摸だが、今はかつぎの呉服屋をしている。桃太郎に惚れ、長屋を世話し、手足となって動く。
 神島伊織:江戸家老。
 神島百合:伊織の娘。清純な美女。桃太郎に惚れる。男装する場面もある。
 小鈴:元女掏摸、今は踊りの師匠で坂東小鈴。妖艶な美女。桃太郎に惚れる。
 鷲塚主膳:国家老。新之助を亡き者にしようとする悪人。
 伊賀半九郎:主膳の手先となって働く男。

 小鈴を境に、善人と悪人とがはっきりと分かれている。小鈴は、伊賀半九郎から「悪人は神島伊織だ」と騙されて、桃太郎も謀叛側につかせようとするが、やがて本当のことに気づく。

 山手樹一郎の作品が「明朗時代小説」である所以は、何といっても桃太郎の造形に表れている。何しろ上に書いたように、腕っぷしが滅法強く、曲がったことが嫌いで、危機に瀕しても悠然としていて、人物も大きい、その上、女にも男にもモテまくるのだ。藩主の息子だから「貴種」の要素まで備えている。読者は、この絵に描いたような「英雄」に感情移入してスカッとするわけである。

 桃太郎に惚れる女も、方や妖艶な女、方や清純な家老のお姫様だ。両者は娼婦性と処女性の象徴であろう。羨ましいことこの上ない。

 とはいえ、読者の心には「最後には桃太郎はどちらかを選ばざるを得ないことになるだろう」ということが気にかかる。どちらを選んでも、他方を傷つけることになるのだ。しかし、実際には小鈴は都合よく死んでしまい、百合は武士の生活を捨てて浪人・桃太郎のところにやってくるのだ。ご都合主義の見本だが、このことを批判するぐらいなら山手樹一郎は読まないほうがいい。「まあ、まあ、良かったじゃないの」と素直にカタルシスを感じればいいのだ。

 山手文学は、何も考えずに楽しめる(考えると楽しめないかも)上々のエンターテインメントなのだ。『桃太郎侍』についていうなら、どうしても高橋英樹の顔が浮かんでしまうのが玉に瑕だが(念のために言っておくが、般若の面をつけたり、「ひとーつ、人の世、生き血をすすり…」などと決め台詞を言ったりする場面はない)。

 もくじに章名がないので書きぬいておいた。数字は頁数。

 仮の宿 2
 いろは草紙 45
 夜がらす 74
 好敵手 103
 火花 142
 悪党 179
 品川の宿 209
 第一夜 242
 宇都谷峠 271
 船番所 299
 虎穴 337
 一騎打ち 372

尾崎秀樹による解説「山手樹一郎文学の位置」もとても良い。

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