芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。

『愛染かつら 総集編』

●『愛染かつら 総集編』(野村浩将監督、1938・39年、日本)を見た。

いうまでもなく田中絹代(高石かつ枝)と上原謙(津村浩三)によるすれ違いメロドラマ。川口松太郎原作。よく話題になり、主題歌もよく知られているのに、まだ見たことはなかった。

前編・後編・続編・完結編の四つの映画が作られて、これはそれをまとめた総集編とのこと。

しかし、日本の古い映画ってなんでこう面白いんだろう。何を見ても面白い。この映画も面白かった。

上原謙(津村浩三)は医師で、病院が主たる舞台になっているのに、患者を診ている場面がほとんど出てこない。一度だけ出てきたが、熱海の医院だった。

物語の終盤、田中絹代(高石かつ枝)が歌手になってしまうというのが、まことに意外な展開。

どうでもいいことだが、川口松太郎の本名は竹次郎。竹→松、次郎→太郎と、名前の上下をワンランクずつアップさせてペンネームができている。

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』

●樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(新潮文庫)

 1、にごりえ
 2、十三夜
 3、たけくらべ
 4、大つごもり
 5、ゆく雲
 6、うつせみ
 7、われから
 8、わかれ道
 注解・解説(三好行雄)


「奇跡の十四ヶ月」(明治27年12月から29年1月まで。一葉の傑作群はこの期間に集中的に生み出された。一葉はその後、明治29年11月23日に亡くなった。数えで25歳、満24歳)に書かれた九作品を収めている。

この新潮文庫版はかなり広く読まれているもののようで、三好行雄による注も親切で、確かに読みやすい。

1、にごりえ
 (省略)

2、十三夜
 お関は、鬼のような夫に嫌気がさして実家に帰る。が、両親に諭されて、俥で家に戻ろうとする。ところが、お関の乗った俥を引いていたのは、かつて思いを寄せていた録之助であった。録之助は一度結婚したが、放蕩がやまず、妻とも別れ子どもも死んで、不幸な身の上だった。二人はそのまま広小路で別れた。

3、たけくらべ
>  圧倒的な感動。吉原を舞台にした思春期の青春群像。物語は、寺のせがれ藤本信如と、遊女になることを運命づけられている少女美登利との淡い物語を軸に展開する。
 ラストシーンの“絵”が圧倒的に美しい。
(『ちくま文学の森2 心洗われる話』の読書メモより)

4、大つごもり
 お峯は、親代わりの伯父一家の窮状に、奉公先に二円の借金を願い出るが、すげない返事をされた。背に腹はかえられずと覚悟を決め、抽斗にあった二十円のうち二円を盗んだ。奉公先の放蕩息子・石之助は、親から縁切りの金を巻き上げて家を出ていったが、「引出しの文も拝借致し候」と置き手紙を残していった。
 なんともやるせない。お峯の実家(伯父の家)の貧しさと奉公先の豊かさのコントラストが、まことに見事。金持ちの気まぐれで貧乏人の命運が大きく変わってしまうという不条理。
 お峯はやむにやまれず盗みを犯すが、家の鼻つまみ者である石之助が、おそらくその現場を目撃していて、自分がお峯の罪もひっかぶって出ていってしまう、という結末に救われる。

5、ゆく雲
 桂次は、山梨の大藤村・清左衛門の養子だが、東京の上杉家の書生として住んでいた。桂次は上杉の娘・お縫に惚れていたが、許嫁のお作と夫婦になるために、大藤村に帰らなければならない。それは心苦しいことであったが、時とともに桂次はお縫のことを忘れ、大藤村の人間になっていく。
 なんてことない話だが、結末が素敵だ。

6、うつせみ
 気のふれた女・雪子。植村の自殺を気に病んで。
 描写が主。筋の展開は特にない。

7、われから
 資産家の金村与四郎の妻・美尾は、気鬱な性格だった。二人の間に生まれた娘・お町もまた気鬱なたちであった。お町は養子の恭助と夫婦になる。恭助は自身の才覚で確固たる地位を築くが、お町は逆にそのことで捨てられないかと不安になる。町は書生の千葉に親切にされる。恭助が波という妾を持っていることがわかるが、女中・福の讒言により、恭助はお町と千葉との仲を疑い、お町を別居させる。
 二人の女――母の美尾と娘の町――の気鬱をテーマとしている。
 終わり方がすごい。

> お前様どうでもさやうなさるので御座んするか、私を浮世の捨て物になさりまするお気か、私は一人もの、世には助くる人も無し、この小さき身すて給ふに仔細(わけ)はあるまじ、美事すててこの家を君の物にし給ふお気か、取りて見給へ、我れをば捨てて御覧ぜよ、一念が御座りまするとて、はたと白睨(にら)むを、突のけてあとをも見ず、町、もう逢はぬぞ。

 もういきなりスパッと終わってしまう。一葉の作品にはどれも(といっても「奇跡の十四ヶ月」に書かれた作品だけかも知れないが)終わり方に冴えがある。

8、わかれ道
 一寸法師とあだ名のある傘屋の油引き・吉は、お京を慕っている。お京は細々と仕立を請け負っている。だが、お京に妾の話があり、吉のもとから離れることになった。
 短く、筋の展開もないシンプルな話。一葉ならではの描写を味わう作品だろう。
 この作品も唐突に終わってなかなかインパクトが強い。

> あれ吉ちはんそれはお前勘違ひだ、何も私が此処を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本当に兄弟とばかり思ふのだものそんな愛想づかしは酷からう、と後から羽がひじめに抱き止めて、気の早い子だねとお京の諭せば、そんならお妾に行くを廃(や)めにしなさるかと振かへられて、誰れも願ふて行く処では無いけれど、私はどうしてもかうと決心してゐるのだからそれは折角だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕(なみだ)の目に見つめて、お京さん後生だから此肩(ここ)の手を放しておくんなさい。

以上、内容の簡単なメモ。

山本健吉は、

> 一葉の傑作は何かと問はれたら、私は躊躇なく日記と答へよう。では、一葉の小説のなかで、後世に残る作品は何かと問われたら、これも躊躇なく『たけくらべ』と『にごりえ』との二篇を挙げる。
(作品解説〜『樋口一葉集/豪華版 日本現代文學全集03』講談社)

と述べている。「たけくらべ」と「にごりえ」を傑作とすることについては私も異議はないが、「たけくらべ」と「にごりえ」であれば、私は「たけくらべ」に軍配を上げる。

なお、「にごりえ」と「われから」に、「与太郎」という名前の子どもが出てくる。いわゆる馬鹿の代名詞ではなく、普通の名前として使われているようだ。

「にごりえ」と「今戸心中」

樋口一葉「にごりえ」を読んだ。

●樋口一葉「にごりえ」
 新開の銘酒屋「菊の井」の看板・お力は、結城朝之助に惚れていた。お力は酔って朝之助にやるせない胸の内を明かすが、それで何がどうなるものでもない。一方、お力に通ってくる馴染客に蒲団屋の源七がいた。源七は貧しい家庭を顧みることなくお力に通い詰めた。あるとき、源七の子どもがお力から高価な菓子を貰ったために、妻と言い争いになり、源七は家を出てしまう。源七はお力を刺し殺し、自分も腹を切る。

 読んでいてどうも頭が混乱すると思ったら、広津柳浪「今戸心中」ととてもよく似ているのだ。↓以前の読書メモより。

●広津柳浪「今戸心中」
> 吉原の花魁・吉里は、平田という男に惚れていた一方で、足繁く通ってくる善吉を嫌っていた。ところが平田が郷里へ帰ることになったため、二度と会えないと知った吉里はショックを受け、自棄になった。
 時を同じくして善吉も「今日が最後だ」と言う。吉里には冷たくされたが、それでも通い詰めたために身代を潰したのだ。初めて善吉の気持ちに気づいた吉里は、それから自費をはたいて善吉をもてなした。しかしそのために、自分の金を使い果たしてしまい、「移り替え」もできない状態になってしまう。やがて善吉も姿を見せなくなる。
 吉里は、平田と自分の写真を小萬に託して、姿を消す。しばらくして永代橋の上流に女の死骸が上がる。

結末は違うが、設定はよく似ている。主人公の遊女(お力、吉里)に、惚れた男(朝之助、平田)がいて、それとは別に自分のところに通い詰めてくる男(源七、善吉)がいる。惚れた男とは結ばれない。通い詰めてくる男は家を顧みず身を持ち崩す。

執筆時期も近く、しかも同じ雑誌に発表されている。「にごりえ」は、明治28年8月2日に脱稿し、『文芸倶楽部』の同年9月号に掲載されている。「今戸心中」は、『文芸倶楽部』明治29年7月号の掲載だ。

広津柳浪は「今戸心中」を、実話をもとにして書いたと述べている。

> 『今戸心中』は殆ど事実を其の儘採ツたと云ツても宜しいので、女主人公吉里は名もその通りの花魁が吉原の中米楼に今より十二三年前にゐたのです。(略)吉里は以前にひどくふツてゐた古着屋某なるものと、彼(あ)の好男子と離別の後、二ケ月位の中に情死(しんじう)を遂げたのです。此の心の変動が誰れにも分からなかツたさうです。私は此の疑問に対して聊か解釈を試みたいと思ツたので、『今戸心中』をかいて見たのです。
(「新著月刊」明治30年4月〜『廣津柳浪集/明治文學全集19』筑摩書房)

つまり、「にごりえ」が書かれる前にこの事件は起きていたわけだから、もしかすると同じ事件を題材にしている可能性もあるのではないか。今後、一葉の日記を読むときにはそのことにも気をつけながら読むことにしよう。

とんでもございません

そういえば、大佛次郎作の新作歌舞伎『江戸の夕映』を見ていたら、旗本本田小六に扮した市川海老蔵さんが「とんでもございません」と言っていて、違和感をもった。

●歌舞伎「 江戸の夕映」
 作:大佛次郎 演出:市川團十郎

 旗本堂前大吉:市川團十郎
 旗本本田小六:市川海老蔵
 小六許婚お登勢:中村壱太郎
 柳橋芸者おりき:中村福助
 旗本松平掃部:市川左團次


芝居そのものは面白く見た。上野戦争後の東京で、官軍が横暴に振る舞う中、旧幕臣である人々がいかに生きたかを描いている。いかにも大佛次郎らしい設定だ。中盤まではさほどとも思わなかったが、最後の30分できちんと感動できるように作られている。

「とんでもございません」という言い方は、噺家でもときどきする人がある。私は現代ものの新作落語ではさほど気にならない(それでも少しは気になる)が、古典落語ではかなり気になる。歌舞伎ではなおさら気になる。

「とんでもない」はその全体で一語であり、「とんでも」と「ない」に分けて「ない」を「ございません」や「ありません」に変換することはできない、というのが私のこの言葉に対する感覚だ。

これは私のひとりよがりではなく、昔、元新聞記者だったという人生の大先輩から、「君は決して“とんでもございません”と言わないから偉いね」と褒めていただいたことがある。ついでに「丁寧に言いたいときは、“とんでもないことです”“とんでもないことでございます”と言えばよい」と教えていただいた。私の気づいた範囲では、今の林家正蔵さんも常に「とんでもない」を使っている。

『日本国語大辞典』を引いてみると、その由来について、

> 「とでもない」の変化したもので、その「と」は、副詞の「と」あるいは名詞の「と(途)」と考えられている。

と書いてあった。

もちろん「とんでもございません」「とんでもありません」という用例も見出しもない。

面白いことに、「とんでもない」のすぐ後に「とんでもハップン」という見出しが掲げられている。

> 昭和二五年(一九五〇)前後の流行語。

とある。「形動」だそうだ(ホントか?)。

「とんでもございません」という言い方が、現代日本語の語彙として広く認められているかどうかは微妙なところだろう。言葉は変化するものであって、私はそうした言葉の変化についてはかなり寛容なほうだが、それは使われる場にもよる。江戸や明治の時代設定の中では、やはり違和感をもつ。加えて歌舞伎や落語での言葉遣いは、基本的に保守的なほうが良いと思っていることもある。

江戸時代の設定で、男が女に「愛してるよ」と言ったら台無しだ。「(人が人を)愛する」という言葉の裏には、近代的な恋愛観が貼り付いているからである。言葉は単に言葉として存在しているのではなく、時代時代の思想を乗せているのだ。

もちろん「時代に忠実に」という原則をどこまで厳格に貫けるかという問題も他方にはある。それは西洋音楽を演奏する際のピリオド楽器の問題とも通底するだろう。

『へうげもの』完結

テレビアニメ『へうげもの』が、予定通り39回で完結した。このアニメについては2011.8.14の日記で一度触れている。

面白かった。千利休の切腹で終わっているが、原作の連載(『モーニング』)はまだ続いている。単行本は14巻まで出ていて、アニメで描かれたのは9巻までにあたるらしい。

利休の切腹で物語を閉じてしまうと、どうしても利休を中心とする物語に見えてしまう。私は原作のマンガは読んでないので(そのうち読みたいと思っている)アニメとの比較などはできないのだが、原作ではその後も描かれているわけだから、もっと本来の主役である古田織部中心に見えることだろう。

千利休、豊臣秀吉、古田織部。アニメを見る限りこの三人が主役である。この三人を結ぶ三角形を描き、その上空に織田信長という点を配してできた三角錐が、アニメ『へうげもの』の骨格になっている。

利休・秀吉・織部は、それぞれ信長との関係を大きなテーマとして持っている。

利休は、あくまでも自分の理想の茶道すなわち「わび数寄」を実現しようとする求心的人物である。信長に仕えながらも、その派手好みは自分の求める境地と合わず、信長暗殺を画策する。続いて仕えた秀吉もまた、「わび数寄」を理解しない田舎者であり、結局は信長と同様亡き者にしようとするが、逆に切腹を命ぜられてしまう。利休にとっては、理想郷を実現するための信長・秀吉という権力との闘いが自身のテーマになっている。

秀吉は、信長に理想の権力者像を見ながら、同時にその残酷さを恐れている。信長が死んだあとになっても、ときどき夢に出てきて苦しめられるほどだ。権力者として自己実現して信長というトラウマをどう克服するか、が秀吉のテーマになっている。茶道では利休の弟子になり、利休に一定の理解は示す。が、他方に信長という理想があり、また尾張の農民出身ということもあって、利休の洗練された「わび数寄」を最終的には理解せず決裂する。秀吉はいわば信長と利休とに引き裂かれた存在だ。

織部は、秀吉とは違う形で、信長と利休とに引き裂かれている。武士としての生き方と、数寄者としての生き方との間で引き裂かれるのである。秀吉が最終的には権力者であることを選ぶのに対して、織部は心情的には利休に寄り添っている。

利休が秀吉から蟄居を命ぜられたとき、誰も秀吉を恐れて見送らなかったが、織部と細川忠興だけは見送った。アニメでは織部は、笠をかぶってできるだけ顔を見られないようにしていた。ここに織部の葛藤があらわれているわけだ。

織部と忠興だけが見送ったというのは史実だが、アニメではさらに、切腹する利休の介錯を織部がすることになっている。秀吉としては、利休を崇拝する諸侯の叛乱を押さえるために、利休の一番弟子である織部に介錯をさせる意味がある、ということになっている。

介錯を命ぜられた織部は「そればかりは」と一度断るが、どうなのだろう、他人が介錯するよりは利休を崇拝する自分が介錯したい、と思うのが武士の心情ではないだろうか。利休のほうでも信頼する織部に介錯してもらえば本望だと思うのではないか。そういう視点はアニメには出てこなかったが。

介錯人として突然現れた織部に利休は驚く。利休は織部を「秀吉の犬め」などと罵倒する。しかし織部はふと気づく。「師匠は自分に、介錯人としての仕事をきちんとさせようとしているのだ。師匠はこの期に及んでも、自分を“もてなし”ているのだ」と。こういうところがとても面白い。

利休は、一般のイメージとは異なり、当時としては図抜けた大男だったらしい(そういえばバッハも大男だったようだ)。アニメでもきちんと大男になっているが、その上、とても筋骨隆々に描いている。切腹のときは利休は七十歳。あんなに筋骨逞しかったはずはないと思うが、これはおそらく作者の確信犯的演出だろう。

※追記(12.1.30)
このアニメでは(おそらく原作でも)、織部が利休の介錯人をつとめることが、非常にインパクトの強い場面として挿入されている。利休を深く敬愛している織部が利休の首を斬らなければならない。たしかに現代人の普通の感覚からはインパクトの強い設定だ。したがって、織部は秀吉の命令に逆らってまで一度は介錯人となることを固辞するし、周囲の人々も秀吉の命令の残酷さに驚くのである。しかし、こうしたリアクションは「介錯」の意味を取り違えているのではないか。介錯とは「刑の執行」ではない。介錯人は切腹者の苦痛を和らげるために斬るのである。切腹者に寄り添い、彼を手伝うのだ。織部に利休の介錯人を命ずることは、残酷な命令というより、むしろ温情と受け止めるべきだろう。こういう設定をするのであれば、リアクションはそういうものであって然るべきだ。この点はこのアニメの(おそらく原作由来の)不備だと思う。

『水と森の聖地 伊勢神宮』

たまらなく伊勢神宮に行きたくなってしまった。

●稲田美織『水と森の聖地 伊勢神宮』(千年の森フォーラム監修、2009年、ランダムハウス講談社)

 はじめに
 一章 伊勢神宮とは
  百二十五社の総称である神宮
  伊勢神宮の始まり
  『古事記』という古代からの贈り物
  神話から学んだこと
 二章 神宮にみる衣食住
  農業国・日本の神様
  神代から続く機織
  天から遣わされた水
  瑞々しい稲穂の国
  宇宙の動きと繋がる塩作り
  世界の建築の王座
 三章 神様の山
  神宮の広大な森林
  四季の彩り
  神様の山の中
  循環する水
  手付かずの自然の森
  山を見守る天然ヒノキ
  森と人の共存
  神様の宮社を守る萱
  須佐之男命と植樹
 四章 神宮の祭りと式年遷宮
  年間千五百もの祭り
  神嘗祭と清らかな闇
  二十年に一度の祭り・式年遷宮
  式年遷宮の祭りと行事
  御装束と神宝
  宇治橋と奇跡の虹
 おわりに

『東京大神宮十七日寄席』で一緒にスタッフをしている関花子さんからいただいた一冊。東京大神宮は「東京のお伊勢さま」と言われていて、「東京における伊勢神宮の遥拝殿として」(東京大神宮サイトより)創建された神社だ。東京大神宮に縁ができたことで、いわばその本家である伊勢神宮にも興味をもっていた。だから、楽しみにして読んだ。

いやぁ、これは良い本。

まず第一に、写真が美しい。著者の稲田美織さんは写真家で、世界の聖地を撮影したりしているらしい。伊勢神宮(正式名称は単に「神宮」だそうだ)が広大で豊かな自然の中にあるということがよくわかる。一読した後もパラパラと写真だけ見ていても楽しい。飽きない。伊勢の自然の音を収録したCDが付いているので、これをBGMに読むのもいいかも知れない。

第二に、文章がいい。文章も稲田さんが書いている。神道の専門家が書いているのではないだけに(ただし、とてもよく勉強されている)、基礎の基礎からわかりやすく神宮のことが書かれている。また、神宮の森の霊気や、神とともに暮らす人々の清らかな生活をよく感受して、それを文章にして伝えている。読んでいて清浄な空気が伝わってくるようだった。

第三に、神宮の全体像がわかる。上の目次を見ていただけばわかるように、神話の紹介から始まって、神宮とともに生きる人々の生活や神宮の山の自然について説明し、さらに式年遷宮をはじめとする数々の祭りについて述べている。神宮の本をたくさん読んでいるわけではないが、このように全体を俯瞰できる本はあまり無いのではないか。コンパクトに楽しく読めて、なおかつ全体像を把握できるというのは、とてもありがたい。

基本的には、神宮の「今」を伝えようとしていると言ってよい。

これを読んで、神宮というのは一個の神社であるということを超えた、大きな「文化」だということがよくわかった。例えば、そこには神官だけでなく、農作をしている人々がいる、機織りをしている人々がいる、塩を作っている人々や、森林を管理している人々がいて、もちろん宮大工もいる。そうした人々が神宮とともに生活し、神宮を支えているのだ。

前に民謡の本を読んで知ったのだが、伊勢音頭はもちろんこの神宮文化圏から発しているわけだ。伊勢音頭は伊勢で歌われるだけではなく、さまざまに形を変えて、各地方の民謡として定着していったらしい。つまり、日本の多くの民謡の源流は神宮にあるようなのだ。この辺のことは今後もう少し詳しく調べてみたいと思っているのだが、いずれにしても神宮が日本の文化そのものに大きな影響を与えていることは間違いないだろう。

もう一つ。神宮の「今」を知ることは、神宮の「歴史」を知ることにもなるのだ。なぜなら、神宮に生きる人々は、悠久の昔と変わらぬ生活をしているからだ。20年に一回行われる式年遷宮は来年で62回目を迎える。つまり、遷宮は少なくとも1200年という時間を含んでいることになる。

神宮に興味をもつ者は、この本から出発することができる。例えば、落語にも出てくる「伊勢詣り」は、江戸の人々にとってどんな意味をもっていたのか……実はすでに一冊買ってあるのだが、これを読む際にもこの本で得たイメージが力になるだろう。

神宮を訪れれば、美しい自然と悠久の時間にアクセスすることができるのだろうか…。死ぬまでに一度、かみさんと訪ねてみたいと思う。

狂言「昆布売」

●狂言「昆布売」

 大名:茂山千三郎
 昆布売:茂山宗彦
 解説:茂山七五三

 『新春狂言』(テレ玉)
 平成24年1月1日 6:00〜6:30


楽しかった。
能舞台ではなく普通のホールでの上演。

かなり顔の表情を使っているように見えた。とくに宗彦さん。
どなたかのエッセイに、狂言ではできるだけ顔の表情を使わないようにするという話が書かれていたように思うが、はてどこだったか…。
顔を使うと、わかりやすく親しみやすくなる反面、中世の芸能としての格式みたいなものは減じるように感じるが、こういう受け止め方は正しいのか…。
茂山家の場合、「室町時代の吉本新喜劇」を標榜しているぐらいだから、きっとそれでいいのだろう。

落語の場合、五代目小さん・小三治という流れを模範として、巧みに顔の表情を使うことがむしろ正統と目されている。
能楽の場合と関連づけて考えてみると面白そうだ。

篠井英介の『天守物語』

あ、いまNHK−Eテレで『天守物語』をやってる。
しまった!
録画しておけばよかった!

白井晃演出、篠井英介主演による『天守物語』で、2011年11月5〜20日、新国立劇場中劇場で上演された。

この録画はおそらく11月9日の公演だと思う。というのは、この日私は客席にいて、テレビカメラが入っているのを見ているからだ。もっとも何日分かの録画を継ぎ接ぎしている可能性もあるけれど。

泉鏡花の『天守物語』といえば、新派が上演し(花柳章太郎主演)、坂東玉三郎が歌舞伎でやり、さらに映画にもした。ついでに言うと鈴々舎馬桜師が落語でやってる。

白井晃演出による今回の舞台は、新派や歌舞伎とは異なる現代演劇の文脈での上演だと言ってよい。

台詞回しやしぐさなど、「伝統演劇のやり方を踏まえたほうがいいのになあ」と思う場面は随所にあった。例えば、冒頭の腰元たちの発声が“今のもの”なので、なんだかキャリアウーマンみたいに聞こえてしまった(テレビ放映したらそれを確認したかったのだが、見逃した)。あるいは、姫川図書之助を演じた平岡祐太の演技が底の浅いものに見えてしまったのも、そういうことだろうと思う(いま見ながら確認しているが、やっぱり底が浅く見える)。

とはいえ、全体的にはさまざまな工夫を凝らして面白く見せてくれた舞台だった。とりわけ舞台の奥行きを十全に活用した演出が面白かった(新国立中劇場はものすごく奥行きが深い)。舞台が「天守」ということで、上下(天地)の動きもたくさん取り入れていた。

富姫の篠井英介はとても良かった。この人のこの演目にかける思いが伝わってきた。

私が見た日は終演後にシンポジウムがあって、そこで篠井が言うのには、『天守物語』には玉三郎の決定版があるので、自分が演じていいのかどうか躊躇した。だが、自分にとって思い入れのある芝居であり、思い切って出演することにしたと。

玉三郎に及んだかどうかは別として(上記のような演出のスタンスの問題もあるし)、先人の業績に敬意を表しつつ、果敢に挑戦することは良いことではないかと思う。応援したくなるね。

旭五郎師匠

あ、旭五郎師匠だ。

元東京ボーイズのリーダー。

懐かしいな。

え、違う?

違わないよ、五郎師匠じゃん。

違うって?

じゃ、誰よ。

リコクリン?

誰、それ。

脱獄囚? 広島刑務所の?

李国林って書くの?

そうかなあ。

俺は五郎師匠だと思うけどなあ。

『ステップファザー・ステップ』

TBSで始まったドラマ『ステップファザー・ステップ』の初回を見たのだが、非常に面白かった。初回のみ2時間の放送、2回目以降は1時間。

原作は宮部みゆきの小説。私はだいぶ前に読んでいるのだが、筋立てなどは頭に全く残っていなかった。しかし、ドラマを見ているうちに少しずつ思い出してきた。

原作小説の巧緻な構成を、実にうまく生かしてドラマにしている。宮部みゆきの上手さを全く損なっていないのだ。

上川隆也を中心とする役者陣も良い。双子役の渋谷龍生・樹生も上々(本当の双子だと思う。それにしても最近の子役はきちんと演技ができるなあ)。

双子の少年の父母が、同じ日にそれぞれ別の相手と駆け落ちをして、引っ越したばかりの家に子どもたちが取り残される、というところから物語は始まる。必殺仕事人のように指令を受けて泥棒をしている「俺」(上川隆也)は、ちょっとした油断で高いところから落ちて気を失う。気がつくとそこは、双子の家だった。

双子の少年たちはしたたかで、両親がいなくなったことなど意に介していないように見えた。近所や学校の手前、「俺」が二人の父親役をすることになった。それは、近所の家に泥棒に入るよう指令を受けている「俺」にとっても都合のいいことだった。

序盤では、このような意外な設定で見る者の笑いを誘う。それが、後半に進むにつれて、結構な人情噺に相貌を変えていく。はじめは互いに利用し合っていただけの少年と「俺」だったが、やがて互いの「寂しさ」に気づき、心を寄せ合うようになっていく…。

登場人物は、まっとうな“親子愛”に恵まれていない人たちばかりだ。

双子の少年は、両親に見捨てられた。「俺」もまた、幼いころに両親に捨てられた過去を持っている。

主役ばかりではない。少年たちと同じ小学校に通う女の子は、祖母(小学校の校長をしている)によって母とは引き離された生活をしている。女の子は母の居場所を探そうと、祖母のバッグを盗んでしまう。

少年たちの担任の先生(小西真奈美)も、どうやら子どもと不幸な別れ方をした過去を持っているようだ。

このように“親子愛”をめぐる同型の物語が幾重にも折り重ねられていく。

来週からは録画して見ることにしよう。楽しみだ。
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