芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。予告なくネタバレを書くことがあります。

 東京は最高気温36度という猛暑の中、コンサートで楽しい時間を過ごした。8月3日19時から、近江楽堂で開催された『甘き歌声、天使の響き ソプラノ、リコーダーと通奏低音によるバロックアンサンブル』に行って来た。

 ソプラノ:中原智子
 リコーダー:田中せい子
 リコーダー:ダニエレ・ブラジェッティ
 バロックチェロ:懸田貴嗣
 チェンバロ:松岡友子


 曲目と簡単な感想は次の通り。

1、ブクステフーデ:かくしてモーゼは荒野で蛇を持ち上げた
 全員。
 カンタータ、だと思うのだが、特に書いてないなあ。楽しい。美しい。
 古楽のコンサートではいつも思うのだが、聞き始めは音量が小さく感じる。だが、一曲聞き終わるころにはそういう感覚が解消されて、細かいところも聞けるようになる。今回もそうだった。

2、ボノンチーニ:ソプラノ、リコーダーと通奏低音のためのカンタータ《私の愛しい人、美しい宝よ》
 世俗カンタータ。リコーダーはブラジェッティさん。
 女性が男性に惚れて、言い寄るが、なびかないので諦めちゃう、という内容。レチタティーヴォを挟んで2曲のアリア。内容を反映して中原さんがブラジェッティさんに言い寄るが、ブラジェッティさん反応なし。生真面目な人なんだなあ。日本人かッ。

3、アレッサンドロ・スカルラッティ:チェロと通奏低音のためのソナタ ニ短調
 懸田さんが「とても短い曲で、繰り返しなしだと3分で終わっちゃう。それで繰り返しを行って4分ぐらいに伸ばした」と説明し笑わせた。4楽章構成(ラルゴ、アレグロ、ラルゴ、ア・テンポ・ジュスト)で、どの楽章も美しく、短さも、長さも感じなかった(つまり、十分な内容があって堪能したし、退屈さも全く感じなかった)。7〜8分あったんじゃないのかな。

4、アルカンジェロ・コレッリ(シックハルト編曲):トリオソナタ第9番 ヘ長調〜合奏協奏曲第6番
 コレッリの合奏協奏曲をシックハルトが、2本のリコーダーと通奏低音のために編曲したもの。一曲をそのままアレンジしているのではなく、あちこち継ぎ接ぎしているらしい。
 ブクステフーデでは田中せい子さんがコンサートマスター役(曲の開始、音の切りどころなどを指示)だったが、ここではブラジェッティさんがその役を務めていた(と思う)。おそらく上のパートを担当した人が務めているのだろう。

  休憩

5、バッハ:カンタータ第208番《楽しき狩りこそ我が悦び》BWV208より、レチタティーヴォ「ならばこのノラスの捧げものが」とアリア「羊は憩いて草を食み」
 全員。
 登場した中原さんは、真っ白なドレス、左胸に大きめの植物のコサージュ。ディアナの女神が登場したかと思った。
 とても美しいアリアで、演奏も良かったが、もう少し遅いテンポのほうが私の好みだ。中原さんももう少し遅いテンポで歌いたいのではないかと思った。2本のリコーダーは速いテンポながら、よくニュアンスを出していて、勉強になった。
 この演奏は私の感覚でも十分に許容限度だったが、以下一般論として。バロック時代(たぶん古典派ぐらいまで)はテンポが速かった、という文献があるらしく、なんでも速いテンポで演奏するのが流行っているが、そのために細かい表情が脱落してしまうことがあるのを否定できない。今後はこの流行に歯止めがかかって、程よいところに落ち着くのではないかと思う。私個人としても、年をとったせいか、あるいは能に傾倒していることの影響があるのか、「遅いことによる強度の高さ」にとても魅力を感じている。

6、クープラン:恋のうぐいす
 チェンバロ。
 リコーダーやフルートで演奏するこの曲は、私はもう飽き飽きして面白くもなんともないのだが、本来のチェンバロでの演奏は逆に新鮮で素敵だった。

7、ラモー:アリエッタ《恋のうぐいす》〜抒情悲劇《イッポリートとアリシー―》より

 全員。
 クープランの曲と同じ題名だということで選曲した、と。内容的に関係はないようだ。リコーダーの動きが素敵。鳥の声を模したり、ソプラノと近い音域でハーモニーを聞かせたり。そのほか通奏低音なしの部分があったりして、聞かせどころいっぱいの楽しい曲だった。

8、テレマン:2本のリコーダーのためのソナタ第2番 変ロ長調
 名曲の名演奏。ニュアンスたっぷり。音程、アインザッツ、装飾、音の自由度、文句ありません。
 良いデュエットというものはエッチなものだと思うが、まことにエッチな演奏であった。

9、ヘンデル:めでたし天の女王
 全員。
 最後はヘンデル。この構成が憎い。歌わせ屋の、酔わせ屋の、泣かせ屋のヘンデル。はい、酔いました。

10、アンコール曲
 アンコールで一曲演奏したのだが、曲名忘れた。パッヘルベルのカノンのように、通奏低音が同じ音を繰り返した上で展開されるパッサカリア形式の曲。通奏低音は6つの音で構成されていた。楽しく、美しい曲。

 全体に、変化に富んだ選曲、どれも楽しく美しく粒ぞろい、演奏も工夫が凝らされていて、たっぷりと楽しい一夜を過ごさせていただいた。
 中心となった中原さんは、澄んだ明るい声、完璧なメリスマの持ち主で、表情豊かでなおかつ知的な音楽を聞かせてくれた。
 これで外が暑くなければもっと良かったのだが。まあこれはしょうがない。

甘き歌声天使の響き01
甘き歌声天使の響き02

 昨日(2018.7.2)桂歌丸師匠が亡くなった。81歳であった。
 
 入退院を繰り返して「そろそろ覚悟が必要なのか?」と思わざるを得ない状況にあったとはいえ、まぎれもない落語界の「顔」であり、芸と人柄について内外の信頼が抜群だった方だけに、やはり衝撃は大きい。

 この際、追悼の意味も込めて、私の歌丸師についての印象をメモとして書き留めておきたい。

 歌丸師は横浜真金町の遊廓に生まれた。廓噺の舞台にもなっている遊廓を内側から知っている点は、落語家としての強味であろう。

 しかし、芸風はまじめで、口調もどちらかというと硬い口調である。『笑点』でも回答者だった頃は、政治ネタをよく取り上げて“硬い”印象があった。本人も「師匠(=米丸)のは柔らかい口調、あたしの口調は、どっちかというと今輔口調ですよ。」(桂歌丸『極上歌丸ばなし』2006年、うなぎ書房、P.89)と述べている。

 報道で「女の描き方が抜群だった」と述べていたが、正直に言って歌丸師の女がとりたてて良いとは思わなかった。もちろん悪いわけではないが、特に良いわけでもなかった。理由は口調が硬いからである。本人も苦手意識があったのではないか。十八番の一つにしていた「紙入れ」の女も、私は良いとは思わない。

 『笑点』第一回からの出演者として広く顔と名前を知られている。一般的な知名度と信頼感は落語家の中でも群を抜いている。

 若い頃は新作落語を中心に演じていた。しかし、昭和49年に横浜・三吉演芸場で独演会を始めたころから古典落語に力を入れ始める。それが一般人にも意識されるようになったのは、昭和52年に初演した「おすわどん」あたりからのようだ。古典に力を入れるようになった理由について本人はこう書いている。

> 自分で独演会をやるについては、新作だったらとても保たない、それなら古典だ、今輔師匠から、新作やるにしてもまず古典が土台だって言われて教わっているんだから、古典でやってみようと思ったのが、三吉の始まりなんです。(『極上歌丸ばなし』P.113)

 五代目柳家つばめは、著書『創作落語論』の中で、新作落語家は疲れる、と述べている。生涯にわたって新作落語家を貫くことは至難の技なのだ。歌丸師は(おそらく直感的に)そのあたりのことを悟って、古典派に方向転換したのだ。そしてその先に圓朝物があった。この転身は成功だったと思う。

 私は歌丸師の「おすわどん」が好きだ。昭和52年7月31日、三吉演芸場で初演。歌丸自身が資料をもとに復活上演させた噺。五代目三遊亭圓楽師とネタ交換し、圓楽師からは「城木屋」を教わったそうだ。
 幽霊の正体を見極めるためにヤギュウ流の使い手を頼む場面で、「ヤギュウ流といっても野の牛と書く野牛流」というくすぐりを繰り出す。このばかばかしいくすぐりが歌丸師の口から発せられると、何ともチャーミングで素敵なのだ。硬質な口調だからこういのが生きるのだ。取材したときに「師匠の野の牛と書く野牛流というくすぐりが大好きなんです」と言ったら、嬉しそうに笑っていたっけ。

 「鍋草履」も楽しかった。六代目春風亭柳橋が演じていた噺。いわゆる「逃げ」といって、あまり力を入れずに演ずることのできるネタだという。芝居小屋が舞台となっている。

 「姓名判断」は有崎勉作の新作落語。高度経済成長期の空気を感じさせるナンセンスな噺だ。こういう歌丸師も大好きだった。一般には圓朝物に代表されるような重厚で深遠な印象があるかも知れないが、歌丸師のこうした軽さやばかばかしさには大きな魅力があった。

 その歌丸師の圓朝物だが、やはり良かった。確かな成果を上げていた。高座の照明を落として演じていると、ふと圓生師に見えることがあるほどだった。ただ、だいぶ以前のことだが、ほんの小さな違和感を覚えたことがある。『真景累ヶ淵』で、深見新五郎の新五郎を、昆虫のゲンゴロウのようなイントネーションで述べていたのだ。私の感覚では新五郎は小泉進次郎の進次郎のようなイントネーションだと思う。まあ、これは私と歌丸師との感覚が違うということに過ぎないのかも知れない。ちょっと新しい感覚なのかな、とも思った。

 落語芸術協会の会長は、歌丸師が就任して落ち着くべきところへ落ち着いた感があった。桂米丸会長時代が長く続いたあと、十代目桂文治師が就任したが、文治師は天真爛漫な方なので、不安定さが感じられた。七十周年記念興行のトリの高座を抜いたり、ね(^_^;)。内外の信頼が抜群の歌丸師は、名実ともに芸協の顔であった。

 何度かインタビューをさせていただいたが、忙しいなか時間を作って下さり、いつも丁寧に応対して下さった。歌丸師は話の端々にインタビュアー(つまり私)の名前を入れてくださる。「大友さんはご存じでしょうけれども…」というように。これは嬉しい。師の優しさ、お人柄であろう。こんな風に応対して下さったら、ますます好きになってしまうし、尊敬してしまう。玉置宏さんもそうだった。考えてみれば、玉置さんと歌丸師は、横浜にぎわい座の初代と二代目の館長だ。にぎわい座館長は人格者がなるってことかな。

 歌丸師はいかにも長老然としていたが、歌丸師の師匠の桂米丸師匠がご健在だ。若い人にも丁寧な応対をされるところは、五代目古今亭今輔→米丸→歌丸と、師弟を継承してきた「門風」なのかも知れない。歌丸師がここまでになれたのも、米丸師の優しさと包容力の大きさがあったからこそだと思う。マスコミ各社は米丸師に取材すべきだ。

 今はただ歌丸師匠のご冥福をお祈りするばかりである。合掌。

●アガサ・クリスティー『三幕の殺人』(長野きよみ訳、2003年、クリスティー文庫)

 原書の出版は1934年。ポアロ物の長編。

 この作品は、デヴィッド・スーシェのドラマで二度ほど見ているので、犯人もトリックも知っている状態で読んだ。だが、とても面白かった。一般に「ミステリは二度読め」と言われる。一度目は、犯人やトリックがどうなっているのかハラハラドキドキしながら読む。二度目は、それらを知った上で、作家がどのように伏線を張り、ミスディレクションを仕掛けているのかを味わいながら読むわけだ。私自身は二度目の読み方が好きのようだ。そういえばマジックなどもタネを知った上で見るのが好きだ。だから、できることならミステリは最初から二度目を読みたい。

 海辺のバンガローで元俳優のチャールズ・カートライトがパーティを開くが、教区牧師のスティーヴン・バビントンがカクテルを口にした直後に死んでしまう。数ヶ月後、神経科医のバーソロミュー・ストレンジが自宅でパーティを開くが、バビントンと全く同じような状況でストレンジが死んでしまう。出席者もほとんど同じだった。バビントンのときは事故だと思ったポアロも、これは殺人事件だと疑うようになる。

 主な登場人物。ネタを割ってます。

 チャールズ・カートライト:元俳優。バビントン、ストレンジ、それにミセウ・ド・ラッシュブリッジャーを殺した犯人。カートライトは年甲斐もなくエッグ・リットン・ゴアという若い娘と恋に落ちてしまった。結婚したいと思ったのだが、カートライトには既婚であった。ストレンジはそのことを知っている数少ない友人だったために殺した。誰も正体を知らない執事エリスになりすまして毒を飲ませたのだった。バビントン殺しは「通し稽古」だった。

 サタースウェイト:美術・演劇のパトロン
 バーソロミュー・ストレンジ:医師。毒殺される。
 ミルレー:チャールズの元秘書。
 メアリ―・リットン・ゴア:未亡人
 エッグ・リットン・ゴア:メアリーの娘。カートライトと恋に落ちる。オリヴァー・マンダーズが惚れている。
 スティーヴン・バビントン:牧師。
 ウィルズ:劇作家。最後にカートライトに命を狙われる。
 オリヴァー・マンダーズ:エッグの友人。
 エリス:ストレンジの執事。誰も正体を知らず、ストレンジが殺された後姿を消す。実はカートライトが扮していたのだった。

 クリスティーにとって「俳優」は特殊な存在のようだ。私が思い出す限り、俳優は「変装の名人」として登場する。どうもクリスティーは俳優を特殊能力者ないし「得体の知れない者」というイメージで捉えているようだ。この作品はそうしたクリスティーの「俳優観」が良く出た一編だと思う。

 昨日(2018.6.23)は雨の中、尺八のレッスンの後、『第72回ハートストリングス語りと朗読の会』(阿佐ヶ谷・ハートストリングス)へ行った。
 
 山崎勢津子さん、内藤和美さんのレギュラーに、野村須磨子さんがゲストで登場した。とても楽しい会だった。

 以下、簡単なメモ。

1、山崎勢津子:入れ札(菊池寛)

 素晴らしい朗読だった。
 逃げ行く国定忠治とその子分たちを描いた作品。主人公は、子分の一人である九郎助。山崎さんは、九郎助の心理をとても丁寧に描いて見事だった。地の文も、大事なところははっきりとゆっくりと読むなど、全体に細かい配慮が行き届いていた。なお、「九郎助」は「くろうすけ」でも間違いではないが「くろすけ」のほうが良いと思う。
 菊池寛は、「絵」の作り方、仕掛けの作り方がうまい上に、比較的短い作品が多いので、朗読には向くと以前から思っていた。文の肌理が粗いところも、朗読者が腕を振るうことができて良いのではないだろうか。

2、野村須磨子:豹(山本周五郎)

 野村さんは、劇団文化座で山崎さんの一つ後輩だそうだ。声優・女優としても活躍されている。「豹」は周五郎の現代物の作品。なかなかテクニカルな構成をもった小説だ。
 野村さんの朗読を聞いて驚いた。台詞の読み方がまことに演劇的で濃厚なのだ。具体的なその場における登場人物の「気分」といったものを反映させたような台詞回し。人物の入れ替わりによる読み分けも切れ味鮮やか。私の近くの客席からは「上手ねえ」という声が漏れていたが、人によってはあざといと感じるかも知れない。落語だったら「八人芸」と言われそうだ。テキストの外側から表情を作っているのではないかと思った。
 こういう読み方もあるのか、とショックを受け、大いに勉強になったが、何しろ初めてだったので、どういう風に受け止めたらいいのかまだよくわからない。魅力的であることは間違いないので、またどこかで出会いたいものだ。良い出会いに感謝。なお、息吹き(いぶき)。

3、内藤和美:手踊り(三浦哲郎)


 これは参った。内藤さんはいったいどこからこんな良い作品を見つけてくるのだろう。三浦哲郎の本は何冊か持っているが、まだ読んでいなかった。俄然この作家に興味が湧いてきた。
 男衆はみな出稼ぎに出ている村で、出稼ぎに行っていない男が倒れて危篤になる。母が息子の死に目に間に合うように、明日の正午に心臓を人工的に動かしている機械を止めることになった。村の女衆は、みんなで寄ってたかって通夜の料理の準備を始めるが、その様子はどことなく楽しそうなのだ…。
 一人の男の臨終が、ふだんは何も起きない退屈な生活をおくる村の女衆にとって、ちょっとしたハレの時間を提供することになったという、そういう話なのだ。なんて素敵な。
 内藤さんの朗読はいつもながら素晴らしい。加えて今回は見事な東北弁(青森弁?)を聞かせてくれた。

 森田童子が2018年4月18日に亡くなっていたことが、少し後になって明らかになった。65歳だったそうだ。

 この際、私が森田童子に感じたいくつかのことをメモ代わりに書いておきたい。

 鬱だったころに、友だちからベストアルバムをいただき、時々聞いていた。ただ、聞くと慰められるんだか、落ち込みがひどくなるんだかよくわからなかった。

 たしかに言えるのは、森田童子の歌は死が身近に感じられるということだ。森田童子はいつも死から出発して振り返って生を見ていたような気がする。

 童子の曲の中で最も強い衝撃を受けたのは「サナトリウム」だ。この曲の死のイメージは強烈だった。「もうすぐぼくの左の肺に真っ赤な花が咲くはずです」という台詞は、とても怖ろしく、鮮烈だった。音楽を聞いてこれほど死に近づいたと感じたことはない。三拍子で、ピアノの上の二本のヴァイオリンが時にポリフォニックにからむ編曲が、聞く者の日常感覚をさらに狂わせる。今聞き直してみたが、衝撃の強さは全く変わらない。

 童子は、死から出発しているから、生の喜びを高らかに謳い上げたりしない。生とは、死に呑み込まれるまでに許されたちょっとした猶予期間に過ぎない。死を前にしたほんのわずかの心の震え。童子が歌う生とはそのようなものではないか。

 それは歌唱法にも表れている。童子は声を張ったりしない。歌い上げたりしない。ただ囁くように歌う。音程の上げ下げも、遅れがちに、必要最小限だけしかおこなわない。歌の上手下手なんてどうでもいい。本当は歌いたくないのだ。(※)

※ここで「歌いたくない」と言っているのは、「歌いたくないかのように歌う歌唱法」ということ。

 もう一つ、森田童子は、その死のイメージも含めて、1970年前後の寺山修司の世界とイメージが重なる。体内回帰的なところとか。

 私より五歳しか年上ではないのに「あの頃」の匂いがぷんぷんする。あの頃というのは、全共闘運動、アングラ、エログロナンセンス、高度経済成長といった言葉で思い出されるような混沌とした時代とでも言おうか。なにかとても怖ろしく、懐かしいのだ。

 残された童子の写真は、カーリーヘアにサングラス、丸みのない面長の顔で、ちょっと松田優作を思わせる、どちらかというと男っぽい相貌をしている。この外見は童子の声や歌ととてもギャップがある。「自分を隠したい」という気持ちのあらわれだろうか。一つの論点であろう。

 音楽活動をやめてからは主婦をしていたという。でっぷりと太って、生活感に満ち満ちた主婦であってくれたら、私はどんなにか気持ちが安らぐだろうか。

 合掌。

 昨日は内藤和美さんが指導している『朗読みなづき会第十五回公演 女たち』(くにたち市民芸術小ホール)に行く予定だったが、仕事の都合で伺うことができなくなり、残念な思いをした。
 
 今日は、NPO日本朗読文化協会が主催する朗読会『第16回朗読の日』(銀座・博品館劇場)に行って来た。今日と明日、それぞれ二公演ずつ合計四公演(A〜Dステージ)が開催される。本当は全部見たかったのだが、スケジュールの都合上唯一行くことのできたAステージに行って来た。

 楽しかった!

 十六回目になるだけあって、会の運営がとても洗練されていた。
 二時間半(11時〜13時半)のあいだに十一人が出演したが、出し物の順番がよく考えられていて、飽きることがなかった。例えば、詩の朗読が二つ、絵本の朗読が一つあり、それらが上手に配置されていて、良い気分転換になっていた。軽妙なもの、ユーモアのあるものが多く、比較的重いテーマをもつものは休憩前とトリに置かれて、全体を締める役割を果たしていた。
 音響、照明、効果などが過不足なく、朗読を引き立てるために施されていて良かった。
 そして何よりも、出演者の朗読のレベルが高かった。各出演者の作品の選択も良かった。持ち時間の関係から選択には苦労したのではないかと想像するが、先にも述べた通り軽妙なものが多く、楽しめた。
 Aステージの司会は長野淳子さん。

 以下、簡単なメモ。

1、中村悦子:仕事始め(赤川次郎)
 離れて暮らす親から強引に新年の晴れ着を着せられて出社したところ、会社には社長だけしかいず、意外なことを聞かされる…。ミステリ作家らしいどんでん返しのある短編で、中村さんの人物の読み分けが巧みだったこともあり、引き込まれた。社長の台詞回しは今後さらに深めることができそう。

2、佐藤すみ江:馬地獄〜『動物集』(織田作之助)
 これもどんでん返しのある話。安定感のある朗読で楽しかった。紀州訛りの男、はじめに登場したときも「のし」という方言を使っていたと思うが、今原作を読んだら、「のし」は二度目の登場時だけだった。わかりやすさを考えて手を入れたのだろう(朗読の場合、原作に何らかの手を加えることが必要なことは少なくない)。鼻濁音がやや苦手のように感じた。

3、見澤淑恵:「吉野弘全詩集」より(吉野弘)
 平易な言葉で語られる吉野弘の詩をいくつか朗読。有名な「祝婚歌」も含む。明るく人生を照らしてくれる詩を明るく読んで、伝わるものが多かった。ロビーにこの公演に関連する本を売るコーナーが設けられていたのだが、そこへ吉野の本を買いに来た人が何人かいた。残念ながら吉野の本は置いていなかったのだが、それだけこの朗読で何かを感じた人が多かったのだろう。

4、菅野和子:空中ブランコのりのキキ(別役実)

 別役実の戯曲を童話風に。童話風のアレンジだから童話風に読んで、楽しく聞いた。と同時に、私の頭の中では、この物語が隠し持っているテーマに焦点を当てたシリアスな読み方もできるのではないかと想像していた。ウェーベルンかなんかをBGMにして。受けないかな。

5、塩田睦子:命のつぎに大事なもの(村上美保子)
 東日本大震災を題材にした実話を読んだ。泣かされてしまった(場内暗くて良かった)。客席のあちこちでもすすり泣く声が聞こえた。事実の重み、村上さんの文章の良さ、そして塩田さんの語りの素晴らしさが見事に融合。声に力があった。休憩時間に本を買いに行ったら、売っていなかった。同じように求めに来ていた人が何人もいた。圧巻だった。ブラーボ!

 (休憩)

6、稲本由美子:転生(志賀直哉)
 夫婦の物語。寓話風。前半、亭主が威張っていて嫌な話だなあと思っていたら、終盤ちゃんとどんでん返しがあった。結末では見事に笑いが生じていた。笑いが起きるのは、客席の心をつかんでいた証拠である。

7、伊吹よし子:チャーちゃん(保坂和志・小沢さかえ絵)
 召された猫が天国から語りかける体の絵本。テキスト(文字)自体はとても短い。伊吹さんはテキストだけを書き抜いたのではなく、絵本を拡大コピーしたものを読んでいたようだ。絵によって刺激されたイメージを伝えたいということだろう。それはたぶん正解だと思う。原作は「踊る」ことに特別な意味が与えられている。これって能と同じ!と思った。

8、高梨芳子:夾竹桃〜『田中慎弥の掌劇場』(田中慎弥)
 夫の十七回忌法要に見知らぬ美女が現れる。彼女はいったい誰なのか? ということをあれこれ考える妻の心模様。結末らしいものはない。面白かった。田中慎弥に興味を持った。紹介のナレーションが「作者は芥川賞受賞に際して『もらってやる』と言った人」という意味のことを述べたが、こういう紹介の仕方はとても良いと思う。血の通った紹介だ。

9、川口和代:紅梅〜『掌の小説』(川端康成)
 昔風月堂で菓子を買ったか、誰にあげたかをめぐる夫婦のやりとりと、それを聞いている娘。日常の一場面を淡々と綴っているが、考えれば考えるほど奥が深い掌編だ。記憶・意識・時間・老い…。派手な身振りや表情なしで、しっとりと聞かせてくれた。

10、阿部俐奈:詩集『ありがとう』より四編(サトウハチロー)
 サトウハチロー自身の自作朗読を聞いたことがあるが、一定のリズムに乗せた朗誦風の朗読だった。ここで阿部さんは朗誦風ではなく、素直な心情の吐露という風のオーソドックスな朗読をした。性別も世代も異なる作者の言葉をもう一度自分の中から生み出そうということのあらわれだろう。それは正解だと思う。柔らかみのある美声で心地よかった。

11、内藤和美:法律(菊池寛)
 落語の「唐茄子屋政談」と似た話。天保時代という設定なので、首をくくって死んだ女の遺書は候文で書いてある。それをそのまま読んで、きちんと意味を伝えてくれるのは、内藤さんの朗読が優れているからだ。
 エピローグとして作者自身の言葉が置かれていて、今の法律は窮乏する人間を救わないという意味のことが述べてある。が、この点については少々異議がある。「情」と「法律」を対立するものとして扱うのはわかりやすいのだが、いささか単純化しすぎであろう。例えば、現行民法では、債権者が債務者の財産を差し押さえるについてはさまざまな制約が定められている。給与は原則として四分の一までとか、商売道具は差し押さえできないとか。

 はじめにも述べたが、出演者の皆さんの朗読技術が高く、とても楽しめる会になっていた。その中で一つ気づいたことがある。それは「声の力」と「射程距離」ということだ。
 私は前から三分の二ぐらいのところ、一番右端の席に座っていたのだが、私の席まで物語が届きやすい人と比較的届きにくい人とがいたのだ。これはマイクを使っていることとは別のことだ。声はマイクに乗っているのだから、届くのである。しかし、そこで読まれている物語が、近くに感じるかそうでないかという違いは厳然としてあるのだ。
 何が違うのかというと、一つは声の大きさだろう。ばかでかい声を出せばよいというものではないこともちろんだが、いやしくも声を出す芸術にたずさわる以上、大きな声を出す訓練というのはまず必要ではないか。今はマイクの性能が発達して小さい声、通らない声でもマイクに乗るようになっているが、そのために大きな声を出す訓練をしないのは、「声の力」を手放すことになると思う。
 噺家の場合、前座修業中の数年間で大きな声を出す訓練をする。だから大きな声の出ない噺家はほとんどいない。例えば柳亭市馬さんはその中でも朗々とした美声の持ち主だが、市馬さんの落語を客席で聞いていると、まずその声を浴びているだけで気持ちよくなるのだ(市馬さんは芸も優れているから、その上さらに芸で気持ちよくしてくれるわけだ)。
 力のある声は、マイクに乗ってもやはり力があるし、そうでない声はマイクの音量をどんなに上げても声の力が備わることはない。
 今回、声の力をはっきりと感じたのは、塩田睦子さんと内藤和美さんであった。二人のステージは物語が身近に感じられた。

20180616_155908
20180616_155933

20180610_092040
 たまたま複数の友人から「面白いよ」と言われたので読んでみる気になった、大沢在昌『新宿鮫』(1997年、光文社文庫)。
 心を奪われるほど面白かった…わけではないが、たしかになかなか面白かった。
 ハードボイルド小説とのこと。ハードボイルドとは、熱い感情を固い固い殻に閉じ込めた人間を描いた小説だと、北方謙三が言っていた。この定義に乗って言うなら、熱い感情の部分は少ししか描かれていない。
 主人公の警察官・鮫島が、歌手をしている若い彼女に対して弱音を吐くところぐらいか。
 もう一つ。最後の一行によって、あらゆる感情や情熱を捨て去ったかに見えた上司・桃井もまた、内に熱い感情を抱えているのではないかと想像させられる。
 今後それぞれのキャラクターが私の中で立って来れば、ますます面白さが発酵していくのではないかという予感はある。急ぐことなく少しずつ読んでいこうと思う。

20180611_142916

 松谷みよ子『民話の世界』(2014年、講談社学術文庫)を読んだ。

 初出は1974年に講談社。のち2005年PHP研究所を経て講談社学術文庫。

 第一部 民話との出会い──山を越えて
  1 民話との出会い
  2 狐の地図
  3 祖先というコトバ
  4 水との闘い
  5 食っちゃあ寝の小太郎のこと
  6 信州が昔、海であったこと
  7 なぜ民話というのか
  8 「小泉小太郎」から「龍の子太郎」へ
 第二部 民話の魅力
  1 象徴的に語ることについて
  2 貧乏神のこと
  3 ある夫婦愛について──爺と婆の
  4 赤神と黒神
  5 その人にとってのたった一つの話
  6 妖怪と人間たち
 第三部 ふたたび山を越えて──私もあなたも語り手であること──
  1 民衆が語ればすべて民話なのか
  2 桃太郎と金太郎と
  3 再話について
  4 民話が移り変わっていくこと
  5 現代の民話について
  6 わらべ唄について
  7 ふたたび山を越えていくことについて
 あとがき
 再版によせて
 学術文庫版によせて
 文献・資料について

 著者の民話についての考え方がよくわかった。それは私にとって、面白いところとそうでないところとがあった。

 15頁以下の「民話採訪のしおり」はとても面白い。例えば、「聴き手はどのような相槌を打つか」「昔話を語る日はいつか」などという項目が挙げられている。

 従来の左翼的、というべきか、パターン化した認識がところどころに表れていて、そういう部分はあまり面白くない。例えば、権力に抑圧された民衆の苦悩が民話を支えてきた、というような認識が根底にあり、それは必ずしも間違いではないかも知れないが、全てをそこに結びつけられてしまうとやや鼻白んでしまう。

 このことと関連して、民話を考える上で「価値観」との関係が問題になるだろう。例えばこういう記述。

> もし、私たちが民話という言葉をもって、もう一度考えようとするならば、ただいい伝えられたものをそのまま次の世代に渡していくのではなく、必然的に、そこには視点が必要となってくるのではなかろうか。民衆が同じ民衆を差別する話、それをも民話に含めてはいけないのではないだろうか。差別された側の民衆が差別をはねのけていく、その視点こそが民話の本来の姿なのではないだろうか。(P.142)

 もちろん差別は反対だが、差別を含む話を民話の範疇から除外することは、この本が書かれた1970年代の著者らの価値観を民話に投影するものではないかと思う。そのように考えることは、民話を客観的な事象として扱うのではなく、著者らの価値観に従属するものとして扱うことになりはしないか。

 差別問題の側から考えるならば、差別の被害者が同時に加害者でもあることは珍しくないのである。例えば、権力から差別された人々が、他の人々を差別することによって抑圧を解消しようとすることは、悲しいけれどよくあることだ。したがって、民衆が差別される話と差別する話とを分けることは、実は難しい。


20180606_15382620180606_153848

 先日銀座ヤマハへ行って、金子健治さん編曲によるリコーダー四重奏曲集の楽譜をまとめて買ってきた。そこにあった六冊全部を買ったつもりだったが、『祭り』の一冊は中西覚さん作曲のオリジナル曲だった。

●リコーダー四重奏で楽しむ 沖縄ソング(金子健治編)全音楽譜出版社

 てぃんぐさぬ花
 童神 〜天の子守唄〜
 海の声
 花 〜すべての人の心に花を〜
 芭蕉布
 涙そうそう
 さとうきび畑
 谷茶前節

●リコーダー四重奏で楽しむ J−POP(金子健治編)全音楽譜出版社

 ひまわりの約束
 BELIEVE
 さくら(独唱)
 ひこうき雲
 なんでもないや
 世界がひとつになるまで
 花は咲く

●リコーダー四重奏で楽しむ クラシック(金子健治編)全音楽譜出版社

 威風堂々
 木星
 間奏曲(「カヴァレリア・ルスティカーナ」より)
 G線上のアリア
 アラ・ホーンパイプ(「水上の音楽」より)
 交響曲第1番(第4楽章より)
 パッヘルベルのカノン
 行進曲(「くるみ割り人形」より)
 ロマンス第2番

●リコーダー四重奏で楽しむ クリスマスアンサンブル(金子健治編)全音楽譜出版社

 あら野のはてに
 ホワイト・クリスマス
 ウィンター・ワンダーランド
 ひいらぎ飾ろう
 神の御子は今宵しも
 リトル・ドラマ―・ボーイ
 まきびと羊を
 きよしこの夜

●リコーダー四重奏のための 日本の四季(金子健治編曲)トヤマ出版

 春(どこかで春が・春よ来い・おぼろ月夜・春の小川)
 夏(茶摘み・夏は来ぬ・七夕さま・海)
 秋(里の秋・もみじ)
 冬(たき火・雪・冬げしき)
 エピローグ(ふるさと)

●リコーダー四重奏曲 祭り(中西覚作曲)トヤマ出版

 I.宵宮
 II.回想
 III.祭り

 笛仲間と概ね音にしているが、金子さんはリコーダーのことを本当によくわかっている人なので、まことに楽しい編曲ばかりだ。
 リコーダー編曲集の定番といえば、北御門文雄さんの一連の本、および、山中美代志さんの二冊、ということになるだろうが、この金子さんの一連の曲集が新たに加わったわけだ。

 Aメロに戻るところで一回か二回転調して盛り上げるというパターンが多い。

 「BELIEVE」は、我々の笛仲間であった大和田征さん(最近ご無沙汰)による編曲のほうがいいナ。

 「パッヘルベルのカノン」は、三声のカノンと通奏低音という曲の骨組みをシンプルにリコーダーに移した北御門文雄さんの編曲(AAAB)に軍配を上げる。金子さんはSATBという編成にこだわったので、シンプルな形を崩さざるを得なくなったのだろう。

 中西覚さんの『祭り』は、スーパーリコーダーカルテットの委嘱で作曲したもので、同アンサンブルのレパートリーになっている。
 一般のリコーダー愛好家でもさほど難しくなく吹けて、しかも楽しい。
 「宵宮」「祭り」は民謡音階をベースにしつつ sus4 がトニックに使われている。「回想」は3度抜きの5度和音で終わっている。西洋的な3度の響きを避けたのだろう。

20180606_060642

 松谷みよ子『現代の民話 あなたも語り手、わたしも語り手』(2000年、中公新書)を読んだ。

 一般の民話ではなくいわゆる「現代民話」について述べた本である。なかなか面白かった。
 私が持っているのは古書店で求めたものだが、著者サイン本。二、三ヶ所に緑のペンで書き込みがある。

20180606_060658

 現代民話とは
 1 あなたも語り手、私も語り手 ぼうさまになったからす
 2 昔話とのかかわり 偽汽車、蛇聟
 3 抜け出す魂、あの世への道
 4 土を喰う 戦争と現代民話
 5 学校の怪談
 6 口承から書承へ、そして口承へ
 7 笑い
 あとがき
 参考文献

> 文献と口承というのは行ったり来たりしているものなんです。(略)昔話は口承文芸だからずっと口承一本で現在まで来たと考えるのは見果てぬ夢です。(P.205)

 文の流れから、著者自身の発言か、対談相手の野村純一氏の発言が不明だが、この指摘は重要である。

> 昔話において、文字化された資料と口承が相互に影響し合うという視点は、「現代民話」においてもまさしくあることなのだ。(P.206)

 これは落語を考える上でもヒントになる。

 山形弁で民話を語る達人・松尾敦子さんが登場する。

> 私はこの『まちんと』という作品を松尾敦子さんに山形弁で語ってとおねだりした。松尾さんはひとり語りの舞台をつくっている人である。

 絵本の文章を山形弁で語ってもらったとき私はその美しさに驚嘆した。むがあす、ちゃっこいわらしこいてよ、とはじまる語りは、それがまるで『まちんと』の原語ではないかと思わせる迫力に満ちていた。方言の魅力と語りの力を感じたのである。(P.199)

 「笑い」の章でこんな話が紹介されている。「最後に私の好きな、幸福な笑いの語りを。これは佐々木喜善の『聴耳草紙』に収められていて、祈りに近い。」と述べたあとに。

> 昔アあったとさ、或所に爺(じ)と婆(ば)とあったと、爺は町に魚買いに行ったジシ、婆は家にいて、包丁をもって何か切る音をトントンさせて居た。其所へ爺様が魚をたくさん買って来て、晩けは娘だの孫どもをみんなみんな呼んでお振舞いすべえナと言った。そして晩景になったから、娘だの孫だのが大勢来た。爺那婆那、喜んでニガニガと笑ったとさ……。(P.221)

 確かに心温まる良い話だ、と感じると同時に、衝撃を受けた。今までに知っているどの笑話のパターンにも収まらないからだ。
 もう一度じっくり読み直してみたら、この話にはオチが無いことに気づいた。つまり、これはそもそも笑話ではないのである。聞き手を笑わせる話を笑話と呼ぶのであれば、ここで笑っているのは登場人物である爺と婆であって、話の聞き手ではないのだ。ふう。危うくだまされるところだった(^_^;)。

 もう一つ、このすぐ後に紹介されている話も素敵だ。

> むかし、としよりのじさとばさがあったと。サスケ。ふたりがねてて、じさが「ばあさ」って、そういったと。サスケ。そうしたらばさがじさに「じいさ」って、そういったと。それっきり。(P.222)

 「サスケ」というのは聞き手の相槌だそうだ。「そうですか」の転だろう。
 もう衝撃の一話。これもオチなし。
 たしか松尾さんが舞台でやってたんじゃなかったかな。少なくとも松尾さんなら語れると思う。しかし、ほかの語り手にはかなり難しいのではないか。なにしろオチがないし、あまりにもシンプルだ。これを語り・朗読の達人たちがどう語るのか、一度聞いてみたいものだなあ。


このページのトップヘ