ある時期までの私の二代目快楽亭ブラックの定義は次のようなものだった。
快楽亭ブラックとは、四つの点から成る三角錐の辺の上を移動する運動である。
四つの点とは、落語・歌舞伎・日本映画・風俗を意味している。
この三角錐を成り立たせているのは、いわゆる「自分探し」の力である。
アメリカ兵と日本人女性との間に生まれたが、父の顔は知らず、見た目は白人だが、英語は全くしゃべれない。つまり、白人社会からも日本人社会からも疎外され、どちらにも所属することができない。そんなブラックが、自分とは誰かと問うたときに、キーワードになったのは「日本」ということだった。
落語・歌舞伎・日本映画は、いうまでもなく日本の文化だ。ブラックは自他ともに認める映画好きだが、洋画は見ないそうだ。
では風俗は? 風俗はたしかに「日本」というキーワードとは違うかも知れないが、「自分探し」という言葉ではくくれる。社会のはみ出し者でも、菩薩のように受け入れてくれるのが風俗だからだ。
だからブラックの落語は、どんなに猥雑に見えようと、そこには切実な思いが宿っている。
ほぼ同趣旨の文章を、雑誌『落語32号』(1994年、弘文出版)に書いている。参考までに画像を掲載する。この文章、とある上方の大物評論家に激賞されたと人づてに聞いて、とても嬉しかった思い出がある。

さて、近年は熱心にブラックを追いかけてはいないが、私なりに直接間接に動向を気にかけてはいた。それで何となく感じていたことは、上記の三角錐の構図はもう当てはまらなくなってきているのではないかということだった。考えてみればブラックも今年(2025年)で73歳。自分探しもなにもない年齢ではあるのだが。
そんな中、ブラックを取り上げたドキュメンタリー映画が公開されたというので、見に行ってきた。以下、ネタバレ(と言っていいのかどうかわからないが)を含むので、これから見る予定のある人はスルーしてください。
『落語家の業』
2025年、榎園喬介監督
渋谷・ユーロスペース

あまり期待はしていなかった。下世話な関心というか、怖いもの見たさに近いような感覚で足を運んだ。
しかし、面白かった。笑った、というだけでなく、いろいろ心が揺さぶられた。
これまでの歩みを手際よく紹介しながら、ブラックの身に起きた近年の大きな話題に焦点を当てている。演芸資料としても貴重な映像を含んでいるし、人と社会との関係についての鋭い問題提起も含んでいる。
上映期間終了後も参照可能な状態にして欲しいが、テレビでの放送は不可能だろうし、ネット配信という形でも難しいだろう。DVDでの販売を期待したい。
ブラックの身に起きた近年の大きな話題の一つは、旧大須演芸場最後の日のドタバタである。
名古屋の大須演芸場(足立秀夫席亭)は、家賃滞納により強制執行を受けることになった。2014年1月31日に最後の有料興行を行ったが、翌日より無料興行と題して来場者にカンパを募り、それを出演者等に配分した。
2月3日に建物明渡の強制執行が行われる予定であり、前日に最後の興行を終えた…はずだったが、ブラックらは当日実際に執行がなされる時間まで興行を続けた。会場は大入満員。盛り上がる客席と外に集合して強制執行の準備をする執行官とを交互に映すショット。ブラックは言った。
「言っておきますけど、正義は向こう(執行官側)にあるんです」
これにはひっくり返った。そして、遂に会場に現れた執行官を衆目にさらし、一種の見世物にすることで、雰囲気は最高潮に達した。執行官にはまことに気の毒なことであった。
もう一つの大きな話題は、弟子であった旧快楽亭ブラ坊に関わる裁判沙汰である。
2019年に打ち上げの場で、ブラ坊が自身の彼女について個人の尊厳にかかわる極めてプライヴェートな発言をした。翌年ブラックがこれを高座で話した。これを聞いた彼女が怒って、2020年にブラックと榎園を訴えた。
2021年7月1日に判決が下され、ブラックが敗訴、損害賠償として30万円の支払が命じられた(榎園には20万円)。
ブラックは、裁判期間中、芸名「快楽亭ブラック」を封印し「被告福田」に改めた。公判の日には、裁判所の外に人を集め、カメラも入れて、一種の「祭り」状態を演出した。映画はこの場面から始まっている。
映画の終盤、金のないブラックは、有馬記念で馬券を買い、「当たればこれで賠償金を支払う。当たらなければ…」と言って、エフフォーリアに賭けた。これがなんと一着になったのであった。こんなことがあるんだね。この場面が後半のクライマックスになっている。
この二つのエピソードから浮かび上がってくるのは、「まじめ」を廃し、「モラル」を一旦脇へ置いて、社会の逸脱者として全てを洒落のめすという、ブラックの生き方だ。
モラルから自由な生き方は、ふだんモラルに縛られている人々にとって、一種の爽快感や癒しをもたらす。ブラックの会に人が集まるのも肯なるかなである。
というわけで、この映画から伝わってきたのは、逸脱者としてのブラックのインモラルな生き方であった。
もちろんそこに問題が無いわけではない。というより大ありだ。なにしろモラルに反しているのだから。裁判を「祭り」にしたことについても、強制執行の件と同じく、正義は「向こう」にあるのであって、ブラック側にはない。どちらかといえば私は、七割方、強制執行執行官や裁判所、原告の側に同情を寄せている。まじめに職務を遂行している人や傷ついた人が気の毒だと思う。それを忘れてはいけない。だから、ブラックを全面肯定しはしない。
それでもブラックの生き方に、どこか共感する自分がいるのも事実なのである。
ブラックは、ある意味で極めてピュアな生き方をしていると言える。この映画は、そうした一人の逸脱者の純度の高い生き方をカメラに収めた点で、高い価値があると思う。
ただ、正直なところ、私はここに描かれている生き方を「美しい」とまでは感じなかった。そう感じるためには、もう一つ何かが必要な気がする。それは、何だろう…編集上の工夫とか…うーん…よくわからないが、例えばブラックが亡くなった後でもう一度この映画を見たら(失礼)、私は彼を美しいと感じるような気がする。




