芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。予告なくネタバレを書くことがあります。

 かなり前に読んで、内容もほとんど忘れてしまったが、一応記録しておかないと次を読みづらいので。

●アガサ・クリスティー『雲をつかむ死』(加島祥造訳、2004年、クリスティー文庫)

 原書は1935年。ポアロ物。

 パリ発クロイドン行の旅客機の中で起こった殺人事件。

 解説は紀田順一郎で、いつもながら気の利いた文章。

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 《ブラック・ミラー》を見たら久しぶりにSFが読みたくなって引っ張り出してきた。

●フィリップ・K・ディック『流れよ我が涙、と警官は言った』(友枝康子訳、1981年、サンリオSF文庫)

 今はなき懐かしいサンリオSF文庫(その後ハヤカワSF文庫から出版されている)。原作の出版は1974年。

 タイトルは、イギリス・ルネサンスの作曲家であるジョン・ダウランドの有名な曲に由来している。「流れよ、わが涙」別名「涙のパヴァーヌ」。この曲については149ページに直接の言及がある。

 ジェイスン・タヴァナーは三千万人の視聴者をもつテレビ番組のパーソナリティだが、あるとき目覚めると、タヴァナーのことは誰も知らない世界に変わっていた。世界は何も変わっておらず、ただタヴァナーだけがこの世にいないことになっているのだった。

 「意識」を扱うディックの世界。文章はタヴァナーの意識に映った世界を述べていくので、はじめややわかりにくい。

 世界が変わってしまったのは、薬物によるものだとの説明は、まあシンプルだがわかりやすい。ところが、薬物を使用したのはタヴァナーではなく、警察本部長フェリックス・バックマンの双子の妹のアリス・バックマンであり、世界はアリスの意識に引きずられていた、という説明は、なんだかよくわからない。

 そのアリスとフェリックスとは、双子でありながら、近親相姦の関係にもあり、子どもまでいる、という設定。こういう設定が何を意味するのか、これまたよくわからない。

 タヴァナーが、ガソリンスタンドで出会った黒人の男に、ハートマークを書いて渡すと、二人の間の緊張関係はなくなって心を寄せ合うようになる、という場面もよくわからない。この黒人男性はこの場面だけしか出てこない。

 フェリックスが、自分でも知らないうちに涙を流している場面が二度出て来る。

 タイトルとも相まって、悲しみについて述べたくだりが何ヶ所か出てくる。
 
> 悲しみは自分自身を解き放つことができるの。自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ。(P.163)

 という台詞もある。

> 一人ひとりの登場人物に寄せる共感の深さが、ディックのとほうもない世界を、我々とは無縁のものと感じさせない。

 と、森下一仁は解説で書いている。

 なお、余談だが、「マティーニ」「マーティニ」両方の表記が出て来るページがある。P.134-135。
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 紀田順一郎さんの本で知ってからずっと興味を持っていたヘレーン・ハンフ『チャリング・クロス街84番地』。本はずっと前に買ってあるのだが、まだ読めていない。Netflix に映画があったので、こちらのほうを先に見てしまった。

●『チャーリング・クロス街84番地』(1986年、デヴィッド・ヒュー・ジョーンズ監督、アメリカ)


 とても良い映画だった。《ブラック・ミラー》シリーズとか、『冷たい熱帯魚』などの園子温作品とか、最近私の中で殺伐としたものが続いたので、こういう物語を見るとほっとする。

 ニューヨークに住む売れない脚本家ヘレーン・ハンフと、ロンドンにある古書店マークス社との心温まる交流を描く。原作の著者はヘレーン・ハンフ。つまり著者の実体験を綴った小説をもとにしている。ヘレーン役にはアン・バンクロフト、マークス社の店員フランク・ドエル役にアンソニー・ホプキンス。

 映画は、ヘレーンがチャリング・クロス街84番地にあるマークス社を訪ねるところから始まる。1969年のことである。ここに来る途中、タクシーの中から過ぎ行く風景を目を輝かして眺めた理由は、映画を見ているうちに明らかになる。1949年に、ヘレーンとフランクとの交流は始まった。欲しいイギリス文学の古書がニューヨークでは安く買えず、マークス社に手紙を出したのがきっかけだった。以来、フランクだけでなくマークス社の社員たち、フランクの家族などとも人間的な交流が始まることになる。やりとりは手紙だけ。余裕のないヘレーンはロンドンに行きたくても行くことができないのだった。

 バンクロフト、ホプキンスはじめ各俳優たちの演技も、気持ちがよく伝わってきて素敵だ。

 物語の全体が、本への、イギリス文学への憧憬に満ちている。紀田さんの文章もたしかそういう文脈の紹介ではなかったかと思う。本、特に古本を愛する者は見るべし。

 もう一つ、1949年から1969年までの、イギリスとアメリカの世相が活写されている。例えば、第二次大戦後のイギリスでは物資が配給制で、肉などは滅多に食べられなかったこと。ビートルズの登場で若者文化が勃興して、大人たちは眉をしかめたこと。アメリカでの学生運動など。

 悪人が一人も出てこない。年をとるとこういう物語が心に沁みる。

 Netflixオリジナルドラマ《ブラック・ミラー》を見た。シーズン1は2011年に始まり、2017年にはシーズン4が公開された(全19話)。さらに2018年にはシーズン外の「バンダースナッチ」が公開され、話題となった。イギリス。

 近未来のSFドラマで、毎回読み切り(とはいえ、後半になると固有名詞などを使い回すことがあり、連作に近い味わいも少し出て来る)。概ねディストピア物語で、後味の悪いことが多い。きわどい性的な描写、残酷な描写もあり、大人向けである。出来栄えにばらつきはあるが、総じてよく作ってあり、秀作シリーズと言ってよいと思う。

 SF的な題材としては、SNSやスマートフォンに由来するものが多い。例えば「いいね」をつけて相手を評価することや、フリックして選択するインターフェイスなど。また、高度に発達したVR(仮想現実)技術、人間の記憶や意識を記憶装置にインポート/エクスポートする技術などが頻出する。

 以下各話の簡単なメモ。ネタバレは※をつけて示し、記事の末尾にまとめた。

●第1話「国家」
 第1シーズン第1話。皇族の娘が誘拐され、首相が脅迫される。「午後4時にテレビの生放送で豚とセックスしろ」というのだった。手を尽くしたが犯人は見つからない。刻限が迫ってくる…。
 インパクトのつよいドラマだった。

●第2話「1500万メリット」
 人々がバーチャルなシステムに閉じ込められて管理されている社会。下層市民は自転車を漕いで発電している。報酬は金でなくポイント(単位はメリット)だ。そこを抜け出して仮想でない「本物」に触れられるのは、オーディション番組に出場し勝つことだけ。ところが…。
 よく考えられたディストピア話だ。

●第3話「人生の軌跡のすべて」
 人間はチップを頭に埋めて、記憶を全てテレビ画面に映して簡単に再生できるようになっている。そうした記憶を執拗に再生して、妻が今も元彼を愛しているのではないかと疑う男。狂気に取り憑かれたかに見えたが、実際に不倫している証拠を見つけてしまう。

●第4話「ずっと側にいて」
 第2シリーズ第1話。恋人を事故で失った女が、死者を仮想的に再現するサービスに加入。はじめはメール、次に電話、そして身体。抵抗を感じながらも癒されてしまう女だったが、やがてちょっとした違いに苛立つように。
 アイザック・アシモフのロボット物を思わせる、よくできたSFドラマだ。

●第5話「シロクマ」
 女が目覚めると記憶を失っていた。外に出ると覆面をした人々に命を狙われた。逃げ惑う彼女を人々は助けようともせず、スマホで撮影するばかり。必死に逃げるが最後には…(※1)。

●第6話「時のクマ、ウォルド―」
 ウォルド―というクマのアニメキャラクターは、口汚く下品な物言いで人気を博している。ウォルド―は補欠選挙の候補者を下品にまぜっかえし、ますます人気を高めるが、ウォルド―を演じている俳優は良心の呵責に苛まれる。

●第7話「ホワイト・クリスマス」
 雪に囲まれた人里離れた小屋に二人の男が五年も住んでいる。クリスマスの日、男たちは身の上話を始める。一人の中年男は二つの話をした。一つ目。中年男は若い男に彼女を作るために先端機器を使ってアドヴァイスする商売をしていた。彼は若い男の見るもの聞くものを別の場所で見聞きでき、無線でアドヴァイスする。また、その一部始終をパソコンで一緒に目撃している客たちがいる。若い男はあるパーティで首尾よく女とベッドインするが…(※2)。二つ目。中年男は、人の意識をプログラム化して仮想空間にコピーする商売をしている。仮想の彼女は、現実の自分自身の身の回りを管理させられる(※3)。一人の告白に促されてもう一人は、自分の経験を話し出した。彼女の妊娠をきっかけに破局し「ブロック」された挙句、女の父親を殺してしまったと。すると最初の男が「上がりだ」と言って消える(※4)。
 すごい話だ。
 「ブロック」が現実のシステムとして設定されている。ブロックされると、相手の姿にモザイクがかかって見え、声もよく聞こえないのだ。

●第8話「ランク社会」

 第3シーズン第1話。互いに評価し合う星の数で社会的ステータスが決まるランク社会。主人公の女は、憧れの家に住むのに必要な星4.5を得るために、彼女を見下していた幼なじみのセレブな結婚式に出席しようとするが…。
 とても切なくなる話。SNSの「いいね」が社会システムの中心に据えられているというアイディアは、既に行われている現実をデフォルメしたもので、実感がある。

●第9話「拡張現実ゲーム」
 脳に直接アクセスして個人的な恐怖の記憶を抽出して、バーチャルな恐怖体験をさせるという開発中のゲームの被験者となる。その結果、恐怖世界から逃げられなくなり、死んでしまう。
 面白いが、この手の物語は既にフィリップ・K・ディックが書いている。映画でいうと『トータル・リコール』の仕掛けと同巧だ。幻想の中で、現実に戻った幻想を見たかもしれない、という場面(ひとことで言うと、夢から覚めた夢を見る場面)を入れることで、現実レベルをいくらでも相対化できる。

●第10話「秘密」
 マルウェアに感染したために恥ずかしい姿を動画に撮られた少年。見知らぬ者から脅迫され言いなりに。同じような人が何人もいて、連携して銀行強盗までさせられる(※5)。
 「近未来SF」とはあまり関係ない、凡庸な一作。

●第11話「サン・ジュニペロ」
 「サン・ジュニペロ」で出会い、互いに好意を寄せるようになる二人の女。そこがどういう場所なのかが明らかになるにつれて、二人のそれぞれの事情もわかってくる(※6)。
 シリーズ白眉の一作。泣いた。

●第12話「虫けら掃討作戦」

 虫けらと呼ぶ化け物の掃討作戦に参加している兵士。だが実は虫けらは人間だった。兵士の五感を統御しているマスシステムが、人間を化け物に見せているのだった。
 優生思想と差別。

●第13話「殺意の追跡」
 人々の反感を買う記事を書いた記者が殺された。凶器は蜂型ドローンだった。SNSの投票で「死ね○○」と多くの人に書き込まれた人の命が狙われたことが判明。犯人を追跡するうちに、今度は「死ね○○」と書いた38万人の命が狙われることに。
 炎上とメディアリンチの問題。

●第14話「宇宙船カリスター号」
 第4シーズン第1話。宇宙を舞台とするゲームの開発者である男。同僚らのDNAから人格をコピーして自分だけの仮想ゲーム空間に入れ、横暴の限りをつくしていた(※7)。

●第15話「アークエンジェル」
 娘の視覚聴覚を全てパソコンで再現監視でき、危険なものにはモザイクをかけて見させない施術をする。思春期になって娘がセックスをし、覚醒剤に手を出したことを知った母親は…。
 親の過干渉と「親殺し」の問題。やーな話。

●第16話「クロコダイル」
 交通事故を起こした車に同乗し隠蔽に加担した女。十数年経って別の交通事故の証拠集めのために保険会社の女から記憶を再現する装置にかけられて、旧悪露見。それを隠蔽しようと…(※8)。

●第17話「HANG THE DJ」
 男女交際の全てを管理するシステム。理想の相手が見つかる確率は99.8%。互いに初めての利用で出会った二人は、互いに気に入るが、12時間で別れさせられる。その後は何人となく気にくわない相手と付き合わされる。二人は互いに相手を忘れられずシステムに反抗する(※9)

●第18話「メタルヘッド」
 血も涙もない四つ足型の殺人ロボット・メタルヘッドが、逃げても逃げても追って来る。言ってみればそれだけの話。そこに至る経緯の説明などは一切ない。
 メタルヘッドは「バンダースナッチ」にもゲームの名前として登場する。

●第19話「ブラック・ミュージアム」

 第4シーズン最終話。犯罪に関する物ばかりを集めた博物館を一人の旅行者が訪れた。館長が案内した一番の見せ物は、黒人死刑囚の意識を転送した幻影だった。人々は死刑を再現して、彼が苦しむ様子を楽しむのだ。ところが…。
 補足。館長の男は、サン・ジュニペロを作った病院で、彼はそこで人の意識をコピーする研究をしていた。そのほかこれまでのエピソードに登場したグッズが展示されている。シリーズ最終回という位置づけなのだろう。

●「バンダースナッチ」
 2018年に公開されたシーズン外の最新作。
 1984年、ゲーム開発のチャンスを与えられた若い男が苦悩する。
 途中いくつも選択肢があって、視聴者が選択する。それによって筋立てが変わっていく。結末もマルチエンディング。
 内容は「パラレルワールド」「誰かに操られている」がテーマのようになっていて、視聴者が物語に参加しているような錯覚を与える仕掛けになっている。
 映画とゲームの融合というより、演技の部分が多いゲームだと感じた。したがって、私にはあまり面白くはなかった。
 最後まで行くと、少し前に遡って選択し直せる。ネットには既にフローチャートがアップされている。

 というわけで、私のベスト3は以下の通り。

1位「サン・ジュニペロ」
2位「ホワイト・クリスマス」
3位「HANG THE DJ」
次点「ランク社会」「国家」
 
 以下ネタバレ部分。
 
※1
 実は女は幼女を誘拐し残酷に殺害した犯人で、これは彼女に同じ苦痛を味わわせようとする「刑罰」だった。彼女は同じ恐怖を何度も味わわされる。人々はそれを娯楽として楽しんでいる。
※2
 ナンパした女は狂人で、若い男は殺されてしまう。中年男とその客たちはリアルタイムでそれを目撃してしまうが、全てをなかったことにして記録を消去する。
※3
 仮想の彼女は死ぬこともできず、永遠にその仕事から逃げられない。
※4
 彼は警察の手先になり、もう一人の仮想意識に入りこんで、殺人を自白させたのだ。雪山の中の小屋も仮想現実だった。男は捜査に協力したことで解放されるが、全ての人間からブロックされるという罰を与えられた。彼は社会から疎外されて生きることになる。
※5
 最後に残った二人で殺し合いをさせられたあげく、最後はばらされてしまう。誰が何の目的で脅迫したかについては一切語られない。
※6
 サン・ジュニペロは、クラウドに作られた仮想空間。自分の記憶・意識をアップロードしてそこで遊ぶことができる。時間を決めて現実に戻ることもできるし、重篤な病人や先の長くない人が、そこに永遠に住むこともできる。この物語の主人公は、意識はあるが体は一切動かすことのできない白人の女と、バイセクシャルの黒人の女。二人は互いに愛し合う。白人女はサン・ジュニペロに「脱出」してそこに生きることを選び、黒人女にもそれを勧める。しかし、彼女の夫は脱出を拒んだ。なぜなら、娘を39歳で亡くしたとき、サン・ジュニペロはなかった、つまり脱出したとしても娘には会えないからだ。彼女は夫と過ごした時間のかけがえのないことを訴える。一緒に娘を失った悲しみを味わってきた。平凡な日常でさえも珠玉の時間だったと。最終的に彼女が選んだ結論は…。一応描かれているが、それはどちらでもいいのではないかと思う。
※7
 被害者らはゲームのアップデート時に生じたワームホールを抜けて脱出する。
※8
 保険会社の女を殺し、彼女の家へ行って夫を殺害。帰るときに、幼児がいたことに気づき幼児も殺害した。オチは、警察が同じ部屋にいたマウスの記憶を再現するというもの。
※9
 その途端、世界が崩壊して無になる。1000回目のシミュレーションが終わったのだ。反抗率は998回。すなわち99.8%が達成されたのだ。現実の二人は改めて出会った。
 システムに対する反抗があらかじめプログラムされているというのは、アーサー・C・クラーク『都市と星』などに先例がある。

 Netflixで『シェルブールの雨傘』(1964年、ジャック・ドゥミ監督、フランス)を見た。
 
 面白かった。全ての台詞にメロディーがついている。つまりレチタティーヴォのように台詞も歌う。
 
 従って細かい演技が使えず、類型の中で物語が展開することになる。が、そうした制約の中でうまくプロットを作っている。というか、逆にそうした不自由さを逆手にとって普遍性のある物語を作ることに成功している。誰でも、どこかしら心の中に思い当たるところのある映画になっているのだ。やや大袈裟だが、神話に近いということもできるかも知れない。

 そして、若きカトリーヌ・ドヌーヴの魅力。溝口健二『祇園囃子』に出た若尾文子を思い出した。なんだろう、私はこういうまだ自我が確立されていない魅力を手放しで礼讚する気持ちはないんだよなあ。二人ともその後の方が魅力的だし。ただ、やっぱり若い魅力というのはある。この時点ではまだ時分の花に過ぎない。

 Amazon prime で映画『最後の忠臣蔵』(2010年、杉田成道監督)を見た。とても良かった。

 池宮彰一郎の同名小説を原作としている。私は小説は持っているがまだ読んでいない。

 赤穂事件で討入前夜に逃亡した瀬尾孫左衛門(役所広司)を描く。事件から十六年後、孫左衛門が赤ん坊から育てた娘・可音(桜庭ななみ)は美しい娘に育っていた。他方、四十七士の生き残り・寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、浪士たちの遺族を慰問する旅をようやく終えたところだった。

 その後の展開は書かないでおこう。私は結末も含めてさほど意外とは思わなかったが、登場人物たちの心情を丁寧に描いているので、ぐいぐい惹きつけられた。特に役所広司と佐藤浩市の演技については何も文句がない。

 実は、可音が嫁入する場面で、ちょっと泣いてしまった。周りに人がいなくてよかった。

 人形浄瑠璃『曾根崎心中』が、物語の伴奏のようにところどころに顔を出す。武士道を全うした末の切腹と、町人の悲恋の果ての心中とでは状況がかなり違うが、赤穂事件と『曾根崎…』の初演がほぼ同時期に行われたこと(吉良邸討入は元禄十五年十二月十四日、『曾根崎心中』の初演は元禄十六年四月七日。西暦でいえばどちらも1703年)と、死へ向かう情念や哀しみといった点で共通するものがあることから、『曾根崎…』を通奏低音のように響かせたかったのだろう。義太夫は竹本咲太夫。

 元禄十五年から十六年後というと享保四年ごろになるはずだが、その期間の社会的背景などは描かれない。このあたり原作小説ではどうなのだろうか。

 一つ残念だったのは、役所広司(孫左衛門)が一回「とんでもございません」と言ったこと。江戸時代には、というより今日でも、本来「とんでもございません」という言い方はない。過去ログ「とんでもございません」(2012.2.1)参照。

 なお、おそらく誰も目を留めないと思うので、私がここで絶賛しておきたい、柿沼康二の題字がすごくいい。

 この四月に還暦を迎えたので、生きてリコーダーを吹いた証として、本気のコンサートを開いてみたくなった。指や舌は今後だんだん動かなくなっていくだろうし、いつどんな病気や怪我や事情の変化で笛が吹けなくなるかわからないから、元気なうちにこの世に爪痕を残したいと思ったわけ。
 
 動画「リコーダー無駄な技術研究所」も、同じ気持ちから始めたもの。実は一年ぐらい前に録画したまま編集しないで放置しているのが二本ある。プラスもう一本撮影して一応の完結にしようと思っている。
 
 還暦コンサートについては、こんな方針で取り組み始めた。
 
 私が崇拝しているチェンバロ奏者の平井み帆さんに、二年間リハーサルを兼ねたレッスンをしていただき、その成果をコンサートで発表する。平井さんには「指導出演」とか「補導出演」とか「お目付出演」といった形でご出演いただく。
 
 平井さんのチェンバロは本当に素晴らしくて、常に聞く者の情を深いところで揺さぶって来るのだ。平井さんの音は、いつも坂を下っているか、上っているかしている。つまり、生きて、動いている。いや、もちろん停滞しているときもあるが、そのときは「ことさらに停滞」しているのだ。
 
 しかし、こんなことが本当に実現するだろうか。一介のアマチュア愛好家である私が、トッププロである平井さんに、まがりなりにもご出演いただくなんてことが。
 
 まあ、こういうことはウダウダ考えていても仕方がないので、当たって砕けるに限る。
 
 というわけで、さる12月21日(金)、初めてのレッスンを受けに行って来た。その場で私の「野望」を打ち明けたところ、「まあ、二年間準備をしてコンサートなんて、芸に理解のある大友さんらしいわあ」と、なんだか面白がってくださって、快くお付き合いくださることになった。ばんざーい。
 
 今年2018年12月に動き始めたのだから、2020年いっぱいレッスンをしていただき、コンサート開催は2021年の春ごろになるだろう。2021年リコーダーの旅。
 
 曲目を早く固定しておきたい。
 
 先日見ていただいたのは、バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタホ短調BWV1034の第1&3楽章だ。原曲のホ短調を短3度上に移調してト短調で(第3楽章は原曲ト長調なので変ロ長調に移調)。このBWV1034は大好きな曲なので、本番で全曲演奏ということも考えているが、もう一つ、ホ長調BWV1035という魅力的な曲がある。こちらのほうが吹きやすいし、明るく楽しい曲想なので、こちらを全曲演奏し、BWV1034のほうは第3楽章をご挨拶代わりの一曲にしようかとも考えている。
 
 平井さんのレッスンは素晴らしく刺激的だった。バッハの音楽がいかにすごいかがわかったし、私が音楽について何も知らなかったこともよくわかった。学ぶべきことは多い。二年間、ちょっと本気出す。

 総じて、現時点で頭の中にあるコンサートの候補曲はこんな感じだ。

●バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタホ短調BWV1034の第3楽章アンダンテ(原曲ト長調を短3度移調して変ロ長調に)
●バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタホ長調BWV1035(原曲ホ長調を短3ど移調してト長調に)
●バッハ:ヴァイオリンとオブリガートチェンバロのためのソナタハ短調BWV1017(ニ短調に移調された北御門文雄編曲の楽譜を使う)
●ヴィターリ:シャコンヌ(リコーダー用の編曲譜を持っている。ニ短調)
●モーツァルト:きらきら星変奏曲(リコーダーと鍵盤楽器のために編曲した楽譜を持っている。すでに何度か人前で吹いている。ハ長調)
●モーツァルト:フルート協奏曲ニ長調の第1楽章アレグロ(何年か前に自分でリコーダーと鍵盤楽器用に編曲した。ヘ長調)
●オトテールのリコーダーソナタか無伴奏プレリュード
●シェドヴィル:ソナタ集《忠実な羊飼い》第6番ト短調

 ヘンデルとテレマンが入ってないな。でも、一般のプロやアマチュアのリコーダーコンサートであまり聞かれない曲をやりたいという気持もあるので。必然的に編曲物が多くなる。
 その頃には尺八も少しはうまくなっていると思うので、尺八本曲を一曲入れてもいいかも。
 半年ぐらいのあいだに概ね固められば良いと思う。

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●山手樹一郎『恋風街道/山手樹一郎長編時代小説全集2』(1978年、春陽文庫)

 《山手樹一郎長編時代小説全集》の第2巻を再読した。といっても、最初に読んだのは何十年か前なので、内容は全然覚えていなかった。

 カバー折り返しの「作品案内」によれば、『恋風街道』ははじめ『戊辰進軍譜』というタイトルで出版された。Wikipedia によれば1941年(昭和16年)、春陽堂から刊行されている。太平洋戦争が始まった年だ。『桃太郎侍』は1948年の作品だから、それより七年も早い。

 原タイトルが示すように、戊辰戦争の時代を背景としている。主人公は高梨雄太郎。和泉雄助という変名を使い、官軍の密偵として、幕軍が秘かに計画しているという火薬製造所を探るために江戸へ向かう。その途中、暴漢に襲われている女を助けるが、実はその女は自分の許嫁の露であった(二人は互いに顔を知らない)。

 山手文学の定形を踏まえた上質のエンターテインメントになっている。主人公の高梨雄太郎は、桃太郎侍と同じく、危機に遭っても冷静沈着で余裕があり、温厚で、人情に厚く、腕が立ち、女にもてる。雄太郎に惚れる女としては、「清純派」の露と「妖艶派」の栄がきちんとそろっている。

 主な登場人物。数字は頁数。

高梨雄太郎(和泉雄助):主人公。官軍の密偵として火薬製造所の情報を探るために江戸へ出る。2
露:高梨雄太郎の許嫁。父は西岡敬太夫。27
栄:美貌の旅芸人。七変化のお栄。唐津屋重兵衛を敵と狙う。65
粂:お栄の供。剣投げの芸人。お栄に惚れている。65
大和屋武五郎:薩摩の御用をきく人入れ屋。実はお栄の腹違いの兄。99,326,390
中村歌八:女芝居の座頭。お栄の姉貴分。306
豊吉:高梨家の老僕。340
中村半次郎:薩摩藩の名物男。18
   ◇
大篠範之助:幕軍奥詰銃隊の歩兵指図役。高梨家の隠し財産と露を狙う。36
源助:米沢町の源助、米源。岡っ引き。範之助の手先。46
品:甲塚道之進の馴染みの女。源助の養女。376
唐津屋重兵衛:日本橋の海産問屋。お栄の敵。70
佐久間慎助:新徴組の剣客。111
柳銑八郎:小田原藩の佐幕党の中心人物。112
赤沢大五郎:新徴組副将。215
光:唐津屋重兵衛の娘。277
今川小路:謎の貴公子。実は元陸軍奉行の松平源太郎。幕府好戦派の中心人物。297,421
新城忠之進:主戦派血盟組の大将格。325
   ◇
甲塚道之進:高梨雄太郎の幼馴染み。帰順派。オランダの火薬機械組立主任。350

 作者の視点は主人公と同じ官軍の側にある。この点は大衆小説・時代小説としてやや珍しいのではないか。

 幕府軍側は、わかりやすく、概ね悪者として描かれているが、好戦派と帰順派をきちんと分けて書いており、帰順派は悪者には描いていない。

 私はあまり不満には感じなかったが、結末は中途半端といえば中途半端だ。最後に勝海舟が突然という感じで出てきて話を収めてお開きとなるのだが、例えば、高梨雄太郎と露はどうなったか、高梨家の隠し財産は…、雄太郎に惚れていた栄は…、高梨家の財産と露を狙う悪人である大篠範之助は…、官軍幕軍の間を立回り利益を得ようとした商人唐津屋重兵衛は…といった点について何も書かれていない。

 こんなに中途半端なのに、なぜ私は不満に感じなかったのだろう。うーん、おそらく作者としては「面白い筋立てを提供したのだから、もういいでしょう?」と思っているのではないか。そんなことをうすうす感じたので、不満を覚えなかったような気がする。仮に上記の点について収まりをつけても、まあ、そこで新たな感動なりカタルシスなりを感じるというようなこともなかったと思う。

 章立てをメモしておく。数字は頁数。

 峠茶屋 2
 離合 28
 かたき同士 54
 箱根越え 81
 警戒線 107
 暗雲去来 133
 城外 159
 雨の宿 185
 銃声 211
 江戸のやみ 240
 戦雲 271
 血盟組 301
 古庵 340
 血闘 367
 命あらば 404
 柳屋敷 427
 希望 455
 
 「わが師を語る」(松永義弘)

 東京は最高気温36度という猛暑の中、コンサートで楽しい時間を過ごした。8月3日19時から、近江楽堂で開催された『甘き歌声、天使の響き ソプラノ、リコーダーと通奏低音によるバロックアンサンブル』に行って来た。

 ソプラノ:中原智子
 リコーダー:田中せい子
 リコーダー:ダニエレ・ブラジェッティ
 バロックチェロ:懸田貴嗣
 チェンバロ:松岡友子


 曲目と簡単な感想は次の通り。

1、ブクステフーデ:かくしてモーゼは荒野で蛇を持ち上げた
 全員。
 カンタータ、だと思うのだが、特に書いてないなあ。楽しい。美しい。
 古楽のコンサートではいつも思うのだが、聞き始めは音量が小さく感じる。だが、一曲聞き終わるころにはそういう感覚が解消されて、細かいところも聞けるようになる。今回もそうだった。

2、ボノンチーニ:ソプラノ、リコーダーと通奏低音のためのカンタータ《私の愛しい人、美しい宝よ》
 世俗カンタータ。リコーダーはブラジェッティさん。
 女性が男性に惚れて、言い寄るが、なびかないので諦めちゃう、という内容。レチタティーヴォを挟んで2曲のアリア。内容を反映して中原さんがブラジェッティさんに言い寄るが、ブラジェッティさん反応なし。生真面目な人なんだなあ。日本人かッ。

3、アレッサンドロ・スカルラッティ:チェロと通奏低音のためのソナタ ニ短調
 懸田さんが「とても短い曲で、繰り返しなしだと3分で終わっちゃう。それで繰り返しを行って4分ぐらいに伸ばした」と説明し笑わせた。4楽章構成(ラルゴ、アレグロ、ラルゴ、ア・テンポ・ジュスト)で、どの楽章も美しく、短さも、長さも感じなかった(つまり、十分な内容があって堪能したし、退屈さも全く感じなかった)。7〜8分あったんじゃないのかな。

4、アルカンジェロ・コレッリ(シックハルト編曲):トリオソナタ第9番 ヘ長調〜合奏協奏曲第6番
 コレッリの合奏協奏曲をシックハルトが、2本のリコーダーと通奏低音のために編曲したもの。一曲をそのままアレンジしているのではなく、あちこち継ぎ接ぎしているらしい。
 ブクステフーデでは田中せい子さんがコンサートマスター役(曲の開始、音の切りどころなどを指示)だったが、ここではブラジェッティさんがその役を務めていた(と思う)。おそらく上のパートを担当した人が務めているのだろう。

  休憩

5、バッハ:カンタータ第208番《楽しき狩りこそ我が悦び》BWV208より、レチタティーヴォ「ならばこのノラスの捧げものが」とアリア「羊は憩いて草を食み」
 全員。
 登場した中原さんは、真っ白なドレス、左胸に大きめの植物のコサージュ。ディアナの女神が登場したかと思った。
 とても美しいアリアで、演奏も良かったが、もう少し遅いテンポのほうが私の好みだ。中原さんももう少し遅いテンポで歌いたいのではないかと思った。2本のリコーダーは速いテンポながら、よくニュアンスを出していて、勉強になった。
 この演奏は私の感覚でも十分に許容限度だったが、以下一般論として。バロック時代(たぶん古典派ぐらいまで)はテンポが速かった、という文献があるらしく、なんでも速いテンポで演奏するのが流行っているが、そのために細かい表情が脱落してしまうことがあるのを否定できない。今後はこの流行に歯止めがかかって、程よいところに落ち着くのではないかと思う。私個人としても、年をとったせいか、あるいは能に傾倒していることの影響があるのか、「遅いことによる強度の高さ」にとても魅力を感じている。

6、クープラン:恋のうぐいす
 チェンバロ。
 リコーダーやフルートで演奏するこの曲は、私はもう飽き飽きして面白くもなんともないのだが、本来のチェンバロでの演奏は逆に新鮮で素敵だった。

7、ラモー:アリエッタ《恋のうぐいす》〜抒情悲劇《イッポリートとアリシー―》より

 全員。
 クープランの曲と同じ題名だということで選曲した、と。内容的に関係はないようだ。リコーダーの動きが素敵。鳥の声を模したり、ソプラノと近い音域でハーモニーを聞かせたり。そのほか通奏低音なしの部分があったりして、聞かせどころいっぱいの楽しい曲だった。

8、テレマン:2本のリコーダーのためのソナタ第2番 変ロ長調
 名曲の名演奏。ニュアンスたっぷり。音程、アインザッツ、装飾、音の自由度、文句ありません。
 良いデュエットというものはエッチなものだと思うが、まことにエッチな演奏であった。

9、ヘンデル:めでたし天の女王
 全員。
 最後はヘンデル。この構成が憎い。歌わせ屋の、酔わせ屋の、泣かせ屋のヘンデル。はい、酔いました。

10、アンコール曲
 アンコールで一曲演奏したのだが、曲名忘れた。パッヘルベルのカノンのように、通奏低音が同じ音を繰り返した上で展開されるパッサカリア形式の曲。通奏低音は6つの音で構成されていた。楽しく、美しい曲。

 全体に、変化に富んだ選曲、どれも楽しく美しく粒ぞろい、演奏も工夫が凝らされていて、たっぷりと楽しい一夜を過ごさせていただいた。
 中心となった中原さんは、澄んだ明るい声、完璧なメリスマの持ち主で、表情豊かでなおかつ知的な音楽を聞かせてくれた。
 これで外が暑くなければもっと良かったのだが。まあこれはしょうがない。

甘き歌声天使の響き01
甘き歌声天使の響き02

 昨日(2018.7.2)桂歌丸師匠が亡くなった。81歳であった。
 
 入退院を繰り返して「そろそろ覚悟が必要なのか?」と思わざるを得ない状況にあったとはいえ、まぎれもない落語界の「顔」であり、芸と人柄について内外の信頼が抜群だった方だけに、やはり衝撃は大きい。

 この際、追悼の意味も込めて、私の歌丸師についての印象をメモとして書き留めておきたい。

 歌丸師は横浜真金町の遊廓に生まれた。廓噺の舞台にもなっている遊廓を内側から知っている点は、落語家としての強味であろう。

 しかし、芸風はまじめで、口調もどちらかというと硬い口調である。『笑点』でも回答者だった頃は、政治ネタをよく取り上げて“硬い”印象があった。本人も「師匠(=米丸)のは柔らかい口調、あたしの口調は、どっちかというと今輔口調ですよ。」(桂歌丸『極上歌丸ばなし』2006年、うなぎ書房、P.89)と述べている。

 報道で「女の描き方が抜群だった」と述べていたが、正直に言って歌丸師の女がとりたてて良いとは思わなかった。もちろん悪いわけではないが、特に良いわけでもなかった。理由は口調が硬いからである。本人も苦手意識があったのではないか。十八番の一つにしていた「紙入れ」の女も、私は良いとは思わない。

 『笑点』第一回からの出演者として広く顔と名前を知られている。一般的な知名度と信頼感は落語家の中でも群を抜いている。

 若い頃は新作落語を中心に演じていた。しかし、昭和49年に横浜・三吉演芸場で独演会を始めたころから古典落語に力を入れ始める。それが一般人にも意識されるようになったのは、昭和52年に初演した「おすわどん」あたりからのようだ。古典に力を入れるようになった理由について本人はこう書いている。

> 自分で独演会をやるについては、新作だったらとても保たない、それなら古典だ、今輔師匠から、新作やるにしてもまず古典が土台だって言われて教わっているんだから、古典でやってみようと思ったのが、三吉の始まりなんです。(『極上歌丸ばなし』P.113)

 五代目柳家つばめは、著書『創作落語論』の中で、新作落語家は疲れる、と述べている。生涯にわたって新作落語家を貫くことは至難の技なのだ。歌丸師は(おそらく直感的に)そのあたりのことを悟って、古典派に方向転換したのだ。そしてその先に圓朝物があった。この転身は成功だったと思う。

 私は歌丸師の「おすわどん」が好きだ。昭和52年7月31日、三吉演芸場で初演。歌丸自身が資料をもとに復活上演させた噺。五代目三遊亭圓楽師とネタ交換し、圓楽師からは「城木屋」を教わったそうだ。
 幽霊の正体を見極めるためにヤギュウ流の使い手を頼む場面で、「ヤギュウ流といっても野の牛と書く野牛流」というくすぐりを繰り出す。このばかばかしいくすぐりが歌丸師の口から発せられると、何ともチャーミングで素敵なのだ。硬質な口調だからこういのが生きるのだ。取材したときに「師匠の野の牛と書く野牛流というくすぐりが大好きなんです」と言ったら、嬉しそうに笑っていたっけ。

 「鍋草履」も楽しかった。六代目春風亭柳橋が演じていた噺。いわゆる「逃げ」といって、あまり力を入れずに演ずることのできるネタだという。芝居小屋が舞台となっている。

 「姓名判断」は有崎勉作の新作落語。高度経済成長期の空気を感じさせるナンセンスな噺だ。こういう歌丸師も大好きだった。一般には圓朝物に代表されるような重厚で深遠な印象があるかも知れないが、歌丸師のこうした軽さやばかばかしさには大きな魅力があった。

 その歌丸師の圓朝物だが、やはり良かった。確かな成果を上げていた。高座の照明を落として演じていると、ふと圓生師に見えることがあるほどだった。ただ、だいぶ以前のことだが、ほんの小さな違和感を覚えたことがある。『真景累ヶ淵』で、深見新五郎の新五郎を、昆虫のゲンゴロウのようなイントネーションで述べていたのだ。私の感覚では新五郎は小泉進次郎の進次郎のようなイントネーションだと思う。まあ、これは私と歌丸師との感覚が違うということに過ぎないのかも知れない。ちょっと新しい感覚なのかな、とも思った。

 落語芸術協会の会長は、歌丸師が就任して落ち着くべきところへ落ち着いた感があった。桂米丸会長時代が長く続いたあと、十代目桂文治師が就任したが、文治師は天真爛漫な方なので、不安定さが感じられた。七十周年記念興行のトリの高座を抜いたり、ね(^_^;)。内外の信頼が抜群の歌丸師は、名実ともに芸協の顔であった。

 何度かインタビューをさせていただいたが、忙しいなか時間を作って下さり、いつも丁寧に応対して下さった。歌丸師は話の端々にインタビュアー(つまり私)の名前を入れてくださる。「大友さんはご存じでしょうけれども…」というように。これは嬉しい。師の優しさ、お人柄であろう。こんな風に応対して下さったら、ますます好きになってしまうし、尊敬してしまう。玉置宏さんもそうだった。考えてみれば、玉置さんと歌丸師は、横浜にぎわい座の初代と二代目の館長だ。にぎわい座館長は人格者がなるってことかな。

 歌丸師はいかにも長老然としていたが、歌丸師の師匠の桂米丸師匠がご健在だ。若い人にも丁寧な応対をされるところは、五代目古今亭今輔→米丸→歌丸と、師弟を継承してきた「門風」なのかも知れない。歌丸師がここまでになれたのも、米丸師の優しさと包容力の大きさがあったからこそだと思う。マスコミ各社は米丸師に取材すべきだ。

 今はただ歌丸師匠のご冥福をお祈りするばかりである。合掌。

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