芸の不思議、人の不思議

大友浩による「芸」と「人」についてのブログです。予告なくネタバレを書くことがあります。

「ETV特集」はできるだけ見ようと思うのだが、つい見逃してしまう。放送が不定期的だし、公式サイトの予告が間際のことがあって、チェックし損なうことが多いのだ。

今回はちゃんと録画できた。

●ETV特集 第252回 2008年12月14日(日)
「加藤周一1968年を語る 〜「言葉と戦車」ふたたび〜」


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 12月5日、評論家の加藤周一さんが89歳でなくなった。
 幅広い知見、国際的な視野から日本文化を見つめ直す評論活動を展開。人間の自由について考え続けた戦後民主主義を代表する知識人であった。
 その加藤さんが入院直前の今年夏、「どうしても語りたいことがある」と病をおして、2日間インタビューに応じた。そのテーマは1968年であった。
 今からちょうど40年前の1968年。激動が全世界を覆った。チェコの民主化運動「プラハの春」で幕を開け、パリ五月革命、シカゴ暴動、東大安田講堂の封鎖など、若者たちによる異議申し立てが世界中に広がった。
 加藤さんは、60年代後半、教鞭(べん)をとっていたカナダやアメリカの大学で、社会に不満を募らせていく若者たちを目の当たりにしていた。そして1968年、五月革命に揺れるパリでサルトルと議論を交わし、東欧では、自由な空気に酔うチェコスロバキアの市民たちに接する。しかし、その直後、ソ連の戦車がプラハに侵入。救援を訴えるアナウンサーの姿を地下放送で見て衝撃を受けたという。その体験は著作「言葉と戦車」にまとめられ、権力とそれに対峙する言論の問題を考え抜くことになる。
 そして、今、アメリカでは「60年代に崩壊した道徳と秩序の回復」を重要な政策に掲げたブッシュに代わり、「Change!」を訴えるオバマが初の黒人大統領に当選・・・。加藤さんはそこにパリ5月革命と同様、変革を求める人々の声を聞いた。そして日本には68年と同様に「閉塞感」が社会に広がり、これに不満を抱く若者たちの姿があった。
 「1968年、社会を覆っていた閉塞感は、20世紀から21世紀に積み残されている」と加藤さんは言う。
 1968年、世界の若者たちはなぜ反抗したのか?
 世界が未曾有の恐慌におびえる今、あの年の問いかけが私たちに問いかけるものとは…
 番組では、「プラハの春」を中心に加藤周一さんの見た1968年を再構成。
 評論家・加藤周一が、“68年”を通して今に遺(のこ)したラストメッセージを伝える。
(NHKサイトより)

なかなか面白かった。内容は、まあ、この紹介文の通り。

やはり「言論」ということが印象に残った。言論は、無力に思えるときもあるが、そう捨てたものでもない、と加藤さんは言う。

戦争は物理的な紛争のように思いがちだが、言論のない戦争はない。なるほどと思った。

「言論」という言葉は、手垢のついたもののように感じていたが、なにか新しい新鮮さをもって立ち上がってくる感じがした。

きのうは池袋で宝井琴調師にお話を伺った。ついでに古本屋に寄ったら、通りに面した210円の棚に、日本放送協会編『続 発声と発音/NHK国語講座』(宝文館)という本が目にとまった。パラパラめくってみるとなかなか面白そうなので買ってきた。

> 生まれつきの片輪でない限り、人間は大体同じような声を出す器官を持っておりますから、普通の声は出るわけであります。(P.30)

なんて書いてある。NHKが編集している本なのに。発行は昭和32年。このころはまだこういう感覚だったんだな。

「どもりの矯正」なんて章がある。

「どもり」「どもる」って、今はいわゆる放送禁止用語だっけ? 名詞は「吃音(きつおん)」と言い換えるらしいが、動詞はどうするんだろう?

この本にも「吃りぐあいという面からみますと」なんて言葉が出てくる。「吃音の程度・態様という面からみますと」なんて言い換えるのかな。次郎長に出てくる「ども安」はOKなのか?

だいたい和語を漢語に置き換えただけで何が変わったのか、よくわからない。

もっとも放送業界や新聞業界の自主規制に100%反対というわけではない。人が傷つくような言い方は避けたほうがいいと思う。ただ、そういうものを権力的な機関が一律に決めて、杓子定規に適用されると、そこにまた新たな火種が生まれる。

「きちがい」とか「めくら」といった言葉が日常会話の中で出てくるとドキッとするようになってしまったのは、明らかにこれらの業界自主規制が作り出した感覚である。

●『ビッグ・フィッシュ』(ティム・バートン監督、2003年、アメリカ)

> 鬼才ティム・バートン監督がダニエル・ウォレスのベストセラー小説を映画化。自分の生きてきた人生をありえないおとぎ話のように語る父と、そんな父を受け入れられない息子のかっとうと和解を描いた感動ドラマ。母から父の容態が悪化したという知らせを受け、妻とともに数年ぶりに故郷へ向かったウィル。病床でも相変わらず魔女や巨人が出てくる話をする父だったが、話の一部を裏付ける物を見つけたウィルは・・・。(NHKサイトより)

なかなか良かった。

父の死に際して、父を理解するという問題にぶつかる。そういう映画。

だから、「父の死」と「父の理解」が二つのキーワードになっている。

ウィル・ブルーム(ビリー・クラダップ)の父エドワード・ブルーム(若い時代をユアン・マクレガー、老年をアルバート・フィニー)は、ほら吹きで、大言壮語癖があり、お調子者で、現実を見ずに夢を語ってばかりいる。ウィルは、父に地に足をつけて生きてほしいと望んでいるが、父は生き方を変えようとはしない。ウィルは「父が好きか?」と問われて、口をつぐむのだった。

しかし、父のことを調べていくうちに、だんだん父のことを理解するようになっていく。父がもっぱらほらばかり吹いていたのでないことも。

最後の場面は、父の葬式の風景だ。これがまたいい。

父のほら話に登場した人物たちが本当に現れるのだ。身の丈3メートルの巨人とか、著名な詩人で銀行強盗をした男とか…。

ふと見ると、やはりほら話に登場した美人のシャム双生児もいる。横を向いて、サーカスの仲間と話している。顔が二つ見える。やはりシャム双生児はいたんだ…と思いきや、一つの顔がすっと離れていった。

ちょうど体が重なり、顔が少しずれるような角度から見ていたためシャム双生児に見えたのだが、双子の姉妹だったのだ。

これは技ありのショットだ。「シャム双生児はいた」=「ほら話は本当だった」と思わせておいて、「普通の双子だった」=「ちょっと誇張が混ざっていた」ということがわかる仕掛けになっているわけ。素晴らしい。

全体に、ティム・バートンらしいおとぎ話的な味付けが利いていて、しみじみと良い映画だと思う

ティム・バートン監督のものはこれまでに、『シザーハンズ』(1990年)、『エド・ウッド』(1994年)、『コープスブライド』(2005年)を見たが、どれもそれぞれに良かった。あと、手元に『ビートルジュース』(1988年)があるので、これもそのうち見てみよう。

7〜8年前になるだろうか、地下鉄東西線で鈴木清順と出くわしたことがある。具体的な状況は忘れたが、斜め前の席に鈴木清順が座っていたのである。車両はすいていて、ほとんど二人しかいなかった。

声をかけるような勇気もなかったが、チラチラと盗み見ては、ドキドキした。

●『けんかえれじい』(鈴木清順監督、1966年、日本)

> 昭和初期、岡山中学の南部麒六は、“けんかキロク”とあだ名されるけんか好きで、下宿屋の娘・道子に思いを寄せながら日々けんかに明け暮れていた。配属将校に立てついて放校となり会津に転校するが、そこでも硬派集団の頭にのし上がり、敵対集団との大一番に挑む。初恋に悩み、一本気に生きる熱血青年を高橋英樹が好演、アクションとユーモアあふれる鈴木清順監督の青春映画の代表作。(NHKサイトより)

鈴木清順の映画は、見終わったあとにいつも不思議な感触が残る。「何なんだろう、この映画は…?」という、つかみどころのない感覚。

道子が会津に訪ねてくる。なんと長崎の修道院に入ると言い出す。失恋のショックさめやらぬ麒六は、駅で二・二六事件の報に接する。首謀者である北一輝の写真を見た麒六は、それが少し前にカフェで顔を見た男だと気がつき、東京行きの汽車に乗る。

これが物語の結末である。言っておくが、それまでの経緯において、思想的な要素を匂わせる場面はまるでない。唐突な結末である。端的にいえば、前半と後半とで、とてもちぐはぐな感じなのだ。前半と後半だけでない、個々の場面はそれぞれ意味ありげなのだが、場面と場面との関係にほとんど整合性がないのである。

要するに、細部が全体に収斂していかないのだ。全体の中にある役割というか機能を担って細部があるのではなく、ただ細部だけがあって、それが何となくつながっているだけという感じ。

だから、鈴木清順の映画は面白いし、見ていてドキドキする。

abfebeee.jpg今日は娘のピアノ教室の発表会だった。例によって小生もゲスト出演。
娘の曲目はドビュッシー「アラベスク」。親バカだけど、かなり良かった。
小生は、チャイコフスキーのピアノ曲集「子どものアルバム」から4曲をリコーダーとピアノ用に編曲したもの。体調悪かったが、まあまあそこそこ。

その後も「刑事コロンボ」は毎週見ている。以下メモ。

●2009年1月10日(土)午後8時00分〜9時16分
「指輪の爪あと」 DEATH LENDS A HAND
 犯人役=ブリマー:ロバート・カルプ
 演出=バーナード・コワルスキー
新聞王ケニカット氏から彼の妻の浮気調査を依頼された探偵社社長ブリマーは、調査の結果、夫人は潔白だとうその報告をする。その代償として実は浮気をしていた夫人を脅迫するが、要求を断られ逆上したブリマーは夫人を殴りつけ殺害。死体を町のはずれに遺棄し物取りの犯行に見せかけた上、捜査に協力を申し出る。コロンボは妻のほほに残された傷あとから真犯人に気付き、手ごわいブリマーのしっぽをつかむためわなを仕掛けた。

●2009年1月17日(土)午後8時00分〜9時38分
「権力の墓穴」 A FRIEND IN DEED
 犯人役=マーク・ヘルプリン:リチャード・カイリー
 演出=ベン・ギャザラ
コロンボの上司でもある警察幹部ヘルプリンは、向かいに住むヒューが妻を殺害した際の偽装工作に協力。近ごろ近所を荒らしている常習犯の犯行という線で自ら捜査を指揮する。その後、妻のばく大な資産欲しさに彼女を殺害、ヘリコプターで自宅上空を夜間警備中、何者かに妻が殺害された悲劇の夫を演じる。ヒューも巻き込んだこの計画は見事に成功したかに見えたが、コロンボは2つの殺人事件のわずかな矛盾点も見逃さなかった。

最後の最後で決定的な証拠(視聴者に対しても隠されている)を突き出す、鮮やかな一編。これぞ『刑事コロンボ』。

●2009年1月24日(土) 午後8時00分〜9時38分
「野望の果て」 CANDIDATE FOR CRIME
 犯人役=ネルソン・ヘイワード:ジャッキー・クーパー
 演出=ボリス・セイガル
投票日を間近に控えた上院議員候補ヘイワードは、脅迫状を受け取ったが決して屈しないとマスコミに発表。実は選挙参謀ストーンが考えた票稼ぎのやらせだったが、ヘイワードはこれを利用して何かと邪魔になってきたストーン殺害計画を決行する。ち密に練った計画は見事成功、ヘイワードの上着を着て射殺されたストーンはヘイワードに間違えられて殺されたかに見えたが、コロンボによって万全だったはずの決定的証拠が崩されていく。

上院議員候補のヘイワード(ジャッキー・クーパー)は、妻の秘書である若いリンダ・ジョンソン(ティシャ・スターリング)と愛人関係にある。当然、妻との関係は表面上のものに過ぎない。選挙参謀ストーンは、ヘイワードとリンダを別れさせようとしている。

物語の序盤、ストーンを殺したヘイワードが自宅に戻り、物陰から妻を襲うかに見せて、妻の誕生日のびっくりパーティが始まる場面がある。これは視聴者を騙すためだけの仕掛けで、あざといけれども、あった方が面白い。結末の鮮やかさは中の下ぐらい。

BS2の『ミッドナイトステージ館』で、太田省吾の『小町風伝』を見た。とても面白かった。

●転形劇場『小町風伝』

 作・演出:太田省吾
 出演:品川徹、瀬川哲也、大杉漣、佐藤和代、鈴木理江子
 1984年転形劇場公演、青山鉄仙会能楽研究所で収録
 (2008年10月18日(土)、BS2:ミッドナイトステージ館)

 岸田戯曲賞を受賞した太田さんの代表作のひとつですが、戯曲の賞であるにもかかわらず、主演の女優さんがひと言もしゃべらない!、ということで当時話題になりました。この作品は能舞台で上演されたのですが、最初の段階では台詞はたくさんあったにもかかわらず、能舞台という場所の力に現代語では太刀打ちできないと感じた太田さんは、主人公からいっさいの言葉を奪ってしまったのです。
 物語は、能で「小町もの」と呼ばれる、小野小町の零落した晩年を題材にしています。古アパートの一室で呆然と日々を送る一人の老婆。彼女にとって、もはや現実と幻想は等しく、かつての恋の思い出とアパートの隣人や管理人たちは同一の世界にいます。いや、現実に直面するよりはかえって幻想の世界に逃げ込むほうが居心地がいいのかもしれません。老婆はエディット・ピアフの「薔薇色の人生」に耳を傾けながら、自分の世界に閉じこもっていきます。
 主演の佐藤和代さんの集中力に満ちた演技が見ものです。(NHKサイトより)

冒頭、揚げ幕から登場した老婆(佐藤和代)が、足の指だけを使って橋掛かりを進んでくる。舞台にたどり着くまでに40分かかるそうだ。この映像ではそこはほとんどカットされていたが、渡辺保と高泉淳子の対談で言っていた。

この途方もなくゆっくりとした歩みは、この演劇の時間の進行を措定する。つまり、スローモーションのように拡大された形で物語上の時間が進行する。この時間進行の上に、老婆の現実と幻想とが交錯する。

この登場の仕方を能に引き比べる向きがあるようだが(題材も、舞台空間も、能によっているのだから当然といえば当然のことだろう)、渡辺によれば、能とは全く違う。能における橋掛かりの登場は、あの世からこの世への移動であり、能役者はすり足という土台の上に、どのような演技もできる上半身を乗せて登場する。これに対して、『小町風伝』における登場の仕方は、この世における時間進行の拡大を意味している。

現代演劇において役者の身体ということを突き詰めて考えているのは、太田省吾と鈴木忠志だろう、と渡辺は言う。そして、太田と鈴木とは身体論としても対照的だと。鈴木の身体論は、すり足をはじめとして能に多くを負っている。

ところで、足指進行による登場は、また別の効果があるように思う。それは観客の心理に与える効果だ。

とほうもなく遅い歩みを目にした観客は、舞台に着くまでにどのぐらいの時間がかかるだろうかと心配になる。そして、どうやら最後までそのまま進むようだと悟ったとき、ある種の諦めが生まれるだろう。「この遅々とした時間進行に付き合うほかない」と。

また、舞台にたどり着いて物語が動き出したとき、役者の発する言葉がとても新鮮に聞こえた、という意味のことを高泉淳子が言っていた。役者が舞台で言葉を発するのはあたりまえだが、そのあたりまえのことが新鮮だったと。

音楽は、エディット・ピアフの「薔薇色の人生」のほかに、拡大された時間進行を示すものとして、ヴィヴァルディのソプラニーノ協奏曲イ短調の1楽章が遅回しで使われていた。2度出てきたので、重要なものとして扱われている。

人が生きた時間、あるいは、生きた実感とは何か、日常の何気ない行為、例えばお茶を飲むことの中に、そうした実感を再確認しようというモティーフが一方にはあると思われる。隣家の息子(大杉漣)は、「行ってきま〜す」という言葉を“何気なく”言うことができずに、父に叱られる。

もう一方には、現実と幻想の交錯、いいかえれば、現在と過去の交錯、生と死の交錯の中でこそ、生が意味をもつという認識があるのだろう。こちらがメインテーマであり、「小町」という題材はそれ故に選ばれたわけだ。

能において小野小町は、多く零落した老婆として登場する。『小町風伝』の老婆は、小野小町そのものではないが、風によって(血によってではなく)小町を受け継いだ者である、という説明がなされている。

大阪の町工場などが寄ってたかった作ったロケット「まいど1号」の打ち上げ成功は、まことに感動的だ。ネーミングもいいね。

●『ピノッキオ』(ロベルト・ベニーニ監督、2002年、イタリア・アメリカ)

> ジェペットじいさんが丸太で作ったピノッキオは、自由に動ける不思議な人形。街に出ては騒ぎを起こし、うそをつくと鼻が伸びてしまう。そんな彼の願いは、いつか本物の人間になることだったが…。世界中で愛されている童話の主人公「ピノッキオ」の誕生120年を記念して、原作に忠実に映画化。「ライフ・イズ・ビューティフル」のロベルト・ベニーニが、監督・脚本・主演を務めた、愛と冒険のファンタジー超大作。(NHKサイトより)

 吹替版。映画としてはあまり面白くなかった。
 まずユースケ・サンタマリアの声がよくない。ある程度アドリブを許した、というか、アドリブに託した吹替だが、失敗だと思う。ユースケの責任というよりは、キャスティングにあると思う。
 主役のロベルト・ベニーニ。名優なのだろうが、生え際の後退したピノキオはやはり違和感がある。

 原作に忠実の由。ピノキオがコオロギを叩き殺す場面があったり、ピノキオを呑み込むのが鯨でなく鮫だったりする。

 ピノキオという物語は、子どもの目で見た論理で構成されている、ということに気づかされた。例えば、宿題をやるかやらないか、「いい子」であるかどうかが、物語の重要な要素になっていたりする。

 物語全体としては、「親孝行をすること」「いい子になること」を教えるという寓話になっている。

今日は仕事で二人の方とお会いした。新宿で寄席囃子のYさんと会い、その後、浅草で日本舞踊の花柳達真さんと。

Yさんにはふだんから仲良くしていただいているが、改めて話を聞いてみると、これまで実にいろんなことをやってきていて、また沢山のことを考えているんだなあと、つくづく感心した。詳しく書けないのが残念。

花柳達真さんは、「藝○座(げいまるざ)」という舞踊集団を率いている若き舞踊家。前向きで、熱くて、とても素敵な方だった。

●『ピーター・パン』(P・J・ホーガン監督、2003年、アメリカ)

> 誰もが知っている古典ファンタジーを原作に忠実に実写映画化。アニメではなく少年がピーター・パンを演じるという今までにない試みと、少女への恋心を色濃く描いた演出で、ドラマチックな物語に仕上がった。小説家を夢みる少女ウェンディは、ある晩、不思議な少年と出会う。彼に誘われて、夢と冒険の国ネバーランドへと旅立つが・・・。ワイルドな海賊と厳格な父親を演じ分けたジェイソン・アイザックスの名演技にも注目。(NHKサイトより)

いまさらだけど、ピーター・パンは永遠の子ども。この物語は“成長”と向き合う子どもの不安な心を形象化したものだと思う。

余談だが、ジェイムズ・フックという作曲家がいる。ハイドンとモーツァルトの間ぐらいの人。1746年に生まれ、ベートーヴェンと同じ1827年に没している。リコーダー三重奏でこの人の曲を吹いたことがある。

●『ターザン』(ケビン・リマ、クリス・バック監督、1999年、アメリカ)

> 海難事故に遭い、アフリカの密林にたどり着いた英国貴族の親子。しかし両親は、ヒョウに襲われて死んでしまう。残された赤ん坊はメスゴリラに拾われ、ターザンと名付けられる。やがて立派な青年になったターザンは、密林にやってきたポーター教授の娘ジェーンと出会う。人間に初めて出会ったターザンは彼女に興味を持つが…。何度も映画化されてきた「ターザン」の物語をアニメ映画化。軽快な音楽も魅力の躍動感あふれる作品。(NHKサイトより)

面白かった。
ディズニー映画の例に漏れず、細部までよく作られていて、楽しませてくれる。

前半、ターザンがゴリラに育てられた事情が割合詳しく描かれる。「みにくアヒルの子」のように、ゴリラ社会では「有徴」の存在であるターザンの、有徴であるがゆえの葛藤が、上手にわかりやすく描かれている。

ターザンの顔は、肌の色が黒っぽく描かれていることもあって、ネイティヴアメリカンのような印象を受ける(もちろん物語上の設定はイギリス人なのだが)。ディズニーアニメはある時期から、主人公や重要な登場人物の顔に、アングロサクソン系の白人ではなく、種々の人種や民族の顔を使うようになっているように思われる。『アラジン』や『ポカホンタス』などは、内容がそれを要請しているのだろうが、それ以外でも「顔」については意識的につくっていると思う。時代の要請というやつだろうか。

小生が見たのはNHKで放映された吹替版だが、最近のディズニー映画は、歌もきちんとしている。しばらく前の吹替版は、声優がそのまま歌も歌っていて、明らかに歌のクォリティが落ちるものもあったが、最近ではその辺もきちんと配慮しているようだ。

ところで、ウィキペディアでターザン映画を調べてみると、1918年から1999年まで、45本の作品がリストアップされている(1966〜69年と1991〜94年に放映された二つのテレビシリーズも含まれているが、このディズニーアニメ版は含まれていない)。

いま仮にテレビシリーズとアニメを除外して全43本で考えると、1918年から68年まで毎年コンスタントに38本が制作されているのに、1970年代には全く作られず、1981年から99年まで5本が作られている。

1970年代がぽっかりと抜けているというのが面白い。ちなみに、制作本数を見てみると、1968年までの51年間で、年平均0.75本が作られているのに対し、1981年〜99年では年平均0.26本である。2000年から今日まで作られていないとして、1981年から2008年までの平均で考えると、0.18本とさらに低くなる。

1970年のブランクを境に、ターザン映画の作られ方が変わったのだと思う。小生の手元には、1930年代から60年代に作られた8本のターザン映画があって、一通り見ているが、やはりブランク前の作品は差別的である。白人がアフリカ系住民を撃ち殺して何の良心の呵責も感じていなかったりする。そもそもアフリカ系住民たちの描き方がまことにお粗末である。

それは良くない、ということになって、70年代にはターザン映画が作られなくなり、80年代に入ってから、新たな視点で作り直されるようになった、その際、制作側の熱意は以前より減じた、ということではないだろうか。

ターザン映画の変遷を、西部劇の変遷と比べてみても面白いかも知れない。

病院へ行ってきた。
撮ってきたレントゲンを見ながら、あれこれ説明してくださる先生。
どうやらヘルニアの兆候はないらしい。
で、出した結論は……。

「いわゆる腰痛ですね」

おっと〜。
思わず「葛根湯ですか?」と口走るところだった。
動きながら治すのが最近の考え方だそうで、とりあえず貼り薬だけもらってきた。
またいつ出るか心配だけど、まあ、その時はその時で。

●『アイス・エイジ』(クリス・ウェッジ監督、2002年、アメリカ)

> 氷河期がやってきた2万年前の地球。動物たちが一斉に南に移動する中、北に向かおうとするマンモス、マニーとお調子者のナマケモノ、シドは、仲間とはぐれた人間の赤ちゃんを発見する。2頭は赤ちゃんを家族のところに送り届けようと決心。そこに赤ちゃんを狙うサーベルタイガーのディエゴが言葉巧みに近づき・・・。動物たちの友情と冒険をユーモラスに描いた心温まるCGアニメーション。(NHKサイトより)

なかなか良くできたCGアニメ。ディズニー映画かと思いきや20世紀フォックス配給。
はじめは気が合わなかったり、敵対したりした3匹が、最後には「仲間」になるという類型的なストーリー。だが、細かい動きやギャグのアイディアが豊富で、楽しく見られる。“何を”よりも“いかに”なのである。

ギャグは、走り出すと何かにぶつかるなど、基本中心。だが、それがいい。

赤ん坊がかわいい。「純粋に守るべき存在」としてきちんと描かれているので、物語の中心たり得ている。

吹き替えは、マンモスが山寺宏一、ナマケモノは太田光、サーベルタイガーは竹中直人。それぞれ良かった。

●『アイス・エイジ2』(カルロス・サルダーニャ監督、2006年、アメリカ)

> 暖かくなり、氷河期が終わりに近づいた世界。マンモスのマニーと、ナマケモノのシド、サーベルタイガーのディエゴは、氷の壁に囲まれた谷で、たくさんの動物たちと一緒にのんびり暮らしていた。ところが楽園だと思っていた谷には大洪水の危険が迫っていた。危険を察知した3頭は動物たちに呼びかけ、谷の奥にある「船」を目指し再び旅立つことに・・・。生き残りをかけたスリリングな冒険をユーモラスに描いたCGアニメ。(NHKサイトより)

前作とは4年の間があり、監督も替わっているが、作風にブランクを感じさせない。

前作の氷河期に対して、こちらは地球温暖化。同じように面白かった。

なんでも今夏、第3作が公開されるとか。

今日は中目黒のスタジオでUSENの収録だったのだが、家を出て歩き出したら、突然腰痛が襲ってきた。

家で休んでいたいところだが、そういうわけにもいかず、腰をだましだまし中目黒まで。駅からスタジオまで、いつもは3〜4分の道のりが15分ぐらいかかった。

ちょっとしたはずみで痛くなる。左肩に鞄をかけ、右手に持っていた文庫本の入った袋を左手に持ち替えようとしたら痛くなったり…。

そういうわけで、夜は講談の予定だったのだが、とても行ける体調でなく、大人しく帰宅した。

明日、病院へ行きます。

●『ガス燈』(ジョージ・キューカー監督、1944年、アメリカ)

> 叔母を何者かに殺されてしまったポーラ。傷心の彼女は住み慣れたロンドンを離れ、イタリアで暮らすことに。やがて月日が流れ、結婚したポーラは、夫と共に相続した叔母の家で新婚生活を始める。ところが、ロンドンに戻ったとたん次々と不可解なことが起こり、ポーラは精神的に追い詰められていく…。主演女優のイングリッド・バーグマンに、オスカーをもたらしたサスペンス映画の古典的名作。アカデミー美術・装置賞も受賞。(NHKサイトより)

面白かった。
サイコ・サスペンスの名作だけのことはあって、全体がカッチリと組み上げられている。

そのほかにとりたてて感想はなし。こちらの想像力や思考力が沈滞しているということか。

ただ、ヒッチコックなら犯人(シャルル・ボワイエ)の心理をもう少し突っ込んで、恐ろしそうに演出するかな、と思った。

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