『詩集 逆鱗』以外のポール牧本7冊を全て読了した(うち2冊は再読)。
改めて発行年代順に並べてみよう。

『笑わせ者たちの伝説』(1987年、現代書林)
『笑道仏心 指パッチンの喜劇役者ポール・牧の半生記』(金井肇著、1992年、現代書林)
『指パッチン流色即是空』(1994年、ぴいぷる社)
『生きるための言葉』(1995年、河出書房新社)
『藝禅一如』(1997年、国書刊行会) ※「熈林一道」名義
『今日ただ今の命 さて、どう生きる!』(1998年、佼正出版社)
『指パッチン人生論』(2000年、世界文化社)
『詩集 逆鱗』(2002年、国書刊行会) ※「熈林一道」名義、未入手

ちょっと後悔したのは、発行順に読めば良かったなと。実際には全くでたらめな順番で読んでしまった。

これと前にアップしたポール牧略歴とを合わせてみたいのだが、その前に略歴の訂正版を。

1941年(昭和16):北海道天塩郡の生まれ(8月2日)。実家は曹洞宗の寺(道開寺)。
1951年(昭和26):10歳で得度。
1956年(昭和31):中学卒業後[※1]、秋田県大館市の王林寺で修行。後に出奔。
1958年(昭和33):喜劇役者を目指して上京。牧野周一門下に。後に破門。はかま満緒の下に通う。榎本健一の付き人となる。[※2]
1968年(昭和43):関武志と「コント・ラッキー7」を結成。
1979年(昭和54):「東京新喜劇」を立ち上げる。多額の借金を抱え込む。[※3]
1983年(昭和58):自殺未遂。
1984年(昭和59):関の死去により「ラッキー7」解散。
1996年(平成8):再得度(9月30日、静岡県袋井市・萬松山可睡斎)。「芸禅一如」をモットーにする。
2000年(平成12):セクハラ騒動。仕事激減。
2001年(平成13):離婚(6月)。[※4]
2002年(平成14):茨城県鹿嶋市に司友山一道寺を創建し住職に就任する。
2004年(平成16):再び還俗。
2005年(平成17):新宿区の自宅マンションから投身自殺(4月22日)。享年65(満63歳)。

※1 ウィキペディアには「高校卒業後」とあるが、中学卒業後である。
※2 師事した順序は、『指パッチン人生論』では牧野→榎本→はかまとなっているが、他の本では牧野→はかま→榎本という順に読める。
※3「東京新喜劇」の立ち上げは、ウィキペディアでは昭和50年、金井『笑道仏心』では昭和51年となっている。『藝禅一如』『今日ただ今の命』『指パッチン人生論』では昭和54年になっており、ここではこの記述に従った。
※4 「スポーツニッポン」(2005.4.23)に「01年6月には16年間連れ添った妻とも離婚し」とある。『指パッチン流色即是空』(1994年)で、千代子さんという名前をあげつつ、「ポールさんは、この方と巡り会うために、今まで、何度も離婚を繰り返してきたんでしょうね」という発言を紹介していることと合わせて考えれば、この離婚の相手が千代子さんだと推定できる。他方、「スポーツ報知」(2005.4.23)には「2002年に前妻と離婚して以降は一人暮らし」とあり、これが千代子さんのことなのか、千代子さんと離婚した後、さらに別の女性と結婚・離婚したのか、よくわからない。「サンケイスポーツ」(2005.4.25)には「4回離婚したポールさん」とあるので、結婚・離婚を4回くりかえしているようである。

さて、上記二つのリストを合わせてみよう。

1941年(昭和16):北海道天塩郡の生まれ(8月2日)。
1951年(昭和26):10歳で得度。
1956年(昭和31):中学卒業後、秋田県大館市の王林寺で修行。後に出奔。
1958年(昭和33):喜劇役者を目指して上京。
1968年(昭和43):関武志と「コント・ラッキー7」を結成。
1979年(昭和54):「東京新喜劇」を立ち上げる。多額の借金を抱え込む。
1983年(昭和58):自殺未遂。
1984年(昭和59):関の死去により「ラッキー7」解散。
  『笑わせ者たちの伝説』(1987年、現代書林)
  『笑道仏心』(金井肇著、1992年、現代書林)
  『指パッチン流色即是空』(1994年、ぴいぷる社)
  『生きるための言葉』(1995年、河出書房新社)
1996年(平成8):再得度。
  『藝禅一如』(1997年、国書刊行会) ※「熈林一道」名義
  『今日ただ今の命』(1998年、佼正出版社)
  『指パッチン人生論』(2000年、世界文化社)
2000年(平成12):セクハラ騒動。仕事激減。
2001年(平成13):離婚(6月)。
2002年(平成14):茨城県に一道寺を創建し住職に就任する。
  『詩集 逆鱗』(2002年、国書刊行会) ※「熈林一道」名義
2004年(平成16):再び還俗。
2005年(平成17):新宿区の自宅マンションから投身自殺(4月22日)。享年65(満63歳)。

ポール牧が最も輝いていたのは、「ラッキー7」結成から「東京新喜劇」立ち上げ前後ぐらいまでの時期だろう。劇団を立ち上げてからポールの運気がガクッと下がる。多額の借金を抱え込み、自殺未遂を起こし、関の死去が追い打ちをかけた。

本が出版されるようになるのは、その後の時期である。

谷底に突き落とされたポールは、そこから這い上がるために小説を書いた。ドサ回りのストリップ劇団に入った芸人の卵を主人公にしたこの『笑わせ者たちの伝説』は、自身の経験をベースにした自伝的要素の強い一編だ。

やがて演出家の金井肇が、ポールから聞いた話をまとめる形でポールの半生記を書く。ポール自身が正面からテーマになったものが出たわけだ。とても喜んだことがポールの文章のあちこちから見てとれる。

金井が平成4年(1992)に死去すると、ポール自身の手で自分をテーマにした本を書くようになる。『指パッチン流色即是空』以下の本は全てそういう性質のものだ(『逆鱗』は未読だが)。

平成8年(1996)の再得度は、兄の死を大きなきっかけにしている。兄道男は、幼くして東京の寺に養子に出されたが、養子であることは本人には隠されていた。ポールは上京して間もない時期に、兄のもとを訪ねて助けてもらおうとしたが、その際、兄に事実を告げた。それまではとてもグレていた道男だったが、事実を知ったことをきっかけに出家し、やがて立派な僧侶になった。その兄が亡くなったことはポールにとって大きなショックだったのだ。

したがって『藝禅一如』『今日ただ今の命』『指パッチン人生論』の3冊は、僧侶としての自身を強く意識したものになっている。ただし、前二著は僧侶らしく(?)固い文章で書かれているのにくらべて、『指パッチン人生論』は(タイトルからもわかるように)文体がまた柔らかくなってきている。これは俗気を取り戻しつつあることを示しているのだろうか。その後のポールの運命を暗示するように…。

一道寺の創建は、本来ならば平成12年(2000)中に完成するはずだったのだが、セクハラ騒動やその後の離婚などによって遅れたものらしい。セクハラ騒動、離婚、再びの還俗、自殺という晩年のポールの動きにとても興味があるのだが、私が読んだ7冊は全てその前に書かれているので、そこからはわからない。

しかし、各紙の訃報記事などから大まかな想像はつく。まず、自殺の原因が鬱病であったことはほぼ間違いない。

> 会見で甲斐氏は「うつ病です」ときっぱり話した。十数年前から軽いうつ病を患い、年1〜2回の通院治療を続けていたが、昨年になって不眠症がひどくなるなど症状が悪化したという。
(スポーツ報知、2005.4.23)

甲斐氏とは甲斐喜久男マネージャー。亡くなる10年前というと、再得度の少し前である。してみると、再得度自体が鬱となんらかの関係があったのではないかと想像できる。もう一つ注目すべき証言がある。浅香光代の発言である。

浅香は、自殺の約1ヶ月前の3月29日にポールからの電話を受けたという。

> 「いつもの明るい口調のポールさんじゃなかった。寂しそうな口調で、『一緒に仕事がしたい』と言ってたんです」
 ポールさんは10分ほど一方的に話をして、浅香さんに「6月12日の浅草公会堂公演で、20分でいいから一緒に仕事がしたい。付き人でもいいから雇ってほしい」と懇願したという。
(夕刊フジ、2005.4.23)

> 浅香さんは「『ダメだね。僧侶はバカバカしいね』と言っていたから、出家してから、それまでとは稼ぎの落差があったんじゃないですかね」と話し、ポールさんの金銭的に困窮した様子を沈痛な表情で打ち明けた。
(同)

金銭問題はなかったとする証言もあるが、こういうことはできるだけ隠そうとするものである。親しい人が知らなくても無理はない。だから、浅香に見せた顔が本当ではないかと私は思う。

これらを総合して私なりにまとめるとこんなことになるのではないか。

もともと感受性が強く不安定な性格のポールは、再得度する少し前から軽い鬱になっていた。軽鬱の原因はおそらく収入が減ってきたことではないだろうか。コント・ラッキー7の全盛期は数年で過ぎ、起死回生をめざして「東京新喜劇」を立ち上げるが、マネージャーの横領もあって財政的には破綻する。自殺未遂、関武志の死を乗り越えようとして本を出版するが、凋落に歯止めはかけられない。それで軽鬱になった。兄の死をきっかけに再得度して新しい人生を歩きはじめた。はじめのうちは精神的な安定を得られたものの、収入はさらに減った。ポールのもう一つの側面――嘘つきで、女好きというだらしない側面――が出て、セクハラ騒動を起こし、仕事はさらに激減。16年連れ添った妻とも離婚。茨城県に創建しようとした寺の運営もうまく行かない。鬱病は悪化していく。八方ふさがってついに僧侶の道を捨て再び還俗するが、時すでに遅く、投身自殺するに至った。

大雑把に言うなら、昭和43年にラッキー7を結成してから数年間を頂点に、平成17年に亡くなるまで、ずっと凋落しつづけたのだ。

「末路哀れは覚悟の前やで」という桂米朝の言葉を思い出す。それにしても…。