小林賢太郎
 笑いについて述べた本は山のようにある。「日本笑い学会」(井上宏会長)という団体があって、笑いについての文献をリストにしたりしている。私もかつて少しだけお手伝いをしたことがあるが、やってみてわかったことは、いくらやっても切りがないということである。
 同会のサイトには、2009年11月更新の笑い文献データがアップされていて、総数約7000点とあるが、集めようと思えばまだまだ集まるはずだ。
 切りがないというのは、広げようと思えばいくらでも広げられる、ということである。
 例をあげるならば、落語に関する本は全て笑いの文献だと言えば言えるのである。一冊のエッセイ集があったとして、その中にユーモアやくすぐりが一つでもあれば、考えようによっては、それも笑いに関する文献だと言えるのだ。
 笑いについての論も数多い。笑いについての論を整理するだけでも一冊の本ができるほどだ(実際それに近い本もある)。
 私は、笑いというものは、動物学的・生理学的レベルから、哲学的レベル・社会学的レベル・人間関係的・コミュニケーション的レベルに至るまで、さまざまなレベルのものがあると考えている。
 そのことに気づかせてくれたのは、志水彰・角辻豊・中村真『人はなぜ笑うのか』(1994年、講談社/ブルーバックス)だった。
 「医学、生理学、心理学をあわせた総合的な立場から笑いにせま」った本で、高邁な笑いについての論を読むより、手軽なこの一冊のほうが笑いの核心に迫れると思う。

 ところで、笑いについて論じた文章を読んでいてよく感じるのは、著者が「笑い」の素材ないし例としてとりあげている例が、面白くもなんともないということである。正確にいえば、面白くないというより、その例を読んで実際に笑ったりはしないということだ。
 例えば、「漱石における笑い」を論じた文章があるとしよう。素材として『吾輩は猫である』の第11章の次の部分、

「づうづうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。(略)」

 を取り上げたとする。これはいかにもありそうなことだ。
 論文は、この日本語と英語との地口をめぐって、「漱石における笑いの要素とは…」などと語られることになるわけだが、はたしてこのくだりを読んで、実際にアハハハと笑った人がどのぐらいいるのだろうか?
 もちろん論ずることが不当だと言っているのではない。笑いについて語りながら、笑うという行為がそこにはないのが、どこか変ではないかと思っているだけだ。そこにある笑いとは、観念化された笑いである。
 私は職業柄、噺家などの寄席芸人たちとしゃべることが多いのだが、彼らが「笑い」という語を口にするとき、念頭に置いているのは、実際に観客が口を開けて笑うアハハハという笑いなのである。
 彼らはいつもそこを目指している。目の前にいる観客が、実際の身体的反応として笑うことを目指しているのだ。
 文字化されて論じられる「笑い」と、彼ら芸人が語る「笑い」とは、その点で決定的に違う。
 「づうづうしいぜ、おい」と「Do you see the boy」の地口が成立しているというだけでは、目の前の観客を笑わせることはできない。腕のいい噺家なら、このネタでも笑わせることは可能だろうが、それには「もっていきかた」(語彙、テンポ、抑揚、運びなどを総合したもの。噺家用語)をひと工夫もふた工夫もしなければなるまい。

 ラーメンズというお笑いグループがある。小林賢太郎と片桐仁の二人からなるコンビなのだが、彼らはお笑いでありながら、いわゆる「アート」にも片足かけたような活動を展開していて、興味深い。
 2007年に行われた彼らの舞台『TEXT』が、NHK-BS2で放映されたことがあり、とても面白く見た。

 登場人物は二人だけ。一貫したストーリーというのはなく、短いコント(エピソード)をつないだような形式で一つの舞台がつくられている。
 小林賢太郎による台本がとても凝っていて、一つのエピソードと他のエピソード、あるところで発せられた言葉と別の言葉が、緻密に関連づけられながら全体を構成している。

 例えば、舞台の最後は、汽車の中でのこんなエピソードで締めくくられる。Aが小林、Bが片桐である。

A「(列車の座席を探しながら)ここか。お、今日の新聞だ。ラッキー。(新聞を読む)アジアの小国、言葉禁止条例に国民がクーデター。おかしな国があるもんだ」
B「(やってきてAを見つける)お、常磐。なあなあ、さっきの光確認の話覚えてるか?」
A「うん」
B「おれがUFOだと思ったのは、この鉄道だったんだよ」
A「え?」
B「どうりで細長いわけだよ」
A「はー」
B「すごいだろ」
A「すごいなあ。この新聞一文字も間違ってない」
B「そっちかよ。あたりまえだろ。お前が間違え過ぎなんだよ。なあなあなあ」
A「ん?」
B「昔、お祭りに来てくれたバンド覚えてるか?」[注]
A「あの人たち、何やってんだろ?」
B「もう解散して、今は新人バンドをスカウトして育ててるらしい」
A「発掘か」
B「そういうこと。ダイアナソウルスっていうバンド名が発表されたよね」
A「なんだか恐竜みたいだな」
B「ああ。でな、今の新人育成っぷりを雑誌で読んだんだ。まずは、候補バンド5万組をふるいにかけて、カンだけで5組に絞る」
A「ずいぶん荒っぽいなあ」
B「5万本のデモテープ聞く作業、想像してみろよ」
A「ああ、骨が折れる」
B「だろ。お? お前の切符おれのと違うなあ。お前乗る汽車間違えたんじゃないのか。なんて書いてあるの?」
A「3時到着予定」
B「あ、結構時間あるなあ」
A「しりとりでもするか」
B「やめておけ。言っとくが俺はめちゃくちゃ強い。お前など弱すぎて話にならん」
A「機関車」
B「車掌車」
A「写真部」
B「ブラスバンド部」
A「ブリーフケース」
B「それは書類鞄のことか、それともパンツ入れか。まあいずれにしても…す、す、スーツケース」
A「すもも」
B「もも」
A「もも、もも、桃太郎」
B「浦島太郎」
A「鰻屋」
B「焼鳥屋」
A「野心家」
B「空手家」
A「カラスウリ」
B「それは瓜のことか、それとも烏を売っている人のことか。まあいずれにしても、り、り、リンゴ売り」
A「理科」
B「蚊」
A「枯葉」
B「母」
A「博士」
B「背中合わせ」
A「星座早見表」
B「運動場」
A「宇宙ステーション……、あ。だめだ」
B「よしよし。一人でやってろ」
A「一人でやっても、つまんないよ」

[注]
実際には「昔、お祭りに来てくれたバンドで、ダイアナソウルスって覚えてるか?」と言っているが、ミスと思われるので直した。

 先行するエピソードの中に、透明人間はいるいないと二人が議論する場面があるから、カンのいい人ならひょっとすると気づくかも知れない。この後Bは、「Aには自分の姿が見えてなかったのだ」と気づくのである。
 暗転の後、Aが再度登場し、一人で今の芝居を繰り返す。

A「(電車の座席を探しながら)ここか。お、今日の新聞だ。ラッキー。(新聞を読む)アジアの小国、言葉禁止条例に国民がクーデター。おかしな国があるもんだ。(新聞を読みながら)…うん……え? はー。すごいなあ。この新聞一文字も間違ってない。
 (窓の外をぼうっと見ながら)ん? あの人たち、何やってんだろ? 発掘か。なんだか恐竜みたいだな。ずいぶん荒っぽいなあ。ああ、骨が折れる。
 (切符を取り出して見る)3時到着予定。しりとりでもするか。機関車。写真部。ブリーフケース。すもも。もも。もも、桃太郎。鰻屋。野心家。カラスウリ。理科。枯葉。博士。星座早見表。宇宙ステーション……、あ。だめだ。一人でやっても、つまんないよ」

 映画『シックスセンス』を思わせる仕掛けである。この仕掛け自体が面白い上に、以前に出た「透明人間」の話題とリンクしているわけだ。言葉禁止条例、光確認、校正といった言葉も、以前に出ていた話題とつながっている。

 このように、あるエピソードと他のエピソード、ある言葉と他の言葉とをリンクさせながら、この舞台はできている。しかもそのリンクのさせ方が、一つの明快な意図に基づいておこなわれているというよりも、どこか場当たり的に、しかも不条理に、なおかつ緻密におこなわれているのだ。

 Aは、胸のポケットに、買ったはずのない馬券が入っているのに気づく(これは、二人での芝居のときにBが入れたもの)。不思議に思うが、新聞に結果が出ていることに気づき、記事を探す。

「………かすりもしねえ!」

 これが全編のサゲになる。不思議なことが起こったから、もしかしたら馬券も……とチラッと思わせておいて、はずす。オシャレな結末だ。

 ラーメンズのことが気になって、小林賢太郎の戯曲集を読んでみた。
 『小林賢太郎戯曲集 home FLAT news』(2002年、幻冬舎)
 『小林賢太郎戯曲集 椿 鯨 雀』(2004年、幻冬舎)
 『小林賢太郎戯曲集 CHERRY BLOSSOM FRONT 345 ATOM CLASSIC』(2007年、幻冬舎)

 『TEXT』は含まれていないが、舞台になった台本を3本ずつ収録している。どれも面白かった。

 読んでみて、小林の笑いは、芸人たちの笑いと、笑いについて論ずるときの笑いとの中間を行くものではないかと思った。身体的動静としての笑いと、観念的な笑いとの中間。
 上で紹介した場面でいえば、「かすりもしねえ!」という言葉では客席はわいているが、ほかのくだりでは目立った笑いは起きていない。
 それはまた、「演芸」と「アート」との中間とも言えるだろうか。

[10.2.4]

※追記(12.12.19)
 少し補足すると、小林賢太郎の演し物は観客を個にする傾向が強い。お客は小林の芸を個人として鑑賞することを強制される。それは必ずしも小林の意図するところではないかも知れないが、小林の芸が必然的にそうさせている。寄席の笑いとは対照的である。