2017年1月21日、原宿・アコスタディオへ平野啓子さんの語り&朗読を聞きに行ってきた。昨年秋に旗揚げした「日本の語り芸術を高める会」の第三回公演として開催された。

 旗揚げ公演では瀬戸内寂聴の「曼殊沙華」を語った平野さんが、今回は同じ短編集(『花情』)の中から「冬薔薇」をネタ下ろし、とはいわないか、初めて朗読するというので楽しみにしていた。

 もう一席、とはいわないな、もうひと作品は「お楽しみ」であったが、なんと同じ短編集の中からすでに平野さんの十八番となっている「しだれ桜」を語ってくださったのであった。

 一応申し添えておくと、ここで「語り」「朗読」を呼び分けているのは、テキストを暗記して本なしで話す場合を「語り」、本を見ながら話す場合を「朗読」としている。両者がどれだけ違うのか、違わないのか、ということは、私が関心をもっているテーマの一つだが、それはさておく。

 結論を申し上げる。今回のこの公演は、まことに素晴らしいものであった。

 平野さんの語りは、センテンスごとに、いやフレーズごとにテンポが変わる。しかし、そのテンポの変化が文意そのものから発しているので、聞き手にとって全く不自然に聞こえない。おそらくほとんどの人はテンポの変化に気づいてさえいないのではないか。

 また、台詞の読み方が素晴らしい。語りのプレーヤーには役者系とアナウンサー系とがいて、平野さんは後者だが、役者系のプレーヤーも顔負けなほど表情が巧みだ。例えば「しだれ桜」の最後のシーンは、死んだカメラマンと愛人関係にあった主人公の女が、故人を偲ぼうと思い出のしだれ桜を見に行って、男の妻と偶然出会い、会話する(妻は主人公が愛人であったことを知らない)というシチュエーションだ。この短い紹介だけでも想像できると思うが、極めて繊細な心の揺れ動きを表現しなくてはならない。それを平野さんはまことに巧みに聞かせてくれる。主人公の気持ちが手に取るようにわかり、聞き手はまざまざと内面のドラマを目撃する。

 ところで、語り・朗読を聞くときに、私が一番注目しているポイントがある。それは「言葉がどこから出ているのか?」ということだ。講演や、講談・落語のようなものとは違って、語り・朗読の場合、言葉を書いているのは作者だ。作者が書いた文字を、語り手が声にして発するのである。しかし、語りの場における理想の形は、作者は消え、まるでプレーヤーがたった今、その言葉を思いつき、発したかのように聞こえることであろう。そうでなければ言葉は生きたものにはならない。私はこれを「言葉の自由度」と呼んでいる。

 「いかに言葉の自由度を獲得するか」は、語り手にとって最重要の課題のはずである。

 このことに関連して、平野さんの語りで一つ発見したことがある。今回の「冬薔薇」は、先にも述べたように朗読で行われた。つまり、文字に目を落とし、声を発する、という二つの手順を繰り返したわけだ。この文字に目を落とすことと声を発することとの間に、平野さんはとても重要な手続きを行っていたのである。それは「表情をつくること」。目に映った文字をダイレクトに自動的に音声に変換するのではなく、書かれている言葉の情景・表情・内面といったものを思い浮かべ、しかる後に声として発していたのである。

 言い換えれば、作家が書いた言葉を、一度自身の中で身体化しているのだ。これは、私に言わせれば、言葉の自由度を獲得するための平野さん流の方法である。この過程によって、作家の言葉はかなりの程度(100%とは言わない)語り手自身の言葉になり得ていたのである。

 以下は余談に属する話だが、表情が言葉に先行するのを見て、私は五街道雲助師の高座を連想した。雲助師は高座で複数の人間の会話を演ずる場合、上下を切り替えてすぐには言葉を発しない。まず顔の表情を作り、その後に言葉を発するのだ。このことによって、言葉の奥の人間ドラマが聞く者に確実に伝えられるのだ。

 平野さんの語りは、朗読とほとんど変わらない間合いを持っている。つまり、朗読で垣間見えた自由度獲得のための過程は、語りにおいても内在していると言ってよい。平野さんの語る言葉が生きている秘密の一端は、間違いなくこの点にあると思う。