感じたまま

日々感じたこと。 外歩きや、見学をしたことを記録しています。

南下浦散策二回目です。



千光山福泉寺の続きです。
前回、此のお寺は花木が多いと記しました。
あまり広くない境内ですが様々な草木があります。
この花はユリの仲間だと思いましたら、なんと彼岸花の仲間だとか。 
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交通安全祈願の地蔵さん。
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緑の中に静に彼岸花が咲いていました。
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福泉寺は水上特攻隊、岩館部隊が本部にしていた場所であり、
この碑は平成17年5月27日に建立された。
なお、碑の前には昭和53年5月に植樹された海軍特攻隊記念樹がある。
碑高105cm、幅167cm、厚さ15cm、台石26cm
碑文
「第56震洋特別攻撃隊岩館部隊の碑
太平洋戦争の末期、物量豊かな米軍の前に 精鋭を誇った帝国海軍も幾多の艦船、
航空機 を失い戦況は本土決戦の様相となった。
そのころ海軍部では米軍の本土上陸に備え 空中・水上・水中の特攻兵器を開発、
生産に 追われていた。
その中の水上特攻兵器が「震 洋」と名付けられた特攻艇で、~~~略
~~~
部隊本部が福泉寺に、下士官搭乗員は四軒 の民家に分宿、特攻基地は江奈湾に置かれた
江奈湾を挟んだ東西岸壁に壕が掘られ、東側 三、四艇隊、西側に一、二艇隊の震洋艇が
格 納された。
訓練は敵機の発見を避け夜間に行 われた。士官搭乗員五名、下士官搭乗員五一 名、
基地隊・整備隊員一二七名、併せて一八 一名の部隊だったが、一人の戦死者もなく
終 戦(昭和二十年八月十五日)、それぞれの故 郷に生還する事ができた。
わずか二ヶ月余りの短い期間、第五六震洋 特別攻撃隊岩館部隊がこの地にあった
事を、 碑文として後世に残し、終戦六十周年を機に 戦争のない、
世界の平和と繁栄を願うもので ある。
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門前に新しい六地蔵が祀られています。
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福泉寺を後に金田漁港方面に向かいます。
広々とした気持ちの良い所です。
正面のタンクはこの地域に給水する上水のタンクです。
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金田湾。
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先ほど見えたタンクは上水道のタンクでした、水が5千屯も入るそうです。
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こんな道を下りました。
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のどかな景色。
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此のスイカは何でしょうか。
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金田の漁港が見えてきました。
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ソバナに似ているがどうでしょうか。
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岩浦山壽福寺
壽福禅寺の変額。
開山は1200年頃、三浦大介義明の孫である三浦義村が創建したとされています。
この岩浦の里は父祖伝来の地であり、菩提寺とし自身も近くの台地に祀られています。
現在のお堂は平成元年(1999年)に再建されたもの。
コンクリート造に改装されるお寺の多いなか、このお寺は完全木造にて改修
されました。
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本堂内
本尊は 聖観世音菩薩。
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西堀栄三郎植村直巳多田雄幸の顕彰碑。
夢の文字は御住職筆 平成6年建立。
故植村直巳さんもよくこのお寺を訪れ、御住職と語り合ったそうです。
金田のお寺で、こうした大冒険家の名前を目にするとは不思議な感じでした。
此の冒険家の方々はどのようなご縁でご住職とお知り合いになられたのでしょうか
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慰霊の観音様。
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出来たばかりの鐘楼。
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未だピカピカの鐘。
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札所となっている地蔵尊はこの「勝軍地蔵」のことと思われます。
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お寺の擁壁に埋め込まれたタイル。
何の鳥でしょうか。
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此のお寺の参道にも庚申塔がありました。
いずれも宝永から明治初期の珍しいものです。
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岩浦山壽福寺を後に金田漁港に向かう途中にあった、長屋門?と
思われる建物。
もし本当に長屋門ならもったいないね。
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南下浦散策二回目を終わります。


南下浦散策に行ってきました。


写真は4回に分けて貼ります。
今日は一回目です。


今日の散策の集合場所京急の三浦海岸駅です。

1966年(昭和41年)7月7日
- 久里浜線の終着駅として開業。

計画時の駅名は地名に基づく「上宮田駅」であったが下浦海岸にちなむ
この名称とし、延長区間を三浦海岸線と呼びPRにつとめた。

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当駅から小松ヶ池公園までの線路沿いで、毎年春に「三浦海岸桜まつり」が

開催される。
これを記念して2014年から、桜まつりの開催期間中は駅正面の駅名看板を桜色に
変更している。
粋なことをやりますね。


バスで剣崎に向かいます。

剱崎
剱崎


剱崎(つるぎざき)三浦市南下浦町松輪神奈川県、三浦半島東南端に位置する岬である。
かながわの景勝50選に指定されている。
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私はこの地名を「ケンザキ」と言っているが
当地の呼称については、漢字表記に「剱崎(埼」「剣崎(埼」「劔崎(埼」が、

読みに「つるぎき(つるぎき」と「けんき(まれに「けんき」)」があり、
名称の表記・呼称に関して情報が交錯していることが知られている。
本岬に由来する軍艦の場合、給油艦「剣埼」や剣埼型潜水母艦
「剣埼(のちの空母「祥鳳」)のように「劍崎/劍埼(つるぎざき)」を使用している。

周辺にある地名を冠した建物等もこの内のいずれかが使われており統一されていない。

漢字、及びその読みについてどれが正しいのかについても確たるものがなく
これについて、昭和55年に地元の町内会から三浦市に対し、表記・呼称の統一の
陳情があった。結果、表記は「剱埼」、呼称は「つるぎざき」に統一されていく
模様である。
実際に、灯台の名称は「剱埼(つるぎざき)灯台」となった。

しかし、長く親しまれた施設、例えば幼稚園などの教育施設などの名称は、
今後も改訂しない模様である
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このバスで移動しました。
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バスを降りて旧道にに入ります。
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今回の散策は道祖神、庚申塔がたくさん見られました。
道路の変更、宅地開発などでたくさんの物がこのように集められたのでしょうね。
制作年号は文化、文政、嘉永、安政、文久等が多いようでした。
たまたまだろうが慶應の物はありませんでした。
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間口漁港、恵奈湾です。
此の干潟には様々な生き物がいます。
この付近では「子網代の森」が有名ですね。
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恵奈湾のワイド写真。
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アオサギでしょうか、エサがたくさんあるので住み着いたか、または森から来たか。
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漁港の入り口にあるお堂のような建物をガイドさんがいきなりドアを開けたのに
びっくり、ここがキリシタン灯篭が安置されている場所でした。
石灯籠は十字架をかたどっていて、マリア像が刻まれています。
これにまつわる記録や伝承は全く残っていないようです。
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この写真では解り難いですが上部には卍(カギ十字)その下にはマリア像が
刻まれています。
それにしてもこのがらくた何とかならないのでしょうかね。
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右の道路が新道左の坂道が旧道。
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この道の際にもたくさんの庚申塔があります。

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私は農業の経験がないので定かではありませんが大根だと思います。
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このあたりの高台からケンザキの灯台が望遠されます。
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いったいこの付近だけでどれほどの数があるのだろうか。
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福泉寺
本尊は聖観世音菩薩。
「新編相模風土記」によると「千光山」と号す、臨済宗鎌倉建長末、
本尊正観音、開山賓溟、元徳元年三月十四日卒とありますが、
開山の名前は「賓溟誉禅師」だということです。
開山の亡くなられた1329年(元徳元年)を歴史的にみると鎌倉時代の最終末で、
2年後には「南北朝時代」になっています。
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山門の変額。
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本堂。
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本堂の扁額。
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ご本尊。
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三界萬霊塔。
この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのものです。
施餓鬼会においては、連綿と続いている御先祖様のおかげで、
今の私たちがあることに感謝して、合掌しましょう。
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此のお寺の植物の多さは大船の植物園より多いと聞きましたが。
これはバナバの実だと思いますが。
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南下浦散策一回目を終わります。

南極・北極科学館3/3回目


南極観測の草創期、犬橇(いぬぞり)隊として活躍した犬たちを、
一頭ずつご紹介しています。
南極観測では、隊員が南極に留まり越冬することが計画の要となっており、
この越冬隊が入れ替わることで昭和基地での観測活動が維持されます。
しかし悪天候のため、第二次越冬隊を乗せた観測船は昭和基地まで行くことが
できず、犬たちの回収も不可能な状況でした。
そして観測隊はやむを得ず、犬たちを南極の地に置き去りにすることを
余儀なくされたのでした。
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犬の名前と顔の色は毛並みの色でしょう。

犬たちの生存が絶望的とされた中で、一年後、観測隊は再び南極へ赴きます。
そこで、2頭の犬と再開を果たすことになります。これがタロとジロという兄弟犬
でした。
第3次越冬隊によるヘリコプターが降り立つと、この二頭は操縦士に向かって
駆け寄ってきたそうです。
タロとジロは、繋がれていた鎖を抜け出し、自力で食糧を調達し、
厳しい南極の地でも生き延びていたのでした。

南極に置き去りにされたにも関わらず、再び生きた姿を見せたという
センセーショナルなエピソードは、日本中に大きな感動を呼びました。
この印象的な出来事は、1983年に『南極物語』として映画化されています。
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これが当時1956年頃に使われて犬橇です。
材質は籐だといいます。
現在では条約により犬を使うことは禁止され、すべて雪上車に置き換わっています。
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南極点到達雪上車(KD604,KD605)
雪上車KD604とKD605は、わが国の南極観測史上、最初で最後となる第9次南極観測隊の
極点往復プロジェクトで、1968年(昭和43)12月19日南極点に到達した雪上車3台の
うち2台である。
この行程は往復約5200km、調査期間約5カ月に及んだ。
これらの車両は極低温や、南極特有の細かい上下方向に柱状の凹凸のある雪面環境に
対応するため、小松製作所(当時)で試行錯誤の末、開発された。

操縦も比較的容易であったという。
また、これらは後に世界初の南極隕石発見にも貢献し、後継機が開発されるまでの
約10年間、南極内陸調査の主役となった。
外板の黒塗装は、太陽熱を少しでも吸収する目的で行われ、この措置もあってか、
内部では普通の室内のような服装で過ごせたという。

これらが見せた極限での車両設計・運転実績を引き継いだ雪上車は、
わが国が当時世界最多の南極隕石保有国となるという、世界の南極観測史上に
残る成果を側面から支えた。
極点旅行で使用された残りのKD603は極点からの往路にエンジンが故障し、
修理不能と判断され、放棄された。
KD605はこの後も使用され、わが国が南極で使用した雪上車としては最長の
総走行距離17000kmを達成している
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この中で隊員は寝泊まりして極点を目指したのですね。
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認定書。
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観測船の模型。
しらせ。

しらせ は、文部科学省国立極地研究所の南極地域観測隊の輸送・研究任務のために
建造された南極観測船。
建造費は文部科学省の予算から支出され、艦の運用は海上自衛隊により行われている。
艦番号AGB-5003。初代「しらせ」後継艦として2009年に就役した。

文部科学省では「南極観測船」と表記しているため報道でも「南極観測船」や
「砕氷船」と呼ばれることが多いが、防衛省では「砕氷艦」と表記している。

海上自衛隊が運用し所属艦の証しである自衛艦旗を掲げており国際的には軍艦に
分類されるが、外務省では「軍艦ではなく、定期的な南極調査隊用の船舶である。」
との見
解を表明している。
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しらせ。
三代目のしらせ、二代目は「ふじ」。
上の写真はこのしらせの後継艦。
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二代目の南極観測船「ふじ」。
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日本初の南極観測船となった「宗谷」。
元々は南極観測のために建造されたものではなく、ソビエト連邦が川南工業松尾造船所
(昭和12年より香焼島造船所に社名変更)に発注した3隻の耐氷型貨物船のうちの
1つで、1938年(昭和13年)に建造されました。

その後、宗谷は奇跡的に無事に、終戦を迎えました。
そして引き揚げ船として改装を受けて引き上げに従事し、1950年(昭和25)
からは海上保安庁の灯台補給船として活躍。
そして、1956年(昭和31年)から1965年(昭和41)年まで、
海上保安庁の南極観測船として第1次~第6次南極観測に従事します。
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海南丸。
開南丸(かいなんまる)は、白瀬矗南極探検に使用された木造帆船
命名は、海軍元帥東郷平八郎伯爵による。
船主旗の図案は三宅雪嶺の考案。
トン数 199t(一説に204t)
全長 33.48m
幅 7.85m
深さ 3.89m
軸出力 18馬力
だいたい現在の125ccのスクーターバイクに相当し出入港の補助にしか使えない。
(現在の同じ大きさの船は200~2,000馬力くらいのエンジンを装備する)

よくこの程度の船で南極まで行ったね。
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隊旗。
船主旗の図案は三宅雪嶺の考案。
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これが当時使われた旗。
今でもかすかに図柄が見えますね。
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科学館の見学を終わり、向かい側にある立川市役所に行きました。
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市役所の食堂を利用させていただきました。
立川市役所はこのように吹き抜けになっています。
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一階ホールでミニコンサートが行われていました。
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  • 此の市役所の建物が賞を、受賞しました。
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  • これで南極・北極科学館の見学を終わります。
  • 此処はどちらかと言えば大人向けのは博物館のような気がしました。
  • 昭和記念公園からも近いので一緒の見学をするのもいいかもしれませんね。

  • 南極・北極科学館2/3回目です。



    岩石採取の道具。
    多い時には一回でで60Kgも採取するそうです。
    クリノメーターやGPSも携帯するのですね。
    クリノメーターとは、地質調査に用いる、地層面・断層面などの走向傾斜
    測る道具である。
    ルーペハンマーと共に、地質調査の三種の神器とも
    呼ばれる。間縄測量などの簡単な測量にも使える。
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    南極たいりくの地図。
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    南極の氷の深い所を振るためのドリル。
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    右側が先端、ドリルのあるほうですが長さは10m以上もあります。
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    南極大陸の模型400万分の1 高度強調30倍。
    日本列島との大きさ比較がわかります。
    写真では平たんに見えますが、大陸の凹凸が良く解かります。
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    防寒ブーツ
    左がD型、右がF型でウールの二倍は温かいと言われるテビロン綿を使い
    つま先や靴底は二重構造でマイナス50℃にも耐えられます。
    右側のF型は室内でも靴を脱がない欧米型の習慣に対応して靴ひもで編み上げて
    固定するタイプです、どちらも日本製でF型は外国の調査隊のために日本が
    作ったものです。
    テビロン綿とはポリ塩化ビニール繊維とも言われ、塩ビと呼ばれる樹脂を
    紡糸して糸にしたものです。日本ではテイジン(株)からテビロン
    言う商標で販売されてます
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    こんなコーナーがありました。
    本当に南極の氷かなと疑っている人、南極観測では、観測船「しらせ」で物資を
    運びます。
    観測隊の食糧などをおろして空になった冷凍庫には、研究用の氷試料のほかに
    越冬隊が採取した南極北極科学館で展示する氷も詰めて持ち帰っています。
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    特に変わった物ではありませんが「南極の氷か」と思って触ってみました。
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    氷や雪はトケマスが字はどういう字を当てるのでしょうか。
    こんなパネルがありました。
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    南極は隕石が沢山採れます。
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    南極で隕石の発見が多いメカニズム。
    南極の隕石が何故貴重か、ここ「南極隕石」を見てください。
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    ここでは日本で唯一のオーロラシアターがあり、毎日オーロラが見られるのです。
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    シアターの内部は撮影禁止です、表のモニターで同時に映しています。
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    オーロラ観測用全天撮影カメラ、魚眼レンズカメラのような物でしょう。
    これは1970年~1908年まで昭和基地で使われた物で400フィートの
    白黒フイルムに1分毎に記録しました。
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    左のパネルが隊員の役割と出身組織。
    右が「しらせ」と「海鷹丸」の活動地域と、日本からの航跡を表わしています。
    なお「第58次南極地域観測隊」についてはここに詳しく出ています。
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    活動、研究の記録をパネルで紹介しています。
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    隊員の活動記録を動画で見せてくれています。
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    南極・北極科学館2/3回め終わります。



    表題の南極・北極科学館を見学してきました

    写真は3回に分けて貼ります。


    最寄りの立川駅にありましたかわいい「くるりん」くん。
    立川駅周辺は来る、たびに新しい店が出来ているね。
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    立川北口2番乗り場「大山団地方面ゆき」→立川学術プラザ下車で徒歩1分
    バス停「立川学術プラザ」の真ん前にある「国立極地研究所」

    国立極地研究所は南極大陸と北極圏に観測基地を持ち、その観測と研究を進めている
    施設で南極観測隊を送り出している機関です。
    それにしても大きな建物ですね。
    勿論他の大学等の研究機関もは入っているのでしょうね。
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    国立極地研究所の一階フロアーに展示してあった計算機。
    手回し式計算機タイガーの昭和26年制です。
    この原理はA×B=の場合AをB回足していくやり方だと思ったが
    今の電卓も同じ考え方だと聞きました。
    感違いでしたらごめんなさい
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    「統計的制御趣味レーション装置」た書いてあり、パソコンを改修したと
    書いてありました。
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    リムーバブルディスク。
    直径が40Cmくらいありました。
    リムーバブルディスクとはコンピューターが稼働中でも着脱可能な
    記憶媒体のことです。
    USBメモリーなどがそうですがこれは昭和49年の物ですが容量が
    書いてありません。
    想像するより小さなものだと思いますよ。
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    一階に図書館があり、覗いてみましたら「名誉教授執筆監修図書」と
    書いてあります。
    どんな人が読むのかな。
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    アデリーペンギンのはく製が飾ってありました。
    手前が孵ったばかりの雛、左が幼鳥、奥が成鳥。
    南極大陸で見られるペンギンで成長は70~90cmです
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    白い血の魚「クロスイショウウオ」

    透明な血液を持つ魚
    南極大陸周辺の海にすむ無色透明な血液を持つ、アイスフィッシュ(コオリウオ)と
    いう魚がいる。


    透明な魚ならば、グラスフィッシュや、グラスキャット、ウナギの
    幼生レプトケファレスなどがいるが、最大の特徴は、脊椎動物で唯一、
    血液中にヘモグロビンをもたず、血液が無色透明で赤くない。
    このため、他のほとんどの魚の鰓(えら)は、ヘモグロビンによって赤色や
    ピンク色をしているが、コオリウオ科の魚の鰓だけは、クリーム色をしているという。


    ご存じの通り、ヘモグロビンは肺や鰓で酸素と結合して、体内に運ぶ働きをする。
    なぜコオリウオ科の魚がヘモグロビンをなくしたのか分かっていない。
    コオリウオ科の魚は大きな心臓を使って全身に大量の血液を送り、その
    液体成分(血しょう)に酸素を溶かして運んでいること、さらに、鰓だけでなく
    体の表面からも酸素を取り入れていることだ」という。

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    国立極地研究所の一階を通り抜けると中庭と言うのか広場に
    南極・北極科学館が見えます。
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    1983年に放映された、南極観測隊が悪天候に阻まれ、やむなく南極の地に
    置き去りにしてきた十五匹のカラフト犬の生への闘いと、観測隊員たちの姿を描い
    た映画をご覧になった方も多いと思います。
    以前は東京タワーの下にいましたが、2013年秋、ここ極地研究所に
    お引越ししてきました。
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    これは何でしょうこれはと、近寄ってみたら、極光と名付けられた記念碑。
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    白瀬矗(のぶ)を隊長とする、南極点を目指した探検隊。
    明治43年(1910年)11月29日、木造帆船「開南丸」で東京の芝浦を出発。
    明治45年(1912)1月16日に南極大陸に上陸、同月29日に南緯80度5分、
    西経156度37分の地点に到達。
    食糧の不足などから前進は困難と判断、同地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と
    命名して引き返した。
    同年6月20日、芝浦に帰還。

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    科学館入り口においてある「黒雲母片麻岩」
    なんでこんなに穴が開いているのか、入場してみましたら答えが
    書いてありました。
    この穴は風化でへこんだそうです。
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    入口ドアーに貼ってあるプレート。
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    中の展示は「第58次南極地域観測隊」に関係するものが多くありました。
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    小さなお土産コーナーもあります。
    このパネルとカレンダーは売り物です。
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    南極・北極科学館1/3回目終わります。

    MINIATURE LIFE展二回目です。

    コメントなし。
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    赤いものは洗濯挟み。
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    コメントなし。
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    とにかくアイデアに感心します。
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    スポンジの凸凹を波に見立てていますね。
    溺れている人を助けようとしているのかな。
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    ブロッコリーの林。
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    よく見ると真ん中に家族連れが。
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    トウモロコシをロケットに。
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    これは?
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    真上から見るとこういう風に見えます。
    砂糖は天の川に見立てたかな。
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    会場の様子。
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    花火。
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    上の写真はこういう風になっています。
    造花を花火に見立てています。
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    拡大。
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    フランスパンの列車。
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    乗り込もうとする乗客。
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    この作品は意味は不明。
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    コメントなし。
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    鉛筆の頭についている消しゴムを太鼓に見立てて。
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    畳のへりをあぜ道に、家路に向かいます。
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    MINIATURE LIFE展終わります
    素晴らしい作品ですね、アイディアにうならされます。
    ジオラマつくりを趣味にしている方には参考になりますね。
    此処の載せられなかった作品もたくさんあります、きりがないのでランダムに
    載せてみました。


    MINIATURE LIFE展

    写真は二回に分けます。

    展示作品は100点ほどありました。
    半分ほど載せました。

    入場券
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    初めて見ると確かにびっくりしますね。、高さが10㎝ないとおもいますよ。
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    レストランとコック。
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    マッチ箱の上に家を建てています。
    大きさを想像してみてください。
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    上の写真にやや左下の人形のアップ。
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    けん玉の球を破砕機の球に見立てています。
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    上の写真の右下にいますが絵が切れてしまいました。
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    ブラシの田圃。
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    音符を置いていってます。
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    オレンジを絞っています。
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    ポッキーにペンキを塗っています。
    ひだり、腰掛けている人物がいます。
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    上の写真の左上の人物。
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    リンゴの皮のバージンロード。
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    テニスボールとランナー。
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    タイヤの中のサッカー場。
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    食器洗い用スポンジのテニスコート。
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    魚焼き網のプール。
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    クライミング。
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    鉛筆ケースのスケートリンク。
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    迂闊にも、私は全く知りませんでしたが、2011年4月から毎日欠かさず更新している
    「MINITURE CALENDAR」がインターネット上で人気を呼んでいる、
    Instagram 44万人、Twitter 12万人以上のフォロワーを持つミニチュア写真家
    田中達也氏の作品を見てきました。
    素晴らしい作品ばかりです。


    高津の散歩道4/4回目
    今日で終わります。


    此の図のF富士見台古墳から蔵のある家を見て橘樹官衙遺跡へ
    Gの橘樹古代の丘緑地に向かいます。
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    木島家の蔵を見た後橘樹官衙遺跡に向かいます。
    此の案内板もだいぶくたびれてきましたね。
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    この通りが古い中原街道です。
    右側の低いところが現在の中原街道です。
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    たちばな古代の丘緑地です。
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    平成8年に実施した千年(チトセ、地名です)伊勢山台北遺跡の発掘調査で、
    東西方向に整然と並ぶ7棟の掘立柱建物跡が発見され、橘樹郡衙の正倉と推定
    されました。

    平成10年度~16年度に橘樹郡衙推定地確認調査事業を実施し、
    高津区千年の台地上の広域にわたって橘樹郡衙の正倉や郡衙に関連する多くの
    掘立柱建物群が確認されましたが郡庁は明確には確認することができませんでした。

    橘樹郡衙の正倉跡は、都が平城京に遷都される以前の7世紀後半から8世紀に造営され、
    奈良時代の8世紀前半に整備・補充期を迎え、9世紀前半から中ごろの縮小・終焉期を経て、
    平安時代の9世紀中ごろには千年(地名)の丘から姿を消したことがあきらかに
    なっています。

    発掘当時の写真川崎市HPより
    shinanoji[1]

    緑地にある説明版、よく読めばかなりのことがわかります。

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    国史跡として整備された橘樹(たちばな)郡衙跡。
    立派な石碑が立てられていた。
    今では草茫々。
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    此処、たちばな古代の丘緑地は高度が40mあり、このように
    武蔵小杉の高層ビル群がよく見えました。
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    この通りが「神奈川道」と呼ばれていて溝口あたりから現在の東神奈川
    付近まで通じていた八王子から絹を運ぶ道です。
    横浜が港として整備されたのは明治になってからです。
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    こういう街道によくある庚申塔。
    R-IMGP1349

    今日のコース、最後の登り坂、麹屋坂を登り「たちばなふれあいの森」に着きました。
    多くの人々に森の中で自然に親しんでもらうため、地権者の協力を得て、
    良好な樹林地に散策路やベンチなどを設けて自然とふれあえる憩いの場として
    整備しました。
    レクリエーション活動や自然観察の場として積極的に利用されています。
    地域内には湧水もあり、夏にはホタルも放流されます。
    森全体が崖の下で、竹林もあり、自然のままの、かなり広い子供の遊び場です。
    この写真の右側に湧水があります。
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    ヤブランがありました。
    これは葉に斑があります。
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    登ってきた道を見下ろしました。
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    今日の最後の見学場所影向寺に着きました。R-IMGP1375

    山門の変額。
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    山門を入ると右側に、聖徳太子堂。
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    市重要歴史記念物
    現在太子堂内に祀られる像高ほぼ3尺の立像である。
    髪を美豆良に結い、袍の上に袈裟を着け、沓を履き、両手で柄香炉を
    捧げ持つという形であらわされる本像は、数種類ある聖徳太子像のうち、
    最もポピュラーな形式の一つである孝養太子像と呼ばれるスタイルである。
    鎌倉時代末~南北朝時代の作。
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    鐘楼。
    「顕彰の碑」より
    当山の古梵鐘は「新編武蔵風土記稿」によれば萬治3年(1660年)10月に鋳造されて以来 
    昭和17年(1942年)までの282年間にわたり時の鐘 法縁の鐘として橘の里
    一円に響き渡りその任を果たしてきました
    ところが 昭和16年12月にはじまった第二次世界大戦の激化にともない 
    時の軍部の命により兵器の材料として没収されて以来 鐘の音が絶えてしまいました。
    しかし梵鐘に熱き思いをよせられた檀家宮田喜平氏の篤志により昭和48年6月 
    梵鐘再鋳・鐘楼堂屋根のふきかえ・落慶法要を円成 氏は当山に奇特な
    貢献をされました。 
    その後 出家得度「喜新」の法名を比叡山延暦寺より賜り 寺門興隆のため
    多大な尽力をされました。 氏は平成2年4月10日諸行無常のことわりの如く
    ご逝去され、13回忌を迎えることになります
    ここに 慈善院大律師喜新様の偉業を讃え 報恩感謝の意を表し銘文を刻記 
    顕彰いたします 。
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    左が薬師堂、奥にある立派な大銀杏、樹齢は600年と言われています。
    銀杏は「乳銀杏」と呼ばれ、乳の出ない母親は、この太い幹に乳乞いをしました。
    左の薬師堂には赤子に乳を与えている絵馬が掛かっています   
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    乳の出ない母が仏のお告げ通りに母はいちょうの乳をけずりとって帰ると煎じて飲んだ。
    すると、まっ白い乳がいっぱい出るようになり、子はゴクン、ゴクンと飲んで
    病ひとつせずに育ったという。
    この話があちこちの村にひろまると、乳が出なくて困っている母親は、
    影向寺のおまいりにきて大いちょうの乳をいただいて帰ったという。 

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    薬師堂の真裏に廻り込むと収蔵庫がありました。薬師三尊像は国の重要文化財の
    指定を受けているために、文化財保護法の防火・盗難対策の規定によって
    収蔵庫に保管され拝顔する事ができません。
    薬師三尊像の両脇にはそれぞれ川崎市重要歴史記念物に指定されている二天立像、
    背後には眷属・十二神将立像が安置されています。八月の施餓鬼会の日などには
    収蔵庫がご開帳されるようです。

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    私は以前運よく学生さんに公開していた時に便乗してみせていただきました。
    今地元をはじめ関係者が国宝になるために運動しています。
    重要文化財から国宝になってくれればいいですね。
    t0502i0003[1]

    阿弥陀堂。
    総ケヤキ造りの木造建築です。
    一般のご法要は阿弥陀堂にて執り行われます。
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    鐘楼と百日紅、右側が水盤舎。
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    影向の石。
    影向寺の名になった霊石。
    奈良朝時代創建のとき、ここには美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。
    心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。
    「影向」とは神仏の憑りますところのことで(神仏が仮の姿をとって現れること)、
    寺域は太古より神聖な霊地神仏のましますところとして、信仰されていたのでしょう。
    幾星霜を経て、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえられて、
    近隣から眼病を患う人々が訪れて、その功験によっていやされました。
    江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でて、
    この石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を
    影向とあらためたと伝えれらます。 
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    そばにある力石。
    力試しに用いられる大きな石である。日本では鍛錬と娯楽として、
    江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。
    磐持石 / 盤持石 / 晩持石(ばんもちいし)、力試し石(ちからだめしいし)
    など地方によって様々に呼ばれた。
    また、伝説的な人物が投げたと言い伝えられる力石も各地にある。
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    これで高津の散歩道ガイドツアーを終わります。
    計画、実行していただきました高津市民館の皆さま、
    またご説明、解説していただきましたボランティアガイドの会の皆さま
    同行の皆さまお世話になりました。

    高津の散歩道3/4回目です。



    此の絵図のC点の蓮乗院を見て次に橘樹神社(タチバナ)に向かいます。
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    この辺りには武蔵国橘樹郡衛が置かれており、その総社でもあったと言われる。
    日本武尊が東征の折に海が荒れたため、弟橘媛が身を投じて海を鎮めた。
    その入水した媛の御衣と御冠がこの地に漂着したのを祀ったのが始まりとされる。
    この伝説はいたるところにありますね。

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    祭神  日本武尊、弟橘媛。
    創建  不詳。
    社号標。

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    子母口地区の戦没者16柱の慰霊碑
    太平洋戦争:11名 日露戦争:4名  日清戦争:1名の戦死者の慰霊碑

    碑文
     国家の存亡をかけた太平洋戦争及び日清日露の両戦争の際、子母口からも幾多の有為な青年が愛する肉親や郷土と別離し、万里の波濤を越えて酷寒の大陸に或いは灼熱の南方戦線へと苛烈な戦場に向かいましたが、無念にも敵弾斃れ或いは病魔に侵され、あたら若き生命を遠い異郷に散華し、再び故郷の土を踏めなかった十六柱の英霊に対し、その遺族は勿論、私共、同じこの土地に生を享けた有縁の者として恵心より哀悼の意を捧げご冥福をお祈りするものです。・・・後略。
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    境内には山岡鉄舟書の碑か二つ立っていた。
    本殿側、右の碑文の表は「日本武の松」とあり、和歌が彫られている。
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    鳥居側左の碑には「橘比免之命神廟」とあり、和歌が添えられている。
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    上の写真の碑の前に狛犬がいますが。おそらく神社建て直し時に
    新しくしたためこちらに移動したのでしょう。
    写真を取り忘れましたが同じものが新しくなってあります。
    狛犬と言っても此の狛犬はオオカミに近い感じがします。
    この付近ではなぜオオカミを守り神にするのかググってみるとたくさん出てきます。
    興味のある方覗いてみてください。
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    今は切られてしまった「日本武の松」
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    何と読むのでしょうね。
    何となく想像は尽きますね。
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    社号標の裏面、紀元2600年記と。
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    橘樹神社を過ぎて伊藤家の長屋門を見ました。
    堂々たる長屋門を構えた伊藤家(屋号・長屋<ながや>)は川崎区
    大師河原の池上家、多摩区長尾の鈴木家、高津区平の杉田家とともに
    「千年百姓」と呼ばれていました。
    千年百姓といわれるとおり、平安時代にまでさかのぼる伊藤家の歴史はさだかで
    ない点もありますが、同家の口碑(こうひ)によると、鎌倉幕府の執権を握っていた
    北条家の時代から高林又兵衛直重(江戸中期、子母口村・井田村の一部を知行した旗本)
    まで代官の任にあったとのことです
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    この門の特徴はこのように「武者窓」です。
    武家屋敷の表長屋に付けられるものです。
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    長屋門を見てから富士見台古墳を見に行きます。
    橘樹神社の項でも書きましたが、橘樹神社の社伝は、おおよそ次のように伝えています。
    「日本武尊東征の際、尊は相模(さがみ)から海路で上総(かずさ)まで行こうと
    しました。
    ところが、海は恐ろしいほど荒れ狂い、尊の行く手をさえぎってしまいました。
    そこで、弟橘媛は荒れる海中に自らその身を投じ、尊のために海を鎮めました。
    やがて、入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着しました。
    また、『古事記』でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。
    すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。
    そして、この社伝と古事記の記述とが結びつき、その「御陵」とされてきたのが
    富士見台の高台に築かれた富士見台古墳です。
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    富士見台古墳を過ぎて中原街道に出ます。
    立派な蔵が二棟出てきます。
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    上の写真の右側です。
    木島屋と言ってかっての、油、醤油問屋の豪商の御屋敷です。
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    昔の工場の絵図。
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    今はマンションになっています。
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    我々が立っている中原街道沿いのこのマンションがそうです。
    木島家の御屋敷の中原街道を挟んでいる場所です。
    なおこの新しい中原街道は後から開削して作られた道です。
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    高津の散歩道3/4回目終わります。

    高津の散歩道2/4


    この絵の図B「子母口貝塚」を見てさらに蓮乗院に向かいます。
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    途中に小さな社がありましたが由来は分りませんでした。
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    どうしても読む事が出来ませんでした。
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    蓮乗院に着きました。
    長唱山實相寺と号します。蓮乗院は、寛文12年(1692年)に創建したといいます。
    玉川八十八ヶ所霊場23番、準西国稲毛三十三観世音霊場15番です
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    門扉には天女の像が模られています。
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    山門から本堂を望む。
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    釈迦牟尼仏は、仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッダールタ)を、仏として敬う
    呼び名である。尼世尊。
    仏足石(ぶっそくせき)とは、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。
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    清浄と刻んであります。
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    説明版はありません。
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    これは六地蔵で像の下に名前が刻まれています。
    今まで気が付かなかったが、六地蔵は並ぶ順序が決まっていたのでしょうか。
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    辺額。
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    子母口の地名。
    お住職の説明によれば現在の「子母口」は、「しぼくち」と呼ばれる以外にも、
    「しおくち」「しぶくち」「しんぼくち」などと呼ばれていたようだ。
    「しおくち」とは海水の潮の口という意味で、縄文時代には現在の「子母口」の
    辺りが多摩川の河口となっていて、その河口まで海の潮が迫っていたことにより
    「潮口(しおくち)」と呼ばれていた、というもの。
    また「しぶくち」は矢上川の上流から金渋(かなしぶ:水に混じった鉄の錆のこと)
    が流れることがあり、その金渋が低地に出る口ということで「渋口(しぶくち)」
    と呼ばれていたというもの。
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    弘法大師像修行の像。
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    右手の高台に浪切り不動尊堂がある。
    何故ここに水難除けの波切不動があるのか。
    波切不動については長くなるので省略するが、住職のお話によればこの付近は
    多摩川の洪水に悩まされていた処だという。
    波切不動とは弘法大師が船で唐から帰国される際に嵐に会われ一心に御祈祷された
    ところ現れたご不動様です。
    波は静まり無事に航海をする事が出来たといいます。
    ということで弘法大師の守り本尊波切不動を祀ったのでしょう。
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    鐘楼。
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    波切不動のわきに庚申塔が三体あります。
    一番右に
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    此処には「渋口」と書いてあるのが辛うじて見えるといいます。
    良く解かりませんでした。
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    左から二番目にある庚申塔には元禄四年・・・と見えますが。説明に依れば
    子母口の文字が見えるということですが物凄いやぶ蚊が居てよく
    確認できませんでした。
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    高津の散歩道散策2/4回目終わります。



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