遺跡は人の活動の跡であろう。多分、宇宙人の活動の痕跡でもないし、神さまの活動の跡でもないと思う。

とすれば、そこには過去の人間についての何かの情報が残っているのではないかと考える。それがどんな情報なのか、分からない。対象が何か分からないのであれば分析的観察の方法論を選択することができない。でも、対象が分かっていて、分析するなら、分析の前から、答えを知っている。そんなもの分析することは意味がない。これは先回書いた理論負荷性の問題であり、解釈学的循環というやつだ。問題はこれをどう乗り越えたら良いのかという問題である。

それは「眼差し次第だ」という指摘では留められない。なぜなら、それは「何でもあり」の悪しき相対主義に陥るからである。しかし、一方では、多様性は認めるべきだと考えるほうが良いだろうと思う。そして、究極的な真理はあり得ないと考えたい。物理学の理論でさえ書き換えられるのだから・・・。したがって、眼差し(理論)は、事実が構成する抵抗のネットワークを最小にするように努める必要があるだろう。遺跡は宇宙人のものだという仮説と過去の人間のものだという仮説に抵抗する事実のネットワークの強弱は当然あるだろう。

遺跡は過去人間の何らかの活動の場であったものが埋没したものである、と考えたいが、これを論理実証主義で証明することができるのだろか。この言明あるいは仮説を検証する手段が思いつかないのだ。考古学にとっては公理のような言明で、これを検証することが可能な仮説でなければ、真でも偽でもない言明としなければならないのだろうか。例えば、過去の存在を証明することができるのだろうか(この言い方が誤った問題設定なのかもしれない)。この話題はもう少し熟成させなければならないと思っている。

さて、遺跡は何らかの人間活動が行われた場所が埋没したものだと考えよう。当然のことだけれども、先述したMicheal ShanksChristpher Tillyの『Social Theory and Archaeology』の指摘は妥当だろう。発掘調査は埋没した人間活動の場におけるさまざまな多様性(カオス状態)を記録し、さまざまな空間的分布パターンを抽出し、層位学の原理にしたがって秩序化するものだろう。

私たちは当然の事としてこの作業を繰り返している。止まれ、それは当然の事なのか。立ち止まって、経験をふりかえってみよう。1970年代頃までの発掘では、遺跡が人間活動の場が埋没したものだと認識されていた。しかし、廃棄のパターンなどは考えたことがなかった。遺跡がその場の人間の行動様式を刻印しているとは考えていなかった。もちろん、分布の近接性=一括性や層位は記録されたが、それは編年作業に供されることが目的だったと言って良いのではないか。つまり、「遺跡は人間活動の場が埋没したものだ」という言明の埋没したものにウェイトがあるのである。埋没は経時の結果であり、それは必然的に、「遺跡に経時が刻印されているものなのだ」という言明に言い変えることができるのではないだろうか。

Micheal ShanksChristpher Tillyが言う空間的パターンの抽出は人間行動の痕跡という概念を下敷きにしていると考えるべきだろう。「遺跡とは何か」という問いかけの答え、「人間活動の場が埋没した場」はプロセス考古学の理論によって、「遺跡とはその場所で活動した人間の行動様式が化石として埋没したもの」だと考えられるようになったのである。

話題を展開すれば、緑川東遺跡の敷石住居をどのような眼差しで観るのかということが明示されることが必要である。もちろん、すでに、触れたように、できる限り事実のネットワークの抵抗が少ない眼差しである。

だとすれば、四本の大型石棒が並置され、それは石棒の機能の一つを継続中なのだと考えること、敷石住居の建築部材の一部であると考えること、などなどの「気づき」はどのように仮説化されるのか、あるいは、どのように、最も事実の抵抗のネットワークの抵抗が少ない言明にすることはできるのかを考えなければならない。

しかし、このような議論の前提に次のようなことを考えておかねばならないのではないだろうか。

私たちの記述は個々の観察事実を記述するのではなく、常に、敷石住居なるもの、石棒なるものという実体概念を背景として記述することになる。敷石住居という概念を使わないで敷石住居を記述することを考えればわかっていただけると思う。そもそも言語はそういうものなのだと思う。しがって、ある種の普遍性を前提(普遍性という言い方に抵抗があるので、私は言及する対象の全てに同一性を付与できると言いたい)としなければ成立しない。したがって、観察事例が一例だけでは困るような気がする。私の言い方に代えれば、言及される並置された石棒と同一性をもつ全てものが例示される必要がある。そして、さらに、同一性が明示的に言明されていなければならないと思っている。

ポパーが指摘するように、普遍性への言及は同一な事物の経験を経験の内において常に経験することで可能となり、一つでも異なれば、その普遍性は破綻するのであるから、