クラシック音楽とアート

クラシック音楽やアートについて語るブログです

Welcome to Classical Music & Art

クラシック音楽とアート・コンテンツ一覧
最新記事は二番目のコラムから

音楽関連の記事

     作曲家別作品一覧

美術関連の記事 

     アーティスト別作品一覧
      海外のアーティストの作品一覧
     日本のアーテストの作品一覧




龍子の大画面と大衆芸術|鳴門 火生

 新聞社や雑誌社の仕事を手掛けたことで、大衆に接し、時代の動向や文化を肌で感じた川端龍子は、作品表現も大衆を意識しなければならないと考えるようになりました。その結果、最もわかり易く単純な手法として提案したのが、大画面の絵でした。一般の建物ではなく、美術館でなければ見れないような大画面にしてこそ来館する意味があるというわけです。
 《火生》は、そのコンセプトに至るもう一つのきっかけとなった作品で、不動明王に取材し、それをヤマトタケルに重ね、まさに今、火から生まれたかのように金泥で描かれた炎に包まれています。一般的に日本画を観る環境はあまり明るくない照明下で展示されるというのが慣習のようになっていましたが、そのような環境下では、この絵の炎の光が足りないことに気づき、そのことからも明るさが自在に調節出来る美術館での展示が良いと考えるに至りました。


川端龍子 火生
◇ 火生 1921(大正10)年 絹本・彩色


 そのコンセプトの下に大画面で制作された《鳴門》は、龍子の代表作となっています。このようなサイズの作品は古来から屏風絵があり、珍しいものではありませんが、青を主体としてほぼ画面全面に海面が広がり、鳴門の渦の激しい動きがめくるめく展開されている動的な表現は、江戸後期の浮世絵にみられはするものの、画面サイズの大きさにおいて、その迫力は圧倒的です。そして、鳴門の海の深い青を観るには、明るい照明も必要となります。



川端龍子 鳴門
◇ 鳴門 1929年 絹本・彩色 (山種美術館ミュージアムショップ

参考記事: 日本神話の抒情|歌川広重 天の橋立|六十余州名所図会
参考記事: 歌川広重 東海道五十三次|山種美術館 開館50周年記念特別展

 龍子は、そういった独自の主張と折りが合わなくなった日本美術院同人を脱退し、自身で青龍社を立ち上げ、晩年になって、このような大画面の自作品を展示できる美術館を設立しました。現在は、大田区立龍子記念館として運営されていて、今回の山種美術館での回顧展でも龍子記念館所蔵の作品が多数展示されています。
 芸術家が、キャリアの晩年になってから、自身の作品のために施設を建てるケースは他にも多くの例があり、例えば、ダリ劇場美術館だったり、あるいは、最も巨大な例は、ワーグナーのバイロイト祝祭劇場だったりします。自作のための理想の場を作りたいという願望は、誰にでもあると思いますが、それを実現できるのは経済的な難関を突破できる超一流でしかあり得ず、龍子が近代日本画における巨匠であることを証明しています。

龍子記念館


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  川端龍子

  Ad by amazon

  
  人気ブログランキングへ
  

ヴァイオリン 500年の物語|ジェームズ・エーネスと語る楽器の神秘|クラシック音楽館

 昨夜のクラシック音楽館は、「ヴァイオリン500年の物語」と題し、現代を代表するカナダ出身の名手ジェームズ・エーネスの演奏とともに、ヴァイオリンの歴史を巡るドキュメンタリー構成でした。ヴィヴァルディ、バッハ、パガニーニ、そしてブラームスの名曲の数々をエーネスの超絶的な技巧によって聴くだけでなく、ヴァイオリンという楽器の謎に迫る興味深い内容でした。

 特に日本人ヴァイオリン修理職人の久保田氏のノウハウには、感心させられました。400年前の職人のヴァイオリン造りの手法を探求し、彼らはヴァイオリンの表板(おもていた)のどこで叩いても均一な音程になるように造っていたというのです。通常、18世紀に造られたヴァイオリンは、時と共に補修が必要となり、板を補強するパッチを裏にあてたり、表面の塗装を塗り直したりと、後から様々な手が加えられていますが、久保田氏は、その補修がオリジナルの楽器の良さを損ねているという考えから、逆にオリジナルに迫っていきます。エーネスが、久保田氏を訪ね、その論理をきいて、実際に久保田氏が造ったヴァイオリンの音色を確認するという趣向を凝らした企画では、多少のリップサービスはあるにせよ現代の名手がその音質の良さを認めています。音楽という芸術が、作曲者と演奏者だけでなく楽器職人や、その他ホールの設計者等様々な人々の英知によって成り立っている芸術だということを改めて実感させられました。

関連記事: もうひとつのショパンコンクール

 番組では、そのヴァイオリンの音色を科学的に測定・評価しようという研究も紹介されています。音の指向性に着目して電通大の無響室で測定をしたところ、ストラディヴァリの指向性がモダン楽器と異なる特性を持つというのです。それによると、他のヴァイオリンでは、低音域が下方向、高音域が上方向の二つの指向性を持ちますが、ストラディヴァリは、それらに加えて1KHz付近の中音域で横方向、つまり演奏者の正面から聴衆へ向かう方向の指向性を持ち、さらに上下の指向性にも、変動する「ゆらぎ」があるというのです。修理職人の久保田氏制作のヴァイオリンをこの測定で評価したところ、最初はストラディヴァリの特徴が得られていませんでしたが、火山灰を使用していたという記録にヒントを得て、表板に軽石の処理を施すことによって表板と横板の音の高さを相対的に調節することでストラディヴァリに近づくことができ、久保田理論の正しさが裏付けられたとしています。

 久保田氏の理論は、独創的でわかりやすく、かつまた、火山灰を試みるなどの柔軟性もあり、まさに職人芸の極みを感じさせます。ただ、紹介されていた測定・評価の手法に関しては、何故、音源の近傍の指向性だけに着目しているのかの根拠が示されていません。聴衆が聴くヴァイオリンの音は、測定している近傍から遠く離れた位置にあるのが一般的であり、そこでは、音波はすでに拡散減衰していて、ホールの壁面からの反射なども到達するわけなので、近傍における指向性が聴衆が感じる音質と直接的な相関があることを示さなければならないと思います。多分、そのあたりの話は自明の理として番組では省略しているのかもしれませんし、また、逆に聴衆の耳の位置での評価となると、現実的には何を指標にすればよいのかが難しいという問題もあるのでしょうが。

 ヴァイオリンはラファエロ・サンティの時代にすでに存在し、また、弦楽器に範囲を広げれば、そのルーツは、エーゲ海のクレタ文明の《彫像・竪琴ひきの男(紀元前2800年~2300年頃)》にまでさかのぼります。久保田氏の挑戦は、5000年近くに渡る弦楽器の歴史から培われた職人技術の最高峰に君臨するジュゼッペ・ガルネリやアントニオ・ストラディヴァリを復活させる意味で、貴重なワークです。



ラファエロ パルナッソス
◇ ラファエロ パルナッソス 1510-1511年 フレスコ (by wikimedia commons)


 それにしても、エーネスは大したヴァイオリニストです。2002年のベートーヴェンの協奏曲は、当時まだ20代の若者であったにもかかわらず、そのヴァイオリンが奏でる旋律線の落ち着いた佇まいといい、ピュアな音色といい、完璧なテクニックだけではない音楽的な表現をすでに心得ていて、終楽章だから派手に弾きまくるというわけではなく、気品に満ちた雰囲気を漂わせていました。ふさふさの髪の毛のパーヴォ・ヤルヴィも、エーネスにつられてか、今よりずっと控えめで、大騒ぎしないところがむしろ新鮮です。終楽章だけでなく、全楽章を通して聴きたいところでした。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


Ad by amazon


人気ブログランキングへ


ヒエロニムス・ボス工房: トゥヌグダルスの幻視|ベルギー奇想の系譜展

順回展「ベルギー奇想の系譜」が、最終巡回地の東京・渋谷のBunkamuraにきました。

ベルギー奇想の系譜展

 《快楽の園》(プラド美術館蔵)で知られる、ヒエロニムス・ボス(1450 - 1516年)に端を発した奇怪で幻想的な絵画は、16世紀にボス・リバイバルを引き起こし、後のベルギー絵画へと受け継がれていき、シュールレアリスムのルネ・マグリットや現代のヤン・ファーブルにまで至ります。
 
参考記事: 「快楽の園」(ヒエロニムス・ボス)に見る衝撃

 今回の展覧会は、それらの幻想絵画を年代順に系譜として展示するものです。

Ⅰ 15-17世紀のフランドル美術
Ⅱ 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義
Ⅲ 20世紀のシュルレアリスムから現代まで

 ヒエロニムス・ボスが残した40点あまりの奇怪で、時としてユーモアを感じさせる特異な絵画は、1516年にボスが没した後に一大ブームを引き起こしたそうで、今回、ボスの作品は無いのですが、ボス以外の後進が如何にその影響を受けたかを知ることができます。中でも、ボス工房の作とされる《トゥヌグダルスの幻視》は、最近の科学的調査の結果、ボスの真作とされる絵画と同じ時代の同じ材質の板が使用されており、ボスの生前に描かれたものであるとされた作品です。


ボス工房 トゥヌグダルスの幻視
◇ ボス工房 トゥヌグダルスの幻視 1490 - 1450年頃 油彩、板


 例えば、中央の「たらい」のような容器の左手前にいる、口がラッパのようになっている奇妙な動物は、ボスの祭壇画《最後の審判》の中央の絵の左端に居る青い怪物から引用されていると思われ、このことからもボス作品との深い関係性がうかがえます。
  この作品は、アイルランドの修道士・マルクスが記したという「トゥヌグダルスの幻視」に取材しており、生死の狭間を彷徨った放蕩の騎士・トゥヌグダルスが見た幻想を描いています。左下の天使に付き添われた人物がトゥヌグダルスで、その向こうに繰り広げられているのが、彼が天使に見せられている様々な罪に対する地獄の懲罰を表しています。例えば、右上のベッドに寝ている女性の怠惰に対しては様々な怪物が襲いかかり、その下では、大酒飲みや大食の戒めとして、無理やりワインを飲まされています。
 

ボス 最後の審判
◇ ヒエロニムス・ボス 最後の審判 1482 - 1516年頃 油彩、板 (ウィーン美術アカデミー:展覧会では展示されていません)


 ボスの家系は、ドイツの古都アーヘン出身で、父親の世代に、現在のオランダ南部のセルトーヘンボスへ移住したそうです。当時は、ブルゴーニュ公国に属していたそうで、この周辺地域は、スペイン、オランダ、オーストリア、フランス等様々な外圧によって支配されてきた歴史があります。さらにボスの祖先は、アーヘンの出身なので、身の周りには様々な文化や風俗が氾濫していたことが想像されます。アーヘンといえば、音楽ファンでには、20世紀の大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが、そのキャリアの初期にアーヘン私立歌劇場の音楽監督を務めたことで知られるドイツとオランダとベルギーの国境に接する都市です。ドイツから見れば片田舎でありながら、現代においても歌劇場の運営が可能なことからも、その文化の充実ぶりがうかがえます。
 ベルギーは、従って、そのような地理的・歴史的事情から、オランダ語圏とフランス語圏、少ないながらもドイツ語圏まで存在するという複雑系の国として知られ、さらにはEUの本部がブリュッセルにあるという、現代においても引き続きその複雑な歴史を背負っていると言えるでしょう。ボスに始まる啓蒙や皮肉を内包した絵画の系譜は、そうした複雑な土地柄が故に生まれ、市民達に親しまれたということが、この展覧会を通して観ることで多少なりともそれを理解できます。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ヒエロニムス・ボス

Ad by amazon


人気ブログランキングへ



青の効果: 花と鉋屑 慈悲光礼讃|川端龍子展

 20世紀初頭の大正の時代には、東京にもまだ多く残る自然を切り崩しての開発が進行していたようです。川端龍子と同世代の岸田劉生は、代々木に居を構える時に、開拓が進む中で表層をのぞかせる武蔵野の赤土を題材に作品を描きました。

参考記事: 岸田劉生の赤土|道路と土手と塀|on 美の巨人たち

 同じ頃、川端龍子も東京大森に自宅を新築したことから、その際に、それまでの情景が住宅開発によって変わっていく様子を目の当たりにしました。田畑だった土地が、蓮田を残して次々と宅地に代わっていったそうで、《花と鉋屑》は、近隣で見たその時の様子を描いたものです。住宅建築のために出た鉋屑(かんなくず)が地面に散らばり、その向こうに蓮の花が咲いているという、今の都内では見ることが出来ない情景が、当時の大森では当たり前のようにあったのでしょう。色彩は背景の群青を基調に、蓮の花には淡い金泥が施され、鉋屑にも金泥が使われている日本画ですが、曖昧な輪郭や筆触には西洋画の空気が漂い、不思議な詩情を漂わせています。


川端龍子 花と鉋屑
◇ 花と鉋屑 1920年 絹本・彩色

 また、これより前に描かれた《慈悲光礼讃》では、朝の木漏れ日が射し込む光の筋や夕陽を背にした牛の表現に、やはり洋画風のテイストを感じさせますが、描かれているのは紛う方ない日本の景色です。ここでも青を基調とした彩色が際立ち、実際に青いはずがない樹の葉が、逆光によって影になっている様を強調しているだけでなく、神聖な雰囲気を醸し出すのにも成功しています。


川端龍子 慈悲光礼讃 朝

川端龍子 慈悲光礼讃 夕
◇ 慈悲光礼讃(朝・夕) 1918年 絹本・彩色

 古今東西、多くの画家が、青や群青を使うことによって作品に独特の効果をもたらしました。ピカソには、「青の時代」があり、速水御舟にも群青に凝り固まった時代がありました。そして、歌川広重は、広重ブルーと称されるほどに、青を効果的に用いました。川端龍子も、日常の様々な場面における光と影の観察から、そこに青を用いる効果を探求し、自作の絵の中で、それを応用した独特の表現へと昇華させています。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

川端龍子

Ad by amazon


人気ブログランキングへ



R.シュトラウス: 《ドン・キホーテ》|ヨーヨー・マ&ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団

 先日BSプレミアムで放映された、ヨーヨー・マの《ドン・キホーテ》を聴きました。

R.シュトラウス: 交響詩《ドン・キホーテ》Op.35
マスネ: 歌劇《ドン・キホーテ》から間奏曲第2番《ドゥルシネアの悲しみ》
エリソンド: 《ラテンアメリカ舞曲》から《ブエノスアイレスの秋》

ヨーヨー・マ(Vc)
マキシミリアン・ホルヌング(Vc)
ウェン・シャオ・ツェン(Vla)
アントン・バラコフスキー(Vn)

バイエルン放送交響楽団
マリス・ヤンソンス(Cond)
(2016年1月29・30日 ガスタイク フィルハーモニー)

 今年は、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの没後400年にあたるということで、代表作《ドン・キホーテ》に取材したR.シュトラウスの交響詩を、ヨーヨー・マ、ウェン・シャオ・ツェンの独奏コンビとヤンソンス/バイエルンRSOで一月に演奏したものが放映されました。
 チェロパートが主人公のドン・キホーテを、そしてヴィオラがお供のサンチョ・パンサを担当するというこの曲は、交響詩といっても、音楽的にはチェロとヴィオラを配した二重協奏曲の色合いが濃く、特にチェロのパートが重要な役割を担います。ドン・キホーテは、自分が英雄的な騎士だという妄想にとらわれた言わば狂人なのですが、その滑稽とも言える行動を音楽によって巧みに描きつつ、一方で、ドン・キホーテへの同情を込めた哀愁を感じさせるという、R.シュトラウスの天才を余すところなく発揮した名曲です。
 R.シュトラウスは、《家庭交響曲》や《英雄の生涯》そして、《四つの最後の歌》などで、人生に絡めた音楽を残していますが、この《ドン・キホーテ》も、それらと共通したものが背景にあるのかもしれません。《英雄の生涯》では、英雄を自分とし、その批判者たちとの戦いを意識していたとも言われていますが、もしそうだとすれば、その一年前に作曲した《ドン・キホーテ》が、トリガになっていたとも考えられます。そうではなくて、もしかしたら、最後の二曲の交響詩で、自分は英雄なのか、それともドン・キホーテなのかと自問し、その結論として最後に《英雄の生涯》を置いたのではないかというのは考えすぎでしょうか。


Memo
 ̄ ̄ ̄

R.シュトラウス

 ヤンソンスの緻密なコントロールによって、バイエルンRSOの機能美が際立ち、哲学的なムードすら漂わせる。ヨーヨー・マのチェロによるドン・キホーテの主題も、騎士の真剣さを表現していて、だからこそなおさら滑稽に聴こえる奥の深さを感じさせる。オーケストラは、第三変奏の後半で、徐々に高揚していくロマンティックな旋律を甘美で壮麗な弦の音色で奏でる。そして、第5変奏は、主人公のドン・キホーテ、すなわちチェロのヨーヨー・マが、姫への慕情を語る、情感のこもった繊細な音色を披露する聴かせどころである。壮麗で色彩豊かに奏でる第7変奏を経て、第8変奏の終わりのフルートの美麗な音色が聴きものである。そして、クライマックスの決闘の場面(第10変奏)は、圧巻だ。狂ったように響き渡る金管、そしてティンパニが最初の一打を鮮烈に響かせ、その後運命的な連打を重々しく繰り返す。そして、死を迎える終曲でのチェロの感傷的なメロディーは、まさに茜色に染まる夕暮れの如き音色を有し、しかし耽美な音像の中に、狂った騎士の哀愁を漂わせる。オーケストラの音量バランスもこれ以上ないほどに的確で、チェロの音をかき消すことはなく、また、木管は昔日の滑稽を回想する。臨終の際のグリッサンドの弱々しさが見事だ。


マスネ

 いかにもマスネらしい木管による柔らかい前奏に続いて、静かにチェロが入ってきてロマンティックな旋律を表情豊かに奏でる。理屈抜きに美しい弦楽の調べが広がり、バイエルンRSOのヴァイオリンがソロを包み込むように優しく絡む。


エリソンド

 今をときめく新鋭チェリストのマキシミリアン・ホルヌングとヨーヨー・マによるチェロの二重奏は、ホルヌングが鮮度の高い音色と見事な弓のコントロールから生み出される絶妙のニュアンスで主旋律を奏で、マは伴奏にまわるが、その圧倒的なリズムでホルヌングの抒情をサポートし、華やかに締めくくる。


 ̄ ̄ ̄

 ヤンソンスが操るバイエルンRSOは、世界のトップ・オーケストラの面目躍如のヴィルトゥオジティーを発揮して、R.シュトラウスの描いたコミカルな楽想からロマンティックな楽想までを雄弁な表現力と高度な技巧で奏で、かつ絶妙な音量と音色の制御によって独奏陣とのバランスを保っていました。ヨーヨー・マのドン・キホーテも、R,シュトラウスが意図したコミカルと哀愁を見事に融合させる名演奏でした。ヴィオラのサンチョ・パンサは、無難にこなしてはいるのですが、明るい音色がやや趣に欠けるところがあるように思います。しかし、脇役なので、役どころの軽さをだそうとしているのかもしれません。

 圧巻は、若手チェリストのマキシミリアン・ホルヌングによるアンコールの最終曲で、チェロという比較的地味な楽器から、情感やダイナミズムを余すところなく引き出す生き生きとした弓さばきで聴衆を唸らせました。ホルヌングは、元バイエルンRSOの首席奏者で、この演奏会では古巣のオーケストラに入って演奏していましたが、最後にマとの共演で素晴らしい音色を聴かせてくれました。


マキシミリアン・ホルヌング&ヨーヨー・マ



 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

R.シュトラウス

Ad by amazon


人気ブログランキングへ


花鳥双六|龍子の木版|川端龍子展

 描いた絵を売って生計を立てるのは中々難しく、ごく一部の特別な人に限られるでしょう。従って、無名のうちは別の職に従事しながら、そのかたわらで描き続け、もし万一売れ出したら画家として独立するというのが現実的な路線だと思われます。そういった事情は、川端龍子の時代でも同様で、龍子の場合は、新聞や雑誌の挿絵や本の装丁を担当することで収入を得ていたそうです。当時、実業之日本社が刊行していた「少女の友」「日本少年」「婦人生活」といった雑誌の挿絵を、専属契約を結んで担当していました。少年少女向けの雑誌は、テレビの無い時代の貴重な娯楽だったそうで、インターネットが普及した現代とは異なり、出版社の一大収入源となっていました。中でも、「少女の友」の新年号に毎年付録として提供されていた龍子の絵による双六が大人気で、これによって龍子の名が一躍有名になったそうです。それもあって、龍子という名前も「りゅうし」ではなく、「りゅうこ」という名前の女性だと思っていた人も多かったといいます。


川端龍子 花鳥双六
◇ 花鳥双六 (「少女の友」第10 巻1 号付録) 1917年出版 多色刷木版


 刊行物とはいえ、正真正銘の木版画であり、当時の少女文化を知る意味でも興味深い上に、花鳥画風になっているので、大人が観ても楽しめ、今となっては作品と言っても過言ではありません。当時の子供たちにとって動物園はまだ珍しく、綺麗に彩色された様々な種類の鳥や花に心を躍らせたのでしょう。
 この《花鳥双六》を制作した頃、すでに龍子は日本画に転向していいましたが、洋画家の鶴田吾郎(1890- 1969年)と組んで、「スケッチ倶楽部」を創設し、洋画を学ぶ初心者のために「スケッチ練習禄」を創刊しました。《第一日》と題された木版画は、「スケッチ練習禄」に、第一日めの教材として掲載された作品だと思われます。この絵が教材としてどのように使用されのかは不明ですが、向こうの木の葉の隙間から顔をのぞかせている陽の朱色や空の青色に浮世絵風を感じさせながら、やや傾いた塀の角度等には、雑誌の挿絵的な軽妙さがあり、そこにひょっこりと姿を現した犬に、時間軸上の変化の要素を織り込んだ味わい深い作品として成り立っています。
 

川端龍子 第一日
◇ 第一日 1916年 多色刷木版


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 

  川端龍子

  Ad by amazon

  
  人気ブログランキングへ
  


ショスタコーヴィチ: 歌劇《カテリーナ・イズマイロヴァ》|トゥガン・ソヒエフ/ボリショイ歌劇場

 ショスタコーヴィチの問題作、歌劇《カテリーナ・イズマイロヴァ》が、先日、BSプレミアムで放映されました。


ショスタコーヴィチ: 歌劇《カテリーナ・イズマイロヴァ》

カテリーナ(ジノーヴィの妻): ナージャ・ミヒャエル(S)
ジノーヴィー(製粉業商人): マラト・ガリ(T)
ボリス(イズマイロフ家の舅、ジノーヴィの父): タラス・シュトンダ(Bs)
セルゲイ(使用人): ジョン・ダザック (T)
アクニーシャ(女使用人): オクサナ・ゴルチャコフスカヤ(S)
ソネートカ(女囚人): スヴェトラーナ・シロヴァ(A)

演 出:リマス・トゥミナス

ボリショイ劇場合唱団
ボリショイ劇場管弦楽団
トゥガン・ソヒエフ(Cond)

(2016年11月12日 ボリショイ劇場)

 
 この作品は、ショスタコーヴィチが1932年に作曲した、ニコライ・レスコフ原作の歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を改訂したものです。当時政権の座にあったスターリンが観劇した際に退廃芸術の烙印を押され、機関紙「プラウダ」で批判されたことから、長年上演禁止になっていたものを、1956年から改訂に着手し、《カテリーナ・イズマイロヴァ》とタイトルを改めて、63年になって再度上演の許可が下りたという、いわくつきの歌劇です。



あらすじとMemo
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

第一幕
 イズマイロフ家に嫁入りしたカテリーナは、淡白な夫ジノーヴィとの生活に退屈し、意地の悪い舅のボリスの虐めに合っている。そんな時、新たに雇われた女たらしの使用人セルゲイが現れ、ジノーヴィの留守中に、女使用人のアクニーシャを手ごめにしようとする。止めに入ったカテリーナだが、セルゲイの魅力に惹かれてしまい、夜、自室に押し入ったセルゲイにレイプされてしまう。

 最初の見どころは、セルゲイと男たちがアクニーシャを虐める場面で、アクニーシャ役のオクサナ・ゴルチャコフスカヤは、逃げ回る激しい動きの中で、可憐な演技と歌唱を披露する。そして、最大の見せ場は、第三場のレイプシーンである。露骨な演技を避けてはいるものの、ナージャ・ミヒャエルのエロティックな演技は見事であり、さらに、ショスタコーヴィッチの衝撃的な音楽も相まって、その場面を生々しく描写する。トゥガン・ソヒエフ/ボリショイ劇場管弦楽団は、妖しくも劇的な音色で濡れ場の緊張感を演出している。


第二幕
 夜、独りカテリーナへの思いを歌うボリスだが、カテリーナとセルゲイの情事の場面を見つけ、セルゲイを折檻する。カテリーナは、毒を盛ったキノコ料理をボリスに食べさせて殺してしまうが、キノコ料理にあたったと誤魔化し、監禁されていたボリスを助け出して、二人は再び愛欲に浸る。そこへ夫ジノーヴィーが帰ってきて二人の情事を発見するが、二人によって殺されてしまう。

 カテリーナがボリスの毒殺を誤魔化す場面で、妙に滑稽な音楽を持ち出すショスタコーヴィチのシニカルさから、葬送の重苦しさへと展開する管弦楽を、ソヒエフが、精緻にかつ豪快に表現する。助けだされたセルゲイとカテリーナが絡む場面は、第一幕とは異なり、ロマン派音楽のような美麗なメロディーで装飾され、またしてもカテリーナのナージャ・ミヒャエルが官能的な演技を披露する。また、帰宅したジノーヴィを殺害する場面でも、ショッキングなティンパニの一打に続いて、場面には不釣合いなコミカルな木管が印象的であり、それがセルゲイとカテリーナの呆然とした表情と重なって常軌を逸した殺人者の心理を描き出す。


第三幕
 カテリーナとセルゲイは、ジノーヴィの死体を隠して結婚式を挙げるが、式の最中にジノーヴィの死体が発見され、二人は逮捕されてしまう。

 最初は、祝祭のムードで溢れる式の場面が、合唱が入ってくると徐々に不穏な空気が漂い始める。その空気の変化が、ボリショイ劇場合唱団とオーケストラによって鮮明に映し出される。


第四幕
 カテリーナとセルゲイは、流刑者となってシベリアへと送られる。道中、カテリーナはセルゲイに会うことが出来るが、すでにセルゲイの心は離れていて、カテリーナを人殺しとなじり、若い女囚人のソネートカに手を出す。失望したカテリーナは、ソネートカを道連れにして湖に身を投げる。
 
 暗い舞台と囚人たち、そして、オーケストラが紡ぎだすシリアスで重苦しい音色が、セルゲイに裏切られたカテリーナの悲惨さを、目に余るほど克明に描き出す。カテリーナの最後のアリアの間、弦のトレモロが暗く陰鬱な結末を予感させ、そして、オーケストラがショスタコーヴィチ得意の小太鼓を打ち鳴らすと、舞台は終焉へと向かう。


 ̄ ̄ ̄

 この歌劇の筋は、意地悪な舅や、さえない夫など、置かれた身の上には同情すべきものがあるものの、愛欲に溺れた主人公の没落を描くものであり、カテリーナの立場に立って物語を俯瞰すると、不道徳に対するいましめに満ちた内容となっています。しかし、その不徳の描写が、レイプであったり、セルゲイの不実であったりするところで当局の逆鱗にふれたのは容易に想像でき、ある程度頷けるような気がします。個人的にも、積極的にもう一度観ようという気にはなれない作品ではあります。
 ただ、ソヒエフが操るオーケストラの鮮烈な表現によって、ショスタコーヴィチのただならぬ音楽的な才能を聴くことが出来るという意味では、充分に価値のある公演でした。歌手陣では、主役のカテリーナを歌ったナージャ・ミヒャエルが、セクシーな姿態でエロティシズムを演出し、愛欲に溺れて落ちて行く、今風に言えば肉食系の女性像を見事に演じ、歌っていました。また、脇役でしかないのですが、第一幕のアクニーシャ役のオクサナ・ゴルチャコフスカヤのチャーミングな名演技と歌唱に好感しました。一癖も二癖もある性格ばかりの登場人物に囲まれて、唯一常人としての役どころのアクニーシャには、一服の清涼剤を感じさせるものがあります。
 演出と振り付けは、ボリショイの公演らしくバレエチックな躍動感を観ることができ、舞台美術はシンプルで、演出や舞台美術としての主張を前面に押し出すことのない、自然なものでした。


ショスタコーヴィチ カテリーナ・イズマイロヴァ
◇ ミニマルな舞台美術


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ショスタコーヴィチ カテリーナ・イズマイロヴァ

Ad by amazon


人気ブログランキングへ


没後50年記念 川端龍子展|山種美術館

 今年で没後50年を迎えた日本画家の川端龍子(1885-1966年)の回顧展が、東京広尾の山種美術館で開催されています。

第一章 龍子誕生 ―洋画、挿絵、そして日本画―
第二章 青龍社とともに ―「会場芸術」と大衆―
第三章 龍子の素顔 ―もう一つの本質―

 川端龍子の世代は、安田靫彦(1884年生まれ)や、少し若いながら速水御舟など、日本画にそれまでに無かった斬新な風を吹き込んだ人がいて、それまで脈々と流れていた日本の伝統と西洋的な絵画のテイストが融合しだした時代と言えるのかもしれません。渡辺省亭が渡欧して西洋絵画を学び、写実を取り込んだのが最初の一歩で、龍子に至ると、最初に油彩画を勉強したというキャリアを有します。今回の展覧会では、龍子が初期に描いた油彩画が、小品ながら展示されており、日本画へ転向した後の画風のルーツを紐解くヒントを与えてくれているようにも思えます。龍子が描いた油彩画は、西洋絵画の写実に着目した省亭と異なり、その着眼点はレアリスムのアカデミックな写実絵画にはありません。


川端龍子 風景
◇ 風景(平等院) 油彩、カンヴァス 12.7×21.7cm

川端龍子 女神
◇ 女神 油彩、カンヴァス 27.7×12.6cm 


 上の《風景》という作品は、タイトルが示すとおりの風景画で、筆致はどう見ても印象派のそれであり、夕暮れ前の(あるいは日の出の)陽の光に染まる日本建築の屋根や木々に照射する光を鮮やかに捉えている小品です。一方、《女神》では、もしかしたら竜宮城に取材したのかもしれない海中を舞台にした神秘性を漂わせていて、印象派風の《風景》とは一線を画し、ギュスターヴ・モロー的な象徴主義の香りが漂います。
 展覧会では、上記したようなテーマで各章が進行していく中で、生活のために関わったという雑誌の装丁や挿絵の仕事によって培ったジャーナリズム性にスポットを当てています。しかし、それだけでなく、これらの油彩の展示を観るにつけ、龍子の動的でダイナミックな絵画表現が、西洋絵画の学びによっても培われていったのではないかと思う次第です。

 展覧会は、8月20日まで開催されています。

山種美術館: 開催中の展覧会



 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

川端龍子

Ad by amazon


人気ブログランキングへ


サロネン/フィルハーモニア管弦楽団来日演奏会|オール・ベートーヴェン・プログラム

 昨晩のクラシック音楽館では、サロネン/フィルハーモニアの来日演奏会から、オール・ベートーヴェンプログラムが放映されました。ショパン・コンクールでの快挙がいまだに記憶に新しいチョ・ソンジンをソリストに招いてのピアノ協奏曲を前半に据えた、中々魅力的なプログラムでした。


フィルハーモニア管弦楽団来日演奏会

ベートーヴェン:
序曲《命名祝日》ハ長調 Op.115
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
交響曲第7番 イ長調 Op.92

チョ・ソンジン(Pf)
フィルハーモニア管弦楽団
エサ・ペッカ・サロネン(Cond)
(2017年5月21日 横浜みなとみらいホール)


Memo
 ̄ ̄ ̄

命名祝日

 古楽器演奏的なアクセントを導入したサロネンの演奏様式は、ベートーヴェンのノスタルジックな響きと同時に、生き生きとした弾力性を有する。かといって、モダンオーケストラの重厚さと壮大さを失うことのない微妙なバランスの上に成り立っている。


ピアノ協奏曲第3番

 サロネン/フィルハーモニアは、前の《命名祝日》と同様のコンセプトで、弾力性に富んだ明るい音色で序奏を奏でる。フィルハーモニアは、カラヤン時代からの伝統なのか、弦楽器を主軸とした精緻でシュアな音色を奏でる。そして、チョ・ソンジンのピアノは相変わらずで、ショパン・コンクールで聴かせたあの清涼感溢れる透き通った音色を響かせる。それに呼応してフィルハーモニアの弦も、その精緻な音色に艶やかな色彩が加わり、これがベートーヴェンなのかとさえ思わせる極めてクリアで清純な音像を繰り出す。ただ、第一楽章終盤のカデンツァでは、もう少し粘着質の深淵さも欲しいところだ。
 一方、ベートーヴェンのピアノ協奏曲中最も美しい第二楽章だとチョ自身が絶賛する緩徐楽章では、確かに思い入れたっぷりの抒情的なピアノを聴かせてくれる。中低域が奏でる和音が甘美で蕩けるような音色の一方で、高音域に行くと一転してクリアで澄みきった音色の旋律線を描き、全体として深みと繊細さの共存に成功している。音の強弱によってニュアンスを設けるのではなく、タッチとペダルによって響きと音色に変化をつけて、絶妙の味わいを生み出している。
 第二楽章ではピアノのサポートに徹していたオーケストラは、終楽章に入ると、例によって弾力性に富んだ生き生きとした音像でもって、チョ・ソンジンに挑む。しかし、オケとピアノは次第にその響きを融合させてゆき、それでいて渾然一体となるのではなく、互いに主張しつつ、シュアな音像を築きあげてゆく。清涼な音色で綴るピアノと、確固としたリズムを刻むオーケストラによって、比較的遅いテンポをとりながらも終楽章の華やぎを損なうようなことはなく、締めくくる。


交響曲第7番
 
 フィルハーモニアの音色は、明るく、あか抜けているが、決してそれだけではない深みがある。それは、サロネンのエネルギッシュな指揮によって引きだされ、やや冗長なこの曲の序奏を退屈させることなく聴かせる。次いで現れる楽想を、ワーグナーがリズムの権化と評したように、サロネン/フィルハーモニアは、生き生きとした弾力性に富んだリズムを展開してゆく。弦楽器の主旋律を主役に持ってきつつも、金管の輝かしさでそれを装飾し、煌びやかな第一楽章にまとめあげている。

 第二楽章は、うって変って音量を絞って静粛な入りであり、葬送行進曲風のこの楽章の色を出しているが、テンポは比較的速く、音質はそれほど軽くはないのだが、やや抒情性に欠ける。サロネンは、指揮棒を置いて、両手で細やかな表情付を行い、ところどころに斬新な表現はあるのだが、それが果たしてこの楽章に適したものかどうかはいささかの疑問が残る。

 一方、快速に飛ばすスケルツォは、エネルギッシュかつ色彩感豊かで、スケール感もある。緻密に制御されたデュナーミクによって、陰影をつけているが、しかし、それが嫌味にはならない。中間部に現れるトゥッティでは、テンポルバートして朗々と歌うところが、前世紀的な香りを感じさせる。ただ、ティンパニの鳴らし方には古楽器演奏的なアクセントが見受けられる。


ベートーヴェン交響曲第7番第3楽章


 終楽章も、強弱の陰影をつけたアクセントが生き生きとした音像を紡ぎ、主旋律ではない金管をかなり派手に鳴らすことで、終楽章らしい華やぎを加えている。フィルハーモニアは、高速、大音量であっても確かな技量によって、決して乱れることはなく、音色には一点の濁りもない。その力量を見せつけるかのように、この終楽章を疾風のごとく駆け抜けてフィニッシュする。


 ̄ ̄ ̄

 サロネンのベートーヴェンは、打楽器の鳴らし方に近年の流行の古楽器演奏風味を漂わせながらも、フレーズの語尾を弱めるメッサ・ディ・ヴォーチェ的な処理はしておらず、20世紀風のモダン・オーケストラ演奏との折衷的な演奏様式でした。
 フィルハーモニアの音色は相変わらず精細で優れた技量を感じさせ、カラヤン時代からの伝統を保っていることがうかえます。そのヴィルトゥオジティ―は、むしろ、アンコールで演奏されたシベリウスの《ペレアスとメリザンド》からの《メリザンドの死》における、鎮痛で静粛な音色に聴くことができました。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

エサ・ペッカ・サロネン

Ad by amazon


人気ブログランキングへ


記事検索
livedoor プロフィール
最新記事
カテゴリー
タグクラウド
メッセージ

名前
メール
本文
Amazonライブリンク
Amazonライブリンク
Amazonライブリンク
  • ライブドアブログ