クラシック音楽とアート

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ゴッホ: アルルの公園の入り口|フィリップス・コレクション

 1988年の2月、ゴッホはアルルに移り住みました。思い込みが激しいこの画家らしく、陽射しに恵まれたアルルの気候を憧れていた日本と似ていると勘違いして、そこで風景画を描こうと決め、さらに、その地に画家や画商を集めた協同組合のようなものを創設しようと計画しました。生活費に困ったゴーギャンだけが、その提案に乗って、アルルにやってくることになり、ゴッホは、首を長くしてゴーギャンの到着を待っていたとのことです。
 今回、フィリップス・コレクション展で展示されているゴッホ作品のうちの一点はこの時期のもので、まだかまだかとゴーギャンの到着を待つゴッホの期待に満ちた感情が作品からも感じられます。


ゴッホ アルルの公園の入り口
◇ ゴッホ アルルの公園の入り口 1888年 油彩、カンヴァス 72.4 × 90.8cm

 この《アルルの公園の入り口》では、手前の麦藁帽子をかぶった人物がゴーギャンを迎え入れるゴッホ自身ではないかという説もあり、青々とした公園の樹木の色彩の明るさから高揚感が伝わってきます。この麦藁帽の人物像は、この時期の他の作品にもいくつか描かれていて、例えば、当時アトリエとして借りていた家を題材とした《黄色い家》でも、その手前の歩道に同じような人物が描かれており、このような描写が、麦藁帽の男を画家自身だとする説の根拠となっているようです。麦藁帽の人物がゴッホであるか否かは別として、光の移ろいを追い求めた印象派に対して、ゴッホは、印象派の鮮やかな色彩や荒い筆触を受け継ぎつつも、光のみを追求するのではなく、ここにあるように夜の空気に包まれた家を描いているところが、ポスト印象派と言われる所以です。


ゴッホ 黄色い家
◇ ゴッホ 黄色い家 1888年9月 油彩、カンヴァス 72 × 91.5 cm (今回の展覧会には展示されていません)

 しかし、思い込みが激しく気難しいゴッホと、やはり自己主張の塊のようなゴーギャンが仲良く共同生活など出来るはずもなく、直ぐに喧嘩別れとなります。ゴーギャンとの不仲が原因となったのか、ゴッホは耳切り事件を起こして精神に異常をきたしたとされ、療養所へ収容されますが、今回展示されているもう一つのゴッホの作品は、そのサン=レミの療養所時代のものです。《道路工夫》は、療養所から外出した際に目にしたミラボー大通りの補修工事を描いたもので、淡い色彩によって、工事中の通りのほこりっぽさが感じられます。


ゴッホ 道路工夫
◇ ゴッホ 道路工夫 1889年 油彩、カンヴァス 73.7 × 92.7cm

 この淡く明るい色彩は、サン=レミ時代の特徴であり、シンプルな色彩に回帰しようという意図があったとの指摘もあります。淡い色彩には、一般的に平穏な印象を受けるものですが、うねるような樹木の幹や葉の表現にこの画家独特の激しさも感じられ、多様な内面が表れています。


画像出典: wikimedia commons

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400年前のレディ・メイド|千利休: 竹一重切花入|マルセル・デュシャンと日本美術@東博

 東博で開催中の「マルセル・デュシャンと日本美術」は、フィラデルフィア美術館の収蔵品を中心にデュシャンの足跡をたどる回顧展として充実した展示を観ることができます。一方で、標題が示すとおり、展覧会の後半には、日本美術が展示されており、「デュシャンの向こうに日本がみえる。」というタイトルで、第2部の展示会場が設営されています。琳派の創始者とされる本阿弥光悦と俵屋壮達や、わび茶の千利休とその要求の応じて黒楽茶碗を提供した初代長次郎らの作品が展示されています。さすがに東博だけあって充実した展示ですが、デュシャンとの関連性、「その向こうに」これらの日本美術が見えてくるかといわれると、筆者には、ピンときませんでした。


本阿弥光悦 船橋蒔絵硯箱
◇ 本阿弥光悦 船橋蒔絵硯箱 17世紀前半(江戸時代初期)

千利休 竹一重切花入
◇ 千利休 竹一重切花入(たけいちじゅうぎりはないれ) 1590年(安土桃山時代)

 展示室に掲げられていたキャプションによれば、「デュシャンのレディ・メイドは、量産された工業製品を使用することで”一点限り”の美術品の価値を否定したといい、それは、利休が、日常でありふれたものにある美を示し、無から無限大の価値を生み出したのと通ずる」と説いて、この《竹一重切花入》を展示しています。量産の工業品の代わりにありふれた竹を切って、花入にした利休のセンスは、元祖レディ・メイドだというわけです。なるほど鋭い視点であり、確かに思想としては通じるところがあります。しかし、長次郎の黒楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を使わずに手で捏ねて造るもので、それは紛うかたない一点限りの作品であり、同じ形状のものが沢山製造されたものとは異なります。厳密にいえば、竹にしても個体差があり様々な形状をしているため、ありふれた竹を使っているとはいえ、同じものは二つと存在せず、その意味では、《竹一重切花入》でさえも一点限りと言えなくもありません。


長次郎 銘 むかし咄
◇ 長次郎 銘 むかし咄 16世紀後半(安土桃山時代)

 そうは言っても、展覧会場では外国人の観者をあちこちで見かけ、これらの日本美術を熱心に鑑賞していました。外国の観者が、キャプションにあるような、ややむりくり感があるデュシャンと日本美術の関連付けに納得したのか否かはともかく、一般的な西洋美術とは異なる価値感から生まれた美という意味では、デュシャンの主張と類似したものを感じとってもらえたのかも知れません。


画像出典: 筆者撮影

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本阿弥光悦               千利休
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ブロムシュテットの《田園》とステンハンマル交響曲3番|onクラシック音楽館

 昨晩のクラシック音楽館は、ブロムシュテット指揮で、この指揮者の出身国スウェーデン代表をするステンハンマルの代表曲とベートーヴェンの《田園》を組み合わせたプログラムでした。


N響第1896回 定期公演

ベートーヴェン: 交響曲 第6番 ヘ長調 Op.68《田園》
ステンハンマル: 交響曲 第2番 ト短調 Op.34

NHK交響楽団
ヘルベルト・ブロムシュテット(Cond.)
(2018年10月24日 サントリーホール)


Note
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ベートーヴェン

 ブロムシュテットのとるテンポはかなり速めで、田園地方の長閑さを表現するのではなく、長閑な田園を軽快に散歩あるいはジョギングしているかのような清々しさを感じさせる。しかし、N響からピュアで優しい音色を引き出しているために、そこにせせこましさは無い。第一楽章、第二楽章共に速めのテンポで進んでゆくが、ベートーヴェンが設けた標題に相反するものではなく、特に第一楽章では、田舎に到着したときの期待感が表されている。第三楽章に入ると、ブロムシュテットの指揮はさらに冴えわたり、かしましくも楽しげな村人たちの集いが鮮やかに描き出され、第四楽章の嵐と風に繋ぐ。第四楽章も、快速なテンポで進めて、余計な演出や誇張は一切なく、あっさりと進んでいく。従って、第五楽章ではごく自然に嵐の後の清々しさが表現される。基本的に、モダンオーケストラを使ったノン・ヴィヴラート的な演奏であるが、ピリオド風の固い音質が強調されてはおらず、全体的に溌溂として鮮やかな音色であると同時に、自然に対する慈しみを感じさせる。


ステンハンマル

 冒頭に現れる民族色豊かな主題には、いかにも北欧の作曲家らしさを感じるが、シベリウスのような「地の果て」感は無い。その三拍子のリズムと舞踏性によって、深い哀愁に沈み込んでしまうのを回避している。しかし、展開部では、弦のゆったりとした旋律が哀愁を帯びており、壮大で抒情的な音楽となっている。N響の弦には艶があり、北欧的な暗い音色を出さずに、しかし荘厳な音響を繰り出している。
 第二楽章は、コラール風の哀愁を帯びたメロディーで始まるが、ブルックナーの時もそうであったように、ブロムシュテットが造る音は、常に溌溂としており、時として張り詰めた空気さえ漂わせる。哀歌と讃歌が入り組んだようなこの美しい楽章を、N響の壮麗な弦で語りつくす。
 第三楽章では、一転して厚みのある音像を奏で、スケルツォとは思えないほど重厚さである。中間部では速度を落として木管群と弦によって悲し気な旋律を歌い上げるが、やがて明るい曲調に戻り、再び重厚壮麗なクライマックスを築いて木管の下降音でやや唐突にしめくくる。N響の木管と弦のヴィルトゥオジティが活かされた壮麗な表現である。
 終楽章は、フーガ風とでもいうか、強弱や陰と陽、静と動などの様々なモチーフが入り組んだ音楽である。めくるめく荘厳な展開から、突然流れが途絶え、森閑とした木管のエレジーが表れる様は、北欧の大自然が見せるダイナミックな変化なのだろうか。しかし、ステンハンマルは、基本的に陽の音楽家だ。暗い深淵に沈みこむことはなく、やがて壮麗華美なコーダへと突入する。N響の弦は、強烈なフォルテを奏でながらも、決して濁ることの無い美しさを保ち続け、荘厳に締めくくる。


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 ブロムシュテットのN響定期シリーズの最後は、故郷の作曲家ウィルヘルム・ステンハンマルの交響曲第2番でした。ブロムシュテットは、この曲には自然に接する作曲者の姿勢が現れている点で《田園》との共通点があり、神々しい高揚に向かって突き進んでゆく音楽の造りにベートーヴェンとの類似性があると語っていましたが、終楽章のコーダは、まさにその言葉通りの荘厳さでした。



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第10回 浜松国際ピアノコンクール 第2次予選

 表記コンクールは、第2次予選が終了し、第3次予選に出場する12人が発表されています。

審査結果/第3次予選出場者
VOD一覧(期間限定視聴可能)

 この2次予選では、委嘱作品の解釈が選考に際する大きなポイントを占めているのをどの出場者も意識しているようで、かなりの出場者が、佐々木冬彦の《SACRIFICE》を冒頭で演奏して訴求に努めていました。

委嘱作品作曲家

 良く知られる名曲の場合は、数多のピアニストによって演奏様式が確立されているために、演奏者の音楽的な個性が読み難い一面がありますが、この曲の場合は、各演奏者の個性が出ていました。出場者の演奏を全て聴いたわけではありませんが、ベートーヴェンの《運命》を連想させる曲の入りと、後半に現れる印象的な旋律線の描き方は、演奏者毎に様々な表情があって、興味が尽きませんでした。例えば、太田糸音さんは、持ち前のダイナミックな表現で押しまくるのに対して、兼重稔宏は、後半のメロディーに抒情すら感じさせていました。
 ただ、2次予選にまで進んだ出場者の高いレベルにおいては、単に個々の曲に対する解釈や演奏技巧だけではなく、選曲や演奏順も気になるところです。委嘱作品を冒頭に持ってきて訴求した後は、自分の得意な曲を披露しているだけと思われるケースも見受けられました。そういう意味で、演奏会のプログラムのような選曲と演奏順で臨んだのが務川慧悟でした。このピアニストは、ロマン派のメンデルスゾーンから始まって、ドビュッシーの後に《SACRIFICE》を持ってきていました。《SACRIFICE》では、標題から連想させられるダイナミックで劇的な表現で圧倒し、そしてアタッカの如く、スクリャービンのソナタの冒頭を前の曲の出だしと同じような激しさではじめ、一連の演奏の流れに継続性を持たせていました。ピアニズム云々だけでなく、プログラムとしてのストーリー性をも訴求しているところに好感しました。

2次予選VOD配信: 務川慧悟


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ピエール・ボナール: 棕櫚の木|@フィリップス・コレクション展

 三菱一号館美術館で開催中のフィリップス・コレクション展では、今、国立新美術館で大回顧展が開催されているピエール・ボナールの秀逸な作品も数点展示されています。
 ボナールといえば、妻マルトの入浴シリーズで知られ、今年の春、横浜美術館で開催された企画展「ヌード NUDE -英国テート・コレクションより」でもマルトの絵が展示されていました。


ピエール・ボナール 浴室
◇ 浴室 1925年 油彩、カンヴァスキャンバス 120.6×86cm(テートコレクション、今回は展示されていません)

参考記事: ヌード NUDE -英国テート・コレクションより|ロダンの《接吻》とミレイの《ナイト・エラント》

 マルトは異常なほどの潔癖症であり、一日に何度も入浴していたのでこのような連作が制作されたそうですが、一説によると、マルトが他のモデルのヌードを描くのを嫉妬するので、他の女性を描くときも入浴シーンにして、これは君だよとごまかしていたとされます。その真偽はともかく、この作品での女性の表情は無機質であり、バスタブ内の水が青く、肌の色が冷たく見えて、そこはかとない不自然さに何かを暗示するかのような雰囲気すら感じさせます。マルト自身が、これを観て気に入ったのかどうか、疑問に思えるほどです。
 ボナールは、この作品の制作年に、病弱だったマルトの療養も兼ねて南仏ル・カネに移り、その住み家の近辺の南国の景色を描きました。フィリップス・コレクションでは、それらの風景画が展示されています。


ピエール・ボナール 棕櫚の木
◇ 棕櫚の木 1926年 油彩、カンヴァス 114.3×147.0cm

 ボナールは、ナビ派の中でも最も日本美術の影響を受けた画家だといい、仲間からは「日本かぶれのナビ」と呼ばれたそうで、ここでもタイトルの棕櫚を画面上部に配置して葉だけを描き、幹をトリミングする大胆な構図や、平面的な装飾性にそれが感じられます。一方で、華美な色彩と荒いタッチは印象派の香りを残しつつも、独特の色面で南国の明るい色彩を現し、背景の家々は、セザンヌ的な造形にフォーヴ風の自由な色彩で描かれています。手前で果実を持つ女性はマルトだと思われ、南国の心地よい気候での生活を表しているようにも見えますが、やはり表情は無機質で、ゴッホの《種まく人》のように逆光の中にいるかのような色彩で描かれているところがどこか暗示的です。

参考記事: ゴッホ: 種まく人|ゴッホ展(巡りゆく日本の夢)@東京都美術館

 一方、この作品に対する、ダンカン・フィリップスのコメントは以下のように書かれていました。

「光の熱狂的讃歌。家から飛び出し、太陽のまばゆい光へと飛び込む際の視覚的・感情的スリル。」

 筆者は、一連の入浴シリーズにおけるマルトの不思議な表情からのコンテキストで、何か秘められた意味があるのではないかと思いましたが、フィリップスは素直に病弱のマルトがル・カネで体験した感覚がこの画に込められているととらえたのでしょう、秀逸なコメントに頷かされます。



画像出典: wikimedia commons

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マルセル・デュシャンのレディ・メイド 《泉》 《瓶乾燥機》

 美術家マルセル・デュシャンを語るとき、レディ・メイド、特に《泉》は欠かせない代表作となっています。デュシャンは、ニューヨークの現代アーティストが設立した独立芸術家協会に協力していましたが、1917年に開催された協会の最初の展覧会「アンデパンダント展」に、R.マットの名前で男性用小便器を出品しました。単に便器の横にR.Mattと署名が入っているだけですが、署名の文字の向きを尊重するならば、通常使用される状態とは異なる角度で置かれ、それが便器と異なる造形物に見えるようになります。《泉》という、排泄物を廃棄する本来の用途とは反対の意味のタイトルは一流のユーモラスであり、ここでデュシャンが主張したかったのは、何か他の目的で造られた造形であっても、異なる角度で観ることによって、元の造形は新しい意味を持つ作品と成り得るということでしょう。ここでは、その造形を誰が創ったのかは重要ではなく、その造形に意味を与えることがアートを創造する行為であるとデュシャンは考えていたと思われ、自らも展覧会の実行委員だったデュシャンは、マットの作品が他の実行委員たちよって展示を拒否されると、実行委員を辞して、抗議文を発表しました。
 デュシャンの思想は的を射たもので、誰がその価値を認めるのかというと、結局、観者次第であるという結論に帰着すると言えるでしょう。それは、音楽芸術と同じであり、新しい芸術表現は、最終的には大衆の受容によって認められるものではないでしょうか。


デュシャン 泉
◇ 泉 1950年(1917年オリジナルのレプリカ) 0.5×38.1×45.7 cm

デュシャン 瓶乾燥機
◇ 瓶乾燥機 1961年(1914年オリジナルのレプリカ) 49.8×48.3cm

 
画像出典: フィラデルフィア美術館 webpage からシェア

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第10回 浜松国際ピアノコンクール

 現在開催中の浜松国際ピアノコンクール(開催期間:2018.11/8(木)〜11/25(日)@アクトシティ浜松)は、今日現在、二次予選が進行中です。

第10回 浜松国際ピアノコンクール
審査結果/二次予選出場者

 今回から審査委員長に就任したのは、これまで英国を中心に活動してきた日本を代表するピアニストの一人、小川典子さんで、小川さんを筆頭に、国際的に活躍するピアニストを送り出すコンクールにすべく臨んでおり、これまで以上のレベルが期待されます。DVDの提出による予備審査では、演奏者の名前や年齢、国籍を伏せて聴いて評価したそうで、審査員の先入観をなくして、出来るだけ純粋な音楽性による審査がなされました。応募者382人の中から予備審査を通過したのは95人で、辞退者を除く88人がコンクールに出場しました。課題は、一次予選では、練習曲を一曲以上含む自由な選択で、練習曲で技巧面をチェックする意図があるようです。二次予選では、古典派、ロマン派、近・現代までの曲(作曲家が幅広くが指定されている)からの選曲とコンクールのために作曲された日本人作曲家の委嘱作品の演奏が義務付けられ、前者では選曲の感性、後者では初めての曲に対する解釈の感性が問われます。さらに3次予選では、室内楽による内向的な音楽性が審査され、本選では協奏曲(古典から近・現代曲までの幅広い名曲が指定されている)でオーケストラとの対峙による自己表現のアピールが求められます。

 オンデマンド配信されているとはいえ、一次予選の演奏をすべて聴く時間的余裕はないので、部分的にしか聴けませんでしたが、ざっと聴いた中で印象に残ったのは以下の出場者の皆さんでした。飽くまでも筆者の印象でしかありません。


Note
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17 タチアナ・ドロホワ

 《イゾルデの愛の死》では、うねるような起伏の音像によって、ワーグナー的なロマンティシズムを表現。ラヴェルの煌きと神秘では、ワーグナーの時とは異なるピアニズムを披露。リストの超絶技巧練習曲では、ダイナミックなテクニックの合間に簡素な情感を込め、ショパンの練習曲では、ショパンらしい抒情を込めてたっぷりと鳴らす。全体的なピアニズムとしては、主題の旋律を際立たせるのではなく、和音を大切にするタイプであり、全体の音像に厚みが出て、特にワーグナーには効果的だ。

一次予選VOD配信: タチアナ・ドロホワ


30 兼重稔宏


 ヤナーチェクの《霧の中で》は、この名曲の抒情性を見事に引き出している。繊細で細やかなタッチによる微妙な弱音による森閑とした雰囲気から光輝くフォルテによる光彩までを、見事なニュアンスとデュナーミクをもって弾き、聴く者を捕らえて離さない。技巧だけではなく、陰と陽、哀愁と光彩の入り組んだ曲に息を吹き込む豊かな表現力と感性を備えている。バルトークの《練習曲Op.18-1》では、もう少しダイナミックさが欲しいところだったが、テクニックも申し分ない。

一次予選VOD配信: 兼重稔宏


40 ブライアン・ルー


 最初のショパンの練習曲(Op.10-8)で、鮮やかなテクニックを駆使して、この練習曲の華麗さを印象付ける。中間のハイドンのソナタでは、クリアなタッチによる純度の高い音色を繰り出して、そのシンプルな音色によって古典的な情緒を醸す。強弱のコントラストによる細やかなニュアンスが繊細な味わいを生み出している。そして、最後のリストの超絶技巧練習曲(第7番)では、再び圧倒的なピアニズムを見せつける。弱音での繊細さから、右手の鮮やかな流れ、そしてフォルテでの力強い和音の音色まで、リストに相応しいダイナミックな表現で圧倒する。

一次予選VOD配信: ブライアン・ルー


46 リー・イン
 
 ドビュッシーの映像第1集は、第一曲の《水に映る影》での軽やかなタッチから繰り出される眩いばかりの煌きによって、たちまち幻想的な光の世界へと引き込まれる。凛とした音の粒が流れるように近づき、そして遠ざかる。そして、最後は森閑とした静寂の中に消え入る。《ラモー賛歌》では、ひと時の哀愁を込めて、ゆったりと歩を進め、《ムーブメント》では、ドビュッシーが書いた音の粒の羅列が、クリアで軽いタッチによって輝きと共に有機的な音響となって空間を満たす。軽やかで流れるようなタッチは、ショパンの《練習曲Op.10-2》においても活かされて、可憐に、そしてサラサラと流れる右手による旋律が小気味よく、また、リストの《ラ・カンパネラ》では、意図して右手の音をシュアに強調して旋律線を際立たせた構成美を生み出している。

一次予選VOD配信: リー・イン


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 兼重稔宏のヤナーチェクの抒情は、印象的でした。出場者の中では年齢が高いけれども、その感性の良さに好感しました。リー・インさんは、軽やかなタッチと、そこから繰り出される可憐な音色が印象的で、聴いていて心地よくなる演奏でした。

 全て聴く時間はありませんが、2次予選がどうなるか引き続き注目です。


注:VOD配信は、コンクールwebpageにて期間限定視聴可能。

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マルセル・デュシャン: 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)|@東博

 東博で開催中の「マルセル・デュシャンと日本美術」は、第2章の「「芸術」でないような作品をつくることができようか」で、絵画制作を止めてしまったデュシャンのその後の足跡をたどります。
 デュシャンは、1912年から1917年の間に、立体作品や、レディメイドの作品を創出し、西洋の伝統絵画の概念を一掃した新しいアートの価値観を探求しました。展覧会では、この時期の代表的な立体作品として《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)》が展示されています。展示されているのは、以下に掲載するオリジナルのフィラデルフィア美術館のものではなく、近代日本を代表する美術評論家・瀧口修三らが監修したレプリカの「東京版(1980年)」です。


デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも

デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも

デュシャン 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも
◇ 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)1915–23年 ミクストメディア 277.5×177.8×8.6 cm (フィラデルフィア美術館 webpage からシェア)

 非常に難解な作品で、キャプションによると、「上下二枚に分かれているガラス面の上部では、機械と昆虫の混成物である花嫁が、衣服を脱いでエロティックな香りを漂わせ、下部では、独身者 -九つの空洞の雄の鋳型- が、複雑な機械を介して処理される性的な放射物を送り出すことによってそれにこたえる」のだそうです。ということは、おそらく、物事の全てが数学や工学を土台とした近代の機械文明によって制御され、生物の生殖行為までもが機械化されて、従来のエロティシズムの概念も変容する、と主張しているものと思われます。性的な匂いが機械に制御されるというのは、現代の我々にとってもあまり馴染めない表現ですが、作品制作当時の科学技術を象徴する表現であり、それが新しい価値観を創り出すかもしれないと主張しているのでしょう。その意味では、その当時の最先端の科学技術を体験することによって奇想の表現を造り出したルドンの思想とも通じるところがあります。その後の科学技術の発展は目覚ましく、近年のAIによる社会的な変革はバーチャル・リアリティへ向いており、デュシャンでさえも予測し得なかったスピードで進歩しているため、今日ではこのような表現ですら時代の流れを感じさせます。

 このオリジナル版と東京版の大きな違いは、上部と下部のガラス面を斜めに横切る蜘蛛の糸のようなものが無いところです。筆者には、この造形に込められた原作の意図は不明ですが、敢えて推測すれば、昆虫の蛹などが放出する糸にかけて、「花嫁」の「エロティックな香り」又は独身者の「性的な放射物」、あるいはその両方を象徴しているのではないかと思われます。しかし、だとすると、それを省略した瀧口修三と東野芳明は、原作の意図を削いでしまったことになるので、これとは異なる解釈があるのかもしれません。


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ウィーン・コンツェルトハウスのクルレンツィス・シリーズ|マーラー3番、ヴェルディ《レクイエム》

 ウィーンでムジークフェラインザールと並ぶコンサート・ホールのウィーン・コンツェルトハウスは、「テオドール・クルレンツィス・シリーズ」と称して、全4回にわたる自主企画の演奏会を開始しました。9月の第一回目の演奏会は、クルレンツィスが今期から首席指揮者に就任した南西ドイツ交響楽団(SWRS)を率いてのマーラーの3番で、10月は、ムジカ・エテルナを振って、フランスの現代作曲家フィリップ・エルサンの作品を演奏しました。翌2019年の4月には、ムジカ・エテルナでヴェルディの《レクイエム》、6月にはSWRSとショスタコーヴィチの7番が予定されています。
 マーラーの3番は、レコ芸の海外楽信のレポートによると、クルレンツィスがオーケストラをぐいぐいと引っ張っていき、引き締まった音楽造りによって聴衆を刺激したとあります。そこで、クルレンツィスのマーラー3番を聴いてみました。2014年のディアギレフ・フェスティヴァルでの演奏会から、第6楽章がネットで聴けます。コンマスの隣で弾いているのは、コパチンスカヤ!です。途中、コンマスのソロを引き継ぐ楽節ではヴィブラートをたっぷりかけて演奏しています。



◇ マーラー: 交響曲第第3番 第6楽章 クルレンツィス/ディアギレフ・フェスティヴァル管弦楽団

 なんとも極め付きのロマンティシズムが、ここにありました。マーラーが作曲した交響曲の中でも指折りのロマンティシズムをたたえるこの楽章で、クルレンツィスは、あらん限りの表情をオーケストラから引きだしています。
 冒頭の聴きとれないほどの弱音から徐々に弦の音像が見え出したところで、アゴーギク気味に間を取って音量を絞る耽美な抒情(2:19)・・・聴く者は、これによって、たちまちクルレンツィスが創り出す深淵なロマンティシズムに引き込まれてしまいます。


マーラー交響曲第3番_第6楽章


 かと思えば、激情迸る叫びにも似た高揚(6:41)で刺激しつつ、シュアでクリアなサウンドの中に香り高い抒情を漂わせます。それは、蕩けるようなクラリネットとフルートの音色(8:56)によって耽美の極みに到達します。そして、湧き上がる熱い感情を噴出させるロマンティシズム(13:14)で、聴衆を隔世の音響世界へと誘います。フィナーレは、音像が固めでやや鮮やかすぎるきらいがあるものの、マーラーが意図したであろう壮麗な終焉を見事に描き出します。

 これは素晴らしい!感動ものです!ロマンティシズムの極みです。コンツェルトハウスでは、聴衆のスタンディングオベ―ションで、クルレンツィスは何度もステージに呼び戻されたそうですが、ウィーンの聴衆の過熱ぶりも想像がつこうというものです。

 来年のヴェルディでは、マーラーとは異なるものの、やはり超抒情的で甘美なこのレクイエムをどのように演奏するのか興味津々です。そして、初来日でのチャイコフスキーの生演奏にも、増々期待が膨らみます。鬼才・コパチンスカヤのソロも含めて、あのCDでの演奏様式が生でどのように聴こえるのか等々・・・興味が尽きません。

 極端なパフォーマンスにいささか疑問を感じることもありましたが、カリスマ性を有する巨匠指揮者不在の時代に、いよいよ、このクルレンツィスがその地位に名乗りを上げようとしているように思えてきました。


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