クラシック音楽とアート

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ゴーギャン: バラと彫像|ランス美術館展

 ゴーギャンがタヒチに渡る前に過ごしたのが、フランス西部の大西洋を望むブルターニュ地方のポン=タヴァンで、そこで、エミール・ベルナールらと共にポン=タヴァン派とも呼ばれる活動を展開しました。

参考記事: ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち @パナソニック汐留ミュージアム

 今回のランス美術館展では、同館が所蔵するこの時期のゴーギャンの作品として、《バラと彫像》という作品が展示されています。一見、普通の静物画なのですが、花がいけられた瓶の隣に裸婦の彫像が置かれてます。これは、画家自身が制作した実際に存在する彫像作品だそうで、自身の立体作品を絵の中に描き込むという斬新な発想が面白く、それだにとどまらない不思議な効果を生み出しています。それは、瓶や花と裸婦のサイズの不釣合いにあり、現実的な裸婦の実在感が損なわれていることに起因しています。しかるに、この裸婦はサイズも肌の色彩も非現実的な存在としてテーブルに乗っていて、また、こちらを向いていないところにも神秘があります。ゴーギャンがどういう効果を狙ったのかは知る由もありませんが、戸外で陽光を浴びながら育ったバラが、枝を切られて室内の花瓶にいけられるという状況に至り、そこに宿っていたバラの精霊が現れ出でた場面ととらえることもできます。


ゴーギャン バラと彫像
◇ バラと彫像 1889年 油彩、カンヴァス 73.2×54.5cm


 ゴーギャンは、この後タヒチへと渡るのですが、タヒチで描いた静物画に、この解釈を支持する作品があります。画家は《花と偶像のある静物画》で、花を生けた花瓶の背後に、タヒチで古くから伝えられている現地の偶像神を描いています。黒い頭巾をかぶっていて周囲に同化してしまっていて注意して見ないと見逃してしまいますが、そこがまた効果的でり、異国の地の室内で、いけられた花の後ろに潜む偶像の姿が、一見さりげない静物画に異様な緊張感をもたらしています。


ゴーギャン 花と偶像のある静物画

◇ ゴーギャン 花と偶像のある静物画 1892年 油彩、カンヴァス 40.5×32.0cm (チューリヒ美術館展 今回の展覧会には展示されていません。)

 印象派を離れて異なる表現を志したゴーギャンは、ここでは神秘性を帯びた象徴主義あるいは表現主義的な方向性を探索しています。


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ゴーギャン

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柏村早織里: Kojiki シリーズ|on 新設WebPage

 現代美術家・柏村早織里さんが、新たにWebPageを開設しました。最近の柏村さんの作品は、「古事記」に取材したCGによるデジタル・フォトコラージュ作品の大作を手がけていて、デジタルならではの精緻を極めた筆致と鋭利な色彩感覚を駆使して、壮大な「古事記」の神話の場面を鮮烈に描き出しています。

SAORI KASHIMURA Digital Art Mixedmedia
前回記事: 柏村早織里さんの作品から

 「古事記」は、天武天皇(生年不明 - 686年)が、舎人(*1)の稗田阿礼(ひえだのあれ)の並はずれた記憶力に注目し、「帝紀」「旧辞」(*2)等の誦習(しょうしゅう:音読すること)を命じ、それを太安万侶(おおのやすまろ)が筆録させたものだとされています。阿礼の誦習は、上、中、下の全三巻に編集されて、神話の時代から推古天皇の時代までの語り継がれてきた叙実を記しています。これらのうちの上巻に、出雲を舞台とした神話が記されています。全てを把握しているわけではありませんが、欧州などに伝わる多くの神話の例に漏れず、「古事記」の神話も壮大な物語のようで、《ニーベルングの指輪》のような壮大な楽劇(*3)の原本になりそうです。

 近代日本画には「古事記」に取材した作品があり、横山大観や菱田春草から洋画家の青木繁に至るまで名だたる画家たちが手がけていますが、それ以前は、仏教の伝来によって仏教美術が隆盛を極めていたためか、神話に取材した絵はあまり見かけないように思います。神仏分離から明治の廃仏毀釈によってもたらされた日本版ルネサンスとでも言うべき現象なのかもしれません。
 ともあれ、柏村さんの《黄泉比良坂》や《八岐大蛇》では、我々にも馴染の深い神話のキャラクターが登場します。2016年に発表した《天の岩戸》では、現物を観ないと詳しく確認できないのですが、従来のデジタル・フォトコラージュに加えて、プリントアウトした画面に金箔処理を施し、天照大神の眩い光線を表現しています。めくるめく色彩の劇的な光の表現の中に、天照のご機嫌をとるためのユーモラスな空気をも同時に描き出した見事な作品です。



柏村早織里 天の岩戸
◇ 天の岩戸 (on 柏村早織里さんwebsite)

 神話に記されたこの場面の解説は、作者御自身が記しています。

 " Kojiki " Genesis of Japan 古事記シリーズ

 このシリーズは今年になっても更新されていて、冬の日の古代出雲大社を表した《雪中出雲》のギャラリー展示を観ましたが、深々と降り積もる雪の《出雲》の表情は、《天の岩戸》のダイナミズムとは異なる抒情性を帯びた傑作です。柏村さんのこれまでの作品は、色彩豊かな雅な画面に引き締まったシリアスな空気を感じさせ、Kojikiシリーズでは劇的なダイナミズムが追加されていましたが、《雪中出雲》ではそれらの要素に抒情が加わっています。webpageでの公開が待たれます。


アニヤ・ハルテロス(ジークリンデ)

◇ 参考: 古代の出雲大社復元模型 (by 東京国立博物館)



【脚注】
*1: とねり。皇室に仕え、警備、雑用を行う。
*2: 「帝紀」「旧辞」は、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類や古代の歴史を記した書。両方とも現存しない。
*2: 実際、黛敏郎がオペラ《KOJIKI》を作曲しているが、黛のオペラは、三島由紀夫原作の《金閣寺》の方がよく知られている。


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ワーグナー: 楽劇《ワルキューレ》|シュターツカペレ・ドレスデン|ザルツブルク・イースター2017#2

 音楽祭創立50周年記念として、カラヤン演出の復元で話題を呼んだザルツブルク復活祭音楽祭の《ワルキューレ》は、ティーレマン指揮のシュターツカペレ・ドレスデンと、現代を代表するワーグナー歌手が集う豪華な顔ぶれで上演されました。


ワーグナー: 楽劇《ワルキューレ》

ジークムント: ペーター・ザイフェルト(T)
フンディング: ゲオルク・ツェッペンフェルト(Bs)
ジークリンデ: アニヤ・ハルテロス(S)
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ(S)
ヴォータン: ヴィタリー・コワリョフ(Br)       
フリッカ: クリスタ・マイア(Ms)


シュターツカペレ・ドレスデン
クリスティアン・ティーレマン(Cond)

演出: ヴェラ・ネミロヴァ
(2017年4月 ザルツブルク祝祭大劇場)


 50年前の1967年に、同音楽祭の創始者カラヤンが意欲を注ぐ上演に選んだのが手兵・ベルリン・フィルだったのと同様に、ティーレマンも、手兵であるドレスデンを選択しています。しかし、個人的な意見を書かせてもらえば、カラヤンとティーレマンでは、音楽的にまったく異なる感性であるし、従って、オケの選択の意図も異なっているように思います。ティーレマンは、今回放映されたドキュメンタリー番組の方でインタヴューに応えて、舞台美術が音造りに及ぼす音響的な影響について言及していましたが、それに対応するためにも、日ごろからオーケストラ・ピットに馴染んででいる手練れの手兵に信頼を寄せています。対して、カラヤンが、ピットに入る機会も少なく、ましてや《指輪》の全曲演奏など一度も行ったことのないコンサート・オーケストラのベルリン・フィルを起用した理由は何かというと、そこには明らかにバイロイト音楽祭へのアンチテーゼがあります。つまり、バイロイト祝祭劇場のくすんだ音が、雄弁なワーグナーの音楽を表現するにはいささか不向きであると考え、それとは正反対の方向性を志向していたと筆者は考えています。ワーグナーがそれを志向していたかどうかは知る由もありませんが、シュアでクリアな音色でワーグナーの音楽を奏でることがカラヤンの一つの理想であり、それを具現するための最も優れたオーケストラはベルリン・フィル以外にはないと考えたのです。そのことは、上演に先立って録音されたという《指輪》のCDの全編に示されています。カラヤンの《指輪》は、正当派といわれたベーム/バイロイト祝祭管弦楽団の無難な演奏や、ロンドン・レーベルで話題をさらったショルティ/ウィーン・フィルのダイナミックな表現とも一線を隔した、室内楽的ともいえるクリアな音像で表現されています。(かといって、ダイナミックな音像が否定されているわけではない)
 今回のティーレマンの指揮は、演出家や舞台美術家がカラヤン演出に共感して当時の再現に徹したのに対して、上に記したようなカラヤンの演奏芸術に同調したものではありません。指揮者には個人のプライドがあり、ワーグナーに対する解釈も自己のものがあるので、それを曲げて演奏することは毛頭考えていないようで、それはそれで当然の成り行きでしょう。おおまかに言えば、音の輪郭線を重視するカラヤンの表現とは異なり、オケを重厚に鳴らす場面が多い感があり、それが歌唱に勝り過ぎている場面もありました。

 歌手陣では、当代きってのワーグナー・テノールと言われるペーター・ザイフェルトのジークムントは、往年のルネ・コロには及ばないものの、さすがにほとんど乱れることのない安定した歌唱で魅了し、現代を代表するヴォータン歌手のヴィタリー・コワリョフも、第二幕では、フリッカとの意味深いやりとりを無難にこなし、最後のローゲを呼ぶ場面まで安定した歌唱を聴かせています。また、バイロイトでも常連になりつつあるアニア・カンペのブリュンヒルでも悪くありませんでした。カラヤンがブリュンヒルデに起用したのも、ビルギット・ニルソン系のいかにも強靭な女戦士といったイメージだけではない、ジークリンデに同情をよせる女性を演じ得るレジーヌ・クレスパン(《ジークフリート》以降はヘルガ・デルネシュ)だったことを考えると、比較的それに近いここでの配役は共感できるものでした。そして、特筆すべきは、アニア・ハルテロスのジークリンデでしょう。初々しい女性らしさとジークフリートを宿す母としての強さとを共存させる見事な歌唱で魅了してくれました。第三幕で、ブリュンヒルデから、亡きジークムントの忘れ形見をお腹に宿していることを知らされたとき、ヴォータンから逃げ延びて子を産む決心をする場面での劇的な情感。「なんという奇跡」・・・ここで《愛の救済の動機》のメロディーが歌われることが、この壮大な《指輪》という楽劇の一つのクライマックスであることを示す名唱でした。


愛の救済の動機


このライト・モチーフこそが、《指輪》の主題であり、ここでのジークリンデの決意が、神々を黄昏へと導いてゆくことを暗示しています。従って、だからこそ、楽劇《神々の黄昏》のエンディングも、このライト・モチーフで感動的に締めくくるのです。


アニヤ・ハルテロス(ジークリンデ)
◇ ジークリンデを歌うアニヤ・ハルテロス

 オーケストラのコントロールを聴く限りは、ティーレマンのワーグナーに100%共感することはできないものの、ここに挙げた歌手の配役は素晴らしい選択でした。


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ワーグナー ニーベルングの指輪

ニーベルングの指輪 カラヤン/ベルリン・フィル
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復活したカラヤンの演出|ワーグナー: 楽劇《ワルキューレ》 |ザルツブルク・イースター2017#1

 今年のザルツブルク・イースターは、創立50周年を記念して、1967年当時のカラヤン演出を再現するという画期的な取り組みで話題を呼びました。先日、その上演とドキュメンタリー番組がBSプレミアムで放映されました。


ドキュメンタリー《カラヤンのフェスティバル~ザルツブルク復活祭音楽祭50周年》(2017年 オーストリア)
ザルツブルク復活祭音楽祭2017  楽劇《ワルキューレ》


 カラヤンは、ワーグナーを上演するにあたって、バイロイト音楽祭では実現できない自身の理想を可能とする音楽祭を立ち上げようと考え、それを故郷であるザルツブルクでイースター(復活祭)の次期に開催することにしました。バイロイトは、ワーグナー直系の子孫が仕切っていて(1967年には、前年に没したヴィーラント・ワーグナーからウォルフガンクに継承されていた)、カラヤンやクナッパーツブッシュは、ヴィーラントの抽象的に過ぎる舞台演出には同調できず、クナは残ったもののカラヤンはバイロイトから退いていました。
 そういった経緯から、カラヤン自身でマネージできる場をつくりたいというモチベーションと、ザルツブルク市のビジネス的なモチベーションが一致した結果、1967年にザルツブルクのイースター音楽祭が発足したのは自然な流れであり、また、それが出来てしまう圧倒的な影響力が当時のカラヤンにはあったわけです。
 カラヤンは、そこで理想のワーグナー上演に向けて全てを統括し、音楽の他に演出も自身で担当しましたが、当時はそれが賛否両論を引き起こしたそうです。筆者は、カラヤンのCDのライナー・ノートに挿入されている写真でしかその舞台を知らず、詳しいことはわかりませんが、舞台が暗過ぎる等の批判もあったようです。しかし、今回のドキュメンタリーや公演を観る限り、昨今のレジーテアター系のやりたい放題とは一線を隔した舞台演出でありながら、50年の時を感じさせない現代的なセンスをも感じさせるものでした。
 そこには、演出家(カラヤンの意図を汲んだヴェラ・ネミロヴァ)独自の思想表現はなく、大枠でワーグナーが作った台本に追従しています。そして、なによりもそれが心地よい。もちろん、舞台装置等は完全に残っておらず、多くは損失してしまっていて、当時カラヤンが意図したものが100%再現できるわけではなく、舞台美術のイェンス・キリアン(カラヤン当時は、舞台美術をジームセンが担当)や演出のネミロヴァが再構築をしたわけですが、そこには彼らの思想が深く入り込んでいることはありません。ドキュメンタリーのインタヴューによると、今回、彼らは、カラヤン演出を研究する過程でその方向性に共感し、原本であるカラヤンを尊重した舞台演出を心がけたそうです。そして、そのカラヤンには、自己の思想を挿入してそれを主張する意図はまったくありませんでした。この時カラヤンは、「まず音楽を(商用)録音して、出演者たちはその録音で舞台の練習を行い、公演にのぞんだ。そして、公演の後に映像化のための収録をした。」と語っています。このことから、カラヤンのワーグナーには、まず音楽が基盤にあり、その上に舞台があったことがうかがえます。例えば、第三幕冒頭の有名な《ワルキューレの騎行》の場面では、ワルキューレ達が槍を立てたまま一列に並んで、一切身動きしないまま歌い続けます。すなわち、ここでのカラヤンは、ワルキューレ達の歌詞の内容を忠実に視覚化しようとするつもりはまったくなく、観客に音楽表現に注力するように促しています。つまり、この部分の物語進行をワーグナーが描いたダイナミックな音楽表現に託して、視覚はそれに準じているのです。しかし、かといってそれをないがしろにしているのではなく、余計な動作なしに、ヴォータンの生んだ女騎士像を充分に伝えていて、かえって底知れない迫力すら感じさせます。


ワルキューレの騎行


 この場面に限らず、全編を通して、やたらに派手な、あるいは奇妙な動きはなく自然です。舞台美術も、第一幕で巨大なトネリコの木を中央に配置するなど大胆さもありながら、終幕でブリュンヒルデを封じ込める楕円状の造形はシンプルでわかり易く、好感できるものでした。確かに舞台が暗い感はありますが、これも、ある程度カラヤンの音楽至上主義に起因していて、明るくし過ぎることで視覚が音楽に優ってしまうような誇張を避けようという意図が垣間見えます。
 当時のカラヤンの運営には、様々な意見があったのでしょうが、50年経った現代に再現された舞台は、ワーグナーの音楽を知り尽くしたカラヤンだからこそ統括できた上演の意義を知らしめ、それが現代においても充分に通用し得ることを示しました。

 なお、カラヤンは映像化に際しては、録音された音楽を流して演奏するふりをオケにさせたといいますが、それが不評であったことは想像に難くありません。映画撮影的なやりかたを取り入れた意欲的な発想ではありましたが、さすがにこれはやり過ぎでしょう。

 また、ドキュメンタリーでは、知人ヘルベルト・クロイバー氏が、カラヤンの内向的でシャイな一面や、氏が子供の頃、カラヤンがスポーツカーの爆音と共にやってきて皆と遊んでくれた事、おもちゃを几帳面に片づけてしまうので少し不満だった事等を語り、知られざる一面(しかし、いかにもカラヤンらしい)を披露してくれたのが印象的でした。

 また、ソニーのファウンダーの一人であり社長、会長を歴任した、音楽家・大賀典雄氏との友情によって、録音スタジオがカラヤン宅に設けられ、産業界との協調がCDの登場に寄与した逸話も紹介されていました。(技術的には、CDのred book(仕様)はソニーと蘭フィリップスの共同で策定されたが、CDの収録時間を決める際に「ベートーヴェンの第九が一枚に収まる時間」という助言を大賀にしたのがカラヤンだった。)


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ワーグナー ニーベルングの指輪


ニーベルングの指輪 カラヤン/ベルリン・フィル
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ブルックナー: 交響曲第3番|新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会

 昨日のクラシック音楽館で放映された、新日フィルの演奏会を聴きました。

新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会

ワーグナー: 歌劇《タンホイザー》序曲
ワーグナー: ヴェーゼンドンクの五つの詩
ブルックナー: 交響曲第3番 ニ短調

新日本フィルハーモニー交響楽団
カトリン・ゲーリング(S)
上岡 敏之(Cond)
(2017年5月12日 横浜みなとみらいホール)


Memo
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タンホイザー

 前半は、主題となる憂いを帯びた音楽に合わせてだろうか、ロマン派絵画のように暗い上に、色彩感も薄いくすんだ音色である。しかし、それが主題の旋律の抒情を際立たせることにはならず、暗い音色に沈み込んでしまっている。後半では対照的に明るい音色に変わるので、冒頭の意図はわかるが、成功しているとは思えない。



ヴェーゼンドンク

 ソプラノのカトリン・ゲーリングは、一曲目の《天使》では、平坦で表情にやや乏しい表現に終始したが、《止まれ》では詩の内容に則した情感を聴かせてくれる。しかし、《温室で》では、再び一曲目同様やや凡庸な歌唱に戻ってしまう。新日フィルが、弱音でこの音楽の本質を捉えようとしているのだが、歌唱がそれとずれてしまっている。後半の二曲《悩み》と《夢》では、伴奏のオーケストラ共々ワーグナーのロマンティシズムを歌い上げている。とびきりの美声でもなければ、技巧を駆使するわけでもないゲーリングではあるが、確かにワーグナーの時代のロマンティシズムを感じさせる色合いを持ち合わせているところもあるようだ。



ブルックナー

 第一楽章、指揮の上岡は、多分、ブルックナー特有のオルガン的な音像を意識しているらしく、全ての音にテヌートがかかった感じで引きずるような音像を構築している。テンポも極めてゆったりとしており、アプローチとして共感できるところはあるものの、新日フィルは、ややアンサンブルに緻密さを欠く部分があり、こういった息の長い演奏だと若干それが目立つ。これを成功させるためには、オーケストラの精度をさらに上げる必要があるだろう。中間部では、希望に満ちた明るさを帯びたトゥッティがあるのだが、どうせやるなら終始一貫して、ここでもオルガン風味を貫いて欲しいところだ。また、テンポの異様な遅さによって、この曲の冗長さを際立て、逆にブルックナー休止の効果を薄めてしまっている面もある。さらに、このアプローチならば、何故、コーダでアッチェレランドしなければならないのかという疑問も残る。
 第二楽章は、テンポは第一楽章同様遅めではあるものの、強弱の起伏が激しい仕上がりになっていて、個人的には別に嫌いなことではないのだが、それが第一楽章のオルガン風を継承しているかというと若干ぶれがあるように感じてしまう。
 第三楽章は、一転してリズミカルで快速に飛ばす。前の二楽章とのコントラストという意味では目覚しいものがあるが、コンセプト的には一貫性に欠けるとも言える。特に、中間部の軽快さには首をかしげたくなる。最初のコンセプトを一貫するのであれば、ここは、テンポを急速に緩めて田舎っぽい素朴さが来なければならない。


ブルックナー 交響曲第3番第3楽章


 そして、終楽章冒頭も第三楽章と同じ印象で進む。途中で著しいルバートをみせてテンポを落とす場面はあるものの、第一楽章で提示したのかと思ったオルガン風のテイストが戻ってくることはなかった。


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 ブルックナーの第一楽章で、上岡は、この演奏のコンセプトを提示したものと思っていたのですが、第二楽章までは遅いテンポで、それとなく最初の流れを引き継いでいたのが、第3楽章でまったく異なる展開になり、そのまま終楽章に行ってしまいました。全曲を俯瞰した場合に表現の一貫性に欠け、聴きてとしては若干消化不良に陥ってしまう内容でした。

参考記事: ブルックナー交響曲第3番|ネルソンスの最新盤からカラヤン、ヴァントまで


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ブルックナー 交響曲第3番

ネルソンス/ゲヴァントハウスO
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クリムト: ベートーヴェン・フリーズ|ベートーヴェン 交響曲第9番

 BSフジで放映された「松下奈緒「接吻」~黄金の画家クリムトとウィーン1900年~」では、分離派会館の《ベートーヴェン・フリーズ》も取材しています。分離派会館(セセッション館)は、クリムトが中心になって設立した芸術家クループであるウィーン分離派の作品を展示するために建てられたもので、クリムトは、1902年に壁画《ベートーヴェン・フリーズ》制作しました。

 この作品は、長方形の室内の壁面に展開され、ベートーヴェンの第九の各楽章を視覚化したものとして知られています。

 「幸福への憧れ」として描かれた部分は、第一楽章に相当し、悪と戦う「黄金の戦士」が描かれ、戦士の前方には宙に連なる女性達が憧れを紡いでいる様を表しているそうです。第一楽章冒頭、トレモロで始まる前奏の後に登場する動機が、この戦士のイメージを生んだのだと思われます。


ベートーヴェン第九 第一楽章


 松下奈緒さんの番組では、この戦士がクリムトの盟友であったグスタフ・マーラーをモデルにしたものだと紹介していましたが、公式には、この戦士はベートーヴェンを現したものだそうです。クリムトは、ここでも日本様式の造形を取り入れていて、戦士が身に纏っているのは甲冑、下に置かれているのは兜の造形であるし、背後の女性が身に着けていると思しき衣装の装飾模様の中には、実在する武家の家紋が使われています。


クリムト 幸福への憧れ1

クリムト 幸福への憧れ2
◇ ベートーヴェン・フリーズ 幸福への憧れ(2枚)


クリムト 黄金の戦士_
◇ べートーヴェン・フリーズ 黄金の戦士(《幸福への憧れ》からの切りだし)


 次いで、直交する壁面に描かれた「敵対する力」は、第二楽章によって導かれたもので、画面右の痩せた人物が、ギリシャ神話に登場する悪の象徴である怪物テュフォーン(Typhon:台風の語源となっている)で、左端に居る3人の若い女たちがテュフォーンの三人姉妹ゴルゴンです。中央にはゴルゴンがもたらす誘惑として、不貞、淫欲、不節制が描かれ、ゴルゴンの背後で両腕を広げているのは多分死神で、そのさらに後ろに見える恐ろしい表情が、誘惑によってもたらされる結末としての狂気や病気、死を表しています。


クリムト 敵対する力
◇ べートーヴェン・フリーズ 敵対する力

クリムト 不貞 淫欲 不節制
◇ べートーヴェン・フリーズ (上から)不貞、淫欲。不節制(《敵対する力》からの切りだし)


 そして、柔らかな緩徐楽章の第三楽章からは、「精霊と詩」として、「芸術による人類の救済」をイメージ化しています。精霊が両手で奏でる楽器は、おそらく竪琴(ハープ)であり、そこから嫋やかな音が流れ出して行き、最初に登場した空中に連なる女性達がそこで泳いでいます。クリムトは、ここでも尾形光琳の《紅白梅図屏風》から川のアウトラインや波を現す模様を引用しています。


クリムト 精霊と詩1
◇ べートーヴェン・フリーズ 精霊と詩

クリムト 精霊と詩2
◇ べートーヴェン・フリーズ 芸術による人類の救済(《霊と詩》からの切りだし)


 そして、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と歌う終楽章では、いかにもクリムトらしく、「接吻」で締めくくります。「キスを全世界へ」と題して、ここでも女性至上主義のクリムトは、抱擁する男女の背後に、女声合唱団を配して高らかに歓喜を歌い上げます。


クリムト キスを世界へ
◇ べートーヴェン・フリーズ キスを全世界へ

クリムト キスを世界へ_
◇ べートーヴェン・フリーズ  キス(《キスを全世界へ》からの切りだし)


 実際にベートーヴェンが、こういったイメージを基にこの交響曲を作曲したとは到底思えません。このフリーズをベートーヴェンが観たら、もしかしたら、不謹慎だと感じて怒りだすかもしれません。しかし、表面的な表現手法は作曲者のイメージと異なってはいるものの、根本的な筋としては、《フィデリオ》のレオノーラを良しとする概念を含んでいます。だから、本来は絶対音楽であるはずの交響曲に歌を持ちこむという斬新な発想をしたベートーヴェンとしては、このような解釈をも寛容するとも考えられます。

 いずれにせよ、聴く人がその曲から感じ取るイメージは自由であって、そこに音楽の無限の価値があるのを、クリムトは、この壁画で示してくれています。


分離派会館_
◇ 分離派会館


画像出典: wikimedia commons

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ベートーヴェン 第九

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阿修羅像|on 日美

 前回の日曜美術館は、奈良・興福寺の「阿修羅-天平乾漆群像展」の取材でした。阿弥陀如来や阿修羅で知られる八部衆が仮講堂に陳列されている2017年前期の国宝特別公開は、会期終了が6月18日に迫っています。(後期は、9月15日から11月19日の予定で再度公開予定。)

 音楽好きにとっては、お経をあげる時の木魚や鈴(りん)などの鳴り物にも興味があり、以前、法事の時に、叩き方や鈴を入れるタイミングなどの指定があるのか訊いてみたのですが、ごく簡単な指示があるだけで厳密ではないとのことでした。不謹慎といわれるかもしれませんが、法事の時のお経を一種の音楽として聴くと結構アバンギャルドだったりします。今回の展示でも国宝の華原磬(かげんけい。当時は金鼓(こんく)と呼ばれていた)という鳴り物が置かれていて、やはり、儀式の際に打ち鳴らす金属製の鐘で、古くは石で造られていたそうです。いったいどんな音がするのか非常に興味深いのですが、国宝を気軽に叩くわけにもいかず、番組でも観るだけに終わりました。


国宝 華原磬(かげんけい) 九州国立博物館
◇ 華原磬(かげんけい)
 
 八部衆は阿修羅像や迦楼羅(かるら)立像など、異形の造形が並びますが、今回改めて阿修羅像を観て、その表情の奥深さに惹かれました。もとはといえば、古代インドの神アスラであったのが、ヒンドゥー教によって悪神にしたてられて、仏教に闘神として取り込まれたそうです。



国宝 阿修羅像 九州国立博物館

国宝 阿修羅像 九州国立博物館2

国宝 阿修羅像 日美
◇ 阿修羅像

国宝 迦楼羅(かるら)立像 九州国立博物館
◇ 迦楼羅(かるら)立像


 腕が6本、顔が三つあるので異形に見えるのですが、同じ一人の阿修羅を時系列順に造ったもので、戦闘神としての阿修羅から、仏に帰依して戦いを止める阿修羅への変化を現しています。向かって右側の顔が、鬼の形相で戦う阿修羅でああり、両手を上げて敵に遅いかかる様を表しています。対して、向かって左の顔は、後悔の表情でしょうか。そして、正面の顔が仏に帰依して手を合わせている時の表情です。この正面の表情が、一見、どこにでも居るような人の表情でありながら、その奥に隠された神秘的な意味深さを感じさせます。真っ直ぐ前を見る目の表情は少しだけ悲しそうにも見えますが、いったい、なにを思いながら手を合わせているのか、仏教の真理を極めないとわからないのか・・・等、見れば見るほどその神秘性に引き込まれます。
 この微妙な表情を実現したのは、脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という技法で、その後の平安時代では木彫が主流になっていったため、天平時代の仏像にしか見られないものだそうです。木で像の骨組みを造り、その上に粘土を盛っておおまかな外形を整え、その上に布を貼り付けていき厚さ10mmほどにして、さらにその上を漆で盛り上げることで細部を造ります。顔の表情等の微妙な表現は、この漆の工程で調節するものと思われます。その後、目立たないところで像を割って、中の粘土を取り除き、木の骨組みだけを残して張り合わせて完成させます。手間と熟練が必要だったと思われますが、阿修羅像の場合は、この微妙な表情を造り出したところに計り知れない価値があります。

 ダ・ヴィンチのモナリザをも凌駕する神秘性と、そこに込められた深い精神性は、日本美術が生んだ孤高の表情です。


画像出典: 九州国立博物館 NHK日曜美術館

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阿修羅像

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AIと芸術|12音技法に寄せて

 昨今、AI(Artifitial Intelligence:人工知能)の進歩が目覚ましく、近い将来、人間の仕事の多くがコンピューターにとって変わられる時代がやってくると言われています。単純な計算はもとより、チェスや将棋から碁に至るまで、もはや人間はコンピューターにかないません。レジ打ち等の単純作業は、間違いなく人の仕事ではなくなると言われます。感性に基づく芸術活動は、そうではないと思われる向きもありますが、アートではCGによるデジタル・アートがすでにあるし、音楽でも、1960年代から、電子音楽が始まり、多くの芸術家が工学技術の進歩を芸術活動に取り入れているために、少なくとも親和性は低くないと言えます。

わたしの仕事、ロボットに奪われますか? (on 日経:Visual Data - 日本経済新聞)
あなたの仕事、ロボットと戦えますか?(on 日経:Visual Data - 日本経済新聞)

 クリエイティブなワークは機械には難しいのですが、しかし、AIの学習機能というものが進化しており、様々な経験値を生かすことが出来るようになっています。人の創造活動も、全くの無から生まれるのではなく、例えば、モネのルーアン大聖堂の連作は、モネが大聖堂を様々な条件下で観察した結果から生まれた絵であったわけで、これは、観察するという経験から生まれたものです。技術の進歩によって人の脳よりもはるかに記憶容量の大きいメモリ空間に世界中のあらゆる事象を蓄積しつつあるビッグ・データが増大して、あらゆる分野での経験値から、それを生かした何かを生み出すプロセスがAIによって学習されれば、(例えば、この例では、光の状態が異なると見える情景も変わってくるということを学習して、それを絵画の取材に生かすという発想)創作活動が出来るようになります。
 
 先に、シェーンベルクの12音技法について記しましたが、これなどは、将棋や碁より遥かに簡単だと思われます。基本音型を適当に選び、それらの変化形(移高、反行とそれらの逆行)を造ることはAIでなくとも造作ないことです。それそれの旋律を対位法的に並べるとか、和音を形成するプロセスをAIが担当すれば作曲が完成します。そこで、有機的な音楽になるかどうかが難しいところではあるのですが、AIに作曲をさせる試みは、すでにソニー等が行っており、例えば、ビートルズ風に作曲して欲しいと指示することで、なんとなくビートルズ風の音楽が出来上がるところまでやっています。そこで、ここでは、AIに、ウェーベルン風にとかベルク風にとか指示すれば、それらしい12音技法を使った新ウィーン楽派の曲が出来るわけです。現段階では、人が「~風に」と指示しなければなりませんが、将来、AIが自律的に楽風を考えて作曲するようにならないとも限りません。



◇ Daddy's Car: a song composed by Artificial Intelligence - in the style of the Beatles ( by Sony CSL( Computer Science Laboratory))

参考記事: カラヤン/ベルリン・フィル:新ウィーン楽派管弦楽曲集| 12音技法と抽象絵画
 
 しかし、音楽には演奏行為というものがあります。楽譜に示されていない演奏表現の自由度が残されていて、そこは、人の感性によるものが大きい。例えば、バーンスタインのマーラーの《巨人》の演奏を例にとってみると、生涯で何度もこの曲を録音したバーンスタインは、その都度かなり異なる演奏をしています。これは、ホールの違いとか、オーケストラの特質とか、指揮者自身の体調の変化による気分の違いなど、あらゆる条件が複雑に絡み合った結果だと考えられます。AIにそのような環境条件を経験値と比較させることで、変化を検出することは可能になるでしょう。しかし、その変化を指揮という演奏行為に反映させて実演するとなると、指揮者を人間に近いものにしなければならない。つまり、AIの頭脳を持つアンドロイドのようなものを造らなければいけなくなります。もし、技術的にそれが可能となっても、別の意味での問題、つまり倫理的な問題が発生します。

参照記事: 名盤の探索 マーラー《巨人》 -Bernstein conducts "The Titan"

 ということで、芸術活動の全てをAIで行おうとすると、それ以前の段階で倫理的な議論が必要になると思われます。

 個人的には、AIが自律的に作曲が出来るようになった時点で、議論をすべきだと考えます。人が創造した曲は、作曲者の個性ととらえられます。上にかかげた演奏論を繰り出すまでもなく、AIによって無数の個性が生まれてしまうことは、やはり問題だと思えるからです。これは、極端な例えですが、今、世界的な社会問題となっている原子力発電に投影することができます。原発は、生活に欠かせない電力を供給してくれますが、同時に自然界には普通の形で存在しない放射性元素が出来てしまいます。今その処理に困っているわけですが、実生活への影響はこれに比べると稀少と思われるとはいえ、AIによる無数の個性の増殖も、その扱いに困窮する時代が来るのではないでしょうか。

 芸術の本質は個性です。AIは、その個性によって生まれる芸術作品を無数に創出する可能性を秘めています。(AI自身が個性を持たなくても、結果として生まれてくる作品が、ある個性によって生まれてくるものと等しいものである場合があり得て、それが無限に創出される。換言すれば、それは、無個性化とも言える。)
 音楽にしても美術にしても、AIに代表される科学技術の進化を「人が主体となって」活かすことが重要であり、そうでないと、無数の個性が乱立する混沌が待っています。


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新ウィーン楽派管弦楽曲集

カラヤン/ベルリン・フィル
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クリムトと日本美術|ストックレー・フリーズ(生命の樹)

 ベルギーの実業家アドルフ・ストックレーは、熱心なクリムトの収集家で、自宅(ストックレー邸)の食堂に装飾壁画(フリーズ)を設置しました。長方形の室内の壁の長い壁面に対抗して描かれているのが生命の樹を中心とした壁画です。


クリムト 壁画・ストックレー・フリーズ_left
◇ ストックレー・フリーズ(左壁*)

クリムト 壁画・ストックレー・フリーズ_right
◇ ストックレー・フリーズ(右壁*)
(*各部を分けて撮影したものを繋げた画像だと思われる。)


 この壁画のための厚紙に描かれた下絵が存在していて、幾つかの主要モチーフに分かれています。


クリムト 期待の下絵
◇ クリムト 期待の下絵

クリムト 生命の樹の下絵
◇ クリムト 生命の樹の下絵

クリムト 狭き壁面の下絵
◇ クリムト 狭き壁面の下絵

クリムト 抱擁の下絵
◇ クリムト 抱擁の下絵

 《狭き壁面》は、二つの長い壁面に挟まれた狭い方の壁面に描かれている壁画の下絵です。

 松下奈緒さんが巡る「黄金の画家クリムトとウィーン1900年~」では、ストックレー・フリーズの下絵を所蔵するMAKウィーン応用美術館のヨハネス・ヴィーニンガー博士を訪ねて、この絵に潜んでいる日本美術のテイストを解説してもらっています。松下さんは、最初この壁画の印象をエジプト風の模様に重ねていましたが、博士によるとクリムトの作品には、多くの日本美術からの引用があるといいます。《生命の樹》のくるくる巻いた枝や地面に見られる波状のラインは、尾形光琳の《紅白梅図屏風》から来ているそうです。そう言われてみれば、たとえば、ストックレー・フリーズの左下を見ると、白い波形の帯があり、それが《紅白梅図》の川のアウトラインに類似しています。


クリムト ストックレー・フリーズ_left拡大
◇ ストックレー・フリーズ(左壁の部分拡大図)

 クリムトは、光琳の《紅白梅図屏風》が大分好きだったようで、他の作品にもこのラインを流用しています。


アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I
◇ アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 1907年 油彩、金、銀 カンヴァス 140×140 cm

クリムト ダナエ
◇ ダナエ 1907-1908年 油彩、カンヴァス 77×83 cm


 《アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像》では、夫人の背後の造形が、また、《ダナエ》でも画面右の逆S字状の曲線が、《紅白梅図》から引用されていると博士は主張します。言われないと気付かないほどデフォルメされてクリムト自身の表現の中に組み込まれていますが、確かにそのように見えます。
 これらの作品において観者の眼は、それぞれ、夫人の衣装とダナエの脚線に這わせた金の装飾に奪われてしまいます。しかし、前者では、夫人の衣装と一体化させた光琳のアウトランが、まるで夫人が着ている衣装のような装飾的効果を生みだしているし、後者では、ダナエの躰が描く曲線と光琳のそれが呼応して妖艶な脚線美を演出しています。

参照記事: 燕子花と紅白梅 @根津美術館

 ストックレー・フリーズに戻ると、《抱擁》のモチーフで、男女の体が一つになっているように見える表現も、日本の浮世絵を参照していると博士は言います。例として、菊川英山の《青桜名花合》を挙げていて、確かに良く見るとこの二人の遊女の着物は、どちらが着ているのか判別がつかないほどに模様として融合してしまっています。クリムトは、この立体の造形であるはずの二人の遊女に使われている、平面的かつ装飾的な描写に異国情緒の神秘性を感じていたのかもしれません。
 もう少しわかり易いのは、《期待》のモチーフで、ここでは女性の手の特徴的な恰好が、鳥文斎栄之の《青楼美撰合初買座敷の図・扇や内滝川》との一致を見せています。


菊川英山 青桜名花合
◇ 菊川英山 青桜名花合

鳥文斎栄之 青楼美撰合
◇ 鳥文斎栄之 青楼美撰合初買座敷の図・扇や内滝川


 こうやって見てくると、クリムトは、広重を模写したゴッホ以上に、広範囲に渡って日本画を研究し、その表現を自身のもととして消化したうえで作品に活かしていることがわかります。

画像出典: wikimedia commons, ukiyo-e search


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クリムト

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