ルノワール展の最終章は、裸婦、「芸術に不可欠な形式のひとつ」です。
この表題に異論はないのですが、ルノワールの裸婦に関しては、筆者は特殊なものを感じます。それ以前の写実的な裸婦と比較して、ルノワールの場合、裸婦という題材に対するあり方が根本的に異なっているのではないかとも思えます。写実的な裸婦像は、どのような理屈を付けようが、写実である限り性的な高揚を感じさせるものとなり得ます。理想化されたルフェーブルの裸婦像にしても、ありのままの裸婦をリアルに描いた黒田清輝の裸婦像にしても、そういう要素が確実に存在し、それがアートの重要な一要素となっています。

参照記事: 裸体画論争|黒田清輝と春画展、会田誠

しかしながら、ルノワールが死の数か月前に描いたという《浴女たち》はどうなのかと問われると、少なくとも筆者はそういった高揚を感じません。ここに描かれているような体型が現代人には受けがよくないことを差し引いても、どう考えたって邪まな感情にはいたらない。同じふくよかな裸体でも、黒田清輝の描いたそれとは全く異なります。だから、そこには、ルノワールが仕掛けたなにか他の意味が込められているのではないかと思う次第です。


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◇ 浴女たち 
     1918-1919年 油彩、カンヴァス 110 × 160 cm

それは、いったい何か。多分、この女性たちから香ってくる幸福感ではなかろうかと思います。冷静に考えれば、屋外に全裸で寝そべる行為は、日常ではあり得ません。だがしかし、平然とそれが出来る解放感がこの絵からは発散している。現実にはあり得ないことが出来るという状況を満喫する浴女たちは、とても嬉しそうに見えます。そのポーズや表情に現れている幸福感が、この絵の主題ではないでしょうか。つまり、彼女たちが寝そべっているところは現実世界ではない天上のアルカディアだというわけです。アカデミズム絵画による女神ではなく、生身の女性によって、観者に自然な幸福感をもたらすことがルノワールの真の目的だったのでしょう。重いリュウマチのために指が使えず、筆を括り付けて描いたというルノワールの「幸福」への追及の執念とその終着点がここにあります。

「人生には不愉快な事柄が多い。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない。」(ルノワール)

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