先週の「美の巨人たち」は、4週連続の琳派シリーズの第三回、京都養源院の杉戸に描かれた俵屋宗達の《養源院襖絵・杉戸絵(重文)》でした。
 養源院は、伏見城の戦いで自決した徳川方の武将達が放置されていた血のりの床板を、供養のために天井(血天井)に配した寺として有名です。俵屋宗達の《杉戸絵》も、供養のために描かれたとされ、これが宗達の絵師としての最も初期の仕事だとされています。
 しかし、初期の仕事にしては、この絵は恐るべき斬新性を持っています。描かれた唐獅子にしても白像にしても、現実離れした奇妙な造形であるだけでなく、そのポーズや表情までもが奇天烈です。それは、見方によってはユーモラスに見えるため、番組では昨今流行の「ゆるキャラ」に例えて、この番組恒例の寸劇風の作品紹介をしていました。確かに白象の背中の丸い曲線は、どこか可愛らしく「ゆるキャラ」に似ていなくもありません。

 養源院は、1594年、豊臣秀吉の側室、淀君が亡き父・浅井長政の菩提を弔うために建立し、その後火事で焼失し、淀君の妹・お江により1621年に再建されたそうです。その際、その才能を早くから見抜いていた本阿弥光悦の口添えによって宗達が推奨されたと番組では説明されていました。したがって、《杉戸絵》は再建時に描かれたということになります。1621年は、《風神雷神図屏風(国宝)》が描かれたとされる1630年代より10年以上も前です。それ故、この《杉戸絵》が宗達の絵師としての原点だとされていますが、筆者は、この絵のあまりの斬新性に、どこか違和感を持ちました。確かに、どの流派にも属さなかった自由度はあったでしょうが、その斬新さは、それより後とされる作品を凌いでおり、《風神雷神図屏風》に勝るとも劣らない。さらに、もし、1621年に無名の絵師として《杉戸絵》を担当させられたとしたら、一介の扇屋に最初からあのあような大胆な描写が出来たでしょうか。「美の巨人たち」の内容に意義を唱えるつもりはありませんが、筆者としては、再建の1621年に描かれたのではなく、それ以降の補修なり行事の際に追加で描かれたものだと考える事は出来ないだろうか、と思った次第です。極端に写実から離れたデザイン性は、1630年代の《舞楽図屏風》などより後の作とする方が自然なような気がします。

 それにしても、あのような不可思議な唐獅子と白象を描いた宗達の真意はどこにあったのでしょうか。特に白象が奇妙で、左側の象の目は、眉毛のように見える黒い部分に瞳が描かれていなければ、一見、目を瞑っているようにも見えます。そもそも、当時の寺の中に白の飾り物をディスプレイすること自体、斬新だったのではないでしょうか。超現実主義をも想起させるような特異な描写は、ユーモラス以外の何か深い意味があるような気もします。



◇ 養源院「杉戸絵」 白象 


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俵屋宗達―金銀の“かざり”の系譜  – 2012/2/1
玉蟲 敏子 (著)

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