3/26(金)、27(土)に来日される 予定(twitter で知りました)のGuy Standing教授(英国バース大学)による、「仕事をする権利を得るにはなぜベーシックインカムが必要なのか(WHY BASIC INCOME IS NEEDED FOR A RIGHT TO WORK)」と題する論文の第六節を訳してみました。
原文はこちら http://www.guystanding.com/images/stories/pdf/ja/vol2issue1GuyStanding.pdf
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(こ の前の部分の訳はこちら)
VI. 仕事をする権利と、支払いのある仕事をする権利(THE RIGHT TO WORK AND THE RIGHT TO PAID WORK)
仕事をする権利(right-to-work)の擁護者達が仕事(work)について話すときには、いつも決まって「支払いのある仕事をする権利(right to "paid" work)」について語り出す。 この言い方には暗に、2つの権利、すなわち支払う権利(right to "pay")と仕事をする権利(right to "work")という2つの考え方が含まれているように思われる。 そもそも、「支払う(pay)」とは一体どういうことなのか? 「すべての人は、最低賃金(minimum wage)、家族賃金(family wage)、またはあらゆる種類の労働に対する同一賃金(wage equal for all kinds of labor)、もしくは必要最低限の生活というある種の観念に見合った適切な賃金(wage adequate for some notion of subsistence)を受け取る権利を有する」、とでも仕事をする権利(right-to-work)の擁護者達は言うのだろうか?
Harvey (17) は、私が「ただで仕事をする権利(right to work for free)」を提唱していると主張しているが、 もちろん、そんなことは言っていない。Harveyは自分の言っていることに気をつけてもらいたい(Harvey, 11)。この中では、「筋の通った議論が誇大妄想的に拡張されてしまっている。」 問題となっているのは、仕事をする権利(right to work)を、所得に対する権利(right to income)と切り離して考えることができるかどうか、と言うことである。 「人は、仕事(work)に対して、プロメテウスからアリストテレスに至る時代のような、創造的な人間味あふれる活動であるという見方を持っている場合にのみ、仕事をする権利(right to work)というものを理解することができる」、と私は思うし、もしそうであるとするならば、お金で支払うとか、お金で支払わないとかは、二の次三の次のどうでも良いことだ。 いかなる活動であっても、その活動に対する補償(compensation)の形態は、それぞれ別個に扱われるべきである。私は、「ただで(for free)」この論文を書いている。 一人の人間として、私はこの論文を書く権利を有する。 もし誰かが(例えばPhil Harveyが)、私がこの論文を書くことを禁じたとしたら、私は、それを私の「ただで仕事をする権利(right to work for free)」を阻害していると見なすだろう。
ここで、ベーシックインカムによっては、職業(occupation)という意味・感覚によって定義されるものとしての仕事をする権利は「実現(realize)」されない、ということを明らかにしてみよう。 これはクレームを付けているのではない。Harvey (15) が頑固に主張しているようなものとは違う。 言いたいことは、ベーシックインカムとは、「何かに失敗したりうまく行かなかった場合にでも少なくとも生き残っていける頼みの綱となるような収入源を一人の人に与えることによって、前記で定義したような、「職業の目的を追求し遂行し続行する(pursue occupation)」ための手間と労力のコストを軽減するもの」であるということである。 ベーシックインカムによって種々のリスクが抑えられ、その結果として、人々が、より長期的な、日和見主義的でない観点に立つことが促進されるのだ。
ベーシックインカムは役に立つであろう。しかし、あらゆる形態の仕事(work)は、それに見合った金銭的報酬(monetary rewards)によって補償されるべきである、というような信念を持つ必要は全くない。 むしろ、ベーシックインカムは、「人々が支払いのあるなしに関係なく様々な形態の仕事を組み合わせられるようにするために、いろんなやり方を見つけていく必要がある」、という認識の上に成り立つものである。 私が自分の子供の世話をするのに何かを支払ってもらう理由はないが、誰かよそ様の子供を預かって面倒を見ることに対して支払ってもらうことには何がしかの意味があるかもしれないし、自分の子供の面倒を見たことに対する「補償(conpensation)」が、利他的な形、つまり長期間にわたる精神的・金銭的なお返しという形で戻って来ることだってあり得るだろう。 人はこのようなことを白黒はっきりさせることはできないのだ。 要はそういうようなことなのではなくて、仕事(work)の量と形態を選択する際の自由度を高めることが、目的なのである。 「支払いのない(unpaid)」仕事には、「補償がない(uncompensated)」から「損(disadvantage)」だと思い込んではならない。
ベーシックインカムを、あらゆる社会的な問題を解決できないからといって、批判の対象とすべきではない。 もちろん、単純にお金が支払われる労働(simply paid labor)よりも、支払いのない仕事(unpaid work)をすることを選んだ人の方が、受けとる収入が少なくなる可能性は高い。 政府が、介護の仕事(care work)に対する支払いは直接払い(direct payment)でお願いしたいと思っていたとしても、それはまた別の問題である。この件については、面白い議論がたくさんある。
同様の議論は、「非自発的失業(involuntary unemployment)」のような状況にも当てはまる。 ベーシックインカムが、誰かの失業を直接補償しないからといって、なぜ批判されなくてはならないのか? この批判は、Harvey (16-17)によって行われた。 もちろん、仕事(job)を保持している人に比べれば(その仕事(job)が希望に適ったものであって、報酬があると仮定すればの話だが)、仕事(job)を失くした人の方が苦痛も大きいだろう。 これに対処する方法は、保険スキームと労働市場政策(labor-market policies)によるのであるが、 ベーシックインカムによって、失業のコスト、さらには今後予想される失業のコストが減らされる、と考えるのは全くの誤まりである。 生存に必要なものが全く無くなるくらいまで貧窮することはないと分かれば、失業に脅えている人に対して、確実にプラスの心理的効果を与えられるだろうし、失業に対する耐性が高まるだけでなく、仕事(work)に代わる何らかの満足する術を見つけ出すことに時間をかけられるようにもなるだろう。
最後に、ベーシックインカムは、もしこれが導入されなかったら何もなされないままになっていたような、「社会的仕事(community work)」を促進するのにも役立つ可能性がある。なぜなら、その社会で暮らしている人達は、時間的に余裕がなかったり、労働時間が長過ぎてそういう仕事をしようという気持ちやエネルギーが湧かなかったり、あるいはこの種の活動には市場への刺激策とするために使える資金が回って来なかったりするからである。
Harvey (18) は、ベーシックインカムの数あるダイナミックな性質を意味ないものとして退けるのに躍起になり過ぎている。Harvey曰く、「(ベーシックインカムは)、コミュニティや社会全体に対して、どのような非市場的活動が共同的な支援(collective support)に値するのかを決定する自由を今以上に提供することはないし、これらの活動を補助金で援助する手段を提供することもない」と。 だが、これと逆の見方だってできるだろう。 アフリカでのベーシックインカムを主張する理由の1つは、HIV/AIDSによって破滅させられたコミュニティの生産能力と生殖能力を再生するという課題への取り組みを「支援(help)」することにあるのだ。 このようなコミュニティの全ての居住者が、定期的にべーシックインカムを受け取れば、ほぼ確実に、数多くの基本的なサービスを収益事業化する傾向が出てくるだろうし、いろいろな基金や資金を活用することで地域向けの商品やサービスに対する需要が増える傾向も出てくるので、結果的に一部のものは実際に商品化・サービス化されるようになるだろう。 これはまさに、南アフリカの社会年金(本質的には、老齢者向けのベーシックインカム)によって実現されたものである。
まとめると、ベーシックインカムを権利として付与することは、支払いのある仕事(paid work)と支払いのない仕事(unpaid work)の両方を促進するのに役立つ可能性があり、一人ひとりが自分の仕事のポートフォリオ(work portfolio)として育成展開したいと思っている色々な活動を組み合わせることで選択肢を増やせるようなり、収入レベルの低いコミュニティであっても、社会的仕事(community work)をコントロール・管理できる幅をある程度広げることができるようにになる、ということである。
(この続きはこちら)
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私も「ただ(for free)」で翻訳してます(笑)。
要は、賃金とか財源とかのお金のことも重要ですが、自由を確保することが一番大切、ということなのかな。。
ちなみに、私の辞書(ジーニアス英和)によると、"pay" は「借りを返す」が本義、とありました。
原文はこちら http://www.guystanding.com/images/stories/pdf/ja/vol2issue1GuyStanding.pdf
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(こ の前の部分の訳はこちら)
VI. 仕事をする権利と、支払いのある仕事をする権利(THE RIGHT TO WORK AND THE RIGHT TO PAID WORK)
仕事をする権利(right-to-work)の擁護者達が仕事(work)について話すときには、いつも決まって「支払いのある仕事をする権利(right to "paid" work)」について語り出す。 この言い方には暗に、2つの権利、すなわち支払う権利(right to "pay")と仕事をする権利(right to "work")という2つの考え方が含まれているように思われる。 そもそも、「支払う(pay)」とは一体どういうことなのか? 「すべての人は、最低賃金(minimum wage)、家族賃金(family wage)、またはあらゆる種類の労働に対する同一賃金(wage equal for all kinds of labor)、もしくは必要最低限の生活というある種の観念に見合った適切な賃金(wage adequate for some notion of subsistence)を受け取る権利を有する」、とでも仕事をする権利(right-to-work)の擁護者達は言うのだろうか?
Harvey (17) は、私が「ただで仕事をする権利(right to work for free)」を提唱していると主張しているが、 もちろん、そんなことは言っていない。Harveyは自分の言っていることに気をつけてもらいたい(Harvey, 11)。この中では、「筋の通った議論が誇大妄想的に拡張されてしまっている。」 問題となっているのは、仕事をする権利(right to work)を、所得に対する権利(right to income)と切り離して考えることができるかどうか、と言うことである。 「人は、仕事(work)に対して、プロメテウスからアリストテレスに至る時代のような、創造的な人間味あふれる活動であるという見方を持っている場合にのみ、仕事をする権利(right to work)というものを理解することができる」、と私は思うし、もしそうであるとするならば、お金で支払うとか、お金で支払わないとかは、二の次三の次のどうでも良いことだ。 いかなる活動であっても、その活動に対する補償(compensation)の形態は、それぞれ別個に扱われるべきである。私は、「ただで(for free)」この論文を書いている。 一人の人間として、私はこの論文を書く権利を有する。 もし誰かが(例えばPhil Harveyが)、私がこの論文を書くことを禁じたとしたら、私は、それを私の「ただで仕事をする権利(right to work for free)」を阻害していると見なすだろう。
ここで、ベーシックインカムによっては、職業(occupation)という意味・感覚によって定義されるものとしての仕事をする権利は「実現(realize)」されない、ということを明らかにしてみよう。 これはクレームを付けているのではない。Harvey (15) が頑固に主張しているようなものとは違う。 言いたいことは、ベーシックインカムとは、「何かに失敗したりうまく行かなかった場合にでも少なくとも生き残っていける頼みの綱となるような収入源を一人の人に与えることによって、前記で定義したような、「職業の目的を追求し遂行し続行する(pursue occupation)」ための手間と労力のコストを軽減するもの」であるということである。 ベーシックインカムによって種々のリスクが抑えられ、その結果として、人々が、より長期的な、日和見主義的でない観点に立つことが促進されるのだ。
ベーシックインカムは役に立つであろう。しかし、あらゆる形態の仕事(work)は、それに見合った金銭的報酬(monetary rewards)によって補償されるべきである、というような信念を持つ必要は全くない。 むしろ、ベーシックインカムは、「人々が支払いのあるなしに関係なく様々な形態の仕事を組み合わせられるようにするために、いろんなやり方を見つけていく必要がある」、という認識の上に成り立つものである。 私が自分の子供の世話をするのに何かを支払ってもらう理由はないが、誰かよそ様の子供を預かって面倒を見ることに対して支払ってもらうことには何がしかの意味があるかもしれないし、自分の子供の面倒を見たことに対する「補償(conpensation)」が、利他的な形、つまり長期間にわたる精神的・金銭的なお返しという形で戻って来ることだってあり得るだろう。 人はこのようなことを白黒はっきりさせることはできないのだ。 要はそういうようなことなのではなくて、仕事(work)の量と形態を選択する際の自由度を高めることが、目的なのである。 「支払いのない(unpaid)」仕事には、「補償がない(uncompensated)」から「損(disadvantage)」だと思い込んではならない。
ベーシックインカムを、あらゆる社会的な問題を解決できないからといって、批判の対象とすべきではない。 もちろん、単純にお金が支払われる労働(simply paid labor)よりも、支払いのない仕事(unpaid work)をすることを選んだ人の方が、受けとる収入が少なくなる可能性は高い。 政府が、介護の仕事(care work)に対する支払いは直接払い(direct payment)でお願いしたいと思っていたとしても、それはまた別の問題である。この件については、面白い議論がたくさんある。
同様の議論は、「非自発的失業(involuntary unemployment)」のような状況にも当てはまる。 ベーシックインカムが、誰かの失業を直接補償しないからといって、なぜ批判されなくてはならないのか? この批判は、Harvey (16-17)によって行われた。 もちろん、仕事(job)を保持している人に比べれば(その仕事(job)が希望に適ったものであって、報酬があると仮定すればの話だが)、仕事(job)を失くした人の方が苦痛も大きいだろう。 これに対処する方法は、保険スキームと労働市場政策(labor-market policies)によるのであるが、 ベーシックインカムによって、失業のコスト、さらには今後予想される失業のコストが減らされる、と考えるのは全くの誤まりである。 生存に必要なものが全く無くなるくらいまで貧窮することはないと分かれば、失業に脅えている人に対して、確実にプラスの心理的効果を与えられるだろうし、失業に対する耐性が高まるだけでなく、仕事(work)に代わる何らかの満足する術を見つけ出すことに時間をかけられるようにもなるだろう。
最後に、ベーシックインカムは、もしこれが導入されなかったら何もなされないままになっていたような、「社会的仕事(community work)」を促進するのにも役立つ可能性がある。なぜなら、その社会で暮らしている人達は、時間的に余裕がなかったり、労働時間が長過ぎてそういう仕事をしようという気持ちやエネルギーが湧かなかったり、あるいはこの種の活動には市場への刺激策とするために使える資金が回って来なかったりするからである。
Harvey (18) は、ベーシックインカムの数あるダイナミックな性質を意味ないものとして退けるのに躍起になり過ぎている。Harvey曰く、「(ベーシックインカムは)、コミュニティや社会全体に対して、どのような非市場的活動が共同的な支援(collective support)に値するのかを決定する自由を今以上に提供することはないし、これらの活動を補助金で援助する手段を提供することもない」と。 だが、これと逆の見方だってできるだろう。 アフリカでのベーシックインカムを主張する理由の1つは、HIV/AIDSによって破滅させられたコミュニティの生産能力と生殖能力を再生するという課題への取り組みを「支援(help)」することにあるのだ。 このようなコミュニティの全ての居住者が、定期的にべーシックインカムを受け取れば、ほぼ確実に、数多くの基本的なサービスを収益事業化する傾向が出てくるだろうし、いろいろな基金や資金を活用することで地域向けの商品やサービスに対する需要が増える傾向も出てくるので、結果的に一部のものは実際に商品化・サービス化されるようになるだろう。 これはまさに、南アフリカの社会年金(本質的には、老齢者向けのベーシックインカム)によって実現されたものである。
まとめると、ベーシックインカムを権利として付与することは、支払いのある仕事(paid work)と支払いのない仕事(unpaid work)の両方を促進するのに役立つ可能性があり、一人ひとりが自分の仕事のポートフォリオ(work portfolio)として育成展開したいと思っている色々な活動を組み合わせることで選択肢を増やせるようなり、収入レベルの低いコミュニティであっても、社会的仕事(community work)をコントロール・管理できる幅をある程度広げることができるようにになる、ということである。
(この続きはこちら)
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私も「ただ(for free)」で翻訳してます(笑)。
要は、賃金とか財源とかのお金のことも重要ですが、自由を確保することが一番大切、ということなのかな。。
ちなみに、私の辞書(ジーニアス英和)によると、"pay" は「借りを返す」が本義、とありました。
