2006年11月04日

お知らせ

この度私のブログ「余白」が新しい場所で継続することになりました。
こちらのブログでの記事は新しい方には残念ながら移せません。

長い間ありがとうございました。
今後は新しい方を宜しくお願いいたします。

新URL:
http://aag42740.blog.shinobi.jp/  
Posted by aag42740 at 18:04Comments(4)TrackBack(0)

2006年09月03日

現地同時報告

uganda1現在ウガンダの首都カンパラなのです。こちらに来てからもう2週間たったのですが、今泊まっているShangri-La Hotelではインターネットが使い放題なので試しに近況をアップ。

ウガンダは今の日本よりかは過ごしやすい天候かな。30度以上にはまずならないし(ほとんど赤道直下なのに)、雨も夕方ちょっと降るぐらいだから乾燥しすぎてもいない。年中この調子らしい。まあこれから本格的に雨季に入れば湿度は増すだろうけど。

メシは結局ウガメシ(ウガンダのメシの略)が合わずに中華か、イタリアン、又はインド料理という体たらく。だってやっぱまずいんだもん。お米とかこちらの人食べるんだけどその傍らに肉(山羊、牛、鶏、魚)の焼いたものを乗っけて、またその横にサツマイモのマッシュしたものが乗り、その全体に薄橙色のスープをぶっ掛けて食う、そんな感じなのである。このスープがイマイチなのでどうにもならない。でもビールは旨い、Nile SpecialとClubがお勧め。

地方にある難民居住地を3ヶ所訪問したが、まあなんというか凄かったのが最後に行ったNakibaleという所。ウガンダ第二の都市ムバララ(Mbarara)から車で1時間半ほどで行ける。何が凄かったかといえばその難民たちのバラエティーの多さである。地理上ルワンダからの難民が多数派なのだが、最近はコンゴからの難民、スーダンからの難民、はてはブルンジやソマリア、ケニヤからの難民も皆ここで一緒に暮らしている。同じアフリカ人でも少しずつ顔も体格も違うのがよく分かった。

明日はよく分からん演劇を国立劇場に観にいきます。どんななんやろ!?

写真は首都カンパラ遠景ね。  
Posted by aag42740 at 02:07Comments(0)TrackBack(0)旅行記 | アフリカ

2006年07月29日

補遺2

さて「カルタイ」文学篇。

ギリギリまで苦しんだのはこちらのセッションでも同じで、私の企画の意図が各発表者の間で共有されていたかは疑問。司会・コメンテーターの村井氏にはセッション全体のタイトル(私が作ったもの)に問題があるのではないか、との指摘を頂いた。「文学」と「ポピュラー文化」(音楽を含む)はもはや対立してないのではないか、ということだったように思うが、現象的にはそう見えるけれども学問レヴェルではやはり対立している。同時代的な現象からは20年ほど遅れているのが文学研究の現状だから。文学研究は基本的には同時代の作品を対象にはできない、してはいけない、することを勧められない。「ポピュラー」なものは現在、断片化している(だが「個人化」ではない)。大衆消費社会が実現している日本では特に顕著である。「趣味」の細分化が進んでいるというか、住み分けができている気がしないでもない。アニメ好きは秋葉原に、ロック好きは下北に、みたいに地理としてもそれぞれの嗜好は分散しているように思う。しかしポピュラー音楽に絞ってみるとむしろ「均質化」が進んで見えるのは私だけだろうか。「ポストロック」というのはその「均質化」以外の何物だろう?「サブ」カルチャーとしてのパンクが「ポストロック」的なものに吸収されていくにつれて「サブ」ではなくなった。ヘビメタ、パンク、プログレなどのロックジャンルの垣根は解体すると同時に、カウンターカルチャー的な政治性も失われる。そう考えれば「ポピュラー」音楽の「民衆性」はその均質性を高めているけれども、一方では「高級文化」(この場合クラシック音楽)との対立軸も曖昧になっている、とは言える。対立はしないが、がっつり向かい合うこともなく、並列しているということだ。

今回の私の悲願はこの対立もしないが出会うこともないポピュラー文化と高級文化(文学)を出会わせることにあったのだが・・・。結論を言えば、両者は文化レヴェルでは案外出会っているのだが、学問のレヴェルでは出会えない。何もかもが違うし、なによりもそれらを語る言語が違う。私の長年の文学研究で培ったものはカルスタでは生かされないし、カルスタの成果は文学研究ではついぞ生かされない。絶望的。一方を立てようとすればもう一方は立たず、いつの間にか私は両者の間でフラストレーションだけが溜まっていった。このジレンマの賢い解決策は唯一つ、ダブルスタンダードでいくこと。今はこれしか思いつかない。お手上げ状態。

セッションではまず小谷氏が広津和郎の小説『さまよえる琉球人』を巡る論争を紹介し、一人の文学青年である主人公が沖縄で「島唄」と出会って戸惑う様から日本の近代史が垣間見えた。まあ少々無理な議論の展開もあったが、氏独特の語りで乗り切った。Lambert氏の発表はさすがに英語の発音が綺麗で、特にピジン・イングリッシュの朗読が素晴らしかった。英語教師の視点から「英語」自体の現地語化をナイジェリアの小説家Ken Saro-Wiwaやアフリカン・ビートの創始者Fela Kutiの音楽を通して論じた感じだった。でもスタンダード・イングリッシュあってのピジン・イングリッシュなのであって、これ日本じゃ無理だな。しかし英語の現地語化が反植民地主義の武器となりうることは正しい、というかなんかいいな。平尾氏の発表は直前でだいぶ趣向を変えたようで「ファンク」のリズムを分析したものとなった。「ポリリズム」は彼の議論では「変わっていく同じもの」であるが、私などあっ、これってドゥルーズの「差異と反復」なんじゃないの、と思った。「リズム」は議論しようとすると恐ろしく難しいし、私もかなり興味あるところだったが、氏は実演などを通して上手にやっていたと思う。

私の発表についてはまた次回。  
Posted by aag42740 at 23:29Comments(2)TrackBack(0)研究ノート | 文学

2006年07月26日

補遺1

久しぶりの更新。今月は疲れて、ブログどころではなかった。

「カルタイ」が終わって早や一ヶ月が過ぎようとしている。下北音楽トークショーに来ていただいた日系人っぽい人と「打ち上げ」でしゃべる機会があったが、なんだか思い出してしまった。この人はアメリカの大学で日本のヒップホップ・ラップ研究で博士号を取得したそうであるが、私に対して「ロックって終わってるじゃないですか」みたいなことを言った。それが「ポスト・ロック」の一つの意味であることは当のトークショーで私も提示したわけだし、こういうことを言う彼女の気持ちも分かるが、だからヒップホップなのかい?、と思わずにいられない。だっていずれ「ポスト・ヒップホップ」みたいな事態がくるわけだし・・・。パンク・ニューウェーヴからヒップホップに転向した人たちって、結局流行りに乗っているだけというか、いずれヒップホップから別の音楽に転向したりするでしょ。「終わってる/終わってない」(offとon)をどんなにアクチュアリティーがあるかないかなんていって正当化したところで、そんなのほとんどこじつけでしょ。「文学なんて専攻する人、アメリカにはいないですよ」とはまたまた彼女の弁。悪かったねー、「終わっている」ロックと文学に拘ってて(笑)。結局「終わってるか、終わってないか」を気にしている人は音楽が好きじゃないんだな、だから「終わった」と言われていることも、「ポストロック」という私の言葉にも関心がなかったトークショーのメンバーたちは、そういうことを言う人よりもより純粋に、ロック音楽が好きなんだと思う。もちろん生活がかかっている、ということもある。生活=趣味(好きなもので飯を食う)ことができている彼らは稀有、というか全体的には稀な存在だとも思う。ロック音楽好きが高年齢化していることは全体的には正しいと思うけれど、まだまだ若者の間にはロックファンはいる。ただカウンターカルチャー的な幻想がない、というか等身大でロックを聴いてる、ロックを演奏してる、っていうかな。そういう風に考えればロックが本来の姿(?)に戻っただけというか、だから悲観的なことでは全然なくて、むしろ本物の「ロック好き」が残っていく、というか、そんなことなんではないかと思う。

余談だが、最近初めてManic Street Preachersのファーストを借りて聴いた。91年くらいの作品だと思うが、彼らに関しては当時ほとんど関心がなかった。荒々しいライヴアクトで有名だったそうで、写真を見るとパンク風。しかし聴いて驚いた。LAメタルあり、Zep風あり、異様にアメリカンポップなのである。イギリスのバンドなのに・・・。メンバーの腹づもりではファーストを出したら即解散するつもりだったらしいが、その理由が「ポストロック」なのである。曰く、だらだらと音楽を作り続ける、演奏し続けることに意味はない、とのこと。それで完成したファーストはといえば「ロック音楽の総決算」を狙ったもののようなのである。つまりロックを今回限りで卒業する、というか墓場に送る、と。この心意気こそロックというか「若さ」だと思うが、こういうことができたことがロックの歴史の中では決定的なんじゃないかな。結局プリーチャーズはその後も音楽活動を続けたわけだから、言葉に偽りありということになるのだが、ファースト以降の彼らはもう「ロック」じゃないというか、「ポスト」の「ロック」である。

一方でRage Against the Machinesのファーストも借りて聴いてみた。こちらはアメリカのバンドだがプリーチャーズと比べて断然インディー色が強い。つまりパンク・ニューウェーヴを継承している。主張も過激であり、バンド名同様歌詞も過激。ボーカルにラップを取り入れているところが新しかったんだと思うが、その心はやはりパンクだ。こちらは「ロック」幻想系かな、資本主義を批判するし、人種差別も批判する。ただ音楽的には明らかにZepのギターリフが多用されていたりして「ミクスチャー」。だいたい消費文化が消費社会を批判することほど矛盾したことは他にない。批判のポーズこそが「消費」される。だから負けは最初から見えているはずだが・・・。それも計算済みってことなのかな。

独り言でした。  
Posted by aag42740 at 11:21Comments(0)TrackBack(0)研究ノート | 文学

2006年07月15日

反省会 その二

「その一」で書き忘れたけど、「ポストロック」の「ポスト」の意味としては「ロック」が特に60年代に持っていたようなアウラが完全に剥げ落ちた、くらいの意味であるが、それ以外にもその副次的な効果としていくつかのことが指摘できる。

1、デジタルテクノロジーの発展に伴う「一回性」の神話の終焉。
ーーー「セカンドサマーオブラブ」は大方ヨーロッパではアシッドハウスが中心的な担い手だったが、90年代後半はテクノ・トランスが担った模様。マンチェスター系のロックもPrimal Screamを筆頭にやはり機械的で激しいアシッドハウスのリズムを採り入れた。古閑氏のVenus Peterも根本はロックであったがこのマンチェスター系の例に倣っていたように思う。

2、パンクからヒップホップ・ラップへの転向。
ーーー早くはThe Beastie Boysがそう。ハードコアパンクからラップへと転向した。音と歌唱法は変わったが、根本のパンクの攻撃性はラップでも再現可能、というかラップのほうがギターサウンドより適している、と考える人が増えた。とくに日本人に顕著。パンクは結局アナログであり、その点でテクノロジーをフルに利用したラップに時代が味方した、というか。。。

3、ロック音楽という文化媒体からアニメを含めた他の媒体への移行。
ーーー日本では90年代後半からの「秋葉原ブーム」によって若者がロックよりもアニメ、ゲームに嗜好をシフトしていったように思う。アニメ「エウレカセヴン」は音楽の使い方が極めて確信犯的で、テクノとロックはクラシック(とはいってもデューイ大尉が暴露するように、コンピュータによる打ち込みであったが)と対置され、対決させられている。「カウンターカルチャー」のシミュレーションといった風情。セッションではちょっと唐突に「アニメなどを気にしているか?」という質問を私がしたものだから他のメンバーがついて来てくれなかった。でもスクリーンで流した「けちゃっぷmania」の曲「Your World」という曲はテレビ東京系のアニメ「韋駄天翔ーイダテンジャンプ」の主題歌なんだよなあ。後で気付いた。

個人的には3を除いて、あまり興味がない、というか興味がなかった。ギター中心の音が好きだから、というのが単純な理由。どっちかというとアナログな人間なのである、私は。