イモラサーキットで忘れることができないのが1994年5月1日のこの映像です
当時フジテレビの古舘伊知郎が絶叫したのが今でも忘れられない
フォーミュラ1において3度ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナは、1994年5月1日に死亡した。イタリアのイモラ・サーキットで行われた1994年サンマリノグランプリにおいて首位走行中、コンクリートバリアに衝突したことによる事故死だった。セナの死の前日には、ローランド・ラッツェンバーガーがこのレースに向けた予選中に事故死していた。ラッツェンバーガーとセナの事故死は、1994年サンマリノグランプリの週末に発生した多くのアクシデントの中で最も深刻なものであったのと同時に、12年ぶりにフォーミュラ1のグランプリ開催中に発生した死亡事故となった。
1994年、セナは1988年から長期にわたって所属したマクラーレンチームからウィリアムズチームへと移籍した。セナはアラン・プロストと入れ替わる形でウィリアムズに加入し、デイモン・ヒルのチームメイトとなった。1994年シーズンを前にドライバーを支援する電子制御装置の使用が禁止されていたものの、ウィリアムズでは過去2年間、プロストとナイジェル・マンセルがワールドチャンピオンを獲得しており、セナを迎えて再び選手権の優勝を争うものと予想されていた。
伝統的にエストリル・サーキットで行われるシーズン前テストにおいて、セナはウィリアムズのドライバーとしてのデビューを果たし、新型車ウィリアムズ・FW16を以下のように評した。
この車の運転にはとてもネガティブな感触がある。限界までコーナーを攻める時や、その他の点でね。だから快適に、自信を持って走れた周回は一周もなかった。車に乗っている時は違和感があって、なにもかもが間違っているように感じる。シートやステアリングを変更してみたけど、それでもコックピットは狭すぎる。去年の9月にエストリルでレースした時と比べて、ずっと難しく感じる。電子制御がないことが原因のひとつだと思う。それに、この車には独自の特性があって、それに対してまだ十分な自信を持つことができない。高い緊張感を持たなければならないし、ストレスを感じる。
1994年シーズンが開幕して以降も困難な状況は続いた。セナは最初の2戦(ブラジルGPとパシフィックGP)で予選1位を獲得したが、決勝では2戦連続のリタイアに終わり、1ポイントも獲得できなかった。ブラジルGPでは追走中のスピン、パシフィックGPではスタートミス後の他者との接触がリタイア原因だったが、この時セナはタイヤの温度低下が影響したという旨のコメントを残していた。シーズンの2戦を終えて獲得ポイントなしという結果は、セナのF1キャリアの中でも最悪のものだった。イモラ・サーキットで行われる第3戦を前に、ベネトン所属のミハエル・シューマッハが選手権首位に立っており、シューマッハはセナに対して20ポイントのリードを築いていた。
サンマリノグランプリ初日、金曜日の予選セッションにおいて、ジョーダン所属のルーベンス・バリチェロ(同郷の後輩としてセナと親しかった)はヴァリアンテ・バッサ・シケインで縁石に弾かれ、時速230キロのスピードでバリアに衝突した。バリチェロの事故を見たセナは自分の車から降り、メディカルセンターへ向かった。衝突から数分後、バリチェロは意識を回復し、自分を眺めるセナの姿を見た。バリチェロの命に別状がないことを確認したセナは、ウィリアムズの車に再び乗り込み、走行を継続した。
金曜日のセッションが終了すると、セナは車を降り、予定されていたプレス向けインタビューに答えるためウィリアムズのモーターホームへと向かった。セナは集まったジャーナリスト達に、エンジニアのデビッド・ブラウンと車の問題についてチェックするので1時間待つように告げた。インタビューを終えると、セナはブラウンとのチェック作業をさらに2時間続けた。カステル・サン・ピエトロのホテルに帰ったセナは、恋人のアドリアーネ・ガリステウに電話をかけ、バリチェロの事故について話している途中に泣き崩れたと伝えられる。
土曜日朝の練習走行において、セナは自己ベストタイムの1分22秒03を記録した。セナはチームメイトのデイモンヒルと意見を交わし、車が改善されたという考えで一致した。回復してメディカルセンターを出たバリチェロは、飛行機で英国に戻ってテレビでレースを観戦するとセナに話した。
土曜日の午後、2回目の予選セッションが始まった。セッション開始から18分が経過した時点で、シムテック所属のローランド・ラッツェンバーガーが、時速314キロのスピードでヴィルヌーヴ・カーブ外側のコンクリートバリアに衝突した。(フロントウィングの破損が事故原因として疑われている) 衝突の後、ラッツェンバーガーの車は反対側に跳ね返され、コースの中央に停止した。事故のリプレイ映像を見たセナはピットレーンに飛び出し、オフィシャルカーの1台に乗り込んだ。セナが現場に到着した時、ラッツェンバーガーはすでに救急車に乗せられていた。セナは大破したラッツェンバーガーのシムテックのマシンを入念に観察した。その後、セナはサーキットのメディカルセンターを訪れ、そこにいた友人の脳神経外科医シド・ワトキンスからラッツェンバーガーが死亡したことを伝えられた。セナとワトキンスは共にメディカルセンターを去ったが、悲しみに打ちのめされた様子のセナに、ワトキンスはもうレースを続ける必要はないと告げ、このレースへの参加を取りやめるよう勧め、2人で釣りに行くことを提案した。それに対してセナは、レースを止めることはできないと答え、ウィリアムズのガレージへと帰って行った。ガレージに戻ったセナは、パトリック・ヘッドとフランク・ウィリアムズを呼び、ラッツェンバーガーが死亡したことを伝え、予選セッションを途中で切り上げた。
セナはその後モーターホームに戻り、泣き崩れて床に倒れ込んだと伝えられている。フランク・ウィリアムズはセナの様子に不安を抱き、ベティーゼ・アスンソン(セナの広報担当者)にセナの精神状態についてのミーティングを準備するよう頼んだ。セナが予選後の記者会見を欠席したため、FIAはセナへの懲戒処分を検討したが、最終的に不問とする決定を下した。しかし、翌日(日曜日)にはレース審査委員会がセナをモーターホームから呼び出し、セナがラッツェンバーガーの事故現場へ向かうためにオフィシャルカーを運転した件について議論が行われた。この議論は口論に発展し、セナは嫌悪感をあらわにして立ち去った。この件に関して審査委員会はセナを不問に処した。
丸で囲われた部分がラッツェンバーガーの事故現場(ヴィルヌーヴ・カーブ)
日曜朝のウォームアップ走行セッションにおいて、セナは2位のドライバーよりも0.9秒速いトップタイムを記録した。セッション終了後、セナはかつてチームメイトとして激しく争ったアラン・プロストがいることを目にし、2人は30分ほど会話した。その内容はフォーミュラ1の安全性の向上についてであり、セナはプロストにも協力を求めた。2人はモナコグランプリ前に再び会う約束をした。
セナはその後、フランスのテレビ局TF1での放送用にサーキットを車載カメラで映しつつ一周して見せた。セナは周回しながらTF1のレース解説者を務めていたプロストへ挨拶を送り、「こんにちは、僕らの親愛なる友人アラン。君がいなくなって僕たちは寂しいよ。」と述べた。プロストはこのコメントに驚いたと同時に非常に感動したと語った。
決勝レース前のブリーフィングに、セナはゲルハルト・ベルガーとともに出席した。セナはフォーメーションラップをペースカーが先導すること(最新型のポルシェ・993を宣伝すること以外に何の意味もなかった)に懸念を抱いており、その点でレースオフィシャルと口論していた。そのために感情が高ぶった状態だったセナは、ブリーフィングで意見を述べることに気が進まなかった[4]。そこで自分の替わりにベルガーがその意見を表明するよう頼んだ。結果、サンマリノグランプリにおけるペースカーはF1カーと同時ではなく、それに先立ってグリッドを離れることとなった。
それからセナは他のF1ドライバーたちと会い、フォーミュラ1の安全性を向上させるため、ドライバーによるグループ(GPDA)を再結成させることについて意見を交わした。最年長のドライバーとして、セナは次戦のモナコグランプリから自らがグループのリーダーの任を引き受けることを申し出た。ニキ・ラウダも、他のドライバーたちと比べ、より強い個性を持つセナがこのグループを率いるべきだと述べた。
決勝レースのスタート直後、ペドロ・ラミーがJ.J.レートの車に衝突し、破片が観客席に飛び込む深刻な事故に発展した。破片はコース脇にいた複数の観客を負傷させた。オフィシャルの判断により、マックス・アンジェレリ(英語版)が運転するセーフティカー(オペル・ベクトラ)がコースに導入された。その間に散乱した破片の撤去が行われることとなり、セーフティカーは5周にわたって全競技車両を先導した。先頭にいたセナは加速してセーフティカーに並びかけ、先導速度を上げるようアンジェレリにジェスチャーで要求した[8]。6周目に入る前、デビッド・ブラウン(セナの担当エンジニア)は無線でセナにセーフティカーが退場することを伝え、セナはこのメッセージを了解した。
事故の直前、首位を走行するセナ
6周目、レースは再開された。セナはただちにペースを上げ、レース全体でも3番目に速いラップタイムで周回した。ミハエル・シューマッハがセナの車を追っていた。
7周目(レース再開後の2周目)、高速のタンブレロ・コーナーにさしかかったセナの車は通常の走行ラインから外れ、直線的にコースアウトした後、緩衝材のないコンクリートバリアに直接衝突した。テレメトリーによると、セナは310 km/h (190 mph)の速度でコースを離れ、バリアに衝突するまでの2秒弱の間にブレーキと2回のシフトダウンにより218 km/h (135 mph)まで減速していた。セナの車は浅い角度でバリアに衝突し、右フロントホイールとノーズコーンをはじき飛ばした後、スピンしながら停止した。
車が停止した後、コックピットのセナの身体は動かなかった。数十秒後、空撮映像がセナをズームで映した。セナのヘルメットは微動だにせず、少し右側に傾いていた。その後に観察された頭部のわずかな動きは、セナの命に関して誤った希望を抱かせた。 事故直後、写真家でセナの友人でもあったアンジェロ・オルシは、ヘルメットを脱がされた状態で車内に横たわり、救護されているセナの写真を撮影した。オルシはマーシャルにより視界を遮られるまで撮影を続けた。オルシの写真には多数のオファーが寄せられたが、セナの親族はこれらの写真の非公開をオルシに要求しており、写真を目にしたのはオルシ自身とセナの親族のみに限られている。
消火作業を担当するマーシャルは事故現場に到着した後も、正規の医療スタッフが到着するまでセナの身体に触れることはできなかった。事故発生から数分後、セナの身体は車から引っぱり出された。救命スタッフがセナを救護している様子は、上空のヘリコプターから全世界にテレビ放送されていた。映像を詳しく見ると、医療スタッフがセナを手当てしている現場の地面に大量の血液が付着しているのが認められた。セナの頭部には目に見える損傷があり、救護にあたった医療専門家にはセナが重篤な頭部外傷を負っていることは明らかだった。医療スタッフが人工的にセナの呼吸を維持するため、現場で緊急気管切開が行われ、空気の通り道が確保された。レースはセナのクラッシュ発生から1分9秒後に中断された。ウィリアムズのチーム監督イアン・ハリソンはコントロールタワーにのぼり、レース審査委員の多くがセナの事故の深刻さを感じ取っているのを目にした。その後、状況を落ち着かせるためバーニー・エクレストンがコントロールタワーに到着した。
現場で気管切開手術をセナに施したのは、彼の友人でもあり、世界的に著名な脳神経外科医であるシド・ワトキンス教授(フォーミュラ1における安全・医療の代表者であると同時に、救急医療班の代表を務めていた)だった。
ワトキンスは後に、以下のように報告した。
彼は穏やかな表情をしていた。まぶたを引き上げて瞳孔を確認すると、脳に大きな損傷があるのがわかった。私たちはコックピットから彼を引き上げ、地面に寝かせた。そうしているときに、彼はため息をついた。私は信心深い人間ではないが、その瞬間に彼の魂が旅立ったのだと感じた。
セナの事故現場(タンブレロ・コーナー)
この時点では、死亡原因は判明していなかったが、ワトキンスはセナが死亡していると判断していた。後の調査では、衝突の瞬間に跳ね上げられた右フロントホイールがコックピット内部に侵入し、セナのヘルメットの右前部に激突したと考えられている。ホイールによる衝撃は激しく、セナの頭部は反対側に跳ね返されてヘッドレストに押しつけられ、致命的な頭蓋骨骨折を負った。その際、ホイールにつながるサスペンションはベル・M3ヘルメットを部分的に貫通し、セナの頭部を損傷した。さらに、サスペンションのアップライト部の鋭利な破片がヘルメットのバイザーを貫通し、セナの右目の少し上に到達したと見られている。セナが使用していたM3ヘルメットはミディアムサイズ(58 cm)で、新しいタイプの薄型バイザーを採用していた。セナが負った3種類の外傷は、どれかひとつだけであってもセナを死亡させた可能性が高いとされている。
それでも、ワトキンスは呼吸経路を確保し、止血を施した。同時に失われた血を補給し、頸部を固定した。その後、無線で医療用ヘリコプターを呼び、集中治療麻酔医のジョヴァンニ・ゴルディーニに、マジョーレ病院に到着するまでセナに付き添うよう頼んだ。セナのクラッシュから約10分が経過したとき、ピットでの誤った情報伝達により、エリック・コマスが運転するラルースの車がピットを離れ、赤旗中断中のグランプリに復帰する形になった。ユーロスポーツの解説者を務めていたジョン・ワトソンはこの事態を目にして、「人生でこれほど馬鹿げたものは見たことがない」と述べた[13]。事故現場のマーシャルはコマスに対して必死に赤旗を振り、コース上に着陸していた医療用ヘリコプターにラルースの車が衝突する危険は避けられた。
タンブレロ・コーナーの裏側に設置されたセナの記念碑(1997年)
セナの事故車は最終的にトラックに載せられ、ピットレーンに戻された後、オフィシャルによって押収された。その際、ある未確認の人物が、車に搭載されたブラックボックス・データは取り外されるべきだと要求した。午後3時00分、セナを乗せたヘリコプターはマジョーレ病院の前に着陸した。医師たちはセナを早急に集中治療室へ運び込んだ。脳のスキャン結果はサーキットでの診断を裏づけるものだった。午後3時10分、セナの心臓は停止したが、医師たちは心肺蘇生に成功した。そして、セナの身体は生命維持装置につながれた。セナの弟レオナルドは、カトリックの司祭が臨終の秘跡を執り行うための手配をした。臨終の秘跡は午後6時15分に行われた。午後6時37分、セナの心臓は再び停止したが、今回は蘇生処置を試みない決定がなされた。マジョーレ病院の救急医長であるマリア・テレーザ・フィアンドリ博士は、非番のこの日は家で息子たちとサンマリノグランプリの生中継を観ていたが、事故の発生を受けて病院に急行し、クラッシュの約28分後(セナを乗せたヘリコプターが到着したのと同時刻)に到着していた。20年後に行われたインタビューでフィアンドリは、セナの失血は浅側頭動脈の損傷によるものであり、頭部の損傷を除けばセナの身体は無傷で、その表情は穏やかだったことを語った。事故当日のフィアンドリは、マジョーレ病院に集まったメディアと一般の人々に対して、セナに関する情報を発表する役割をになっていた。午後6時40分、フィアンドリはセナが死亡したことを発表した。
後に判明した事実として、医療スタッフがセナを調べた際、畳まれたオーストリアの国旗がコックピットから発見されていた。この国旗はセナがレース後に、ラッツェンバーガーに敬意を表して掲げようと用意していたものだった。
レース終了後しばらくして、イアン・ハリソンはセナが死亡したこと、そしてそれが「道路交通事故」として扱われていることをイタリア人の弁護士から告げられた。5月2日の早朝、ハリソンは別の弁護士に呼び出され、彼に連れられて遺体安置所へと向かった。ハリソンはセナの遺体を見るよう頼まれたが、それを拒んだ。Wikipediaより
B&Bの庭でいただいた花を手向けました