ヤジマスペシャルNo.3 TD250レーサーもいよいよ最終段階に入りました。
バックステップの溶接です!
前後のホイール・ブレーキドラムもピッカピッカ!!!
2008年12月八重洲出版発行の「浅間から世界GPへの道」(P-055〜060)より
YAMAHA TD/TR/TZ Series (2サイクルツイン・プロダクションレーサー)
「近代GPを支えたヤマハパラレルツイン」
キット車からスタートしたTDシリーズ
1959年の250S1(YDS−1)以降に誕生した、一連のヤマハ製2サイクル並列2気筒モデルたちは、量産スポーツとしての大成功のみならず、市販ロードレーサーという分野でも、世界で最も成功した例となった。世界GP半世紀余の歴史のなかで、どれだけのライダーが、そしてチューナー達がこの名機によって腕を磨いたかは、その例をあげることは枚挙に暇がないだろう。
まだ時代は4サイクルが高性能車の代名詞だっだ1955年当時、日本楽器から独立する形で創業したヤマハは、ドイツ流2サイクルに範を求めた。ヤマハモーターサイクルのスタートは、125ccはDKW RT125、そして250ccはアドラーMB250(ピストンバルブ式ツイン)の模倣から始まったのである。当時は国内2輪産業にとって、モータースポーツ普及の時代であるとともに、淘汰の時代でもあった。富士登山、浅間などの全国規模の大きなイベントで、好成績を残せるか、残せないかは、そのまま社の命運にも直結していた。ヤマハはそれらのイベントで、予想以上の大活躍をした。1955年第3回、1956年第4回の富士登山、そしで1955年第1回、1957年第2回浅間で、ヤマハは他を圧倒した。黎明期の国内モータースポーツ界を、ヤマハは首尾良く制したのである。
1959年7月、ヤマハは250ccツインのYDS−1を発売する。このマシンの元となったのは、1957年の浅間レーサーYD−B、1958年のカタリナレーサーであった。この血統を受け継ぐYDS−1に、ヤマハはクラブマンレーサー用の2種のキットパーツを用意した。レーサーキットはシリンダー、ヘッド、イグニッション、キャブレター、そしてエギゾースト。さらに外装パーツが含まれた。これらを装着することで、YDS−1は6馬力アップ(25ps/9,000rpm)した“アサマレーサー仕様”になったのである。YDS−1キット車は、国内のクラブマンレースに使用されるとともに、北米、豪州へと多くが輸出された。
1962年3月には、かつて昌和の工場であった沼津工場にて、新型のYDS−2がラインオフした。YDS−1同様、YDS−2にも限定数ながらキットパーツが発売された。キット車のYDS−2の出力は32psまで向上し、YDS−1と同じように多くのクラブマンはその性能に満足したが、一方で世界的にも「真の」ヤマハ市販レーサーの登場をのぞむ声も少なくはなかった。レースと公道走行と両立させようと言う客はまずいない。レースキットを装着してYDS−2をレーサーとして使用する者にとっては、多くのお金を使いもしない公道用の装備に費やすことを意味していた。
そんな背景の元、後年数々の栄光を世界中のサーキットに刻むこととなる、ヤマハ製250/350cc市販レーサーの始祖というべきTD−1は誕生した。TD−1はまず、極めて限定された台数が実験的に製作され、国内のクラブマンレースに投入された。またYDS−1キット車同様に豪州と北米に販売され、高評を博している。市場からの反響に確かな手応えを得たヤマハは、TD−1の完全な量産化を決定。1962年10月より本格量産モデルのTD−1Aが発売された。しかしその多くは豪州と北米に輸出され、日本においては有力レースチームに配されるのみであった(また極少数ではあるが、欧州にも上陸している)。TD-1Aには、それまでのキット車やTD−1に対し、より高性能なチャンバー、レースに適したレシオを持つ変速機などが与えられ、32ps/9500rpmの出力をマークした。北米のクラブマンレースでは、TD−1Aはドゥカテイ、パリラなどのイタリアン4サイクル単気筒を蹴散らす活躍を見せ、その潜在力の高さを示した。
しかし公道量産車では全く問題はないが、市販レーサーとして見た場合あまり好ましくない設計がTD−1Aに多々あったことも事実だった。TD−1Aの変速機の1速はYDS−2のままで、2速ギヤは高められていた。1〜2速間の拡大したギャップは狭いパワーバンドのエンジンには明らかに不適切だった。またYDS−2と同じレイアウトのクランクシャフトマウントのクラッチには、大いに問題があった。エンジンと同じスピードでクラッチが回転するため、高回転ではシフト操作がスムーズに行かないばかりか、クラッチ自体が壊れてクランクケースカバーを突き破ることすらあった。車体に関する問題も、TD−1Aの潜在能力をフルに発揮することを拒んだ一因だった。コーナーに限らず、直線ですら発生するウォブルは、華奢すぎるフレーム、ダンピングに難のあるサスペンション両方に原因があった。そのため多くの海外のチューナーは、スタンダードのTD−1Aフレームの代わりに、ドゥカテイ、ブルタコなどの欧州車の車体を用意し、TDエンジンを組み合わせたスペシャルを開発したりもしていたのである。
1964年に量産公道車がYDS−3に代替わりし、翌1965年3月にむけて改良型TD−1B開発がスタートするが、フレームとクラッチについての問題は実質的には放置されたままだった。そしで1967年に2次クラッチとなった量産公道車=DS−5Eが登場したことで、ついにクラッチにまつわる問題については、改善への糸口がつけられた。新型TD−1Cは、TD−1Bまでの1次クラッチに由来する信頼性不足から、採用を見送られていた5ポートシリンダーが採用された。そのほか新型チャンバーなどの効果もあり、TD−1Cの最高出力は40ps/10000rpmまで高められている。ヤマハは、1965年1月にそれまでレース活動に関する一切を一手に担ってきた研究2課から研究3課を独立させ、市販レーサーとモトクロッサーの開発を担当させている。長足の進歩を遂げたTD−1Cは、この組織変更の産物とも言えた。信頼性をある程度確保したTD−1Cの完成をもって、当時市販レーサー市場でのライバルであったグリーブス、プルタコ、そしてアエルマッキ ーらとの販売競争も、終決へと向かい始めた。速いが壊れやすい、というTD系に対する評価は次第と減少し、米国・欧州ともにTD−1Cのユーザーは増えていった。
市販レーサーによるタイトル獲得
ギヤボックスは6段まで、そして50ccは単気筒、125と250ccは2気筒、350、500ccは4気筒までという気筒数制限を盛り込んだFIMの新レギュレーションは、1960年代末より順次施行されることとなった。この改訂による恩恵を、最も受ける立場にあったのはヤマハであろう。1968年限りで解散したGP開発部門は、規模を縮小しながら市販レーサーを開発していたグループとまとめられ、ロードレーサー、モトクロッサーなどの開発を手がけるようになっていた。既にTD系を持っていたヤマハは、”GP新時代”を迎えるにあたり、有利な立場にいたのである。
1969年、新しい公道車であるDS−6の登場により、車体・エンジンともにTD−1Cから一新されたTD−2が登場。さらに新ラインアップとして、初の350cc市販レーサーのTR−2も誕生している。かってのワークスRD56に似たフェザーベッド型フレームを持つTD−2は、5月11日に開催された西ドイツGPで、ヤマハ市販レーサー初の世界GP勝利を、K.アンダーソンが達成した。1969年度の世界GP250ccクラスは、新規格施行1年前の間隙を縫って、4サイクル4気筒車で参戦したベネリのものとなり、アンダーソンとヤマハは、ともに僅差でライダー/コンストラクター2位の座に甘んじた。
翌1970年、ヤマハはアンダーソンと、R.ゴールドに”セミワークス”のTD−2/TR−2を与えることを発表。一方、前年の王者K.キャラザースはプライベーターの立場でTD−2ユーザーとなり、ヤマハ・セミワークスのふたりとタイトルを争った。セミワークス車には6速ミッションが与えられており、スタンダード車よりもトップエンドでのパワーを有効に使えるというアドバンテージを持っていた。結果、これを駆るゴールドが世界タイトルを獲得。キャラザースが2位、もう1台のセミワークス車に乗るアンダーソンが3位に入った。以下4位J.サーリネン、5位B.ジャンセン、6位C.モーティマー、7位G.マルソフスキ……と、キャラザースを筆頭にプライベートTD−2がランキング上位を独占。新時代の世界GP250ccクラス盟主の座に、悠々とヤマハは着くことができたのである。
翌1971年は、P.リードが250ccタイトルを獲得することになるが、リードが駆ったのはセミファクトリー車ではなかった。リードはプライベーターの立場で、この年マイナーチェンジを受けたTD−2Bをモディファイし、セミワークス車に乗る王者、ゴールドとタイトル争いを繰り広げたのである。タイトルの行方は最終戦スペインGPまでもつれたが、ゴールドがメカニカルトラブルで脱落し、2位に人賞したリードにタイトルがもたらされた。この瞬間こそ、TD系誕生10年目にして、ついに市販レーサーによる250ccワールドタイトル獲得が実現した瞬間であった。
翌1972年は、1971年に発売された公道車、DS7=DX250とR5=RX350を母体とするTD−3/TR−3がデビューする。両車は主要部品を共用化させることを念頭に開発され、TD−3はついにYDS−1以来の垂直分割ケース、カムプレート式変速機に別れを告げることとなった。この改良は製作コストの削減を主に施されたが、将来の6速化を考慮しても必須の処置でもあった。
1973年の水冷TZシリーズ誕生以降も、ヤマハ製市販2気筒レーサーは、ワークスへのステップアップへの手段としてプライベーターに愛され続けた。また、1982年のJ.L.トアナドルにより、プライベーターのTZ250がワークス系チームを打ち破って250ccのタイトルを獲得するという快挙が、1971年のリードとTD−2B改に続き成し遂げられたことが示すように、一線級のワークス・イー夕ーとしての地位を保ち続けたのである。
来週には、チャンバーから白い煙と2サイクルの甲高い音が!!!