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最近のこのブログの記事はどっちへ行こうとしてるんだ、とタイトルを見て思われた方もいるとは思いますが、榊的にはブレてないんですよ。
これまでも時折、フィクションから自らが受けた影響、受け取ったメッセージを自らの思想変遷に絡めて語ってきたように、歌もまた同様に私の頭脳に、心に何がしかのインスピレーションや学びを与えてくれるものです。

レベッカの『MOON』。
今何故この曲なのかというと、最近思い出した様に歌う機会があったからです。
カラオケが趣味の私は実際にリアルで歌いに行くだけで飽き足らず、ネットカラオケでも遊んでるのですが、そのバーチャルなデュエットの相手がレベッカのNOKKO氏に特別な思い入れがあり、いろいろ話してくれました。私にというより聴いているみんなに向かって。
曰く、歌手でありながら歌えなくなってしまったNOKKO氏が、結婚、出産を経てまた歌に向き合い、今度はソロアーチストとしてかつてボーカルを務めたレベッカの楽曲の言わばセミセルフカバーアルバムを出したという経緯があること。その前と後では歌が優しくなったこと、などでした。

私個人はベストアルバムを持っている程度でしたから初めて聞く話だったのですが、その人間一人が天職の様に打ち込んでいた対象に向き合えなくなること、そしてそこからもう一度歩き出すという事に対する共感は大きなものでした。ジャンルは違えど、似たような経験が自分にもあったからです。
語ってくれた彼女にもまた同様の体験があり、歌を通じて彼女ともまた同じ思いの共有が出来たと思えるひとときでした。

そして、そのとき歌ったこの『MOON』という曲について、私は少し思いを馳せました。
JAS○ACが面倒臭いので歌詞全文の引用はやめておきますが。
グレて家を出て行った娘とそれを嘆いた母親がいて、その幸せなときも悲しいときも夜空の月は見守っていた、そんな概要の歌詞です。
私はこの曲に限らず、いわゆる「お月様が見ている」というシチュエーションが昔から好きでした。作品タイトルは忘れましたが、ある少女マンガでも恋人達の初めての同衾の際に窓から空を見上げたヒロインが「あなたカーテンを引き忘れちゃったわね。きっと月が見ているってこんな感覚をいうのね」と思うシーンがありました。それを同時に思い出します。

何故それに心惹かれるのか。
ロマンチックであるとか、第三者視点の比喩だとか、いろいろ理由はあるのでしょう。ですがその大げさに言ってしまうと根源的な理由はなんなのか。私はつらつらと考えるうち、それは私が日本人だからなのではないかと思い当たりました。
すなわち「お天道さんがご覧になってる」という感覚と同根だと思ったんですね。

特にキリスト教圏の欧米人からよく日本人には信仰心が無いというようなことを言われますし、日本人自身も無神論者だと思っている人が多いのですが、端的に言ってどちらも間違っています。この事についてはまたいずれ深く掘り下げたいと思っていますが、個人が唯物論者的自認で、あるいは神の否定から無神論者だと認ずるのは勝手ですが、日本人全体として語るのならばそれは否という事になります。
一神教の理屈で切り取るなら信仰心の無い、あるいは足りない民族と映るだけです。特定の名前のある全能の神を信じることのみが信仰と考える、狭量な精神観の異民族の観点に過ぎません。
アニミズムの世界観からすれば、日本人ほど万物に神が宿っていることを知り、身近に感じ、畏れ敬い生きている民族もないのですよ。
八百万の神として奉る名を知らずとも本尊御神体が何か知らなくとも神社仏閣に足を運び、お米に煩悩の数と同じ数の神がおわすとしつけられ、感謝の念を忘れれば罰が当たるとなんとなく思い、路傍の献花があれば手を合わせてしまう。
これが日本人の一般的感覚です。こういったことを一切しないという人は余程頑迷な無神論者の親に育てられたのか知りませんが、むしろ少数派でしょう。

そしてその、いつ何をどこでどうしていても、お天道様は知っていなさる、見ておられる、という感覚。この言葉を口にするのはもうお年寄りか生粋の江戸っ子かというレベルではあるんですが、その感覚自体は廃れてはいないだろうと思います。
これは太陽信仰かというとそうではありません。大国主命だの帝釈天だのお不動様だのといった身近に感じる神仏、あるいは名を持たぬ神の、それぞれでもあり全てでもある「見守る神の視点」を日中であれば常に天にあり続ける太陽に仮託したものなのですね。そして見られているという感覚そのものでもある。

歌の話に戻りましょう。
ではなぜこの歌で見守るのは太陽ではなく月なのか。
それはこの歌の物語が夜の世界だからです。

もちろん、歌の劇中人物だとて昼間も生きている筈ですが、物語を象徴する場面が夜に絞られている。誰もが安らかな眠りにつくとき。覚えた悪い遊びが行われるとき。娘が人目を偲んで恋人に逢いに行くとき。そして母を置いて家を出て行くとき。
全ては夜の出来事。だからその全てを見守っているのが、常に夜の空におわす月なのである。
レベッカの楽曲においてはそれはこの曲に限らず、例えば『RASPBERRY DREAM』は「今夜も月が見てるわ」の一節で始まる共通の世界観を持っています。

実はこの歌『MOON』の魅力の一つでもあるのですが、視点構造が多重かつ予告なく切り替わるという、実に複雑な人称が用いられた特殊な歌詞が綴られています。
「あたし」の一人称で自己を語る娘。
それが第三者視点で「この娘」「娘」と語られる。
「あたし」には「ママ」と呼ばれた母親は、娘の出奔を嘆く際には「彼女」と呼ばれる。
そして月。見守る月の視点においては、逆に見られる側の人の目線から月は「あなた」と呼ばれる。
この人称が入れ替わり立ち代わり歌われることによって、聴く者は自然と歌われている物語と共に、全体を包む世界と動き生きる個とが、繋がり合って切り離せない不可分のものであるということまで無意識下に刷り込まれてしまう。

そして、月以外に擬人化して語られるものが「工場」と「町」。
歌詞の中にはポイントとなる箇所がいくつかあるのですが、榊が気になったのはこれらが含まれるフレーズで、「工場は黒い煙をはきだして」と続く「町は激しくこの娘が大きくなるのを祈ってた」の二節。

天にある月との対照で語られる地にある工場と町。
そのうち工場は見守る神と人との間を遠ざける象徴物、それも人の営みによって生み出されたものと見ることが出来る。
娘の幼少期が高度経済成長期であることを想起させる歌詞であり、だから「月がもっと遠くにあった頃」と歌われる。天文学、地球物理学においては地球から徐々に遠ざかっている筈の月がなぜ昔はむしろ遠かったのか。それは、人と月との間を阻む工場の黒い煙があったからだ。時代が移り公害への対策が進んだ現在、はたして月は人の元に近づいたのか。

そして、町はなぜ娘の成長を祈るのか。これは歌の後半、グレて家を出るような娘であっても(世界に)祝福されて生まれてきたのだということの言い換えととる事も出来よう。だが、それならば「誕生」を祈るはずで何故「成長」を祈るかの答えにならない。つまり、成長することが望まれるというのは、いずれ「次代を担う」ことを期待されているということだ。

なのに、娘はそれを裏切るのである。
何故裏切るのか。「月曜日が嫌い」に象徴される学校生活ないし学校教育に傷つけられ、その道に沿っていけない自身を認めてくれる恋愛に身を投じたからだ。
娘が出奔することで裏切るのは、置いていく母親だけではない。娘がまっすぐ健全に育つことを願っていた世界そのものや、見守ってくれていた月をも裏切っているのだ。
「大切に生きて」と泣いた「彼女」はだから母親だけではなく、月そのものでもあるのである。

だけど、それでも月は見守り続けているのだった。
何もかも知っていて、何もかも見ている。盗みを覚えたことも、恋を知ったことも、嬉しかったことも悲しかったことも、何も知らぬ無垢な時代のことも。
そして未だ帰らぬ娘のその後をも見守り続けている。
そういう月の優しさの歌だ。

だが、やはりこれはその月が主体の歌ではない。多重構造の人称視点の中ではっきりしているのは、それはこの歌が娘視点の「あたし」で始まり、月を「あなた」と呼ぶ者の視点で終わっていることだ。誰が月をあなたと呼ぶのか、それは月に見守られていたことに気付いた娘自身なのであろう。
だから、この歌は一見、どんなに傷ついて人や世を裏切ってもそれでも月は見守っているよ、と訴えている詞の様でありながら、実はそのことに気付いて自らの過去を振り返った娘自身の歌なのである。

私は見守られているんだ。
私は生まれて来て良かったのだ。
私は望まれているんだ。
私は生きていって良いのだ。
それを知った人間の気づきの歌なのだ。

少々、うがった見方をするなら、例えば榊的というか当ブログ的にこれを戦後レジームと民俗学的な解釈で見ることも実は可能だ。
歌詞の中の娘の出奔を、単純にわかりやすい女性の軟派系不良化の間接表現と見ても良いのだが、これを性別によらない、生き方を間違った日本人のメタファーと捉えることもまた解釈として可能なのである。すなわち、戦後を象徴する高度経済成長の時代に、歪んだ戦後自虐教育によって世界=祖国を裏切るような国民に育ってしまった日本人が、そんな自分をも許し見守る神の目線を知り、本来望まれた日本人としての生き方に立ち返る。それを不良少女と月に象徴させたのではなかろうか、との解釈である。

無いな(笑)。
この『MOON』はボーカルであるNokko氏自身の作詞であるから、そういう思想背景に基づいて書かれた歌詞とは考えにくい。もっと等身大の自己投影からの脚色で書かれたとするのが真っ当な見方だろう。ただ、もっと大きな捉え方として、道を違えた者の立ち返りの歌として象徴されるイメージを受け取るのは自由であろうと思う。

少々脱線したが、ここまで掘り下げてみてちょっとした推測が出て来た。
はじめに書いた作詞者であるNokko氏が歌えなくなり、また歌うようになったという体験。もしかしたら、歌えなくなっていた時代はグレて帰らない娘への感情移入が難しくなっていた時代であり、自らが作った歌であるにもかかわらず自身の成長と変化によってそれを持て余していたということではないだろうか。
そして、これが現在進行形ではなく過去の振り返りと見守る月の目線への気付きの境地に、一回りして至ったからこそ現在は歌えるようになった。その視点で歌うから同じ歌が優しくなったのではないか。
人の心の本当は他人にはわからない。だから状況と断片的な事物で繋ぎ合わせるしかないが、そんな風に想像するのである。
もっとも、それは『MOON』一曲だけではなく歌うこと全般にだったのだから、実際にはもっと複雑な心境と事情があったのだろうと思う。おそらくライナーノートの類を読んでもやっぱり本当のところは我々にはわかるまい。

だが、この歌が好きで聴いていた、あるいは歌っていた我々には我々で出来ることがある。
それは月の思いを思うことだ。
月が見ていて、月が何もかも知っている。この歌にそれを教えられたのだから、月に恥じぬよう生きて行きたいとやはり思うではないか。
私にとって、それは日本人として恥じない生き方をするということだ。
道に迷ったら、この歌を思い出そうと思う。
 
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