2006年10月31日
『身毒丸』『地球空洞説』
『寺山修司幻想劇集』
、『身毒丸』は有名ですね。よく蜷川幸雄氏の演出でやっていますよね。ちょいと前に藤原達也主演でやっていた記憶があります。
「母さんもう一度僕を妊娠してください」
なんて、気の聞いた台詞を書けるようになるにはどうしたら良いんでしょうかね?
神社の鳥居をくぐるたびにこの台詞を思い出してしまうのは、僕だけでしょうか?
『地球空洞説』は物凄いエキセントリックですね。
空気女が出るのでちょっとうれしいです。
男に空気を入れられて気持ちよくなるいざりの女。
なんて分りやすいメタファーなんでしょう。
上野千鶴子あたりにぼろかすに言われそうですね。
この作品の中に銭湯帰りの男ってのが出るのですが、
銭湯から帰ると自分の家がなくなっていた
という寺山お得意の夢と現の境を歩く登場人物です。
部屋に帰るとまったく見知らぬ人が住んでいて、周りも知らない人だらけ。銭湯帰りの男は困ってしまうが、その実うれしくもあるのです。それは、家という社会性のある現実に帰着するのを恐れているから。ドゥルーズ風に言うとノマド的(遊牧民)な思考にどこか依拠したいと願う節が彼にはあるのでしょう。
我々もどこかでそういったノマド的な思考に憧れている部分があるのではないでしょうか? ふと旅に出たいとか、ふと仕事をやめたいとか、ふと線路に飛び込みたいとか……。
束縛からの解放を心のどこかで望んでいる、しかし、保護、安定といった共同体からの恩恵を捨てきることができないのも事実。
人が二人以上集まれば、共同体が形成されます。互いに影響しあわないわけは無いのです。
寺山の作品の多くは、共同体を揶揄し、また共同体を超越した狂人を多く描きます。主人公はだいたい共同体にとらわれていて、周りの登場人物は狂気(いわゆる近代的な狂気)を秘めているために、自由奔放に動き回っているように見えます。
普通の世の中は正常人>狂人という比率ですが、
寺山の描く世界は正常人<狂人という比率で描きます。
そうなれば、常識にとらわれる主人公の方がおかしい人のように見えてきますね。
夢も現も表裏一体なのに何もできない主人公が哀れに映るのです。
なんだか、撮りとめも無い文章になってしまいました。
2006年10月26日
『レミング』
『寺山修司幻想劇集』
『レミング』読了しました。最高です。
夢と現の差異の曖昧さ。
これは私が最愛する「胡蝶の夢」の挿話同様、人間が生きていくうえで、いつまでも問われる内容です。
『阿呆船』同様、一体どこに正常、と異常、夢と現実の差が存在するのかを痛烈な皮肉によって表している作品です。
実際にみなさんは夢なのに覚めない夢を見ませんか?
逆に、現実なのに、痛みを伴わない他人の現実を見たことはありませんか?
そして、自分が何者でもない瞬間を夢でも現でもあじわったことはありませんか?
人間の存在とは本当に微細なものです。
そこにいなくても地球は回ります。
そんな微細な存在が、何を叫ぶか?
それが最大の問題になるのです。
2006年10月23日
『阿呆船』『奴婢君』
『寺山修司幻想劇集』
『阿呆船』と『奴婢訓』を読了しました。
さすが寺山修司。最高でした。
天井桟敷観てみたかったですね。どれだけ過激で素敵で、グロくて、エロくて、飛んでたか、同じ空気と時間を共有してみたかったものです。
『阿呆船』は言わずもがなフーコーの『狂気の歴史』を踏襲していますね。新潮の翻訳本にはボッシュの『阿呆船』の挿絵がカラーでついています。
12世紀には阿呆=狂人が聖人に近い存在だと考えられていたそうです。共同体の周縁の存在である狂人たち。彼らは人間でありながら人々の生活になじめない。そんな彼らを乗せて聖地へ巡礼に向かったのが『阿呆船』です。彼らは言語を超えた存在として、より神に近しいと考えられたのです。
日本でも、周縁に近い存在は神に近いと考えられていました。たとえば、中世後期に多く見られるようになった琵琶法師。彼らはみな盲人です。盲人は健常者と同じ生活を送ることが当時できませんでした。その代わりに、一種の霊能力を持ち、闇と繋がっていると考えられたのです。それゆえ、平家鎮魂のために編まれた『平家物語』は彼らの口寄せによって伝えられたのです。
フーコーは狂気が誕生したのは近代以後だといいます。それは、ペストや癩病の隔離施設が生まれたことによって生まれます。
『阿呆船』では現代人である眠り男が12世紀の『阿呆船』へと夢の中で引きずりこまれます。彼の目には悪夢、狂気として世界は映りますが、当の狂人達はお祭り騒ぎです。
「何が阿呆見物だ! てめえの阿呆にも気づかず!」
貴婦人相手に影男がけりを入れるシーン。非常に象徴的です。
結局夢も現も判別ができなくなってしまう眠り男。無茶苦茶な話ですが、それを真か偽かと判断使用とした時点で観ている人は負けです。阿呆船の乗客たちは二項対立で語れない言葉の担い手ですから。
『奴婢訓』は登場人物が全て宮沢賢人の童話のキャラクター名です。オッベル、ゴーシュ、よだか、カンパネルラ、ブスコーブドリ、かま猫、ダリアなどなど、賢治ファンにはピンと来る名前が目白押しです。
しかし、内容はエログロ。賢治ファンは泣いて喜ぶか、怒り狂うか、トイレで吐くかのいずれかでしょう。ゴーシュが折檻を受けて身もだえするなど、素敵なエピソードがたんまり出てきます。
宮沢賢治が絶対に書けなかったイーハトーブを寺山は人間のぬるぬるとした夜の世界として描ききっています。慾にまみれて、怠惰で、匂い立つようなイーハトーブ。アンバランスさがたまらない作品です。
「主人のいない家を持つことは不幸だ。しかし、家が主人を必要とすることはもっと不幸だ」
主人がいない=統治者がいない世界は無であり、混沌。しかし、世界が統治者を必要とすることは、人間ひとりひとりの価値観を無いものとする不幸なこと。『奴婢訓』ではそのような今日的な悲劇を描いています。
宮沢賢治のキャラクターは没個性的で空虚な印象をしめじは受けます。その宗教的道徳に彩られたイーハトーブを寺山は斜めからみていたのではないでしょうか?
これから『レミング』を読んでいます。さわりだけ読むと安部公房の『闖入者』や『魔法のチョーク』それから『夢の逃亡』なんかを髣髴させますね。メチャクチャ面白そう。
いずれは寺山修司のような世界観の作品も手がけたいものですね。みんなが憧れる道なんでしょうが(^^;)
2006年10月15日
『日々の泡』
『日々の泡』
「20世紀の恋愛小説の中でもっとも悲痛な小説」と称されるこの作品。なぜ、そのような形容がされるのだろうか? 資本主義経済という枠組みから読み解いてみたいと思う。
【粗筋】
親の遺産を相続した貴族のコラン。コランの家で仕えていた料理人のニコラ、そしてコランの親友であるシックが物語の男主人公である。彼らにはパートナーが現れる。デューク・エリントンのピアノ曲のタイトルと同名で、繊細なクロエ、エキゾチックで美しいイジス、そして情熱的なアリーズ。3組の若い男女が織り成す青春物語。前半は当時の風俗(スケートや旅行など)を交えながら、奔放に生きる若い恋人達を描くが、クロエが病を患ってから物語のトーンが一変する。
病の原因はクロエの肺の中に睡蓮が根付いたこと。
「右の肺にできているんだ。はじめ先生は単に何か動物みたいなものだと思っていたんだ。ところが、それが睡蓮なんだ。」
医者はクロエの周りをきれいな花で埋め尽くせば、睡蓮は枯れると診断した。その日から、コランは毎日のように花屋に通うようになる。
しかし、シックへの融資と花代によってコランのお金は磨り減って、ついには彼自身が働かなくてはならなくなったのだった。今まで、散々遊んで暮らしていた彼には働く宛てもなく、ついには大きな屋敷までもしぼんでいってしまう。
そして、完全にお金が尽きたところで悲劇が訪れる。
この先は非常に面白い部分ですので呼んでからのお楽しみです。
資本主義経済という枠組みからこの作品を問い直すと、まず、お金の流出という問題が浮上する。主人公のコランは親の遺産だけで生活している現代でいえばニートである。彼に給金を貰っているニコラと彼の金を当てにしているシック(外面では施しを受けないという素振りをしているが)。そして、クロエたち。多くのお金を持っているコランを中心に物語りは転回していく。
しかし、中盤で、コランの恋人(このときには結婚しているが)のクロエが病を患う。ここから診察代、花代などがどんどん流出していく。その上、シックが金をせびる。お金がなくなるのがわかってからコランはようやく重い腰を上げて仕事を探しに行く。しかし、資本主義共同体から見れば、彼のような何の職業訓練も受けていない人間は労働力としてほとんど価値がない。
「とりわけ、のらくろ物に与える仕事はないんだよ」
面接に言った先で吐かれる苦い台詞。結局彼がありついた仕事は、兵器工場の作業員の仕事だった。労働力として、そして金銭的価値のない彼には誰も目も向けなくなる。ニコラも、シックもみな彼から離れていく。ろくな仕事もできずに自分の食いぶちも稼げないコラン。それでも彼は愛するクロエのために花を買い続ける。
資本主義の悪はまだ続く。稼ぎの少なくなったコラン、花を買う量が少なくなっていく。鼻の量が少なくなっていくにつれて、クロエの病気は重くなる。やがて肺の中の睡蓮が開こうとするのだ。この肺の睡蓮とは、結核のメタファーであり、近代文学ではとかく肺病=結核=美しい死という構図が成り立っていた(そこから沖田総氏美男子説が流布したのだが……)。この作品の中でクロエもその例に漏れていない。どころか、もっとも美しいメタファーである。ここにヴィアンのレトリックの妙があるといえるだろう。話はそれたが、稼ぎが愛する人の命を握っていると言う図式から、お金と愛・命が等価の状態になっていると言える。
この後、非常に辛らつなメタファーが出てくるのだが、それはこの作品を読んでからのおたのしみにしてもらいたい。あなたが、この作品を読めば、「20世紀の恋愛小説の中でもっとも悲痛な小説」と称される理由がわかるだろう。世界の中心でうわ言を叫んでいるよりも、幻想的でシュールながらどこかリアルな部分をむき出しにしたこの作品のほうが、800倍は悲痛だろう。
2006年10月11日
『片腕』
『片腕』【『眠れる美女』(新潮文庫)に収録】
『雪国』、『伊豆の踊り子』、そして『古都』と言った幻想的で耽美な小説として知られる川端康成。
その作品群の中でも抜きん出て幻想的な作品が『片腕』である。
『片腕』は知り合いの娘の右腕を一晩だけ借りるという内容の話。設定からしてナンセンスである。読者は終局にナンセンスの中にある幻想と耽美を読み取ることになる。
冒頭は、娘との会話。「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」そして私は片腕を借りていく。外に出ると、深いもやと湿っぽい空気が充満している町の中を、私は娘の肩腕を隠し持って歩く。
視界の悪い町の中には、要領を得ないラジオ放送、若い女が運転する、薄むらさきいろのライトの車、そして蛍火のような蛾の群れなどが私を幻惑していく。
ようやく部屋に戻った私、娘の片腕が話をはじめ対話が始まる。この対話がスリリングである。
「人間がのぞいても見えないわ、のぞき見するものがあるとしたら、あなたのご自分でしょう」
「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」
「自分は遠くにあるのよ」「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ」
ついに私は、娘の腕を自分の物と取り替える。「とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った」
私は娘の右腕との同化に成功するのだが……
『片腕』はフェティシズム(物質愛好主義)の観点から書かれたと思われるが、そうではない。谷崎潤一郎の『刺青』のように、女性の特定の部分を愛する存在として私を描いたのではない。犯すことのできない崇高な存在として娘の片腕を描いている。
「娘は私にいたずらさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない」と言うように、片腕に対して性的な欲求を持っているわけではないのだ。
では一体、何のために、私は片腕を借りたのか? それは同化である。終盤にようやく、娘の片腕を自分の腕と取り変える。「私は女の身をまかせるの気もちがわかっているようながら納得しかねるものがある」私は娘の片腕を通して、女の謎を解き明かしたいという願望が見られるのがここからわかるだろう。
娘の片腕をつけた瞬間の痙攣と戦慄を経て、徐々に同化していく。つけた直後は「血が通っていない」肩の付け根で遮断された存在だった娘の腕が、気がつくと、自分の体内の血と混ざりあうようになっていた。これは、結婚、あるいはセックスのメタファーであることは言うまでもない。
永遠の謎である女性への畏怖と同化の欲求が『片腕』では描かれているのだ。
『片腕』は幻想的な手法で女性と言う男にとって永遠に未知の存在へ対してのアプローチをしている秀作だと言えるだろう。もしも『片腕』を読んで川端作品が気に入ったならば、『眠れる美女』と『青い海、黒い海』次に読むとよいだろう。どちらも一級の幻想小説である。
2006年10月07日
『異邦人』
『異邦人』 アルベール・カミュ(新潮文庫)
・『異邦人』の主人公ムルソー
『異邦人』の中で、ムルソーはただひたすらに自由を謳歌する存在として描かれる。母親の葬式帰りに、女と遊んだり、知り合いの(柄の悪い)男の手紙の代筆をしたり、平気で仕事を休んだり、「太陽がまぶしかったから」という理由で発砲したりと、その存在は縦横無尽で、キリスト教道徳を無視している。
極めつけは死刑を宣告された後の司祭とのやりとりであろう。司祭のことを「わが父」と呼ぶことでキリストに対しての跪拝を指し示す段において、「私には父ではない」といい、その司祭に対して苛立ちを覚える様、司祭の疲れ果てていく様を刻々と描いている。
これは当時の「死刑」を目前に控えた受刑者の感覚とはかけ離れているように書かれている。彼は自由に自分の「死」と向き合っているのだ。壁に対して司祭が話し始めたときに彼は憤慨する。
ムルソーは神を放棄し、新たな価値基準によって世界と繋がることを求めたのであった。
・冒頭
「きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日だったかもしれない」という有名な冒頭。この曖昧な表現が意味するところは、共同体の価値観と、主人公ムルソーとの間の価値観とのギャップである。
キリスト教的な価値観ならば、肉親の死は最重要の悼むべき問題として重くのしかかるべきものである。しかし、彼にとっては日常の延長として感じているように描かれている。
事実その帰りにマリイと海水浴に言ったりしているのだった。友人の葬儀の帰りに友達一同と居酒屋に足を運ぶような感覚である。そして雇い主とのやり取り。
「彼は不満そうな様子だった。『私のせいではないんです』〜 さしあたりはママンが死んでいないみたいだ。〜」
公の形を取ることが大事であって、個人的な感情は排除されるとでも言うようなかかれ方であった。まさしく、それはこの作品の中に流れる根本の問題であるといえる。
共同体の価値観にあわせるようでなくてはならない人間の姿を描いているのだ。ムルソーはそこから一歩逸脱した存在であったのだ。
・裁判の様子
アラブ人殺害の罪で法廷に立たされたムルソーへの弾劾。これは共同体を保持するためのいわばイニシエーションであった。
ムルソーがキリスト教道徳への傾倒を少しでも見せていたならば、この事件は情状酌量の余地があったであろう。事実正当防衛とは言わないが、過剰防衛にまで罪状を下げられる事件だった。
しかし、ムルソーの正直な証言(それは陪審員に反道徳的と捉えれれた)があだとなった。共同体の周縁を彷徨う現代人の群像として、ムルソーは存在していたといえるだろう。
・不条理の中の存在価値
では、ムルソーはいったいどこに実存としての価値を見出したのか?
それは芝居をしないという自由である。自動化された習慣を裏切り、自分本来の姿をありありと世界に刻みつけようとした。そして、裁判のときに嘘をつくことなく死刑宣告を受けたのだ。
「飽き飽きした」と獄中で司祭に漏らすが、それはこのお芝居の世界に対してだ。彼の中ではマリイとてそうであった。彼の愛した女性もまた虚構に彩られた世界の住人であったからだ。
彼は仮に出所できたら、ありとあらゆる死刑囚の執行現場を見に行こうと心に決める。ここには共同体から抹殺される人間と抹殺する人間の両方を見たいという心理が働いている。
不条理の中で、それを受け入れる人間とそれを否定する人間のどちらも見てみたかったのであろう。ムルソーは後者の人間だった、それだけのことだったのだ。
2006年10月02日
『一人の男が飛行機から飛び降りる』
『一人の男が飛行機から飛び降りる』
表紙がバクスターの絵だというからには中身も期待できだろうと、手に取ったこの作品。期待は的中。去年勝った小説の中で一番扱いに困る内容だった。
本作はショートショートが149篇収められている。まずその数に驚くがもっと驚くのは内容だ。すべてが悪夢のようなシュールさをかもし出している。
たとえば、
「私は世界で最後の一箱の煙草を持っている。だがマッチがない……隣の部屋にいる連中はみな一人残らずマッチを持っている」――『宿命の女』
「私は頭がひんまがってくっついて娘と一緒にベッドにいる。……彼女がいままで味わったことのないほんものの恍惚に到達させてやりさえすれば、彼女の頭もまっすぐになるはずなのだ」――『乙女』
「眠れない。枕の感触が変だ。開けてみると、なかに骨がいっぱい入っている。白い骨で、何か小動物のものと見える」――『骨』
などなど、魅力的なシュールな話がたくさん転がっている。どれを読んでも後味が悪く、考えただけでも馬鹿らしい状況を何度も読んでいるうちに妙な妄想に駆られ、夢と現が隣り合っているような、そんな気持ちにさせてくれる。
ちなみにしめじは『二匹の熊』と『反逆者』が気に入っている。
『二匹の熊』は愛らしいトルコ帽を被った二匹の熊のところに突然男がやってきて、売春をする話。片方の熊は断るが、その相方が受けることになり……というわけが分らない話。
『反逆者』は反逆者の家系に生まれた私がドジを踏んで投獄される。母親が看守の隙を突いて忍び込むが、助けてくれず、むしろ胸を張って死んで来いと言う。処刑の当日母は喜び勇んで近所の友達を呼ぶ……という死刑が学芸会になってしまっているという話。
どちらも絶対ありえないはずなのに、どこか一片にリアルさを留めているので、それが支点となって物語を無理なく構成している。これだけの作品群全てにおいてリアルさは徹底されていて、作者の鋭い観察眼には脱帽。
安部公房の『笑うつき』あたりが好きな方は必読の作品。
2006年09月28日
『砂の女』
『砂の女』 安部公房(新潮文庫)
『砂の女』
何回目の再読だったろうか、何度でも読みに耐えられるテクストは名著であるが、この『砂の女』も毎回違った側面を見せてくれる。
【本作の粗筋】
昆虫採集をしに来た男が、砂に囲まれた部落に辿りつく。部落に家々は砂穴の底に位置していて、毎晩砂掻きをしないと家がつぶれてしまう。そんな家に男は閉じ込められてしまう。砂穴の底の家には女が暮らしていて、必死で砂から家を守っている。
「これじゃまるで、砂掻きするためだけに生きているようなものじゃないか!」
毎晩の砂掻きを欠かすとあふれ出る砂で家は倒壊する。男は必死で脱出を試みるがことごとく失敗に終わる……
穴の上から二人を監視し、逃亡を妨害する部落の人々。支配者と被支配者の構造に、徹頭徹尾戦いとおす男。その間で振り回され、虐げられる真の被害者である女。しだいに彼らの関係は緩やかなものになっていく……
【読み〜「義務」と「自由」から】
本作を読み解く上で、最も分りやすい読みは「義務」と「自由」の存在についてであろう。
男は都会の「義務」から逃げ出すために、わざわざこんな僻地までやってくる。そして砂穴という新しい共同体の「義務」を目の前にして愕然とする。世の中にはなんと「義務」が多いことか。男はいつまでたっても「義務」から解放されない。
砂穴の「野蛮」な「義務」に囲まれて、男は脱出を試みる。「自由」への脱出。しかし男の想定する「自由」にはどこか歪みがある。
「じっさい、教師くらい妬みの虫に取り付かれている存在も珍しい」
「(脱税や強盗などの新聞記事を読んで)欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ」
「彼は、あいつとの時には、必ずゴム製品を使うことにしていた。以前わずらった淋病が、はたして全快したかどうか、今もって確信もてなかったからだ」
など、「自由」の対象として想起する外の世界には何の楽しみもない。これは「自由」の世界もまた「義務」によって成り立っていると男も無意識的に気づいているからである。しかし、男は「自由」に固執する(この点に関しては解説にてドナルド・キーンも「あれほど熱望している自由は果たしてどんなものか、男は余り考えない。自由であったころの生活を思い出すことが多いが、明るい記憶は一つもない」と記している)。
その固執は人間が持つ「自由」への欲求。近代国家が補償する「国民の自由」。歴史が築いた人類の重大な発明である「近代的自由」を犯し、踏みにじる部落の人々への怒りから発生している。正義の使途として男は描かれているといっても過言ではない。もちろん男は自由の名の下に女に対して傍若無人な態度を取る。「近代的自由」の意識のない女を「虫けら」と認識し(虫というコードも本作を理解する上で非常に重要)、征服するさまが描かれている。
男は「砂」に対して一種神聖を感じていた。それはノマド的な「自由」を連想させるからであろう。砂を制するには「定住」を捨てて「遊牧」する必要がある。それが男の「砂」と共存する生活のイメージだった。それを無意識に追い求めて砂漠にやってきたのだ。しかし、そのイメージは砂穴の生活によって見事に覆される。「砂」に立ち向かい「定住」を求める女の姿。彼の神聖は部落の生活によって突き崩される。この点も彼が「自由」へ固執し、部落の人々へ反抗し続ける理由になっているだろう。
男は女に対して、「自由」のすばらしさを歌う。しかし、女にはピンと来ない。それはそうだ、男と女の間では「義務」を形成している共同体の言語がズレているからだ。男が「外を自由に歩きたくないのか」とたずねても、女は「散々歩いてきたんですよ」と反発する。男は後に海岸沿いの風景を見たときに、「女にこの風景の話をしてやればよかったかもしれない……絶対に往復切符の通用する余地のない、砂の歌を、多少音程が狂ってもかまわないから、聞かせてやっていればよかったのかもしれない」と築く。つまり言語を超えた前景化した男の言葉を使っていれば、女を説得できたかもしれない。
冬を向かえ、男は砂穴生活の「義務」に適応し始める。「義務」への適応は即ち思考の適応も意味する。男は適応によってくだらない漫画に大笑いし、砂から水を取るという発見に夢中になる。そしてついには砂穴に垂らされた縄梯子に興味を持たなくなる。いつでも出られるのだという「自由」によって行動を成約されてしまう。つまり、「義務」の外へ排斥されることを恐れているのだ。そこではもう部落の人間も追ってこない。本作の題辞に「罰がなければ、逃げるたのしみもない」と書かれているように、「義務」による干渉がなくては、いかなる「自由」も「自由」足り得ない。男はそれを感じて、逃亡を拒否する。
本作は「義務」のあり方を痛烈に批判しながらも、同時に「義務」がなくては生きていけない人間の弱さを上手くあらわしている。女には家を守るという「義務」があるのに対して、男には「自由」を望む心しかない。共同体の懐に入ってしまっては、絶対に「義務」を持つ人間の方が強い。最終的に男は女と家に取り込まれる。この構図を見ても明らかである。
などと分析を加えてしまうと本作の魅力を半減させてしまうだろう。狭い空間に閉じ込めた人間の魂の動きを的確に捉えている作品である。まさに芸術といって相応しい作品ではないだろうか。