2006年09月28日
『砂の女』
『砂の女』 安部公房(新潮文庫)
『砂の女』
何回目の再読だったろうか、何度でも読みに耐えられるテクストは名著であるが、この『砂の女』も毎回違った側面を見せてくれる。
【本作の粗筋】
昆虫採集をしに来た男が、砂に囲まれた部落に辿りつく。部落に家々は砂穴の底に位置していて、毎晩砂掻きをしないと家がつぶれてしまう。そんな家に男は閉じ込められてしまう。砂穴の底の家には女が暮らしていて、必死で砂から家を守っている。
「これじゃまるで、砂掻きするためだけに生きているようなものじゃないか!」
毎晩の砂掻きを欠かすとあふれ出る砂で家は倒壊する。男は必死で脱出を試みるがことごとく失敗に終わる……
穴の上から二人を監視し、逃亡を妨害する部落の人々。支配者と被支配者の構造に、徹頭徹尾戦いとおす男。その間で振り回され、虐げられる真の被害者である女。しだいに彼らの関係は緩やかなものになっていく……
【読み〜「義務」と「自由」から】
本作を読み解く上で、最も分りやすい読みは「義務」と「自由」の存在についてであろう。
男は都会の「義務」から逃げ出すために、わざわざこんな僻地までやってくる。そして砂穴という新しい共同体の「義務」を目の前にして愕然とする。世の中にはなんと「義務」が多いことか。男はいつまでたっても「義務」から解放されない。
砂穴の「野蛮」な「義務」に囲まれて、男は脱出を試みる。「自由」への脱出。しかし男の想定する「自由」にはどこか歪みがある。
「じっさい、教師くらい妬みの虫に取り付かれている存在も珍しい」
「(脱税や強盗などの新聞記事を読んで)欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ」
「彼は、あいつとの時には、必ずゴム製品を使うことにしていた。以前わずらった淋病が、はたして全快したかどうか、今もって確信もてなかったからだ」
など、「自由」の対象として想起する外の世界には何の楽しみもない。これは「自由」の世界もまた「義務」によって成り立っていると男も無意識的に気づいているからである。しかし、男は「自由」に固執する(この点に関しては解説にてドナルド・キーンも「あれほど熱望している自由は果たしてどんなものか、男は余り考えない。自由であったころの生活を思い出すことが多いが、明るい記憶は一つもない」と記している)。
その固執は人間が持つ「自由」への欲求。近代国家が補償する「国民の自由」。歴史が築いた人類の重大な発明である「近代的自由」を犯し、踏みにじる部落の人々への怒りから発生している。正義の使途として男は描かれているといっても過言ではない。もちろん男は自由の名の下に女に対して傍若無人な態度を取る。「近代的自由」の意識のない女を「虫けら」と認識し(虫というコードも本作を理解する上で非常に重要)、征服するさまが描かれている。
男は「砂」に対して一種神聖を感じていた。それはノマド的な「自由」を連想させるからであろう。砂を制するには「定住」を捨てて「遊牧」する必要がある。それが男の「砂」と共存する生活のイメージだった。それを無意識に追い求めて砂漠にやってきたのだ。しかし、そのイメージは砂穴の生活によって見事に覆される。「砂」に立ち向かい「定住」を求める女の姿。彼の神聖は部落の生活によって突き崩される。この点も彼が「自由」へ固執し、部落の人々へ反抗し続ける理由になっているだろう。
男は女に対して、「自由」のすばらしさを歌う。しかし、女にはピンと来ない。それはそうだ、男と女の間では「義務」を形成している共同体の言語がズレているからだ。男が「外を自由に歩きたくないのか」とたずねても、女は「散々歩いてきたんですよ」と反発する。男は後に海岸沿いの風景を見たときに、「女にこの風景の話をしてやればよかったかもしれない……絶対に往復切符の通用する余地のない、砂の歌を、多少音程が狂ってもかまわないから、聞かせてやっていればよかったのかもしれない」と築く。つまり言語を超えた前景化した男の言葉を使っていれば、女を説得できたかもしれない。
冬を向かえ、男は砂穴生活の「義務」に適応し始める。「義務」への適応は即ち思考の適応も意味する。男は適応によってくだらない漫画に大笑いし、砂から水を取るという発見に夢中になる。そしてついには砂穴に垂らされた縄梯子に興味を持たなくなる。いつでも出られるのだという「自由」によって行動を成約されてしまう。つまり、「義務」の外へ排斥されることを恐れているのだ。そこではもう部落の人間も追ってこない。本作の題辞に「罰がなければ、逃げるたのしみもない」と書かれているように、「義務」による干渉がなくては、いかなる「自由」も「自由」足り得ない。男はそれを感じて、逃亡を拒否する。
本作は「義務」のあり方を痛烈に批判しながらも、同時に「義務」がなくては生きていけない人間の弱さを上手くあらわしている。女には家を守るという「義務」があるのに対して、男には「自由」を望む心しかない。共同体の懐に入ってしまっては、絶対に「義務」を持つ人間の方が強い。最終的に男は女と家に取り込まれる。この構図を見ても明らかである。
などと分析を加えてしまうと本作の魅力を半減させてしまうだろう。狭い空間に閉じ込めた人間の魂の動きを的確に捉えている作品である。まさに芸術といって相応しい作品ではないだろうか。