2006年10月15日
『日々の泡』
『日々の泡』
「20世紀の恋愛小説の中でもっとも悲痛な小説」と称されるこの作品。なぜ、そのような形容がされるのだろうか? 資本主義経済という枠組みから読み解いてみたいと思う。
【粗筋】
親の遺産を相続した貴族のコラン。コランの家で仕えていた料理人のニコラ、そしてコランの親友であるシックが物語の男主人公である。彼らにはパートナーが現れる。デューク・エリントンのピアノ曲のタイトルと同名で、繊細なクロエ、エキゾチックで美しいイジス、そして情熱的なアリーズ。3組の若い男女が織り成す青春物語。前半は当時の風俗(スケートや旅行など)を交えながら、奔放に生きる若い恋人達を描くが、クロエが病を患ってから物語のトーンが一変する。
病の原因はクロエの肺の中に睡蓮が根付いたこと。
「右の肺にできているんだ。はじめ先生は単に何か動物みたいなものだと思っていたんだ。ところが、それが睡蓮なんだ。」
医者はクロエの周りをきれいな花で埋め尽くせば、睡蓮は枯れると診断した。その日から、コランは毎日のように花屋に通うようになる。
しかし、シックへの融資と花代によってコランのお金は磨り減って、ついには彼自身が働かなくてはならなくなったのだった。今まで、散々遊んで暮らしていた彼には働く宛てもなく、ついには大きな屋敷までもしぼんでいってしまう。
そして、完全にお金が尽きたところで悲劇が訪れる。
この先は非常に面白い部分ですので呼んでからのお楽しみです。
資本主義経済という枠組みからこの作品を問い直すと、まず、お金の流出という問題が浮上する。主人公のコランは親の遺産だけで生活している現代でいえばニートである。彼に給金を貰っているニコラと彼の金を当てにしているシック(外面では施しを受けないという素振りをしているが)。そして、クロエたち。多くのお金を持っているコランを中心に物語りは転回していく。
しかし、中盤で、コランの恋人(このときには結婚しているが)のクロエが病を患う。ここから診察代、花代などがどんどん流出していく。その上、シックが金をせびる。お金がなくなるのがわかってからコランはようやく重い腰を上げて仕事を探しに行く。しかし、資本主義共同体から見れば、彼のような何の職業訓練も受けていない人間は労働力としてほとんど価値がない。
「とりわけ、のらくろ物に与える仕事はないんだよ」
面接に言った先で吐かれる苦い台詞。結局彼がありついた仕事は、兵器工場の作業員の仕事だった。労働力として、そして金銭的価値のない彼には誰も目も向けなくなる。ニコラも、シックもみな彼から離れていく。ろくな仕事もできずに自分の食いぶちも稼げないコラン。それでも彼は愛するクロエのために花を買い続ける。
資本主義の悪はまだ続く。稼ぎの少なくなったコラン、花を買う量が少なくなっていく。鼻の量が少なくなっていくにつれて、クロエの病気は重くなる。やがて肺の中の睡蓮が開こうとするのだ。この肺の睡蓮とは、結核のメタファーであり、近代文学ではとかく肺病=結核=美しい死という構図が成り立っていた(そこから沖田総氏美男子説が流布したのだが……)。この作品の中でクロエもその例に漏れていない。どころか、もっとも美しいメタファーである。ここにヴィアンのレトリックの妙があるといえるだろう。話はそれたが、稼ぎが愛する人の命を握っていると言う図式から、お金と愛・命が等価の状態になっていると言える。
この後、非常に辛らつなメタファーが出てくるのだが、それはこの作品を読んでからのおたのしみにしてもらいたい。あなたが、この作品を読めば、「20世紀の恋愛小説の中でもっとも悲痛な小説」と称される理由がわかるだろう。世界の中心でうわ言を叫んでいるよりも、幻想的でシュールながらどこかリアルな部分をむき出しにしたこの作品のほうが、800倍は悲痛だろう。