パリ・オリンピックの総合馬術(団体)で銅メダルに輝いた日本。馬術競技としては92年ぶりのメダル獲得の引き合いに出されたのが、1932年のロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを手にした西竹一(1902~45)である。男爵家出身の陸軍騎兵将校。世界から「バロン(男爵)西」とたたえられた男は、玉砕の島で生涯を閉じた。
「バロン西、バロン西、出て来てください。」
ロサンゼルス・オリンピックにおいて、馬術障害飛越競技で金メダルを獲得した西中佐を米軍は惜しみ、硫黄島内総攻撃の前に、拡声器で呼びかけた。
1930年代に西洋社会にその名を轟かせた日本人。
しかも彼はロサンゼルス・オリンピックにおいて、馬術障害飛越競技で金メダルを獲得したアスリートでもあるのです。
1932年にバロン西が金メダルを獲得してから、その後、馬術競技でメダルを取得した日本人選手はいまだかつて登場していません。つまり彼は日本人の馬術競技選手として唯一無二の存在なのです。
オリンピック本番で金メダルに輝いただけでなく、インタビューでは得意の英語で「We won(我々は勝った)」と答えたことで人々の耳目を集めます。
こうして、華麗な競技で魅了しただけでなく、それは自分1人の手柄ではなく愛馬との共同作業によるものだと宣言したことに全米の人々が感動、熱狂したのです。
この瞬間、「バロン西」の名声は揺るぎないものとなりました。
その後、第二次世界大戦に突入、バロンは陸軍中佐として、あの有名な激戦地、硫黄島に赴きます。
思い出のロス五輪で手にしていた愛用の鞭、そしてエルメス製のオーダーメイドの乗馬長靴姿のバロン西は、戦場でもダンディな姿を崩すことはなかったようです。
しかし、やがて硫黄島の日米軍の戦いは熾烈を極めていきました。
アメリカ軍は西中佐の命を惜しんで
「馬術のバロン西、バロン西、出て来てください。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」
と投降を呼びかけます。
もちろん、バロンはその呼びかけに応じることはなく、硫黄島の地で戦死することになります。享年42歳でした(戦死により陸軍大佐に特進)。
硫黄島の戦いにおけるバロン西は、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」にも登場します。伊原剛志さん演じる西中佐が、米軍兵士を尋問した後に手厚く介護する紳士的なシーンが印象的でした。
さて、ロサンゼルス市の名誉市民の称号も受けたバロン西の足跡は、市内のさまざまな場所で今も目にすることができます。
1932年のオリンピック会場だった南カリフォルニア大学に近い競技場、コロシアムの入り口に並ぶプレートには「Takeichi Nishi, Japan」の名前が残されています。
また、ダウンタウンにある創立百年の名門スポーツクラブ、ロサンゼルス・アスレチック・クラブのオリンピックルームの正面には、ウラヌスを駆ってオープンカーを飛び越えるバロンを捉えた写真が永久展示されています。そして、彼が競技の練習を重ねたリヴィエラ・カントリークラブ内でもウラヌスとバロンの勇姿の写真が飾られています。
…馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。
その後硫黄島へ戻る ………。二度と帰らず………。管理人注 : いくつかのサイトから抜粋しました。オリンピック、そして終戦の夏です。
すごい!3段跳び! 1段さえ今回の五輪で落としていたのが多かったのに。
アメリカはカゥボーイの国だ。馬に乗る難しさ馬術競技の価値は日本より数百倍?以上もわかっている人たちが多い。ましてロサンゼルスは西部劇の子孫たちの西部だ。そしてバロン(男爵)=貴族階級への尊敬も自国にないだけに、とても大きなものがある。
閉会式前の最後の競技、馬術障害飛越競技を終えて。
Instakgram@Instakgram1日本人唯一の馬術金メダリスト西竹一男爵(バロン西、#硫黄島 で戦死)。最後の五輪(ベルリン)ではメダルを逃しました。報道によると、西はナチスに憤り、妻にこう話したという。「コースは濠の真ん中だけ深くしてあった。ドイツ以外の選手は知らずに飛んで落馬したりした。騎士道に反したやり方だ」ヨーロッパはこんなもん今でもアリアリ https://t.co/USctdsTfM3
2021/08/02 01:00:01
管理人注 : ただ総攻撃に移った米軍の鬼のような攻撃はもう鬼人もびびる。洞窟内に隠れる日本兵たちに向け、洞窟内にドラム缶から大量のガソリンを流し、そして火を点ける・・・
本気になった米軍は恐ろしいんだよ。中共も知っておくといい。
ハワイに行く機会があれば、ぜひ真珠湾に行って、戦艦ミズーリを見学するといい。日系のお爺さん達が親切にガイドしてくれる。
その内部の指揮官室には、TOKYOまでの侵攻作戦プレート地図があります。そこには最初に「Iwo Jima」がくっきり表示されている。
Iwo Jimaが墜ちてから、そこに長い滑走路ができ、B29が燃料切れを起さずに往復での帰還が可能になり、B29の日本爆撃が本格化する。
硫黄島の重要さはそこであり、軍部も守備隊も栗林中将他の将兵だちもわかっていた。
B29が落とす焼夷弾の中にはガソリンが充満している。落ちれば充満しているガソリンに火が付き、どうなるか………。
それを各地の軍隊や指導された住民組織の隣組組長らは、住民は逃げずにバケツリレーで消化しろと言った。
馬鹿げている。そういう「皆で協力しろ!」という科学を無視した考え方は日本人の悪い癖だ。いまだにはびこっている。
体操選手が喫煙した。オリンピックには出るな。パリ五輪での柔道やサッカーでの判定がおかしい明らかに偽装判定だ。でも日本人なら抗議はするな!
そうして、ずっとおろかな事態が続く。今もこれからも。
管理人注 : 子供時代に少年誌で読みました。「バロン西、バロン西、出て来てください。」が、心に残っています。
「天晴れ西中尉/正に天空を行く/花々し若武者の神技」。32(昭和7)年8月15日発行の「東京日日新聞」夕刊1面は、ロス大会最終日の西竹一の優勝をそう報じた。
西洋社会、それも上流階級のスポーツとされた馬術競技での東洋人の快挙。明るい人柄もあって、その名は一躍世界に報じられた。
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終戦時に海外に取り残された軍人および一般人の日本への引き揚げを担った艦船です。 戦時中の壊滅的な被害によって船舶不足にあった日本にとって、
アジア大陸各地や南方の島々などに取り残された600万人以上の人員を帰還させるのは
一大事業でした。 (ネット記事より) 日本は敗戦後の厳しい時代にあっても、
海外に取り残されていた600万人の日本人を僅か2年で帰還させた。
(シベリア抑留者は除く)
それは人類史に残る大事業だった。現在の日本人の殆どは、その大事業を知らない。