
436: :2013/05/25(土) 19:54:13.66 ID:
そもそも、アーレイ・バーク(アメリカ海軍大将)も戦後、親日家に転向して、死後、天皇陛下から贈られた勲一等のみを棺に収めた。
彼は東京裁判のときに、海軍の戦犯を暴くことが任務で、なかでも南東方面艦隊の事件を担当した。激戦地です。
当然南方最大の日本海軍基地であるラバウルの調査をすることになる。
ところがモンローは、ラバウルの指揮官であった草鹿任一に会うと、すっかり彼に心服してしまいます。
草鹿任一海軍中将
そしてモンロー検事は、草鹿を“オールド、ジェントルマン”と呼び、自分から彼の家にに何度も出かけている。
そして“オールド、ジェントルマン”のために海軍関連の事件を全部取り下げたいからと資料を集め、結局“Case is dismissed”として事件そのものの立件を見送ってしまった!
当時、日本に駐屯していた米海軍には、アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke)という人もいた。米海軍の軍人で、最終階級は海軍大将です。
アメリカ海軍史上でただひとり、海軍作戦部長を3期6年の長きにわたって務めた実績のある人で、当然GHQの中でも発言権が強かった。
バークは、大東亜戦争の最中も、終戦後も、公の場で日本人を「ジャップ!」、「黄色い猿!」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人をさげすみ、頭から反日・嫌日感情を隠そうともしなかった。それくらい日本人嫌いだった。
そのバークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合います。
その出会いが、彼の人生を一転させた。
バークは、草鹿との出会いのあと、うって変わって親日家となり、モンローとともに日本海軍軍人の裁判をことごとく不起訴にしたばかりか、日本が早く占領状態から解放されるよう尽力し、挙句の果てが日本の海上自衛隊の創設のために全力をあげて貢献します。
その功績によって彼は、昭和36(1961)年には、陛下から“勲一等旭日大綬章”を授与されています。
平成8(1996)年、彼は94歳でこの世を去ったのだけれど、さすがに米海軍の大物のバークです。
彼は米国だけでなく、世界各国から多数の勲章を授与されていた。
ところがバークは、彼の葬儀のとき、本人の遺志によって遺体の胸に、
日本の旭日大綬章ただひとつだけを取り付けた。
彼にとって、他のどの勲章よりも、日本で陛下から授与された勲章が栄誉だったのです。
他にも草鹿は、東京裁判開始前にキーナン検事を筆頭に、
GHQで日本を敵視していた人々にいちいち会っては大喧嘩をし、大口論をした。
その結果、彼等は逆に日本人を認識し直し、草鹿を尊敬してしまう。
結果、帝国海軍軍人からは、A級戦犯として起訴される者が誰も出なかった。
のみならず、反日的だった彼らをして、逆に日本海上自衛隊の創建にまで協力させてしまった。
アーレイ・バーク
バークやモンローを、そこまで親日家にした草鹿任一中将というのは、どのような人だったのでしょう。
草鹿任一は、石川県出身の海軍軍人です。
戦艦艦長、海軍砲術学校校長、艦隊参謀長、海軍兵学校校長などを歴任し、大東亜戦争では、昭和17年12月から終戦まで、ラバウルで指揮を執った。
非常に頑固で短気。筋の通らないことには一切妥協せず、たとえ上官であっても激しく叱責した人物だったそうです。
海軍兵学校・校長時代の彼には、特別“これが”というような記録はないけれど、在校生徒には絶大な信頼と人望があったそうです。
彼の校長時代の言動や訓話などは、卒業生によって語り継がれ、ジンチャン校長と呼ばれ、兵学校校長退任後もたいへんな尊敬を集めていた。
その草鹿が、終戦によって終戦のときオーストラリア軍がやってくると、鬼の草鹿に一変します。
降伏調印のためにやってきたオーストラリア軍は、文書調印に、日本軍代表として陸軍の今村大将を指名してきた。
これに対して草鹿は噛み付きます。
「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない!
建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限は有さない!」
草鹿は、火のような剣幕でそう頑なに主張し、海軍側の指揮官として今村大将と連名で調印します。
連名で文書に調印するということは、自ら最高責任者と名乗りをあげることであり、それはそのまま「死」を意味します。
ふつうなら、指名を受けなければホッとする。
しかし草鹿は、頑として陸海併記でなければ認められないと主張し続け、結局、これを通し切った。
さらにオーストラリア軍によるBC級戦犯調査が始まると、自分自身が知らない部下の事件や問題に対しても、
「それは自分が命令した」
「それは自分の責任である」
と逐一、烈火のごとき剣幕で、横から口をはさんだ。
ものすごい剣幕だったそうです。
その剣幕に、オーストラリアの担当官は、驚きあきれた。
そもそも現場の最高責任者である指揮官が、自分が逐一命令したというのでは、取り調べにもなったもんじゃありません。軍は、指揮官の命令で動くものだからです。
ぜんぶが指揮官の指示によるものなら、実行犯は、ただ命令を遂行しただけとなり、軍事裁判で責任の追及のしようがない。
結局、草鹿は、ラバウルのBC級戦犯でも、海軍関係者全員の不起訴を勝ち取ってしまった。
終戦後の草鹿は、復員局に足しげく通っては、ラバウルで苦楽を共にした部下の状況を確認するために、自分も苦しい生活費の中から、ひとりひとりを訪ねていたといいます。
復員局の職員は「日本海軍の司令官は数多いが、「俺の部下に変わったことがないか?」といまだに訪ねてこられるのは草鹿さんだけだ」と述べています。(『ビッグマンスペシャル 連合艦隊・下巻激闘編』世界文化社、p.172)
困窮した生活を送っていた井上成美が胃潰瘍で倒れた際には、彼の教え子や部下達と共に治療費集めに尽力している。
草鹿は、戦後はずっと鎌倉に住んでいました。
昭和45年、彼はその鎌倉からはるばる南の果て、山本長官らの墜落現場をおとずれます。
墜落現場で香華を手向けた81歳の草鹿は、
「長官、遅くなりましたが、草鹿ただいま参りました」と手をあわせた。
一緒にいた者は、平素、涙など見せたことのない草鹿の目から、滂沱の涙が流れ落ちるのを見た。
同じ鎌倉に住んでいた方に、ガダルカナルの中将・木村進元氏がいます。
彼の回想です。
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そういえば、任一氏が亡くなる半月ほど前のことでした。
何を思ったか、ひょっこり何の前ぶれもなくやってきて、
「木村、貴様だけは元気なのだから、しっかりやれ」とハッパをかけて去っていった。
何をしっかりやればいいのか、こちらにはサッパリ見当がつきませんでしたが、いや、亡くなる直前まで、あの人は憂国の士だったですな。
自分はもう歳だから、そんな元気はないと断ると、ご機嫌斜めでした。
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このとき草鹿83歳。
ラバウルでの耐乏生活を3年近くも体験し、その後敗戦のショックを経た上でこの意気軒昂ぶり。
草鹿は、若い頃は血色の悪い顔をしていて、どとらかというと体格も貧弱だったといいます。
しかし、彼には強靭な精神力があった。
その年の8月24日、草鹿任一は、常世に旅立ちます。享年83歳でした。
草鹿の功績は、日本側の文書にはあまり登場していません。
しかし、お国のために生き、部下を思い、戦後もGHQと闘い、日本国海上自衛隊の創建に尽力し、戦後も旧軍人である部下たちのために生涯をささげられたその功績は、大であるといわざるをえません。
草鹿任一中将は、あまり名前の知られていない人かもしれないけれど、そういう名もなきひとりひとりが、必死にささえることで日本という国はできあがっている。
有名人になどならなくていい。
そんなことより、大切なことをずっと守り通す生き方の方が、はるかに大切で貴重で意義深いものといえるのではないか。ねずきちにはそんな気がします。
それとね、もうひとつ。
最近の日本人は、怒らなくなったといわれます。
なかばあきらめて、怒らない。
顔を真っ赤にして怒る者がいると、怒っている事柄や内容ではなくて「怒っている」そのこと自体が、みっともないとか、いい年をしてとか、非難の対象にされる。
でもね、思うんです。
草鹿氏が、GHQの多くの人を虜にしたのは、ある意味、彼が怒ったからなのではないか。
筋を通して、言うべきことをちゃんと言い、時に感情を大爆発させて怒りまくったからではないのか。
昨今、民主党の議員さんたちが、横暴としかいいようのない乱暴な政治運営をしています。
自民党の代議士さんたちは、それに対し、筋と理屈を通して質問し、議論をしている。
しかしね、おとなしく紳士的にものをいえば、つけあがるだけのゲスというのは、やはり世の中にいると思うのです。
そういうヤカラには、やはり怒ることも必要なのではないか。
たしかに自民党は選挙に負けた。しかしその敗北というのは、大東亜戦争の終戦のときのショックと比べたら、はるかに軽いものでしかない。
先の衆院選など問題にならないくらいの大きなショックの中でさえも、草鹿中将のように、しっかりと戦いきって主張を通しきった男がいた。
わたしたちは、そんな草鹿中将に、いま、ふたたび学ばなければならないところがあると思うのです。
亡くなった方の名前を勝手に献金者として名簿に記載したり、内閣総理大事にもなって地球46億年の歴史がどうのこうのだから憲法違反の外国人参政権を与えろなどわけのわからないことをいいながら豪華な御殿に住むような人物より、草加中将のように生涯「誠実」の二字を貫き通す生き方の方が、ねずきちには、日本人としてとってもとっても大切で誇らしいと思えます。
Copyright c ねずさんの ひとりごと
ソース: http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-692.html
草鹿中将の乾杯 - ネイビーブルーに恋をして
画像は兵学校七十期の卒業式に桟橋で「帽振れ」をする草鹿校長のアップです。
映画「勝利の基礎」最後のシーンですが、その眼が涙で濡れているのにお気づきでしたか?
この画像も「うるうるしている眼」をポイントに描きました。
少しは校長の心情が表れていればいいのですが。
エリス中尉が井上大将と対照的なこの草鹿中将のファンであるのは、
その残された エピソードにうっすら見られる利かん気のやんちゃぶりゆえにです。
勿論、中将まで登りつめた旧海軍軍人ですから、そんな無茶苦茶な話が残っているわけではないのですが、例えば兵学校の校長に就任することが決まったとき「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と同級生が口々に笑ったという話。
その兵学校では、生徒と一緒に泳ぎ、一緒に訓練を受け、生徒からは「任ちゃん」といって慕われた話。
そして、七十二期の新庄大尉発言の「夏場、家に遊びに行ったら、ふんどし一枚で出てきた」という話。
そして、英雄色を好むを地で行くような「イケイケ」であったらしいこと。
なかでも、今日お話しするエピソードにはすっかりノックアウトされました。
阿川尚之氏(勿論、あの方の御子息です)著、「海の友情」(中公新書)を読みました。
海軍が敗戦によって消滅した後、海軍軍人たちがその精神と、その組織の再建を果たし、
そして、かつては敵国人であったアメリカ海軍と、いかにして今日の信頼を築いていったか。
戦後の掃海艇、名海上幕僚長中村悌次、内田一臣、こういう人たちがどのように海上自衛隊に、いや「新海軍」に旧海軍の伝統を伝えるべく奮闘したか。
海軍に、あるいは自衛隊に興味をお持ちの方にはぜひ一読をお奨めしたい内容です。
その中で、アーレイ・バーク海軍大将と日本とのかかわりについて書かれた項があります。
バーク大将は、戦中、ソロモン海域で日本艦隊を相手に熾烈な戦闘を繰り広げた駆逐隊司令でした。
戦後、朝鮮戦争が勃発したとき、その戦況をワシントンに報告する参謀副長として日本にやってきました。
かつての敵国において、日本人と触れあううち、すっかり日本人が好きになった、という大将ですが、
この草鹿任一旧海軍中将とのある日の出会いが、かれの日本人好きを決定的にしたという話です。
ある日、バーク大将は、同期の部下から戦後の草鹿中将の困窮についての噂を聞きます。
かつての海軍中将が、いまや公職追放にあい、
鉄道工事の現場でつるはしを奮い生計を立てている。
夫人は街で花売りをして回っているらしい・・・・。
バーク大将がソロモンで駆逐艦隊司令であったまさにそのとき、
ラバウル方面海軍最高司令官は、ほかでもないこの草鹿中将でした。
その艦隊にバークは何隻かの艦を沈められ、バークもまたその艦隊を屠った、つまりカタキ同士です。
「飢えさせておけ」
その話を聞いてすぐはこんな言葉しか出てこなかったバークでしたが、すぐに思い直します。
いくら敗戦したからといってあれだけ勇猛に戦ったかつての提督が、同胞にそこまでの仕打ちを受けなくてはならないものか。
惻隠の情にかられた大将は、匿名で草鹿家に食料を送りました。
数日後バークの執務室のドアが開いて、小柄な日本人がわめきながら飛び込んできた。草鹿である。
(中略)
草鹿は
「侮辱するのはよせ、誰の世話にもならない。
特にアメリカ人からは何も貰いたくない。アメリカ人とは関係を持たない」
それだけ言うとプンプン怒りながら出ていった。
バークは提督に好感を持った。自分が彼の立場だったら、全く同じことをするだろうと思った。
バークは草鹿と板野常善、富岡定俊の三人の旧海軍提督を、あらためて帝国ホテルの食事に招待しました。
擦り切れた礼服で固くなって現れた三人に酒を勧め、話すうちに三人とも英語ができ、
わけてもあの日、日本語でわめいて出ていった草鹿中将が
実は一番―英語が達者だったことがわかりました。
草鹿中将は大佐時代ロンドンの駐在武官も務めているのです。
すっかり和んだ食事の最後に、バーク大将は、あらためて乾杯を提案しました。
草鹿中将は立ちあがり、杯をあげてこう音頭を取りました。
「今日招いて下さった御親切なバークさんに乾杯をしたい。
もうひとつ、自分が(戦中)十分な任務を果たさなかったことにも乾杯しましょう。
もし任務を忠実に果たしていたら、この宴の主人を殺していたはずだ。
そうしたら今日の美味しいステーキは食べられませんでした。では乾杯!」
負けじとバークもこう返します。
「私も自分が任務を果たさなかったことに乾杯したいと思います。
任務をきちんと果たしていれば、草鹿提督の命はちょうだいしていたはずで、
今日の素晴らしいステーキディナーを誰も食べることができなかったからです。乾杯!」
アーレイ・バーク氏は、その後野村吉三郎氏に協力し、海上自衛隊の創設に大きな力を注ぎました。
晩年のかれは
「アメリカ海軍より自衛隊のほうがよっぽど自分を大事にしてくれる」と笑って言ったそうですが、
日本を愛し、日本人を愛すようになった大きな一つのきっかけが、
草鹿中将の乾杯であったことは確かでしょう。
バーク氏が1996年に永眠したとき、
その棺に横たわる大将の身体には、日本政府から送られた勲一等旭日大褒章がつけられていました。
棺の蓋が覆われたとき、大将がその生涯で貰った数多くの勲章は全て棺の縁にならべられていましたが、その一つだけが無くなっていたのです。
アーレイ・バーク海軍大将は、たった一つ、日本から送られた勲章を胸に天国に旅立ったのでした。
元スレ:http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/ddd50a2352b7646e8dbc55890d2e056a
アーレイ・バーク Arleigh Albert Burke | |
---|---|
![]() アーレイ・バーク (1951年) | |
渾名 | 31ノット・バーク |
生誕 | 1901年10月19日 コロラド州 ボルダー |
死没 | 1996年1月1日(満94歳没) メリーランド州 ベセスダ |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1923 - 1961 |
最終階級 | 海軍大将 |
1961年8月に海軍作戦部長退任と同時に退役。1991年にアーレイバーク級駆逐艦の1番艦が彼にちなんで存命中に命名された。1996年1月1日にベセスダの海軍病院で死去。94歳。彼が死去した際には哀悼の念を表するため、就役済の全アーレイバーク級駆逐艦が1分間、31ノットで航行した。
嫌日家から親日家へ [編集]
太平洋戦争終戦後、暫くはかつての敵であった日本人に対し否定的な感情を持っていた。公の場で日本人を「ジャップ」「黄色い猿ども」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人を蔑み嫌う等、反日的・嫌日的な態度を取っていたが、ふとしたきっかけで元海軍中将草鹿任一と知り合い親交を持つようになると、以前とはうって変わって親日家となり、日本が早く占領状態から解放されるように軍人の立場から尽力、海上自衛隊の創設に協力することとなる。この功により1961年に勲一等旭日大綬章を授与された。 他にも生前の様々な功績により、米国はもちろん各国から数多の勲章を授与されていたが、本人の遺志により、葬儀で遺体の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章ただ一つだけであった。
トモダチ作戦(トモダチさくせん、英語: Operation Tomodachi オペレーション・トモダチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E4%BD%9C%E6%88%A6
コメント
コメント一覧 (4)
携帯からですが[続きを読む]以降から先、全てが文字化けしているので取り急ぎお知らせ致します。
とても興味深いタイトルなので内容を楽しみに待ってますね。
大戦前夜には、こうした胸熱い逸話が数多くある。
2000年という長い独自の文化を形勢した結果、生まれえる事柄で、
諸外国は、そんな神秘な日本に心ひかれ合い、日本人を敬愛する。
これからも、他国に占領されない強い、
「純日本人」による独自歴史文化を築いていこう。
有り難うございました。
日本人の素晴らしさは、優しく思いやりがあって、そして、凛としている事です!
片寄った正義では、なく、理のある心ある正義なのです!
こんな話を知って、日本人として胸を張って生きていけます!
教科書に載せて子供達に、日本人全員に、知ってもらいたいと思いました。
女性でも、サムライがいるのですね!
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