亡備録より

『日本は侵略国家であったのか』 田母神俊雄
 

更迭の原因となった論文をきちんと読んでみよう。当時はこれで暴露騒然となったのだ。 

当時、野党と共闘をしたマスゴミの攻撃が激しかった麻生首相も、
この論文を「個人的に(論文を)出したとしても、立場が立場だから適切ではない」と述べたそうだが、
心の底ではよく書いてくれたと思っているのではないか。

 麻生首相の祖父である吉田茂:退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。

『日本は侵略国家であったのか』 田母神俊雄 

まず、抜粋
tamogamitoshios 

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留し ている。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意 された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮 半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留 も条約に基づいたものであることは意外に知られていない日本は19 世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手 国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない現在の中国政府 から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露 戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守 るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力 をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だと いう人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したこ とがない。


 全文2008年  (今ならネット上でほとんど明かされている事実ばかりである。) に つづく



~  中略~ 

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を 未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく 普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き 届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがた い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジ ア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要 がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直 接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接 見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いこと も知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何 に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だっ たなどというのは正に濡れ衣である。 

日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければなら ない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自 分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実 を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいこと であることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を 向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中 でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本 の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の 一途を辿るのみである。 

補足

田母神と同様に発言が原因で自衛隊要職を解任された高級幹部に統合幕僚会議議長 (当時) の栗栖弘臣がいる。1978年7月に「週刊ポスト」誌上で、「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す発言をしたが、これが“超法規発言”として当時の防衛庁長官・金丸信に事実上の解任(金丸が「困っている」と伝えると、栗栖が辞表を提出)をされた。この時は「自衛官の言論の自由」が議論されることはなかったが、栗栖の指摘により有事法制が議論されるようになり、のちに武力攻撃事態対処関連三法が制定される契機となった。

全文2008年  (今ならネット上でほとんど明かされている事実ばかりである。)
読みにくい場合は、
全文をコピペして、「メモ帳」か「ワードパット」「ワード」などに、転記すると楽ですよ。
>>3 
>>管理人さま 
本文には1文字ごとに半角スペースが入っていて、メモ帳にコピペしたらかえって読みにくくなってしまいました。 
ブラウザの拡大機能を使ったほうが読みやすいかもしれません。

ア メ リ カ 合 衆 国 軍 隊 は 日 米 安 全 保 障 条 約 に よ り 日 本 国 内 に 駐 留 し て い る 。 こ れ を ア メ リ カ に よ る 日 本 侵 略 と は 言 わ な い 。 二 国 間 で 合 意 さ れ た 条 約 に 基 づ い て い る か ら で あ る 。 我 が 国 は 戦 前 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た と 言 わ れ る が 、 実 は 日 本 軍 の こ れ ら の 国 に 対 す る 駐 留 も 条 約 に 基 づ い た も の で あ る こ と は 意 外 に 知 ら れ て い な い 。日 本 は 1 9 世 紀 の 後 半 以 降 、 朝 鮮 半 島 や 中 国 大 陸 に 軍 を 進 め る こ と に な る が 相 手 国 の 了 承 を 得 な い で 一 方 的 に 軍 を 進 め た こ と は な い 。 現 在 の 中 国 政 府 か ら 「 日 本 の 侵 略 」 を 執 拗 に 追 求 さ れ る が 、 我 が 国 は 日 清 戦 争 、 日 露 戦 争 な ど に よ っ て 国 際 法 上 合 法 的 に 中 国 大 陸 に 権 益 を 得 て 、 こ れ を 守 る た め に 条 約 等 に 基 づ い て 軍 を 配 置 し た の で あ る 。 こ れ に 対 し 、 圧 力 を か け て 条 約 を 無 理 矢 理 締 結 さ せ た の だ か ら 条 約 そ の も の が 無 効 だ と い う 人 も い る が 、 昔 も 今 も 多 少 の 圧 力 を 伴 わ な い 条 約 な ど 存 在 し た こ と が な い 。 

こ の 日 本 軍 に 対 し 蒋 介 石 国 民 党 は 頻 繁 に テ ロ 行 為 を 繰 り 返 す 。 邦 人 に 対 す る 大 規 模 な 暴 行 、 惨 殺 事 件 も 繰 り 返 し 発 生 す る 。 こ れ は 現 在 日 本 に 存 在 す る 米 軍 の 横 田 基 地 や 横 須 賀 基 地 な ど に 自 衛 隊 が 攻 撃 を 仕 掛 け 、 米 国 軍 人 及 び そ の 家 族 な ど を 暴 行 、 惨 殺 す る よ う も の で あ り 、 と て も 許 容 で き る も の で は な い 。 こ れ に 対 し 日 本 政 府 は 辛 抱 強 く 和 平 を 追 求 す る が 、 そ の 都 度 蒋 介 石 に 裏 切 ら れ る の で あ る 。 実 は 蒋 介 石 は コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。1 9 3 6 年 の 第 2 次 国 共 合 作 に よ り コ ミ ン テ ル ン の 手 先 で あ る 毛 沢 東 共 産 党 の ゲ リ ラ が 国 民 党 内 に 多 数 入 り 込 ん で い た 。 コ ミ ン テ ル ン の 目 的 は 日 本 軍 と 国 民 党 を 戦 わ せ 、 両 者 を 疲 弊 さ せ 、 最 終 的 に 毛 沢 東 共 産 党 に 中 国 大 陸 を 支 配 さ せ る こ と で あ っ た 。 我 が 国 は 国 民 党 の 度 重 な る 挑 発 に 遂 に 我 慢 し き れ な く な っ て 1 9 3 7 年8 月 1 5 日 、日 本 の 近 衛 文 麿 内 閣 は「 支 那 軍 の 暴 戻 を 膺 懲 し 以 っ て 南 京 政 府 の 反 省 を 促 す 為 、 今 や 断 乎 た る 措 置 を と る 」 と 言 う 声 明 を 発 表 し た 。 我 が 国 は 蒋 介 石 に よ り 日 中 戦 争 に 引 き ず り 込 ま れ た 被 害 者 な の で あ る 。
 

1 9 2 8 年 の 張 作 霖 列 車 爆 破 事 件 も 関 東 軍 の 仕 業 で あ る と 長 い 間 言 わ れ て き た が 、 近 年 で は ソ 連 情 報 機 関 の 資 料 が 発 掘 さ れ 、 少 な く と も 日 本 軍 が や っ た と は 断 定 で き な く な っ た 。「 マ オ( 誰 も 知 ら な か っ た 毛 沢 東 )( ユ ン・チ ア ン 、講 談 社 )」、「 黄 文 雄 の 大 東 亜 戦 争 肯 定 論( 黄 文 雄 、 ワ ッ ク 出 版 )」 及 び 「 日 本 よ 、「 歴 史 力 」 を 磨 け ( 櫻 井 よ し こ 編 、 文 藝 春 秋 )」な ど に よ る と 、最 近 で は コ ミ ン テ ル ン の 仕 業 と い う 説 が 極 め て 有 力 に な っ て き て い る 。 日 中 戦 争 の 開 始 直 前 の 1 9 3 7 年 7 月 7 日 の 廬 溝 橋 事 件 に つ い て も 、 こ れ ま で 日 本 の 中 国 侵 略 の 証 み た い に 言 わ れ て き た 。 し か し 今 で は 、 東 京 裁 判 の 最 中 に 中 国 共 産 党 の 劉 少 奇 が 西 側 の 記 者 と の 記 者 会 見 で 「 廬 溝 橋 の 仕 掛 け 人 は 中 国 共 産 党 で 、 現 地 指 揮 官 は こ の 俺 だ っ た 」 と 証 言 し て い た こ と が わ か っ て い る 「 大 東 亜 解 放 戦 争 ( 岩 間 弘 、 岩 間 書 店 )」。 も し 日 本 が 侵 略 国 家 で あ っ た と い う の な ら ば 、 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 で 侵 略 国 家 で な か っ た 国 は ど こ か と 問 い た い 。 よ そ の 国 が や っ た か ら 日 本 も や っ て い い と い う こ と に は な ら な い が 、 日 本 だ け が 侵 略 国 家 だ と い わ れ る 筋 合 い も な い 。
 

我 が 国 は 満 州 も 朝 鮮 半 島 も 台 湾 も 日 本 本 土 と 同 じ よ う に 開 発 し よ う と し た 。 当 時 列 強 と い わ れ る 国 の 中 で 植 民 地 の 内 地 化 を 図 ろ う と し た 国 は 日 本 の み で あ る 。 我 が 国 は 他 国 と の 比 較 で 言 え ば 極 め て 穏 健 な 植 民 地 統 治 を し た の で あ る 。 満 州 帝 國 は 、 成 立 当 初 の 1 9 3 2 年 1 月 に は 3 千 万 人 の 人 口 で あ っ た が 、 毎 年 1 0 0 万 人 以 上 も 人 口 が 増 え 続 け 、 1 9 4 5 年 の 終 戦 時 に は 5 千 万 人 に 増 加 し て い た の で あ る 。満 州 の 人 口 は 何 故 爆 発 的 に 増 え た の か 。 そ れ は 満 州 が 豊 か で 治 安 が 良 か っ た か ら で あ る 。 侵 略 と い わ れ る よ う な 行 為 が 行 わ れ る と こ ろ に 人 が 集 ま る わ けが な い農 業 以 外 に ほ と ん ど 産 業 が な か っ た 満 州 の 荒 野 は 、わ ず か 1 5 年 の 間 に 日 本 政 府 に よ っ て 活 力 あ る 工 業 国 家 に 生 ま れ 変 わ っ た 。 朝 鮮 半 島 も 日 本 統 治 下 の 3 5 年 間 で 1 千 3 百 万 人 の 人 口 が 2 千 5 百 万 人 と 約 2 倍 に 増 え て い る 「 朝 鮮 総 督 府 統 計 年 鑑 」。 日 本 統 治 下 の 朝 鮮 も 豊 か で 治 安 が 良 か っ た 証 拠 で あ る 。 戦 後 の 日 本 に お い て は 、 満 州 や 朝 鮮 半 島 の 平 和 な 暮 ら し が 、 日 本 軍 に よ っ て 破 壊 さ れ た か の よ う に 言 わ れ て い る 。し か し 実 際 に は 日 本 政 府 と 日 本 軍 の 努 力 に よ っ て 、現 地 の 人 々 は そ れ ま で の 圧 政 か ら 解 放 さ れ 、 ま た 生 活 水 準 も 格 段 に 向 上 し た の で あ る 。
 

我 が 国 は 満 州 や 朝 鮮 半 島 や 台 湾 に 学 校 を 多 く 造 り 現 地 人 の 教 育 に 力 を 入 れ た 。 道 路 、 発 電 所 、 水 道 な ど 生 活 の イ ン フ ラ も 数 多 く 残 し て い る 。ま た 1 9 2 4 年 に は 朝 鮮 に 京 城 帝 国 大 学 、1 9 2 8 年 に は 台 湾 に 台 北 帝 国 大 学 を 設 立 し た 。 日 本 政 府 は 明 治 維 新 以 降 9 つ の 帝 国 大 学 を 設 立 し た が 、 京 城 帝 国 大 学 は 6 番 目 、 台 北 帝 国 大 学 は 7 番 目 に 造 ら れ た 。 そ の 後 8 番 目 が 1 9 3 1 年 の 大 阪 帝 国 大 学 、9 番 目 が 1 9 3 9 年 の 名 古 屋 帝 国 大 学 と い う 順 で あ る 。 な ん と 日 本 政 府 は 大 阪 や 名 古 屋 よ り も 先 に 朝 鮮 や 台 湾 に 帝 国 大 学 を 造 っ て い る の だ 。 ま た 日 本 政 府 は 朝 鮮 人 も 中 国 人 も 陸 軍 士 官 学 校 へ の 入 校 を 認 め た 。 戦 後 マ ニ ラ の 軍 事 裁 判 で 死 刑 にな っ た 朝 鮮 出 身 の 洪 思 翊 と い う 陸 軍 中 将 が い る 。 こ の 人 は 陸 軍 士 官 学 校 2 6 期 生 で 、 硫 黄 島 で 勇 名 を は せ た 栗 林 忠 道 中 将 と 同 期 生 で あ る 。 朝 鮮 名 の ま ま で 帝 国 陸 軍 の 中 将 に 栄 進 し た 人 で あ る 。 ま た そ の 1 期 後輩 に は 金 錫 源 大 佐 が い る 。 日 中 戦 争 の 時 、 中 国 で 大 隊 長 で あ っ た 。 日 本 兵 約 1 千 名 を 率 い て 何 百 年 も 虐 め ら れ 続 け た 元 宗 主 国 の 中 国 軍 を 蹴 散 ら し た 。 そ の 軍 功 著 し い こ と に よ り 天 皇 陛 下 の 金 賜 勲 章 を 頂 い て い る 。 も ち ろ ん 創 氏 改 名 な ど し て い な い 。 中 国 で は 蒋 介 石 も 日 本 の 陸 軍 士 官 学 校 を 卒 業 し 新 潟 の 高 田 の 連 隊 で 隊 付 き 教 育 を 受 け て い る 。 1 期後 輩 で 蒋 介 石 の 参 謀 で 何 応 欽 も い る 。
 

李 王 朝 の 最 後 の 殿 下 で あ る 李 垠 殿 下 も 陸 軍 士 官 学 校 の 2 9 期 の 卒 業生 で あ る 。 李 垠 殿 下 は 日 本 に 対 す る 人 質 の よ う な 形 で 1 0 歳 の 時 に 日 本 に 来 ら れ る こ と に な っ た 。 し か し 日 本 政 府 は 殿 下 を 王 族 と し て 丁 重 に 遇 し 、 殿 下 は 学 習 院 で 学 ん だ あ と 陸 軍 士 官 学 校 を ご 卒 業 に な っ た 陸 軍 で は 陸 軍 中 将 に 栄 進 さ れ ご 活 躍 さ れ た 。 こ の 李 垠 殿 下 の お 妃 と なら れ た の が 日 本 の 梨 本 宮 方 子 妃 殿 下 で あ る 。 こ の 方 は 昭 和 天 皇 の お 妃 候 補 で あ っ た 高 貴 な お 方 で あ る 。 も し 日 本 政 府 が 李 王 朝 を 潰 す つ も りな ら こ の よ う な 高 貴 な 方 を 李 垠 殿 下 の も と に 嫁 が せ る こ と は な か っ た で あ ろ う 。 因 み に 宮 内 省 は お 二 人 の た め に 1 9 3 0 年 に 新 居 を 建 設 し た 。 現 在 の 赤 坂 プ リ ン ス ホ テ ル 別 館 で あ る 。 ま た 清 朝 最 後 の 皇 帝 ま た 満 州帝 国 皇 帝 で あ っ た 溥 儀 殿 下 の 弟 君 で あ る 溥 傑 殿 下 の も と に 嫁 が れ た の は 、 日 本 の 華 族 嵯 峨 家 の 嵯 峨 浩 妃 殿 下 で あ る 。
 

こ れ を 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 々 と の 比 較 で 考 え て み る と 日 本 の 満 州 や 朝 鮮 や 台 湾 に 対 す る 思 い 入 れ は 、 列 強 の 植 民 地 統 治 と は 全 く 違 っ て い る こ と に 気 が つ く で あ ろ う 。 イ ギ リ ス が イ ン ド を 占 領 し た が イ ン ド 人 の た め に 教 育 を 与 え る こ と は な か っ た 。 イ ン ド 人 を イ ギ リ ス の 士 官 学 校 に 入 れ る こ と も な か っ た 。 も ち ろ ん イ ギ リ ス の 王 室 か ら イ ン ド に 嫁 が せ る こ と な ど 考 え ら れ な い 。 こ れ は オ ラ ン ダ 、 フ ラ ン ス 、 ア メ リ カ な ど の 国 々 で も 同 じ こ と で あ る 。 一 方 日 本 は 第 2 次 大 戦 前 か ら 5 族 協 和 を 唱 え 、 大 和 、 朝 鮮 、 漢 、 満 州 、 蒙 古 の 各 民 族 が 入 り 交 じ っ て 仲 良 く 暮 ら す こ と を 夢 に 描 い て い た 。 人 種 差 別 が 当 然 と 考 え ら れ て い た 当 時 に あ っ て 画 期 的 な こ と で あ る 。 第 1 次 大 戦 後 の パ リ 講 和 会 議 に お い て 、 日 本 が 人 種 差 別 撤 廃 を 条 約 に 書 き 込 む こ と を 主 張 し た 際 、 イ ギ リ ス や ア メ リ カ か ら 一 笑 に 付 さ れ た の で あ る 。 現 在 の 世 界 を 見 れ ば 当 時 日 本 が 主 張 し て い た と お り の 世 界 に な っ て い る 。
 

時 間 は 遡 る が 、 清 国 は 1 9 0 0 年 の 義 和 団 事 件 の 事 後 処 理 を 迫 ら れ 1 9 0 1 年 に 我 が 国 を 含 む 11 カ 国 と の 間 で 義 和 団 最 終 議 定 書 を 締 結 し た 。そ の 結 果 と し て 我 が 国 は 清 国 に 駐 兵 権 を 獲 得 し 当 初 2 6 0 0 名 の 兵 を 置 い た 「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、 東 京 大 学 出 版 会 )」。 ま た 1 9 1 5 年 に は 袁 世 凱 政 府 と の 4 ヶ 月 に わ た る 交 渉 の 末 、 中 国 の 言 い 分 も 入 れ て 、 い わ ゆ る 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に つ い て 合 意 し た 。 こ れ を 日 本 の 中 国 侵 略 の 始 ま り と か 言 う 人 が い る が 、 こ の 要 求 が 、 列 強 の 植 民 地 支 配 が 一 般 的 な 当 時 の 国 際 常 識 に 照 ら し て 、 そ れ ほ ど お か し な も の と は 思 わ な い 。 中 国 も 一 度 は 完 全 に 承 諾 し 批 准 し た 。 し か し 4 年 後 の 1 9 1 9 年 、 パ リ 講 和 会 議 に 列 席 を 許 さ れ た 中 国 が 、 ア メ リ カ の 後 押 し で 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に 対 す る 不 満 を 述 べ る こ と に な る 。 そ れ で も イ ギ リ ス や フ ラ ン ス な ど は 日 本 の 言 い 分 を 支 持 し て く れ た の で あ る 「 日 本 史 か ら 見 た 日 本 人 ・ 昭 和 編 ( 渡 部 昇 一 、 祥 伝 社 )」。 ま た 我 が 国 は 蒋 介 石 国 民 党 と の 間 で も 合 意 を 得 ず し て 軍 を 進 め た こ と は な い 。 常 に 中 国 側 の 承 認 の 下 に 軍 を 進 め て い る 。1 9 0 1 年 か ら 置 か れ る こ と に な っ た 北 京 の 日 本 軍 は 、3 6 年 後 の 廬 溝 橋 事 件 の 時 で さ え 5 6 0 0 名 に し か な っ て い な い「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、東 京 大 学 出 版 会 )」。こ の と き 北 京 周 辺 に は 数 十 万 の 国 民 党 軍 が 展 開 し て お り 、 形 の 上 で も 侵 略 に は ほ ど 遠 い 。 幣 原 喜 重 郎 外 務 大 臣 に 象 徴 さ れ る 対 中 融 和 外 交 こ そ が 我 が 国 の 基 本 方 針 で あ り 、 そ れ は 今 も 昔 も 変 わ ら な い 。
 

さ て 日 本 が 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た た め に 、 遂 に 日 米 戦 争 に 突 入 し 3 百 万 人 も の 犠 牲 者 を 出 し て 敗 戦 を 迎 え る こ と に な っ た 、日 本 は 取 り 返 し の 付 か な い 過 ち を 犯 し た と い う 人 が い る 。 し か し こ れ も 今 で は 、 日 本 を 戦 争 に 引 き ず り 込 む た め に 、 ア メ リ カ に よ っ て 慎 重 に 仕 掛 け ら れ た 罠 で あ っ た こ と が 判 明 し て い る 。 実 は ア メ リ カ も コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。 ヴ ェ ノ ナ フ ァ イ ル と い う ア メ リ カ の 公 式 文 書 が あ る 。米 国 国 家 安 全 保 障 局( N S A )の ホ ー ム ペ ー ジ に 載 っ て い る 。 膨 大 な 文 書 で あ る が 、 月 刊 正 論 平 成 1 8 年 5 月 号 に 青 山 学 院 大 学 の 福 井 助 教 授 (当 時 )が 内 容 を か い つ ま ん で 紹 介 し て く れ て い る 。 ヴ ェ ノ ナフ ァ イ ル と は 、 コ ミ ン テ ル ン と ア メ リ カ に い た エ ー ジ ェ ン ト と の 交 信 記 録 を ま と め た も の で あ る 。ア メ リ カ は 1 9 4 0 年 か ら 1 9 4 8 年 ま で の 8 年 間 こ れ を モ ニ タ ー し て い た 。当 時 ソ 連 は 1 回 限 り の 暗 号 書 を 使 用 し て い た た め ア メ リ カ は こ れ を 解 読 で き な か っ た 。 そ こ で ア メ リ カ は 、 日 米 戦 争 の 最 中 で あ る 1 9 4 3 年 か ら 解 読 作 業 を 開 始 し た 。 そ し て な ん と 3 7 年 も か か っ て 、レ ー ガ ン 政 権 が 出 来 る 直 前 の 1 9 8 0 年 に 至 っ て 解 読 作 業 を 終 え た と い う か ら 驚 き で あ る 。 し か し 当 時 は 冷 戦 の 真 っ 只 中 で あ っ た た め に ア メ リ カ は こ れ を 機 密 文 書 と し た 。 そ の 後 冷 戦 が 終 了 し 1 9 9 5 年 に 機 密 が 解 除 さ れ 一 般 に 公 開 さ れ る こ と に な っ た 。 こ れ に よ れ ば 1 9 3 3 年 に 生 ま れ た ア メ リ カ の フ ラ ン ク リ ン ・ ル ー ズ ベ ル ト 政 権 の 中 に は 3 百 人 の コ ミ ン テ ル ン の ス パ イ が い た と い う 。
そ の 中 で 昇 り つ め た の は 財 務 省 ナ ン バ ー 2 の 財 務 次 官 ハ リ ー・ホ ワ イ ト で あ っ た 。 ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト は 日 本 に 対 す る 最 後 通 牒 ハ ル ・ ノ ー ト を 書 い た 張 本 人 で あ る と 言 わ れ て い る 。 彼 は ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 の 親 友 で あ る モ ー ゲ ン ソ ー 財 務 長 官 を 通 じ て ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 を 動 か し 、 我 が 国 を 日 米 戦 争 に 追 い 込 ん で い く 。 当 時 ル ー ズ ベ ル ト は 共 産 主 義 の 恐 ろ し さ を 認 識 し て い な か っ た 。 彼 は ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト ら を 通 じ て コ ミ ン テ ル ン の 工 作 を 受 け 、戦 闘 機 1 0 0 機 か ら な る フ ラ イ イ ン グ タ イ ガ ー ス を 派 遣 す る な ど 、 日 本 と 戦 う 蒋 介 石 を 、 陰 で 強 力 に 支 援 し て い た 。 真 珠 湾 攻 撃 に 先 立 つ 1 ヶ 月 半 も 前 か ら 中 国 大 陸 に お い て ア メ リ カ は 日 本 に 対 し 、 隠 密 に 航 空 攻 撃 を 開 始 し て い た の で あ る 。
 

ル ー ズ ベ ル ト は 戦 争 を し な い と い う 公 約 で 大 統 領 に な っ た た め 、 日 米 戦 争 を 開 始 す る に は ど う し て も 見 か け 上 日 本 に 第 1 撃 を 引 か せ る 必 要 が あ っ た 。 日 本 は ル ー ズ ベ ル ト の 仕 掛 け た 罠 に は ま り 真 珠 湾 攻 撃 を 決 行 す る こ と に な る 。さ て 日 米 戦 争 は 避 け る こ と が 出 来 た の だ ろ う か 。 日 本 が ア メ リ カ の 要 求 す る ハ ル ・ ノ ー ト を 受 け 入 れ れ ば 一 時 的 に せ よ 日 米 戦 争 を 避 け る こ と は 出 来 た か も し れ な い 。 し か し 一 時 的 に 戦 争 を避 け る こ と が 出 来 た と し て も 、当 時 の 弱 肉 強 食 の 国 際 情 勢 を 考 え れ ば 、 ア メ リ カ か ら 第 2, 第 3 の 要 求 が 出 て き た で あ ろ う こ と は 容 易 に 想 像 が つ く 。 結 果 と し て 現 在 に 生 き る 私 た ち は 白 人 国 家 の 植 民 地 で あ る 日 本 で 生 活 し て い た 可 能 性 が 大 で あ る 。 文 明 の 利 器 で あ る 自 動 車 や 洗 濯 機 や パ ソ コ ン な ど は 放 っ て お け ば い つ か は 誰 か が 造 る 。 し か し 人 類 の 歴 史 の 中 で 支 配 、 被 支 配 の 関 係 は 戦 争 に よ っ て の み 解 決 さ れ て き た 。 強 者 が 自 ら 譲 歩 す る こ と な ど あ り 得 な い 。 戦 わ な い 者 は 支 配 さ れ る こ と に 甘 ん じ な け れ ば な ら な い 。
 

さ て 大 東 亜 戦 争 の 後 、 多 く の ア ジ ア 、 ア フ リ カ 諸 国 が 白 人 国 家 の 支 配 か ら 解 放 さ れ る こ と に な っ た 。 人 種 平 等 の 世 界 が 到 来 し 国 家 間 の 問 題 も 話 し 合 い に よ っ て 解 決 さ れ る よ う に な っ た 。 そ れ は 日 露 戦 争 、 そ し て 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 力 に よ る も の で あ る 。 も し 日 本 が あ の 時 大 東 亜 戦 争 を 戦 わ な け れ ば 、 現 在 の よ う な 人 種 平 等 の 世 界 が 来 る の が あ と 百 年 、 2 百 年 遅 れ て い た か も し れ な い 。 そ う い う 意 味 で 私 た ち は 日 本 の 国 の た め に 戦 っ た 先 人 、 そ し て 国 の た め に 尊 い 命 を 捧 げ た 英 霊 に 対 し 感 謝 し な け れ ば な ら な い 。 そ の お 陰 で 今 日 私 た ち は 平 和 で 豊 か な 生 活 を 営 む こ と が 出 来 る の だ 。
 

一 方 で 大 東 亜 戦 争 を 「 あ の 愚 劣 な 戦 争 」 な ど と い う 人 が い る 。 戦 争 な ど し な く て も 今 日 の 平 和 で 豊 か な 社 会 が 実 現 で き た と 思 っ て い る の で あ ろ う 。 当 時 の 我 が 国 の 指 導 者 は み ん な 馬 鹿 だ っ た と 言 わ ん ば か り で あ る 。や ら な く て も い い 戦 争 を や っ て 多 く の 日 本 国 民 の 命 を 奪 っ た 。 亡 く な っ た 人 は み ん な 犬 死 に だ っ た と 言 っ て い る よ う な も の で あ る 。 し か し 人 類 の 歴 史 を 振 り 返 れ ば こ と は そ う 簡 単 で は な い こ と が 解 る 。 現 在 に お い て さ え 一 度 決 定 さ れ た 国 際 関 係 を 覆 す こ と は 極 め て 困 難 で あ る 。 日 米 安 保 条 約 に 基 づ き ア メ リ カ は 日 本 の 首 都 圏 に も 立 派 な 基 地 を 保 有 し て い る 。 こ れ を 日 本 が 返 し て く れ と 言 っ て も そ う 簡 単 に は 返 っ て こ な い 。 ロ シ ア と の 関 係 で も 北 方 四 島 は 6 0 年 以 上 不 法 に 占 拠 され た ま ま で あ る 。 竹 島 も 韓 国 の 実 行 支 配 が 続 い て い る 。
 

東 京 裁 判 は あ の 戦 争 の 責 任 を 全 て 日 本 に 押 し 付 け よ う と し た も の で あ る 。 そ し て そ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル は 戦 後 6 3 年 を 経 て も な お 日 本 人 を 惑 わ せ て い る 。 日 本 の 軍 は 強 く な る と 必 ず 暴 走 し 他 国 を 侵 略 す る 、 だ か ら 自 衛 隊 は 出 来 る だ け 動 き に く い よ う に し て お こ う と い う も の で あ る 。 自 衛 隊 は 領 域 の 警 備 も 出 来 な い 、 集 団 的 自 衛 権 も 行 使 出 来 な い 、 武 器 の 使 用 も 極 め て 制 約 が 多 い 、 ま た 攻 撃 的 兵 器 の 保 有 も 禁 止 さ れ て い る 。 諸 外 国 の 軍 と 比 べ れ ば 自 衛 隊 は 雁 字 搦 め で 身 動 き で き な い よ う に な っ て い る 。 こ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル か ら 解 放 さ れ な い 限 り 我 が 国 を 自 ら の 力 で 守 る 体 制 が い つ に な っ て も 完 成 し な い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら う し か な い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら え ば 日 本 の ア メ リ カ 化 が 加 速 す る 。 日 本 の 経 済 も 、 金 融 も 、 商 慣 行 も 、 雇 用 も 、 司 法 も ア メ リ カ の シ ス テ ム に 近 づ い て い く 。 改 革 の オ ン パ レ ー ド で 我 が 国 の 伝 統 文 化 が 壊 さ れ て い く 。 日 本 で は い ま 文 化 大 革 命 が 進 行 中 な の で は な い か 。 日 本 国 民 は 2 0 年 前 と 今 と で は ど ち ら が 心 安 ら か に 暮 ら し て い る の だ ろ う か 。 日 本 は 良 い 国 に 向 か っ て い る の だ ろ う か 。 私 は 日 米 同 盟 を 否 定 し て い る わ け で は な い 。 ア ジ ア 地 域 の 安 定 の た め に は 良 好 な 日 米 関 係 が 必 須 で あ る 。 但 し 日 米 関 係 は 必 要 な と き に 助 け 合 う 良 好 な 親 子 関 係 の よ う な も の で あ る こ と が 望 ま し い 。 子 供 が い つ ま で も 親 に 頼 り き っ て い る よ う な 関 係 は 改 善 の 必 要 が あ る と 思 っ て い る 。
 

自 分 の 国 を 自 分 で 守 る 体 制 を 整 え る こ と は 、 我 が 国 に 対 す る 侵 略 を 未 然 に 抑 止 す る と と も に 外 交 交 渉 の 後 ろ 盾 に な る 。 諸 外 国 で は 、 ご く 普 通 に 理 解 さ れ て い る こ の こ と が 我 が 国 に お い て は 国 民 に 理 解 が 行 き 届 か な い 。 今 な お 大 東 亜 戦 争 で 我 が 国 の 侵 略 が ア ジ ア 諸 国 に 耐 え が た い 苦 し み を 与 え た と 思 っ て い る 人 が 多 い 。

し か し 私 た ち は 多 く の ア ジ ア 諸 国 が 大 東 亜 戦 争 を 肯 定 的 に 評 価 し て い る こ と を 認 識 し て お く 必 要 が あ る 。 タ イ で 、 ビ ル マ で 、 イ ン ド で 、 シ ン ガ ポ ー ル で 、 イ ン ド ネ シア で 、 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 評 価 は 高 い の だ 。 そ し て 日 本 軍 に 直 接 接 し て い た 人 た ち の 多 く は 日 本 軍 に 高 い 評 価 を 与 え 、 日 本 軍 を 直 接 見 て い な い 人 た ち が 日 本 軍 の 残 虐 行 為 を 吹 聴 し て い る 場 合 が 多 い こ と も 知 っ て お か な け れ ば な ら な い 。 日 本 軍 の 軍 紀 が 他 国 に 比 較 し て 如 何 に 厳 正 で あ っ た か 多 く の 外 国 人 の 証 言 も あ る 。 我 が 国 が 侵 略 国 家 だ っ た な ど と い う の は 正 に 濡 れ 衣 で あ る 。
 

日 本 と い う の は 古 い 歴 史 と 優 れ た 伝 統 を 持 つ 素 晴 ら し い 国 な の だ 。 私 た ち は 日 本 人 と し て 我 が 国 の 歴 史 に つ い て 誇 り を 持 た な け れ ば な ら な い 。 人 は 特 別 な 思 想 を 注 入 さ れ な い 限 り は 自 分 の 生 ま れ た 故 郷 や 自 分 の 生 ま れ た 国 を 自 然 に 愛 す る も の で あ る 。 日 本 の 場 合 は 歴 史 的 事 実 を 丹 念 に 見 て い く だ け で こ の 国 が 実 施 し て き た こ と が 素 晴 ら し い こ と で あ る こ と が わ か る 。 嘘 や ね つ 造 は 全 く 必 要 が な い 。 個 別 事 象 に 目 を 向 け れ ば 悪 行 と 言 わ れ る も の も あ る だ ろ う 。 そ れ は 現 在 の 先 進 国 の 中 で も 暴 行 や 殺 人 が 起 こ る の と 同 じ こ と で あ る 。 私 た ち は 輝 か し い 日 本 の 歴 史 を 取 り 戻 さ な け れ ば な ら な い 。 歴 史 を 抹 殺 さ れ た 国 家 は 衰 退 の 一 途 を 辿 る の み で あ る 。 

要約

論文の概略としては、「日中戦争は侵略戦争ではない」・「日米戦争はフランクリン・ルーズベルトによる策略であった」とする自説を展開したうえで、日本政府集団的自衛権を容認すべきであると主張したものであった。以下は要略である。

対中関係
対米観
  • ルーズベルト政権の中に300人のコミンテルンスパイがいた。(ベノナファイル、米国公式文書)
  • 財務省ナンバー2の財務次官[11]ハリー・ホワイトコミンテルンのスパイかつ日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であり、彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、日米戦争に追込んだ。
  • ルーズベルトは戦争をしないという公約で米国大統領になった為、日米開戦のために見かけのうえで第一撃をさせる必要があった。ルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。
  • もしハル・ノートを受け入れていたら、一時的に戦争を回避出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二, 第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。
  • 人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
  • アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている[12]
戦後社会
  • 東京裁判は戦争責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。そのマインドコントロールのために、自衛隊は領域の警備も出来ず、集団的自衛権も行使も出来ない。武器使用も極めて制約が多く攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦め(がんじからめ)で身動きできない。
  • パリ講和会議に於いて、日本が人種差別撤廃を条約に書込むことを主張した際、英国や米国から一笑に付された。日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのが、あと100年ないし200年遅れていたかもしれない。
  • 多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある[13]
  • 日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多い。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。
  • もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。以上のことから日本が侵略国家だったなどというのは濡れ衣である。
  • 論文公表の経緯 [編集]

    こうして田母神の受賞が決定したが、元谷代表から田母神に名前を公表しても差し支えないかとの問い合わせが行われた。田母神は2007年5月に自衛隊の内部報(航空自衛隊幹部学校幹部会誌『鵬友』)で既出の論文と内容は同じであるから「問題ない」と回答した。その後、元谷代表は審査委員に連絡することなく[3]、10月31日、アパのWebサイト上の受賞作が発表されるとともに、論文がPDFファイルで一般公表された。また同論文の英文も公開された。

    航空幕僚長更迭 [編集]

    10月31日午後3時、定例記者会見を終えた田母神は、防衛省大臣室や次官室を訪ね、各所に受賞論文を配った。この時増田好平事務次官に田母神は「賞金300万円取ったんです」と語ったという。増田事務次官と中江公人大臣官房長は論文を読んで「これはまずい」と判断し、千葉にいた浜田靖一防衛大臣に連絡し、午後4時には首相官邸にも連絡した。

    夕方、東京に戻った浜田防衛相は田母神と電話で会話し、辞職を勧告した。しかし田母神は「間違っていますかね」と答え辞職を拒否した。午後10時、田母神の更迭が持ち回り閣議によって決定された[15]

    更迭の理由 [編集]

    田母神論文中には日本国政府の見解(村山談話小泉談話)と異なる、或いはその見解を否定する立場からの主張が行われていると防衛省幹部と政府は判断した。

    政府の対応の理由

    浜田靖一防衛大臣は、参議院外交防衛委員会でなぜ懲戒手続きに入らなかったのかと質問されて、懲戒手続きに入ろうと検討したが長期化した場合1月21日に田母神が定年退職になり審理が終わってしまうので、一番厳しい措置をするべきだと考え、早期退職を求めたと答弁した[16]

    田母神俊雄公式サイト

    田母神俊雄 - Wikipedia  ← 書き換え工作が行われつつある。