終戦の翌年昭和二十一年
戦災の焼け跡に,家代わりの防空壕に,闇市の雑踏にそのメロディが流れました。
みかんの花咲く丘


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作詞:加藤省吾、作曲:海沼実、唄:川田正子
 

1 みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる

2 黒い煙を はきながら
  お船はどこへ 行くのでしょう
  波に揺られて 島のかげ
  汽笛がボウと 鳴りました

3 いつか来た丘 母さんと
  いっしょに眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる


 【焼け跡の闇市に流れた心に沁みる歌】

放送終了と同時に大反響を呼び、
 
二元放送の一回だけのために特別に作られたはずの童謡は、空前の反響を呼び、

放送後NHKの電話は鳴り響きました。


■戦災の焼け跡に,家代わりの防空壕に,闇市の雑踏にそのメロディが流れました。


 可憐な少女の優しく澄んだ静かな歌声に、

 たくさんの人々が思わず聴きいり、

 そして熱い共感に心満たされます。


 歌い終わるや、すぐさまNHKの電話は鳴り続け

 「いい曲だった」

 「もう一度歌ってほしい」

 というリクエストが殺到しました。



みかんの花咲く丘

作詞・加藤省吾
作曲・海沼 實

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010年9月1日

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池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


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初夏、みかん畑は白い花が満開になります。歌は、この花のようにさわやかで美しい詩に、懐かしいメロディーが付いています。

この歌を少女歌手時代に歌った川田正子(まさこ)によると、
作曲者の海沼實が、正子のために作った最初の歌とのことです。

歌が作られたいきさつには、大きなドラマがありました。


 【「みかんの花咲く丘」の誕生】 

歌は、終戦の翌年昭和二十一年(1946年)八月二十四日に誕生しました。


その日の午前、月刊音楽雑誌『ミュージックライフ』(新興音楽出版社)の編集長の加藤省吾は、人気の童謡歌手・川田正子
(まさこ)の取材のために東京の芝にある正子の自宅(東京都芝区南佐久間町・現在の西新橋)を訪ねていました。

この取材は正子の歌唱指導をしていた作曲家の海沼と電話で前々から約束がしてあり、午後は出かけるので、午前中ならということでした。

取材を終えた後、川田家の二階に住んでいた海沼から呼び止められました。


「明日の夜、NHKのスタジオと、伊東の国民学校の講堂とをつないで一つにして放送する、 ラジオの二元放送『空の劇場』という番組を放送するのですが、
 その中で(まあちゃん)が歌う海に因んだ歌の歌詩を作ってほしい」・・・


「詩の内容は、丘の上に立って、海を見て、その海に島を浮かべ、船を出して黒い煙りを吐かせて欲しい」と依頼されました。

 ・・・ 加藤と海沼は、昭和十二年頃からの知り合いで、

加藤はすでに同十三年三月にビクターから発売された『かわいい魚屋さん』(山口保治作曲)がヒットして作詞家として認められていました。 

 話を聞いた加藤は、なにを主題にしようかと考えてみました。

伊東と言えば「みかん」ですが、みかんの「実」にするか「花」にするか迷いました。

当時、並木路子が歌ってヒット中の『リンゴの唄』(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)が、リンゴの実を題材としていたからです。実にすれば、二番せんじになってしまいます。

そこで八月にしてはちょっと時期はずれだが、
ひっそりと咲く白い可憐な「みかんの花」でいくことにし、


「みかんの花が咲いている」と書き出すと次々と歌詞が浮かびました。

 
 一、二番は海沼から与えられた題材でしたが、三番は自身の主観で創り上げたものです。

当時は戦争の犠牲になって母親を亡くした子供がたくさんいたので、

三番の母さんは戦争のさなかに亡くなってしまい、その母親を想う子供の愛の歌にしました。


 私が「みかんの花咲く丘」を作ったのは、
 昭和二十一年八月二十四日の十二時半から十三時くらいの間であった。

 以上は、加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行より抜粋です。

 この文章は文献の定番となり、多くの出版物で、おもしろく書き直され紹介されています。

 『森の木』第九号(森の木編集部)

平成四年九月二十七日発行の加藤省吾著「みかんの花咲く丘の思い出」には、
“二十分ぐらいで書き上げた”と書いてあります。 

 しかし、川田正子は著書『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)で次のように書いています。 

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“実は、私が海沼先生から聞いた話は少し違います。

海沼先生は、二元放送の場所が伊豆半島と決まった時から「みかん」をイメージしていたようで、
「今度はみかんの歌を作ってあげよう」と私に言っていました。

加藤先生への作詞依頼も事前に済んでいて、二人が最終的な打ち合わせをしたのが、
出発当日の午前だったのではないかと私は思います。

いずれにしても、かなり急ごしらえではありますが・・・。

生前の加藤先生にこの話をしてみたのですが、ちゃんとした答えはいただけませんでした。

先生はサービス精神が旺盛で、何事も面白おかしく話すのが好きな方でしたから、ちょっと脚色して語っておられたのかもしれません。” 

 【作曲は汽車に揺られて】 

<詩は検閲を受ける>

 できあがった詩は、GHQ管轄下のCIEとCCDの検閲を受け使用許可を得ました。
 そして、海沼は、そのまま詩をたずさえて、午後の列車で正子と伊東に向かいました。 

 (註・昭和二十年九月、CIE米民間情報局並びにCCD米民間検閲部に接収された内幸町のJOAK日本放送協会は、こと放送に関する事は、すべてこの検閲を通さないと放送できなかった。
 当時は音楽放送であっても、歌詩を伴うものはCIEラジオ課とCCDの検閲を受けなければ放送できなかった)。

 <普通列車で三時間> 
 当時、東京と伊東間は、普通列車で約三時間かかりました。

 東京から伊東への直通は一日に二本、午前一本と午後一本の二本だけでした。 

 海沼と正子の乗った列車は、東京発15時10分。伊東着18時18分です。

 
<いよいよ作曲>

 伊東に向かう東海道線の汽車の中で、海沼は作曲に取りかかりましたが、なかなか気に入ったメロディーが浮かびません。

 国府津を過ぎた頃に、音楽学校時代にヴァイオリンでよく弾いていたオペラの曲を思い出して、なんとなく口ずさんでいるうちに、八分の六拍子の前奏八小節ができました。

 それから後は、メロディーが自然にわきあがって、伊東に着いた時には、完全にできあがっていました。 

 私(池田小百合)は、加藤省吾に「オペラの曲は何ですか。『乾杯の歌』ですか」と尋ねた事がありましたが、「わからない」とのお答えでした。

 研究者がまだ誰もこの「オペラの曲」の記載に注目していなかった頃の事です。

 後に出た多くの出版物では、ここの部分を書く時には
「ヴェルディのオペラ『椿姫』のメロディーから曲想がわき」が定番になっています。「乾杯の歌」は8分の3拍子です。

ヴェルディ作曲『椿姫』より「乾杯の歌」の歌い出し

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ヴェルディ作曲『椿姫』より「乾杯の歌」の歌い出し
 

 【口移しで覚える】 

 その夜、旅館にはピアノがなかったので海沼は、正子と風呂に入り体を洗いながら、
こういうメロディーだよと口移し(ワンフレーズずつ海沼が歌って教える)で教え込みました。 
海沼と川田が宿泊したのは「かにや旅館」。
 (註I)加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)には、

“作曲も出来上って旅館に着いたが、指定された宿にはピアノなどあろうはずがない。
ピアノがあればメロディーを覚えさせるのは簡単だが、ないのだからどうにもならない。
先生があれこれ考えて思いついたのがお風呂で教えようということだった。・・・”と書いてあります。 (反響のあるお風呂場では昔よく唄が歌われました)

(註II)
少女歌手川田正子と海沼實が「空の劇場」放送のために泊まった旅館は
「かにや旅館」。のちにホテルとして新装になった。 
「伊東温泉ニューかにやホテル」は、昭和43年に聚楽グループに買収されて、
「伊東温泉ホテル聚楽(じゅらく)」になっている。


 【初放送は大反響】 勿論録音機などない時代、生本番のみです。

 翌、昭和二十一年八月二十五日午後七時十五分から特別ラジオ番組『空の劇場』が始まりました。

それは、東京内幸町のJOAK(東京放送局/現・NHK)のスタジオと、静岡県伊東の西国民学校の講堂を結ぶ初の二元放送でした。

「みかんの花咲く丘」は、番組の中で正子の新曲として歌われました。 

長い間軍歌調の歌に耳なれていた人々に、八分の六という曲調は非常に耳新しく、

正子の明るくさわやかな歌声は、
敗戦という大きなショックの中で、
着る物も食べる物もなく、どのように生きたらよいか苦悩していた人々のすさんだ心を癒してくれました。 


 【焼け跡の闇市に流れた心に沁みる歌】

放送終了と同時に大反響を呼び、
 
二元放送の一回だけのために特別に作られたはずの童謡は、空前の反響を呼び、

放送後NHKの電話は鳴り響きました。


■戦災の焼け跡に,家代わりの防空壕に,闇市の雑踏にそのメロディが流れました。


 可憐な少女の優しく澄んだ静かな歌声に、

 たくさんの人々が思わず聴きいり、

 そして熱い共感に心満たされます。


 歌い終わるや、すぐさまNHKの電話は鳴り続け

 「いい曲だった」

 「もう一度歌ってほしい」

 というリクエストが殺到しました。

 電話が普及していなかった時代ですから、公衆電話(煙草屋の店先)なども使われたのでしょう。

 【歌った川田正子の年齢】 

 十一歳か十二歳か。 

  ・「わたしは小学校六年生、十一歳でした。」・・・
 (加藤省吾著『「みかん の花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行の序文、川田正子によ る)。

 ・「十二歳の私は、作曲家の海沼實先生に連れられて、伊豆半島の伊東(静岡 県)へと向かっていました。」・・・

 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京 新聞出版局)平成13年10月10日発行による)。
 川田正子は昭和九年(1934年)七月十二日生まれなので、当時十二歳でした。
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[正子の写真は『童謡は心のふるさと』グラビアより、1946年頃]

 (註)伊東の西国民学校は、現在の伊東市立西小学校(静岡県伊東市幸町)です。 私・池田小百合が主宰する童謡の会員の中に、この小学校の卒業生がいます。学 校では、いつも「みかんの花咲く丘」を歌っているそうです。

 【会場は国民学校の講堂に変更】 

 川田正子によると、

 “翌朝。外はしとしとと雨が降っていました。収録は屋外の予定だったのですが、あいにくの雨。会場は講堂に変更されました。私が到着したときには、入りきれないほどの人々で講堂はごった返していました。真夏の講堂は相当に蒸しましたが、大きな窓がすべて開け放たれ、ときおり湿った風が流れ込みました。”

 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)による)。

 ●しかし、加藤は海沼から「明日の夜、NHKのスタジオと、伊東の国民学校の講堂とをつないで一つにして放送する、ラジオの二元放送『空の劇場』という番組を放送するのですが、・・・」と聞かされたと書いています。

前日に海沼が「講堂」と言ったとしているのはおかしい。
 加藤は文章を書く時、「会場は講堂に変更された」と、後から聞いた内容を混同したようです。
(加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)16ページによる)

 <なぜ、伊東西国民学校がえらばれたのか> 

伊東西国民学校(現・伊東市立西小学校)は、市内の中心にあり、戦時中も空襲の被害を受けず、校舎や講堂などの施設が整っていた。

 保存されている校務日誌の昭和21年8月25日当日の記録には、“夜 (空の劇場)開催 放送劇 9時終了”と書いてあります。

 <急遽 講堂で開催>

 ラジオ公開放送の観客だった牧野正氏の証言が残っています。

  「公開放送は、仮設舞台を組んだ校庭で行われる予定だったが、はじめたら夕立がザーッと来たので、みんなが講堂に逃げ込んだ」。

 リハーサル中に夕立が来て、急きょ舞台を講堂に移して、講堂で行われた。
 当時の記録では、窓ガラス十枚が割れたとされ、盛況ぶりがうかがえる。

 【ラジオ番組表の調査】

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 朝日新聞復刻版のラジオ番組表を調べてみました。

 昭和二十一年八月二十五日は日曜日です。
 
ラジオ番組表には夜七時十五分から八時までに、次のように書いてあります。

 “伊東―東京 童謡・川田正子、俗曲 〆香・獨唱・永田絃次郎、尺八・福田蘭童” 川田正子の歌だけでなく、一般の人が楽しめるように、いろいろな音楽が放送されたようです。

 NHKに保存されている「確定番組表」には、弁士・松井翠声、映画スター・川崎弘子 高田稔 明日待子の名前が書いてある。歌、コント、漫談などバラエティにとんだラジオ番組だったことがわかる。


 【加藤省吾の感想】 

 汽車の中で作曲されたので、加藤は『空の劇場』が放送されるまで聞いていませんでした。

埼玉県大里郡深谷町(現・深谷市)の疎開先(両親の家)で正子の歌を聞いた加藤は「明るくていい歌だなぁ」と思ったそうです。

海沼から一度放送するだけという話で、自分の思うままに書いた歌が大ヒット曲になったのを、一番驚き喜んだのは加藤自身だったことでしょう。

後に『みかんの花咲く丘』を作って、本当によかったと何度も言っています。
加藤と、海沼のコンビで作った最初の曲でした。 

 娘の加藤美知子さんによると、家族全員で正座をしてラジオから流れる川田正子の歌声を聴いたそうです。
 (加藤省吾没後10年童謡コンサートにて)


 【タイトルの改訂】

・川田正子によると、“はじめは「みかんの歌」という題名でそうしたイメージの歌を作ろうとされていたそうです。
当時、サトウハチロー作詩、万城目正作曲の「リンゴの歌」が並木路子さんによって歌われ、全国を風靡していました。それでリンゴとみかんでは二番煎の印象にも取られやすいとの考えから、歌の内容についてもいろいろと加藤先生と打ち合わせをされて題名も「みかんの花咲く丘」となったのだそうです”

 (加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行の序文、川田正子による)。

・加藤省吾によると、“この当時の歌は余り長いタイトルは駄目だということで、一応「みかん咲く丘」というタイトルにして、放送に間に合わせたのだが、
「みかん咲く丘」では、どうも語呂が悪いからということで、
 後から「みかんの花咲く丘」というように「の花」を入れたのである。

 だから、NHKの資料室にある海沼先生が最初に書かれた楽譜は、「みかん咲く丘」となっていたが、あとから「の花」を入れて訂正したと、海沼先生から聞いている。”

 (加藤省吾著『「みかんの花咲く丘」わが人生』(芸術現代社)平成元年十月発行より抜粋)。 この記載も、多くの出版物で使われています。 


 ★NHKの資料室にある海沼が最初に書いた楽譜のタイトルは未確認。

  ・昭和二十二年七月に井口小夜子の歌でキングレコードから発売されたレコードのタイトルは「みかん花咲く丘」で、編曲は海沼實。

  ・昭和二十三年一月に川田正子の歌でコロムビアレコードから発売されたレコードのタイトルは「みかんの花咲く丘」。 

 【加藤省吾は「母さん」と書いた】 

加藤省吾は、大正三年七月三十日、静岡県富士郡大渕村穴ヶ原(現・富士市大渕)で生まれました。

小学校五年生の三月、父親が事業に失敗して一家が離散しました。

親兄弟がばらばらになってしまい、三島の菓子屋に子守奉公に出されたのち、県会議員をしている叔父のもとに引き取られました。

この頃、学校で国語の時間に俳句の作り方を学んだのが始まりで、詩に興味を持つようになりました。

二十歳を機に上京。叔母の元で居候をしていましたが、両親が埼玉県深谷市で謄写版屋をやっていることがわかって、十年目の再会をしました。
加藤の心にはいつも母親を慕う気持ちがありました。
 
『みかんの花咲く丘』の三番の歌詞、「やさしい母さん 思われる」には加藤の母親への思いが込められました。
 

 【初放送で川田正子は「姉さん」と歌う】 

最初に二元放送で正子が歌った時、「姉さん」と歌いました。海は、詩ができた時点でこの歌を放送するために、 GHQの管轄下にあったCIE(米民間情報局)ラジオ課とCCD(米民間検閲部)に見せ、 使用許可を得ていました。この時「母さん」は「姉さん」に変えられたようです。 

 大人になった正子は、この事について、“私が二元放送で初めて歌った時は、

「母さん」が「姉さん」に変えられていました。

戦災で母親を失った子供たちが、この歌でお母さんを思い出すとかわいそうだという配慮でした。

戦災孤児が 社会問題になっていた時代ですから、NHKがGHQの意向に添った結果かもしれません”

 (川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋。
 『森の木』第四号(森の木編集部)平成二年七月十日発行も同記述)

 「いつか來た丘 姉さんと」「やさしい姉さん 思はれる」となっている楽譜 も出版されました。

  【後日談】

作曲者の海沼は独身でしたが、後日未亡人だった(戦争未亡人?)だった川田正子の母と結婚し、文字通り正子の父親になりました。

海沼(かいぬま)実は長野県の松代出身で、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の創設者として知られています。

 『あのこはだあれ』『お猿のかごや』『蛙の笛』『カラスの赤ちゃん』『里の秋』『ばあやたずねて』『見てござる』『やさしいおかあさま』『夢のお馬車』など数多くの童謡を作曲していますが、

代表作をあえて1つ挙げるとすると、『みかんの花咲く丘』になるでしょう。

音羽ゆりかご会を作るころから、海沼は、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の家に寄宿しており、
事実上そこが彼の音楽活動の拠点となっていました。のちに姉妹の母親と正式に結婚し、三女美智子をもうけています。

 写真は12歳の時の川田正子です。

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 この歌については、非常にあわただしい状況のなかで作られたという話が伝えられています。

 昭和21年
(1946)8月、NHKラジオでは、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校(現在の伊東西小学校)とを中継で結ぶ番組が企画されました。

その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいので、何か作ってほしいという注文が海沼に来ました。

 しかし、長野県出身の海沼は、なかなかイメージが浮かばず、とうとう放送前日になってしまいました。

 その日、たまたま加藤省吾という音楽雑誌の記者が正子・孝子にインタビューするために川田家を訪れました。

 加藤は静岡県富士宮の出身で、作詞家を目指していました。

『かわいい魚屋さん』という童謡のヒット曲がありましたが、その後はめぼしい作品がなく、
生活のために雑誌記者をしていたのです。
 

 彼が静岡出身と聞いた海沼は、これは助かったとさっそく作詞を依頼しました。

加藤は、そんな短い時間では無理と断りましたが、海沼は、1回限りの放送用だから気軽に作ればよいと説得しました。

それに応じて加藤は、故郷のみかん畑を思い浮かべながら、3連の詞を書き上げました。
 

 詞ができあがると、海沼はそれをもち、正子を連れてNHKに走りました。

NHK内にあったGHQ
(占領軍総司令部)検閲部の検閲を受けるためでした。

当時、出版物や放送内容などは事前に必ずGHQの検閲を受けなければならなかったのです。
 

 童謡ですから、内容には当然問題なく、検閲はパスしました。

海沼は正子とともに、その足ですぐ伊東行きの列車に飛び乗りました。

列車のなかで海沼は一気に曲を書き上げました。

その際ヒントになったのがヴェルディのオペラ『椿姫』のなかの一節だったといわれます。


 というわけで、新しい童謡『みかんの花咲く丘』は、滑り込みセーフで放送に間に合いました。
 

 この歌の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットになりました。

 昭和58年
(1983)、伊東市によって、宇佐美から亀石峠に向かう途中のみかん園を見下ろす場所に、この歌の歌碑が建てられました。作詞・作曲者の自筆の歌詞と楽譜が刻まれています。
 

 私の記憶がまちがっていなければ、3番の最後の行は最初、「やさしい母さん偲ばれる」だったと思います。

それが、一時期「やさしいねえさん思われる」に置き換えられ、その後今の歌詞になったはずです。

 敗戦後は、空襲などで母親を亡くした子どもが多く、彼らにつらい思いをさせないためだったといわれます。

「ねえさん」なら、お嫁にいっていなくなったと説明できますから。


元の歌詞がむずかしいなどの理由で書き換えるのには賛成できませんが、
こういうのはまあいいかなと思います。
 

 川田正子は平成18年(2006)1月22日に死去しました。71歳でした。

(二木紘三)


ソース:  
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_42b8.html

  

みかんの花咲く丘

みかんの花咲く丘(みかんのはなさくおか)は、第2次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實による。レコードは、井口小夜子が吹き込んだ物(1947年7月・キングレコード)と、川田正子が吹き込んだ物(1947年・日本コロムビア)がある。

解説[編集]

1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった。放送前日の8月24日の昼過ぎになっても依頼作品が仕上がらずに悩んでいた作曲家の海沼實のもとへ、音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田正子の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきたという。海沼は加藤に急な事情を説明し、自らが歌詞の内容を示唆しながら加藤に1番と2番歌詞を作らせ、そこに加藤が自作の3番を書き加えて、20~30分で歌詞を完成させた。

それから海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲して車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと着想した。そして伊東線の宇佐美駅付近でこの歌を書きあげた。

翌8月25日の放送に間に合わせた。人気絶頂の童謡歌手川田正子の歌唱で放送された歌は日本全国に大反響を呼び、『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。

この曲の題名については以下の秘話がある。海沼と加藤が題名を決めようとする際、「静岡」から真っ先にイメージしたタイトルは「みかんの歌」であった。しかし時期的にも「リンゴの唄」(並木路子霧島昇)が大ヒットしており、二人にとって旧知のサトウ・ハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われないよう「リンゴが“実”ならみかんは“花”でいこう」と、タイトルを「みかん咲く丘」→「みかんの花咲く丘」と試行錯誤した様子について、加藤自身が著書で語っている。

加藤省吾と海沼實の2人によって作られた童謡として、「すずらんの花咲く丘」という曲もある。なお、『みかんの花咲く丘』を最初に歌った川田正子は、2006年1月22日に71歳の生涯を閉じたが、彼女の所属した音羽ゆりかご会の演奏活動と、その会長である三代目海沼実らによる童謡普及活動によって、これらの名作は今なお広く愛唱されている。

なおモデルとなった静岡県伊東市宇佐美の亀石峠には、この「みかんの花咲く丘」の歌碑が建っている。また地元を走るバス会社・東海自動車バスガイドは入社するとまず、この歌の指導を受けるという。

ラジオ中継の際、放送番組関係の一行は伊東市岡にあったニューかにやホテルに投宿した、ニューかにやホテルは後に聚楽に買収され、現在は伊東ホテル聚楽となっている。 そのため伊東ホテル聚楽は「みかんの花咲く丘のホテル」と称し、敷地内にも歌碑が設置されている。
 

 今も沢山アップそれ、親しまれている「みかんの花咲く丘」

https://www.youtube.com/watch?v=NR_Jv3vLZtY

https://www.youtube.com/watch?v=-OKVPLHyvOU

https://www.youtube.com/watch?v=EIndCWvYP4I

https://www.youtube.com/watch?v=f50B-4Qfmh8

https://www.youtube.com/watch?v=r11UR2sqxa8

https://www.youtube.com/watch?v=97ywIFICn7k


日本がポツダム宣言を受諾し降伏した昭和20年暮れのNHKラジオは,

戦地から日本に帰国=当時の用語では復員してくる将兵を励ますために
外地引揚同胞激励の午后」を放送しました。昭和20年12月24日午後1時45分のことです。


「音羽ゆりかご会」の童謡歌手川田正子さんが,番組のなかで新曲を歌います.

その歌詞は


しずかなしずかな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた

明るい明るい星の夜
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては想いだす


日本を目指して引揚げて来る復員船の中に父さんの笑顔はあったでしょう。
 

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川田孝子
 そのときみかんの花咲く丘 を本町の吉田さん(本州製紙工場長宅)の玄関でメンコしながら聴いた記憶がある。

山がちの中津の町の子には、海の見える丘は憧れ、「いいなァ!」という印象だった。

里の秋 
はよく学校の合唱で聞いた。これは山がちの町ではしっくりきた。
その中で、ちょっと悲しい、戦地の父を思うところなんかは時代背景が出ていた。
 

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ
(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

doyou


Always三丁目の夕日」よりもっと前、昭和20年はもっと夢のあった一つの時代だった。当ページ


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童謡歌手として、一番可愛いのは小鳩くるみだった

鷲津名都江わしづ なつえ 1948年1月20日- 愛知県出身 「Kobato.mp3」をダウンロード

あのころは、私たち子供はグループで徘徊していた。犬がお供で、遊んでいた。犬も子供も一体になって行動していた気がする。

めんこ(パンパン)やりながら、片方では漫画をみては順番を待っていた。

色つき漫画が出始めたのだが、色がズレていたものが平気で売られていた。あれはひどいと昔の子どもでさえそう思った。田川水泡の「蛸の八ちゃん」田川水泡、「あんみつ姫」黒金章介、あとなんだったか、忘れたな。

http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2006/01/post_b0ef.html





Stream

 
そう、この唄は川田正子さんでないと駄目なンだす。
先日96歳で極楽へと旅立った母の好きな唄です。
天邪鬼なあたしですがこの唄を聴いてますと、いくつになっても
目頭が熱くなるんです。
返信
 · 
 
作曲者の海沼さんはメロディーをジュセッペ・ヴェルディのトラヴィアータの一節から着想されたそうですが、ひょっとすると" Di Provenza il mar "  (プロヴァンスの海と陸)ではないでしょうか。
返信
 · 
 
いやあ…
当時貧乏で今のように豊かではなかったが、
心は今よりも豊かだったと…
当時に戻りたいです。
返信
 · 
1
 
懐かしくて涙ぐみます。私も!?ネットではつい主義主張で激しい口調になりますが、こうした純粋な音楽の前では素直だった幼少時に引き戻されます。
 
ラジオ歌謡~懐かしい響きですね。あの頃は本当に純粋でした。 時代が進むことが本当に良いことなのでしょうか。 人の心が荒んで行く事が悲しいですね。
 
海沼実氏川田正子氏コンビの代表曲ですね、 特に西日本のみかん農家が有るあたりの方には、特別な曲ですね、 レコードの売り上げも当時のヒット歌謡曲に肩並べるぐらいの販売数でした
 
このCDはありませんか?川田正子さんの声でなければ、だめです(涙)。
 
手回しのポータブル蓄音機で聴きました。それこそ何回も何回も。(涙)いいですねー。
 
この作曲のエピソードを何回か聞きますが海沼先生、汽車の中からNHKに行く時閃いたのだそうですね・・・・川田正子さんの美声、脳裏に焼きついています。 ご冥福をお祈りいたします。
 
再び、聴けて良かったですね、近年川田さんがお亡くなりになり残念です、川田正子さんの全集が発売されていないのが、残念です。
 
ご視聴とコメント有難うございます、 最近ではあまりないですね、 歌謡界も低年齢化している関係もあるかもしれませんね。
 
@yutaka2100ify  コメント有難うございます、物の無い-時代でしたが、良い時代でした。
 
gosityou arigatou gozaimasu imademo yoku utawareteiru douyou desu ne
 
子供の頃におかあちゃんとお風呂に入ると、お湯に浸かりながらこ­の歌を歌ってくれました。もうおかあちゃんは、この世には­いません。昨年の8月28日に亡くなりました。棺を運ぶ時にもこの­曲を流してもらいました。 この曲を聴くとおかあちゃんが近くに来てくれているようで安らぐような、一方でお母ちゃんを思い出して、恋しくて悲しくなるような・・・ でもこの曲を聞くとおかあちゃ­んとつながっていると思います。この曲が私を子供にします。
 
子供の頃、兄や妹達と楽しく遊んだ日々が思い出されます。あの日にかえりたい(涙)
 
何故、この頃少女歌手の童謡が目立ったのに 最近はそうではないのかはよく分からないで すね。
 
貧しかったけど,楽しかったあの日あの時を思い出します。投稿ありがとうございます。
 
3歳でまだ言葉が出なかった自分に、親が8トラのテープ(音は原盤と同じ)で聴かせてくれた童謡の中にこの曲がありました。両親とも他界してしまいましたが、生まれてから一番最初に覚えたこの曲は今でも心に焼き付いています。
 
有り難う御座いました。私はこの歌が大好きであり、Youtubeで聴いていましたが、OSがMeなので聴けなくなりました。 おたくもこの歌がお好きなんですね。たった一つのテレビから録画したDVDはレコーダーが故障してだめになりました(涙)。修理には2万円ぐらいとのことですが、録画したDVDはもうだめです。 CDを探してみます。
 
懐かしい歌を聴けて最高です。
 
@hitorijime7  コメント有難うございます。 十年以上前、川田さんが和歌山の小学校で此の唄を歌われている放送が流れた時には、感動物でした。 もう聞かれないのが残念です。 
 
ご視聴、コメント有難うございます、 当時の貴重な体験談、有難うございます。 ハーモニカの音色が良くあっている曲ですね、
 
ちょこんとどこかをクリックしたら、Meでも見られるようになりました。川田正子さんの美声は12歳頃が最高のようです。 これは「先へ進む」とか言う所をクリックしたかと思います。他のサイトは全部駄目でした。しかしひとつSafariSetupはダウンロードしました。まだ異常は起きてはいません。
 
子供の頃、一番再生回数の多かったSPレコードがこれでした。この曲に批判される方はまずいないて゛しょう。昭和二十年代の代表的叙情歌の一つではないでしょうか。四半世紀ぶりにオリジナル原盤を拝聴しました。感謝致しております。有り難うございました。
 
童心を蘇らしてくれる、素晴らしい曲です。遠き昔が偲ばれます。
 
変な話ですが、今児童を狙った性犯罪が多発していることが、こうした児童の音楽を減少させたように思われます。
 
3番の歌詞が気になる。母親は元気なんだろうか。
 
ご視聴と懐かしく思っていただき、有難うございます。