ゾマホン大使「日本の首相になりたい」 
小野寺防衛相と会談 防衛交流強化を要請

2014.7.31 12:17

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小野寺五典防衛相(左)との会談で、自前の鍵を見せてベナン国の重要性を説明するゾマホン・ルフィン駐日ベナン共和国大使=31日午前、防衛省(小田博士撮影)

 テレビのバラエティー番組などでおなじみのゾマホン・ルフィン駐日ベナン共和国大使は31日午前、小野寺五典(いつのり)防衛相と防衛省で会談し、ベナンの人材育成や日本との防衛交流の強化を要請した。

 ゾマホン氏は、鍵を取り出して「ベナンの形は鍵みたいだ。アフリカをよく理解するにはベナンから分からないと」と同国の重要性を力説した。これに対し、小野寺氏は、軍事情報を収集するため、アフリカ地域に派遣する防衛駐在官を今年度中に7カ国増やす方針を説明した上で、「防衛省はアフリカをこれから重視する」と強調した。

 ゾマホン氏は会談の冒頭、小野寺氏から「随分偉くなりビックリした」とふられると、「早く大使を卒業して日本の首相になりたい」と冗談交じりに軽口をたたいた。会談後には「小野寺氏は防衛相として立派な活躍をしている」と持ち上げた。

 ゾマホン氏は平成6年に来日し、2年前にベナンの駐日大使に就任した。



ソース: http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140731/plc14073112170007-n1.htm

ゾマホンの道徳論及び考え

以下、ゾマホンの道徳論や、様々な物事に対する考え方を、特に本人がはっきりと明言している事のみ、箇条書きにて列挙する。項目を設けて整理してあるが、内容によっては2つ以上の項目に該当し、重複しているものもある。

日本観[編集]

  • 日本の発展は、教育にある。何故ならば日本人の識字率は、100%だから。母国では考えられない。国を発展させ、先進国にするには、教育が必要不可欠である。明治時代に日本が義務教育を開始したのは素晴らしい政策である[7]
  • 江戸時代と明治時代の日本人は素晴らしい。特に外国に対して鎖国をした。それが為にヨーロッパ植民地にならなかった。また、鎖国政策をしながら、同時に教育は大事にした[7]。それが国の発展に繋がった。
  • 日本という国は、素晴らしい国である。特に日本の安全は素晴らしい。私でも外国人登録証とパスポートを持っていれば、日本全国を安心して移動することができる。それは他の先進国では不可能なことである。この日本の「安全さ」は何よりも価値が高いものである。[8][9]
  • 安全というのは、ゾマホンにとって非常に大切な事で、人間社会にとって必要条件であると考えている[8][9]
  • 日本の子供達は、外国人(特にアメリカ人)のように、髪を染め、ミニスカートを履く。それは良くない[10]
  • 日本人は、欧米しか知らない。世界を知ろうという気持ちが全く無い[11]。日本で伝わっているアフリカの情報の多くは間違いである。本当のアフリカを知ってもらいたい[12]
日本におけるこういった間違い/事実誤認の原因は、アフリカにおける事件/事象を報道する際、しっかりと現地調査を行わず報道する日本のマスコミにあると考える。経済的にも困っておらず、技術も備わっていて力のある日本のマスコミがそれをしない現状は日本国民を馬鹿にする最低の行為である。日本人は自分たちもマスコミに騙されないよう「本当に知りたいものは、自分の目で見て確かめる」ということを忘れないで欲しい[13] 

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ゾマホン・ルフィン
生誕Zomahoun Idossou Rufin
1964年6月15日(50歳)
ベナンの旗 ベナンダサズメ
国籍ベナンの旗 ベナン
別名二代目そのまんま東
出身校上智大学大学院社会学専攻博士後期課程単位取得退学
職業外交官タレントNPO法人運営者
活動期間1998年 -
影響を受けたもの北野武
活動拠点日本の旗 日本
受賞ベナンの旗 ベナン国民栄誉賞
公式サイト
http://www.zomahoun.com/

ゾマホンルフィン - Wikipedia

ゾマホン・イドゥス・ルフィンZomahoun Idossou Rufin1964年6月15日 - )は、西アフリカベナン共和国出身のタレント、駐日ベナン国大使[1]

TBS系列のバラエティ番組「ここがヘンだよ日本人」で所謂外国人タレントとして日本でその名を知られるようになり、大使になるまではオフィス北野に所属し、タレント活動をしていた。現在[いつ?]NPO法人の設立運営、ベナン共和国第4代大統領ヤイ・ボニのアジア・オセアニア関連大統領特別顧問、駐日特命全権大使[2][3]

幼少時にカトリックの洗礼を受けているカトリック信者でもあり、本名のルフィンは洗礼名である。

来歴[編集]

幼少期[編集]

1964年6月15日に西アフリカ・ベナン共和国ダサズメ・イガンガン村で生まれた。公務員の父の下、10人兄弟の末っ子として生まれる。しかしベナンは乳幼児死亡率が高い国家で、ゾマホンの兄と姉に当たる兄弟は、2人を残して皆ゾマホンが生まれる前に死んでしまったという[4]

ゾマホンの父は厳格で、幼少時のゾマホンにとっては非常に怖い存在であり、常に敬語を使って会話をしていたという。15歳の時にその父が過労による病気で急死し、ゾマホンは父方の叔父の家のあるコトヌー市に移り、叔父の家に住まいながら中学校に通う。当時のベナンにおける義務教育は有料であったが、父が教育に熱心で貧しい生活ながらも力を入れて子ども達を小学校に通わせたため、ゾマホンは勉強好きになる。成績は非常に優秀で、1986年に当時ベナン唯一の国立大学であった国立ベナン大学(現国立アボメ・カラビ大学)に合格したが、父親が既に他界していたため、学費はもちろん、文房具を買うお金にさえも困っていた[4]

日本への興味、中華人民共和国への留学[編集]

ゾマホンが日本に興味を持つようになったきっかけは、中学時代に授業で「日本人は、アジアで最も野蛮で恐ろしい民族だ。1938年に、南京で大勢の中国人を虐殺した」[5]。 という非常に野蛮な国と教えられたことであった。しかし、同時に日本がベナンとは比べものにならない程の先進国であることに疑問を抱き、やがて日本へ行ってみたいという気持ちにつながっていった。 大学在学中に漢字に興味を持ったことがきっかけで、再び日本に対する興味が湧き、1987年中華人民共和国の北京語言学院(現 北京語言大学)に国費留学した(当時、ベナンと中華人民共和国との間に国費留学の制度があり、また、中華人民共和国は日本と比較的近いためである。日本との間にはそのような関係は当時まだない)。

ゾマホンは大学で学びながら、アフリカ諸国の特命全権大使の専属通訳、大使たちの車の清掃などのアルバイトをして得たお金を母国の親族に送金していた。大学では、中国文化と中国語を専攻し、孫文孔子の思想を学んだ。

来日[編集]

修士課程修了後、中国で知り合った日本人の友人を頼って、1994年、自費留学生として来日[4]した。江戸川区・小岩にある学旺日本語学校(現・東京日英学院)に通いながら、ビデオカメラの把手部品の製造工場での仕事、語学講師、引越し屋の手伝い等数多くのアルバイトをこなした。 午前中は日本語学校に通い、その他の時間はアルバイトに充てたため、睡眠時間は通常でも1日3~4時間、少ない時は1~2時間という生活を送る。生活費を切り詰めるため食事は1日1食で、公園などの水のみで生活した時期もあったという。このような生活がたたり胃潰瘍になったこともある。

また、留学の際に保証人となった高橋政昭の経営の工場で、作業中に激しい眠気が襲い、左手の人指し指を切断してしまう。病院での入院費その他の諸費用は、全て高橋が負担した。そのためゾマホンは著作の中で高橋を「私にとっての神様です」と敬しており、また、最初のページに「故・高橋政昭・氏に捧ぐ」と書いている。また、ゾマホンが「日本とベナンの間の掛け橋になりたい」という夢を掲げるようになったのも、高橋の影響であるという。 1997年2月、上智大学大学院博士前期課程(修士課程)に入学した。修士論文のテーマは、「母国ベナンにおける初等教育復旧の問題点~日本と中国を比較して~」[4]であった。

テレビタレントとして[編集]

1998年高円寺ラーメン屋にて、稲川素子事務所のスカウトマンにスカウトされ、TBS系列ビートたけし司会の「たけし×世界バトルⅡここがヘンだよ日本人」という2時間スペシャルの特番に出演する。その際のゾマホンのコメントが好評を博し、「変なアフリカ人」という事で、以降、稲川事務所所属の外国人タレントとして、同テレビ局でレギュラー化された「ここがヘンだよ日本人」に出演するようになる。また、フジテレビ系人気バラエティ番組「笑っていいとも」にも出演するようになる。

特に「ここがヘンだよ日本人」での独特の訛りと、議論が白熱する際のエキセントリックなリアクションでお茶の間の人気を博し、様々な番組内でのコメンテーターとして主演。さらには小学校建設などの社会福祉的な活動をはじめ、自著を出版するに至る。来日当初から講演会に招かれることもあったようだが、その数がより一層増し、様々な学校や会社などで講演活動を行っている。ビートたけしを尊敬しており、その後オフィス北野に移籍。たけしの付き人をしているので、ビートたけしのTVタックルの5秒番組予告に付き人として、2010年5月21日にカンヌ映画祭で帰国したたけしの側にいるといった感じでテレビ画面に映る事がある。また、たけしの協力を得て、母国ベナンに学校を作る計画を実現した。

しかし、このような活動で著名になった為に、同時に日本人による詐欺まがいの被害にあったり、マスメディアでの様々な虚偽に当たる内容のコメントを書かれたり、また、マスメディアによる激しいバッシングを受けたりする事もあり、それが数度に渡り続いた為に、一時期日本人に対して人間不信状態に陥った事もあると、二冊目の自著「ゾマホン大いに泣く、みなさま心よりありがとう」(河出書房新社刊)にて告白している。

2007年2月26日付『東京スポーツ』紙上で、従来「そのまんま東」の芸名を使用していた東国原英夫・前宮崎県知事が今後は政治家として本名で活動を行っていく方針を表明している事に伴い、ゾマホンが二代目「そのまんま東」の名前を襲名することが師匠のビートたけしより発表された。既にゾマホン本人も襲名に同意している。しかし、「そのまんま東」の芸名に関しては初代のイメージが強く定着していることや、本人も「ゾマホン」の名称が広く知られていることから、この襲名が一般に定着しているとは言い難い(たけしもテレビ番組ではゾマホンと呼んでいる)。

また、マダ村越と一緒に「ゾマホンズ」という名のお笑いコンビとしての活動も行っていた。バラク・オバマの「Yes We Can」の物真似の直後にノッチの「ノッチでーす」の物真似をするというのを持ちネタの一つにしていた。

駐日ベナン大使就任に伴いオフィス北野から離れると同時にたけし軍団からも離脱。それに伴い「二代目そのまんま東」も返上することになり、は「そのまんま東」の称号は空位となった。

人物[編集]

母語であるフォン語フランス語日本語中国語ヨルバ語英語の6か国語を操る。

仕事で得た金で贅沢等は一切せず、2009年時点でも東京中野区の家賃3万8,000円、風呂なしのアパートで一人暮らしをしていると答えている[6]

かなりの銭湯好きであり[6]、来日当初から近所の「白鷺湯」という銭湯にほぼ毎日のように通っていたという。