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『魏志倭人伝』は日本を「倭」、「邪馬台国」「卑弥呼」などと蔑視表現

  倭はこびと、邪馬台国とは「邪な」くに、卑弥呼は「卑しい」の意味である


石平『なぜ中国は日本に憧れ続けているのか』(SB新書)

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 意外な題名。だが或る面で中国が日本を憧憬していることは真実である。

 評者(宮崎)も過去におよそ数百の中国人と付き合ってきたが、いかにも中国人らしいマナー、人生観、拝金主義を目の当たりにしながらも、教養のある人々、とくに知識層の中国人が内面のどこかで、日本に憧れを抱いていることを会話や仕草から実感してきた。

 一般庶民に到っては素朴な憧れ、物質の豊かさへの渇望から湧き上がるものだった。

『魏志倭人伝』は日本を「倭」、「邪馬台国」「卑弥呼」などと蔑視表現した。

 倭はこびと、邪馬台国とは「邪な」くに、卑弥呼は「卑しい」の意味だから、上から目線だった点で傲慢すぎる文章が並ぶ。

 いまもこの表現力の貧弱さはかわらず、

 チベットは西の倉庫(西蔵)、ウィグルを「新彊」(あたらしいド田舎)と呼んでいる。日本に対しては悔しくて仕方がないから「反日」「愛国無罪」となる。

 だが実態は異なる。 

 歴史を紐解いても、遣唐使、遣隋使、遣日使の実態をみればわかる。
 
 日本から中国へ留学に行った高僧も官僚も学生も、みな日本へ帰ってきた。

 望郷の念、おさえ難く、帰国船が難破して越南に流された阿倍仲麻呂は、失望して長安へ戻ったが、望郷の詩を遺した。

 ところが「遣日使」として日本にやってきた大量の中国人(遣唐使、遣隋使より多い)の殆どが帰国せず、日本に残留し、やがて帰化した。


 
つづく

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 鑑真は一生かけて五回渡航を試みて失敗し失明に到っても「六度目の正直」でついに日本にやって来た。
なぜそうだったのか。

 本書で石平氏は、遣唐使より遙か昔、秦の始皇帝の時から日本への憧れがあったことを古文書を基にして、追求していく。

 徐福は秦の始皇帝の命を受けて不老不死のクスリをもとめて日本へやってきた。徐福が上陸したという伝説は全国に残り、なかでも有力視されているのは和歌山県新宮市である。そんな古き昔から中国は日本を「三神山」と呼んで憧れを抱き続けた。

 三神山とは、渤海の先に「神仙」が住むという場所で、「蓬莱」「方丈」「瀛州(東瀛とも)」と意味するが、一説には徐福は、三千の男女を引き連れて、始皇帝を騙して船団を組織させての集団亡命ではなかったのかと解説する歴史家もいる。

 余談を書いておけば、新宮市は徐福公園をつくり入り口は徐福門。中国では浙江省連港市に近年「徐福村」が発掘され、実在したことは考古学的にも証明されたという報道もある。

 閑話休題。

 正史のほうの『三国志』では、高句麗は「人々の性格はせっかちで荒っぽく、略奪を好む」「男女の風俗は淫らである」と莫迦にしているが、

 一方、日本人に関しては「倭人の風俗には節度がある」「家屋にはまじきり(部屋)がある」「倭人の葬式には、棺はあるが、郭はない。土をもりあげて墓を造る」「父子、男女の差別はない」(註「郭」は「木」扁)。

 つまり「儒教の伝統においては、葬式をきちんと行うかどうかは、民族の文明度をはかる重要な物差し」であって、「明らかに日本を称賛していることになる」と石平氏は言う。
 また「日本女性はつつましやかで、焼き餅を焼かない。追いはぎやこそ泥がなく、争いごとも少ない」と書かれている。

 こうなると中国から見て日本は理想郷ではないか。

 そして『随書』ともなると、日本の「人々の性質は素朴であり正直であり、雅びやかでさえある」となって、石平氏に拠れば「中華文明で相手のことを『雅風あり』と評価するのは、まさに最高の讃辞」だという。

 げんに日本に留学した魯迅は、目覚めて近代文学の画期生を学び、

 秋?となると和服に日本刀、清王朝の迷妄に立ち向かった女性革命家として活躍した。彼女も日本留学組みだった。(註 秋?の「?」は王扁)。

 かれらは日本の精神を学んで帰国したとも言える。

 やがて改革開放後、中国人がびっくり驚き憧れ模範としたのが「おしん」だった。

 だから現代中国において、表面的には反日教育、ところがかなりの中国の若者には「精日」(精神的には日本人)が夥しくなった。


 年間600万近く来日する中国人の若者の行動をみていると、そのことはよく理解できる。 

 かれらは日本でのびのびと闊達に、中国では味わえなかった自由を享受し、日本料理に舌鼓を打ちながら、日本文化のいごこちの良さに震えているではないか。


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「遣日使」が示す、日本の優秀性について

2017-06-01 | 日本語 

とかくギスギスした話題が多い昨今、本日は敢えて悠長な話題を取り上げてみたいと思います。

田中英道・東北大学教授が「遣日使の方が多かった9~17世紀の日本と東アジア」として季刊「日本文化」平成17年夏号)に記されていることですが・・・・

今まで私たちは、日本が隋や唐から日本より優れた文化を取り入れようとして、遣隋使遣唐使を盛んに送った、と学びました。

これに対して田中氏はこう述べています。 

「これは日本の歴史において、常に外国から学び、模倣することから日本文化が形成されている、という歴史家、評論家の固定観念が、日本の世界における文明的な位置づけを怠らせ、その意義の検討を遅らせてきたのである。

 遣唐使という言葉はあるが、遣日使という言葉がないこともその証拠である」

 日本側の史書にも、遣唐使の何倍もの使者が唐から日本に来た、と田中氏は説きます。

そう言えば、聖徳太子のあの有名な言葉、

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」

教えを一方的に乞うにしては、随分「頭が高い」挨拶文ではありますね。

日本書紀には、「唐人を乗せた船が余りにも多く押し寄せたので、防人たちはすわ侵略軍かと思い弓を射た」という記述があります。

当時の日本の総人口は1000万人もいないので、人口比で言えば2万人の唐人が押し寄せたのと同じ、という計算をする人もいます。

日本から何かを得よう、教えを請おうと渡って来たのは唐のみならず、新羅や渤海からも来ていました。

正倉院の宝物は、日本人が持ち帰ったものではなく、彼らが持ち来たったものであると学者も見ているそうです。

然るに、「けんにちし」を変換しようとしてもパソコンの語彙に「遣日使」はないように、私達の脳内にも「遣日使」は存在しません。

これは、いかなる現象でしょうか。 

それと共に連想するのが「朝鮮使節団」の存在です。 

江戸幕府では、彼らを「将軍に貢物を持ってくる」すなわち朝貢使節団という扱いでした。

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 つづきは、以下ソースで、

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