9月4日はわたしの誕生日です。数年前までは誕生日がくると人生の残りが減っていく気がしてユーウツだったけど、オン年79ともなるとまた違った感慨にかられます。
先立つ友人知人が多い中でよくも今日まで生き延びたもの。我が身の幸運を祝いたい気になります。だが、半面いろいろ不都合が生じて、はたして長生きが幸運なのかどうかわからなくなります。
肉体の衰えはひどいもんです。20年以上糖尿病をかかえているし、75歳ごろからは目や耳に異常が生じ、ひざにも痛みを感じます。一万歩ウォークで鍛えているはずが、ちょっと山登りをすると呆れるほど疲れて歳を思いしらされます。
なによりも動きが難しくなりました。寝転んでテレビを見て、終わって立ち上がろうとすると、これが意外に厄介です。片手片膝をついてヤッコラショと立つのが精一杯。ふだんベッドで寝ているので、旅館に泊まるときなど畳に敷いた寝床から立ち上がるのが一苦労です。
駅でホームへの階段を駆けおりるときは焦ります。軽快に駆け下りる若者に負けまいとするのだが、足が動かず、よたよたする間に電車は出ていってしまいます。
数年前、草野球のシートノックに加わって一塁守備についたときは、他の野手の送球が少し高いとジャンプができず呆然と見送るだけでした。
七年前に他界したわたしの母が家に滞在中、えい、えいと掛け声をかけて階段を登っていました。なんとオーバーな。わたしは苦笑したのですが、いまは笑えなくなくなりました。うん、うんと力んで階段を登っているのです。
その母は京大病院でわたしを産みました。お産の数日後、入浴のため赤ん坊のわたしは看護婦に抱かれて部屋を出ました。しばらくして部屋に戻って来たとき、母は異常に気づきました。どう見てもよその赤ん坊だったのです。
母は半狂乱になって同じ棟の部屋をさがしまわり、わたしを見つけて無事に赤ん坊を交換しあました。先方は「なんかおかしいと思ってたわ」と案外あっさり交換してくれたそうです。
近所にいた府立一中の先生がこの話をきいて激怒し、新聞にいきさつを投書しました。病院から産科の部長と婦長が詫びにきたそうです。あれから約80年。もし間違われたままだったら、どんな人生をわたしはおくっていたことか。
この話をわたしは「もう一つの旅路」という小説に書きました。2~30年前のことです。読み返してみると、いまならもっと上手く書けたのに、と残念でなりません。半面、年老いるとそれなりに自分は書き手として成長するものだとわかって、加齢も悪くないと思ったりするのです。
いまわたしはほとんど発表舞台がなくなりました。老いてもう賞味期限がすぎたと編集者に思われているのです。半面、株や不動産のセールスの電話がときおりかかってきます。
これはわたしが稼いでいた時代と同じです。
わたしが稼げる領域では社会に老人扱いされ、支払者となる領域では社会はわたしを金持ち扱いします。じつにどうも面白くない。でも、ものは考えようです。
今日、検査で病院へ行った帰り、昼食をとりにラーメン屋へ入りました。午後1時をとうにすぎていました。小さな店で、老人の客が五人、それぞれカラのどんぶりを前にして新聞や週刊誌を読んでいます。。
わたしはラーメンを注文し、食べ終わりすぐに立って勘定を払いました。先客の老人たちは誰一人席を立ちません。席がべつべつなのでみんな一人客のようです。それぞれが根の生えたようにデーンと座って動かず、新聞や週刊誌を読んでいます。食事の後なのにみんな疲れた顔でした。店のおじさんも慣れているらしく、嫌な顔をせずに待機しています。
みんなヒマなのだなあ。居場所がないのだなあ。わたしは妙に感動しました。そして、帰って仕事しなければ、と焦燥にかられました。
加齢と不慣れなパソコンのせいでわたしの書く速度は以前に増して遅くなっています。
いま大河小説を書いているのですが、遅々としたあゆみです。それでも締め切りに追われたかつてのころと同じように多忙感に動かされています。
なんとなく納得しました。年取ると体力が落ちてかつての100枚が300枚ぐらいに感じられます。仕事量はともかく、多忙感は以前と変りなしなのです。さびしくなりがちな老年期は、多忙ほどありがたい状態はありません。体力の弱った分、精神的には充実して生きられます。
ラーメン屋を占拠しているご老人たちも、なんでも良いから自分で仕事をつくったらどうなのだろうか。他人の命令でいやいや働くのでなければ、体力低下がかえって充実の材料になります。ものを書くすべを心得た老人の勝手な思い込みかもしれないけど。