パンチョ伊東の声のきこえぬドラフト会議なんて、ありえないぜ。そう思った古いプロ野球愛好者は多かったはずです。
 10月27日プロ野球のドラフト会議が行われました。大学ビッグ3のうち藤岡貴祐投手(東洋大」、野村佑輔投手(明大)はそれぞれロッテ、広島にきまったが、巨人の単独指名が予想された菅野智之投手(東海大)は日本ハムが強引に指名権をもぎとってしまいました。
 周知のように菅野は巨人の原監督の甥です。球速157キロを出す第一級の素材で、各球団に注目されたが、原監督の甥だから巨人以外は拒否だろうと見てどこも手を引くと思われていました。巨人は今シースン3位に甘んじたが、菅野を入団させねばならないので原監督のクビがつなっがったとまでいわれたのです。
 ところが日本ハムが敢然と手をあげました。ダルビッシュが大リーグへいくので、なんとしても主力投手がほしかったのでしょう。同じように阪神は金本の後釜に六大学の最強打者伊東隼太(慶大)を指名しました。
 菅野獲得のために巨人、日ハムとも球団代表がクジを引きました。競争率5割だったのに巨人の清武 代表は当りクジを引けなかった。
 どうもこの人は運がわるい。今シーズン、クルーンに代わって採用した白人投手がどれもこれもヘボで、低迷の大きな原因になりました。 おまけに今回は菅野を逸した。
 菅野は今後どうすのでしょう。。元木大介のように空しく一浪するか、長野久義のように2年間社会人野球で我慢するか、それとも日ハム入りするか。ともかく来シーズン菅野が沢村拓一とならんで巨人の投手陣の若き2本柱となる可能性は消えました。清武代表はまた白人投手の採用に苦労するはずです。
 今回わたしは久しぶりでドラフト会議の模様をテレビで見ました。わたしは20年ほど以前に何度かドラフト会議の会場に見物に行ったことがあります。会場は九段下のホテル。当時は現在のように1000名ものファンを抽選で招待することはなく、会場に来るのは会議の出席者と報道関係者のみでした。クジ引きの現場に入れるのはテレビのスタッフばかりで、わたしは記者諸氏に混じって会議場の外の廊下でパンチョ伊東の声に耳を傾けたものです。
 パンチョ伊東はパ、リーグの広報部長でした。小柄で小太りの、どこか日本人離れした愛嬌のある人物でした。本名は伊東一雄。パンチョというのは彼がアメリカの野球界を長年にわたって取材中、メキシコ人に似ているといってついた仇名だそうです。当時は日本一の大リーグ通で、テレビにも良く出ていました。
 「野茂英雄。近鉄バファローズ」「桑田真澄、読売ジャイアンツ」「石井和久。ヤクルトスワローズ」
 パンチョ氏の声は甲高く、独特の抑揚がありました。のもひでおー、くわたますみーなどと語尾を引っ張るのが特徴で、ドラフト会議の名物でした。たまに選手の名を読み違えたりするのが愛嬌でした。約15年にわたってパンチョ氏はドラフト会議の進行役をつとめたと思います。1991年にパリーグをやめ、あとは大リーグの解説を主にテレビ、ラジオなどで活躍しました。
 わたしとパンチョ氏は顔見知りでした。だが、会場で挨拶を交わす程度で個人的な付き合いはなかった。その彼がひょんなことでわすれられない人となったのです。。
 昭和の終わりごろわたしは音楽雑誌にベートーヴェンの伝記を連載しました。評判が良くて楽しかった。連載が終わり単行本化するにあたって、書いたことの裏づけ取材と観光とかねて妻とともにウィーンへゆきました。
 何日目かにわたしたちはベートーヴェンが一時期暮らした郊外の住宅地を見に行きました。山を切り拓いて造成した住宅地でした。ベートーヴェンの滞在した住宅を眺めて帰途についたとき、坂を登ってくる見覚えのある人物にだ出会いました。わたしはびっくりしました。パンチョ伊東氏だったのです。向こうもおどろいたらしい。野球に関係のない場所で出会うなんて、双方とも思ってもいなかったのです。
 わたしたちは立ち話をしました。パンチョ氏はアメリカへ取材にいったついでにウィーンへ足を伸ばしたらしい。ベートーヴェンの遺跡を見にきたのです。野球ではなくしばらくオベラの話をしました。
「パンチョさん、ホテルはどちらですか」やがてわたしは何気なく訊きました。
 パンチョ氏は王宮の近くの、あまり大きくない玄人好みのホテルの名をいいました。
 「帝国ホテルとか全日空ホテルとか有名なホテルがあるでしょう。ああいうところに泊まるのはスノッブ(俗物)ですよ」
 と彼は断定しました。わたしは苦笑しました。私たちは旅行社任せで帝国ホテルに宿泊していたのです。
 「アベさんはどちらにお泊りですか」
 やがてパンチョ氏はききました。帝国ホテルです、とわたしが答えたときの彼の顔ったらなかった。
 赤くなってムニャムニャとなにかつぶやき、照れ笑いしました。ドラフト会議で選手の名を読み間違ったときよりも狼狽していた。
「いや、旅行代理店がきめてくれたんです」わたしはとりなしたが、彼は居心地が悪かったらしく早々に立ち去ったのです。
 以来、わたしはテレビで彼を見るたびにそのときのことを思い出して笑いました。
 二度と会う機会がないまま2002年彼の訃報に接しました。野球人気が下り坂の今日を見ずに逝ったのは幸せだったかもしれません。
 ともかくわたしは久しぶりにドラフト会議を見て、彼の声のきこえないのが不満でならなかったのです。