2015年06月

2015年06月19日

3つのお城

こんにちは。柴田です。

こちらは、入梅が遅れています。
集中豪雨で被害が出ているところもあると思えば、こちらのように雨が少なくて大変なところもあります。
畑が乾燥して、作物にも影響が出始めているようです。
上手く、ちょうどよい量が降ってくれればいいのですが・・・・・
被害に遭われた地区の方には、お見舞い申し上げます。

さて、私柴田は今月はジオ関係であちこち見学してきましたよ。
なぜかお城に関係する場所ばかり。

ちょっと長くなりますが、紹介しますね。

先ずは秋田城址です。
秋田城というと秋田藩主佐竹藩の城かと思うかもしれませんが、佐竹藩のお城は久保田城で、現千秋公園にありました。
それよりも昔、奈良〜平安時代、出羽柵が改称されたのが秋田城です。
秋田城は、出羽の国に置かれた地方官庁です。軍事・行政の拠点で国府が置かれていました。渤海の使者を迎える迎賓館でもありました。
高清水公園には、政調跡・竪穴住居跡・井戸跡などがあり、現在も発掘調査が続いています。全部調査発掘が終わるまでには、まだまだ何十年もかかるそうですよ。
平成10年に外郭東門と築地塀が復元されています。
IMG_0695

IMG_0696

井戸跡には、まだ水が湧いています。
IMG_0716

中でも驚いたのが、水洗トイレがあったという事です。
こちらも復元されています。水洗トイレといっても自動で流れるわけではありません。水がめが置いてあり、使用後に柄杓でながします。トイレットペーパーの代わりに木の棒を使っていました。このトイレは、渤海からの使者のための物だったようです。その当時の日本人が食べていない食べ物や回虫が見つかっています。
IMG_0704
IMG_0706

裏からの外観です。流したものが下に溜まるようになっています。
IMG_0697

建物は残っていませんが、この広い土地にたくさんの建物があり、中世の人々が外国の使者を迎えていたと想像すると、ワクワクしちゃいます。
※渤海は、698年〜926年、満州から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方にかけて存在した国家です。


西馬音内城跡
元西小学校のある、小高い山が西馬音内城跡です。
西馬音内城30

西馬音内城27

1277年小野寺道直が築いた山城です。
源頼朝の平泉征討の軍功により雄勝一円を与えられ、小野寺道綱と長男重道が東端に稲庭城を築城し、二男の道直が西馬音内城、三男の道定が湯沢城を築きました。西馬音内城は、東由利と矢島からの街道が落合う場所で、軍事上行政上重要な位置を占めていました。総面積231,858平方メートルの広大な城地の天然の要害でした。
愛宕神社の社はつぶれて、屋根だけ残っています。
西馬音内城07

隅櫓跡 左右に櫓があったようです。
西馬音内城09

本丸跡には土台に使われたと思われる石がたくさん残っていました。
西馬音内城15

深い井戸跡もあります。
西馬音内城13

城門は、菩提寺の西蔵寺に移築されています。
西蔵寺01

※山城は防御専用として造られることが多く、城主は麓に住民と共に住み、有事の際に山城に入り戦いをしました。
こちらは、散策道が整備されているので、気軽に見学できますよ。元西小学校に車を止められますが、学校へ一声かけてから駐車してくださいね。西馬音内盆踊りを見がてら、時間調整に行くのもいいかもしれません。だたし、お盆の頃はアブが多いので、虫対策をしっかりしてくださいね。

新庄城跡
新庄藩祖戸沢政盛が1625年に築いた平城です。
現最上公園内にあります。
新庄城址14

りっぱな門の跡をみると、お城が大きかったことがわかります。
新庄城址08

新庄城址10


新庄藩は、戊辰戦争の際、当初奥羽越列藩同盟に参加しましたが、新政府軍側に付いて同盟を離脱しました。秋田の亀田藩と同じ行動ですね。その後、庄内藩を中心とする同盟軍の攻撃を受け久保田藩へ逃れて来ました。秋田とゆかりのある藩だったのですね。

※平城は、平地に築かれた城。戦国時代以前は山城がほとんどだったが、地形的に山がない場合は平地に城を築く場合もありました。土塁・堀を築いて防御としました。

3つの違ったお城を比べてみると面白いですね。
昔、湯沢雄勝郡にはたくさんの山城がありました。のろしが見える感覚で配置されていたので、2km〜5kmくらいの感覚で築城されていたようです。城跡が残っている場所は少なくなっていますが、昔の面影を残しているところもいくつかあります。ジオポイントのひとつ小野城跡もあります。こちらは、先日研修で行って来たので、次の機会に紹介しますね。


aberyokan at 17:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ブログ 
月別アーカイブ