barfly diary

daily voice of nobuo yamada (abh) / since 2005 https://www.abh-oto-yamada.com/ https://www.instagram.com/abh_yamada/

April 2012

人生を終えた人もいればこれから始まっていく人生もある...長女は保育ママでの2年間の生活を終え、4/10からS幼稚園に晴れて入園(本当は保育園を希望してたけどウチの家庭事情だと優先順位が上に行かないらしい...)。ダボダボの制服をまとって、中シャツやら何やらを揃えて、よく見たらTsumori Chisato のデザインだった(どうりで高額...)。

保育ママではせいぜいが4-5人の少人数だったのが今度の幼稚園ではいきなり28人(ちょっと多いと思うが)。つまりが長女にとっても(ほぼ)初の集団(社会)生活の中に入っていく...。好奇心旺盛で世話好きで(時にしきりたがりで)その割に人見知り...という辺りが彼女のざっくりした性格。(保育ママでの)大好きな仲良し親友のこことはクラスが分かれてしまった。登園2日目だったか、母によると一緒に園から帰宅後、いつもなら勝手に家に入っていく長女がその時は入らずに玄関口で立ったまま下向いてたという。母が「どうした?」って聞くと「アンパンマン幼稚園、つまらない...」とポツリ(ちなみに園にアンパンマンの遊具があるらしく、彼女はそう呼ぶ)。さすがにまったく知らない園児同士の中にあってお互いの緊張の中で自分もどうしたらいいか分からないまま時間を過ごしていくのがシンドかったんだと想像出来た。普段は明るいのに人見知りの部分が出てしまうと妙に引いてしまう彼女の気質に若干心配しつつも、そりゃぁ新しい人間関係に慣れるのには時間はかかるもの(大人だって同じなんだし)...と見守る。

その次の日は「楽しかった」って言ってて、ちょっと時間が解決。...しかし、その週明け、再び長女が落ち込んでしまった。園のクラスが終わった後、(上の子も下の子も混ざっている)延長クラスとして夕方まで過ごすのだけれど、そこで長女が気に入っていたというお姉さん(と言っても1コ上の4才なのだが)から「キライ!遊ばない」...って言われて相当傷ついたらしく、母にそれを説明して「...それ言われて泣きそうになっちゃったよ...泣かなかったけど」と言ってたらしい(そこで泣かないように我慢してしまうのが彼女らしい)。そのテの状況にまだ免疫の無い父&母はそんな長女を(取り急ぎ)元気づけようとその夜は外食へ出かける。その先は「丸亀」...というのが我が家のフトコロ事情だが(笑)。

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何となくの長女からの断片的な話を組み合わせると何となく察しはついた。...その前の日曜に地元の公園に行った時も似た状況があったのだけれど、つまり、彼女は気になる(興味を持った)相手や状況に出会うとそこに集中的にのめり込んでしまう。実際公園でも草を摘んでいる7才位の女の子に興味を持ったらしく、その子の後をずっと追っては「ねぇ、何やってるの?」...ってずっと聞いてて、その子がちょっとウザったがって避けてる様子が伺えた。園でのお姉さん(4才)に思わず「嫌い!」って言われたのも、おそらくお姉さんと一緒に遊びたがってずっとくっついてたのが(相手からしたら)ウザかったと思う。お姉さんとは言え4才、何より自分も遊びたい盛りなのは当然。最初はたった3才の胸が痛んでいるサマに思わず不安にもなったけれど、よくよく考えたら長女だって「◯◯ちゃん(くん)の事、好きじゃない」...とか言ったりしてるし、お互い様かもって思えた。

ただ、こーいう時の彼女が妙に切ないのは(去年の夏の次女出産後の長女の日記時と同様に)彼女は本当に心が悲しい時程表向きは明るく振る舞おうとして、そのカラ元気ぶりが激しい程本人の心が悲しんでいる...というカラクリが分かってしまうから。ギャーギャー騒いでふっと倒れ込んだかと思うとそのまま見えない所で悲しい顔してるのが見えてしまう。逆に親友のここはとにかくストレートに泣き叫ぶ。回りを何も気にせずとにかく泣くだけ泣き叫ぶと後にはけっこうケロッとしてるらしい。長女のような感情の二重構造が無い分、ここは健全って言える。長女のそういう所は切ない(母は自分に似たって言ってる)。「泣いたっていいんだよ!」ってうどん屋で励ます父母(笑)。

次の日聞いたら(そのお姉さんに)今日は遊んでくれたとか。そんな一言で親の気持ちはちょっと救われる(笑)(こういう事が繰り返されて親の一喜一憂も続くワケか...)。その後は慣れも出てきてそのテのナーバス感は薄れてきた様子。「集団生活では気持ちが萎縮してしまう」...といった父の(学生時代の)ネガティヴな遺伝子は何とか受け継がずにとにかく大らかでノビノビして欲しいとつい願ってしまう。

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PS:園に慣れてきたのは良かったけれど、そんな長女にいきなり大試練...昨日母から連絡あり、園の遊具から落ちて口を強打し、大量出血、病院へ。下の歯で上唇の裏側をパックリ切ってしまい、何と4針も縫う事態に...。父でさえ中学時代に頭を縫ったのが2針止まりなのにたった3才で何という事。可哀想な事に病院で数人に羽交い締めにされて身体巻かれて号泣する中での治療だったとか。2日目の今日は上唇がさらに腫れ上がって逆さいかりや状態(今後もうちょっと腫れるらしい)。せめてもうちょっと腫れが引くまで園は休ませるけれど、そこ以外は本人はいたって元気になりつつありヤレヤレ...。

多分、これが入り口で、こんな事はこれから日常茶飯事なのでしょう。子供の世界は常に危険と隣り合わせである事は改めて感じた(ただ、今回の長女の事故の件でその遊具が全部撤去されたらしく、他の園児にとってはちょっと気の毒)。

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母の永眠の事実を母の各関係者に連絡網的に伝えてもらって、僕と姉は(16年前の父親の時と同じ)葬儀屋さんと早々の式の打ち合わせ等で継続して慌ただしい。さすがの姉もあらゆる決め事・手配事などの整理で妙なテンションになりがちな所を姪っ子シスターズが上手くフォローしてくれてた。それぞれに役割などを割り振って通夜は4/3(火)告別式は4(水)に決まる。

場所は(これも父の時と同じ)国立の団地内にある集会所。予報で通夜の日は春の嵐になるとの情報。葬儀屋さんから(風避けの為の)テントの追加を提案され承諾。通夜当日、まさかこれから大荒れの天気になるとは思えない穏やかな昼間。各担当者はそれぞれ式の設営をぬかりなく遂行。会食の席に設けた(アルバムなどの)メモリアルコーナーでは姪っ子シスターズらを中心に細かく動いてくれてけっこう助かった。加えて(ウチの娘その1&その2も含めて)姪っ子長男の(同世代)むぎくんもいて、こういう葬式の空間に無邪気に飛び回る子供の姿というのは神妙さの中にありつつの幸福の雰囲気で何かが救われていた。

開始時刻が迫るのに比例して嵐度合いが笑っちゃう程ひどくなる。案の定電車が遅れたり止まったりで来れなくなった方がけっこう出てきた。それでもこの嵐の中、50人程集まって頂き、献花して頂いた。何とか順当に通夜は遂行し、その終わりと共に天候も静まってた(この"通夜と嵐"はセットで記憶に残る事でしょう)。終わって親戚の人たちらと(すでにこの場では母に対しての皆さんの気持ちの整理はついてる感じで)寿司を食べながらしばし歓談。僕と姉と義兄の3人はそのまま母の棺の部屋(集会所)に泊まる事に。家に帰る支度をする長女は(いつもとは違うイベント的シチュエーションにテンション上がって)母が眠る棺の前で動いて暴れてママは手を焼きっぱなし。気がつきゃ式で使うマイクを勝手にオンにしてむぎと一緒に叫んでる有様(笑)。「あまりうるさいと山田のばあばが起きちゃうよ」とか冗談も飛び交う。/その後、姉と義兄とで淡々とこの家系に於ける人生模様なぞをコーヒーと共にとりとめもなく語り合う。就寝。

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一夜明けて実に爽やかな快晴。つくづく前日と天候が逆じゃなくてよかった。昨夜来れなかった方も含めて告別式には100人位の方が集ってくれた。つくづく母と共に人生を歩んできた方々から慕われてたのが分かる。ウチの家系は基本的にこのテの儀式は無宗教形式なので当然坊さんもいないしお経も線香も戒名も、とにかく仏具装飾関係、そのような雰囲気は一切無い。とにかく花が好きな人だったので花に囲まれた。本人が好きだったという昔の唱歌「早春賦」をエンドレスで流す。通夜の時はギリ大丈夫だった長女がさすがに2日目となるとじっとしてられなくなって、喪主である僕の膝に立ち上がったり動こうとしたり「山田のばあば、お空に行っちゃったの?」とかつぶやく(状況はある程度理解してるらしい)。そーいえば通夜の時、母のゆかりの方達の挨拶が終わった時や、曲を流し終わった時も長女は普通に拍手しかけて慌てて押さえたけどちょっとそれは笑いそうになってしまった(確かにある意味べにこは間違ってないし)。

いよいよ出棺の時、皆な母の回りを囲んで顔だけ残して花で埋め尽くす。これで(シルエットとして)存在している母とは完全にお別れで「面影」の対象はいなくなる。僕は徐々に後ずさりしながら自分の中で必死でそこと距離を取ろうとしていた。それは明らかに律していないと自分の何かが崩れそうだったのを察知していた。この不意に現れてしまったこみ上げる感情は内心ちょっとヤバかった。さすがに50年間、特に子供の頃の追想とかよぎってしまうと参る。そこに最後の面影がまだ居るだけに。

この年になるとすでに何回か人の死に目に遭っているけれど、改めて思うのは...人が死んでしまった瞬間って人は(僕は)感情が高ぶるワケでなく、逆にそういう時って感情が止まってしまう...という事実だった。実際に父親にしても今回の母親にしても「その瞬間」は爆発的な悲しさがこみ上げるでもなく実に奇妙に淡々として感情が止まってしまう(それはおそらく人の本能として)。...そういう意味では逆に出棺の花の儀式は存在と面影と思い出が混ざり合って物語を形作ってしまう。そのドラマに人は(僕は)初めて感情が勝手にこみ上げてしまう...。

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叔母(母の妹さん)の挨拶が終わり、最後に喪主としてマイクに向かう。その矢先、遠くの方で(事もあろうに)長女が大号泣してるではないか。後で聞いたらむぎと遊んでてその拍子に地べたに鼻を打って鼻血を出していたという(苦笑)。挨拶前にそんな娘をチラッと見たらママに抱きかかえられた彼女の鼻にティッシュという...ある意味、我が家的葬式珍道中って事か...。/そんな(裏)状況の中、挨拶の冒頭で僕が泣いてしまったのには自分が一番驚いた。おそらく(前途の通り)棺に花の段階で感情の下地が出てしまってたとは言え、まさか100人程の前でしばし声が詰まってしゃべれなくなるとは予想外だった。そんな経験はおそらく今後そうはないと思う。

そのまま母の遺影を持って(よくある風景)霊柩車に乗り、火葬場へ。母の骨は思ったより少なかった。最後は谷保天満宮近くにある古民家カフェ「やぼろじ」にて会食(このやぼろじに関してはいずれ述べようと思います)。母の為に最後まで付き合って頂いて最後は(お酒も入り)25人程の方々それぞれくつろいでくれたようで良かったです。最後は皆さんで縁側にて記念撮影。...まさに嵐と共に慌ただしく過ぎ去ったけれど、振り返ってみても母を見送った式としてはいい雰囲気で終われたと思います(これを見てる関係者の方々、いましたらお疲れ様でした&ありがとうございました)。

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3月の最後の週、やがて何も食べなくなる。姉はそれでも毎回オーガニックなスープなどを作り、スプーン一杯でも呑んでもらおうと頑張っていた。口から入れて身体を巡り消化して排出する...といった、人間の生きる機能の最もベーシックな部分を必死で呼び起こそうとしていた。最後の頃は朝から日中、夜まで姉がずっと見ていて、夜から朝までは僕が見るローテーションになっていく。当初、頭のどこかでは「まだ早急にどうのこうのではないだろう...」というあまり根拠の無い目論みではあったのだけれど、お医者さんからは「あと1週間」...って言われた(実際、本当に1週間後だった)。1日毎にヤバくなる母のサマを見て、「あまり無理しない方が...」という声があったりしてもその頃を境に(逆に)「今は無理しなくてはならない時ではないか」...と、母の最後の時間まで腹を据えて向き合う覚悟を決める(気持ちも含めて)。姉は姉で(彼女の言葉で言えば)「共に闘っていた」という。

...とある日。一旦家に帰り、まだ7か月の次女にミルク呑ませたり寝かしつけたりしてから夜10時位に団地に向かう。僕の場合、年齢が遅くなってから子供が生まれたので、例えば一般のこの年齢だと普通に子供は高校生だったり大学生だったり(つまりとっくに手がかからない)するのだけれど、今回、これから未来に向かって生きようとしている次女と向き合って、その足で息絶えようとしている母に向き合う...この、これから生きようとする対象と死んでいく対象との間を行き来するコントラストは何なんだろう...って思ったりした。ただ、ある時気付いたのは...次女は無垢な本能で生きようとしているし、そして実は母も何も「死んでいこうとしている」ワケではなくて、母も次女と同じで「生きようとしている」事にハッとした。身体が勝手に言う事を聞かないだけで、本人は当然生きていこうとしている、負けそうだけれどその最後の時まで頑張っている、その事実に身が引き締まる。

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3月30日(金)...午前中に「午後にでも来た方がいい」と姉からのメール。仕事を早々切り上げて4時頃団地に向かう。姉と僕と共に毎日世話しに来てくれた介護ヘルパーさんや、看護士の方などの助言で、「最後の時間はお二人だけでなくお孫さんなども含めて賑やかにしていくのもいいと思います」と言われ、何となく納得。そのアドバイスにならい、最後の数日には母の妹さんたちが来たり、孫やひ孫や奥さんやら義兄やらとけっこう賑やかに入れ替わり立ち代わる。最後の日も僕が駆けつける前にも孫&ひ孫たちが好き勝手に遊んだりしてたらしく、それはそれで(母は疲れるだろうけど)一瞬顔がほころんでいたという。

夕方、お医者先生が問診に来る(内容は前回の日記に)。やがて帰っていき、その場にいた姉と義兄もちょっと所用を済ませる為に僕を残して一旦外出した。午後6時頃、僕と母だけになる。相変わらず底辺を這うような薄い酸素マスクの音。静かな時間。ラジカセではFMが小さく鳴っている。僕は母と対面する形で椅子に座って眺めていた。しばらくして何気に母の手に手を添える。するとFMからゴンチチの演奏で「見上げてごらん夜の星を」が流れる。「わ、何この映画みたいなシーン...」って心のどこかで感じてたような。やがて母は添えていた僕の手をゆっくりのけて若干体勢を動かしたりしつつ...すると母の様子が急変した(詳細は割愛)...何度も胸を叩いて声をかけるも止まったまま。まさか僕だけが最後を看取るとは...内心焦りつつ姉や義兄に電話するも、こーいう時に限って繋がらない。やがて各方面に連絡して人が集まってくる。先生も来て確認。

(よく言われる事だけれど)全てから解放されてその顔は本当に穏やかな顔に戻っていた。お疲れ様。/16年前の父親の時は最後は病室で看取ったのだけれど、今回、最後を自宅で、そして孫や子供たちが賑やかに行き来する中で引き取った、その最後期は幸せだったと思う。そして(可能であるなら)自分の家でこういった形で最後の日を過ごすのはいいと思った。実に勝手な思いで言うと...ずっと苦しみと不安の中頑張ってきたけれど、皆なが来て、最後は息子がいて、母の中でこれでフィニッシュでOK...という気持ちになって、そうなった途端の急変だったような気がしている。

膵臓ガンが発覚した際、病院先生からの話で、まず本人にどこまで伝えてどのように(最後まで)見届けていくか...の確認だった。まず、僕と姉との確認で、それ程迷う事なく「本人には(病名は伝えて)具体的な余命時期は告知するのはやめよう」...というラインに収まった。...母との50年もの付き合いを通じて、彼女の性格や気質などを十分加味すると、「自分の死の期限」というものをしかもこの年齢で受け止めるのはちょっと厳しいんじゃないか...という結論だった。

死に方を本人以外の僕らが判断してしまう...というこのテの告知問題はとても難しい部分。人の"死に方"と"生き方"は表裏繋がってて、その人がどのような生き方をしてきたかでその「生の延長としての」死に方があると思う。僕の場合に置き換えたら当然のように自分の死の期限は知りたいし、それによって周辺もろもろケリをつけておきたい事柄をクリアにしてからオサラバしたい...という生き方の末の死に方がある。...そういう意味では母に対して今回決断した事は今だによかったのかどうだったのか分からない。その話を通夜の席で話したら従兄弟のKくんから「その事に答えはないですよ」...って言われ、何かちょっとその言葉に救われた気がした。

...ただ、それでも、最後の数週間、時に(生に)希望を持つ発言をしたかと思えば、どんどん衰退していく己の肉体に対していい知れない不安に襲われ夜中に何度も起きたり、もうろうとした意識のまま「何で良くならないんだろう」とか「これでお別れ」とか、「助けて...」とつぶやかれた時はさすがに辛かった。

最後の日、息を引取るつい1時間程前に医者先生が問診に来た時、先生が「何か言いたい事ありますか...?」と聞き、母はかすかな声を振り絞って「...私は...私は...」とつぶやいた(確かそれが最後の言葉だったと思う)。...本当は現実を認めたくないという部分と、ある程度自身の死を自覚している部分とがずっと混在していたと思う。余命を知らされていないまま身体だけが蝕まれて、最後の最後に先生に対して本当の事を聞きたかったんだと思う。それでも「...私は...」の言葉の後に自らの意思で「死」という決定的な言葉を持ち出す事は相当勇気がいる事だし、例えばそれを求めるなんてあまりにも残酷な事だと思う。

3/30 午後6時10分、母が永眠した。84才。膵臓ガンだった。今まで人生で1度も風邪をひいた事がなかった人だったのに来る時は来てしまった。...去年の夏頃からずっとお腹が痛かったらしく、何度かかかりつけの医者に診せても原因が分からずそのまま3か月が過ぎたある時、ちゃんとCTスキャンで調べたら膵臓に見つかった。それでなくとも見つかりづらい膵臓ガン、見つかった時はほぼ手遅れとなるそうで、発覚から1年以上生きた患者はほぼいないと言う。医者先生からそれを聞かされたのが12月だったか。

しばしの入院生活を経て自宅に戻り、そこから僕と姉による母の闘病体勢に入っていった。特に(時間的には)姉を軸に食事から始まり、やがて移動やトイレなど、日を追う毎に「昨日まで出来ていた事が出来なくなる」という状態になっていく。その衰退のスピードは想定以上で、当初は「夏までは持つだろう...」というラインがやがて消え、そして5月頃でもなく、結局桜の開花宣言の前日に逝ってしまう。通夜は(例の)春の嵐が吹き荒れた4/3(火)、(よりによって何でこの日に嵐...)。翌日の告別式は打って変わって快晴で、つくづく天候が前後しないでよかったと思う。

これで僕と姉を産み、育ててくれた両親はいなくなった。....今回の母親の死に関して(またはそこから派生して)改めて人生や家族の色々な事を考えさせられた。それは重要な事柄で、今はかいつまんで書いているけれど、今後思い付くままに(感情が風化しない内に)人生の記録としていくつか書き留めていこうと思います。

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PS:母の看病で実家(団地)にいた時古いアルバムを見た。そこには50年前、姉を抱く若き日の母が写っていた。ウチの次女は父・母どちらにもそれ程似てない気がしてたら、そこに写っている若き母に、次女は少し似ていた。

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