barfly diary

daily voice of nobuo yamada (abh) / since 2005 https://www.abh-oto-yamada.com/ https://www.instagram.com/abh_yamada/

September 2012

姉と僕は家から独立してそれぞれの人生を歩んで行く。それまでの一つの家族が、それぞれの巣作りの為に分散する。その過程で、親にとっての子供というのは自分の人生(巣作り)が当然軸になって行き、同時に親の存在というのは成長過程の子供にとって徐々に背景になっていくもの。...しかし、その(暮らしの中で)気が付けば背景化していた親の存在が再び意識の前方に来る時がある。それは親の健康問題が表面化する時期とリンクする。と、同時にその事実によって、姉と弟というのも再び(かつての)家族の下に(意識と共に)集結する。そして、それぞれの巣から(一旦)戻ってきた時、その間の年月の流れを経た故の、姉と僕の中で、僕らを産み育ててくれたこの両親に対する「客観的な視点」というのが改めて生まれたかと思う。

今から数年前、母が大量の鼻血を出し、それが止まらず緊急で入院した時があった。病院から連絡が入り、僕と姉が合流する。その時は結局大事には至らなかったが、一通り事が済んだ後一息ついた僕と姉は、例えば帰りの車の中で何気ない雑談から「実はさぁ...」みたいなトーンで姉が胸の内を明かしてきた。それは大方、「姉と母との関係性」に関するもので、そのテの場面はその後も何度かあったかと思う。そのいずれも自分(姉)と母親との気持ちの距離感というか、姉が母から受けてきたものと、逆に姉が母に向けていったものと...その両方向の(あえて言うなら)「愛情」という感情に対して、両者の間に(拭い去る事が出来なかった)一つの「膜」のような壁があったという。姉は(かつて)母が自分に対して言った具体的な言葉や行動に対して弟の僕が意外に感じる程に彼女はデリケートに悩んでいた事実を知る。その悩みや葛藤は「考え過ぎなんじゃないの?」...と(言ったか、言わなかったか)思っていたりしたが、聞いてて同時に僕自身に置き換えてもみた。...今まで僕が自分の両親の言葉や行動から何か心に傷を持ってしまうようなデリケートな場面はあっただろうか?...と思い巡らしてみた。(もちろん細かい事はあるにせよ)今でも残っているようなその類いの事は何とも見当たらない(僕が単に鈍感なだけだろうか...笑)。例えば姉が経験した母からの(傷を負うような)言葉があったりする。僕はその言葉に(姉が反応する程)ダメージは感じない。では、何故姉はその事に敏感で僕は反応が薄いのだろーか。自分の中で噛み砕きながら自問自答していた。

姉の母に対する感情というのは、それを愛情と言い換えるならば、姉にとってその許容範囲というのは限度があった。その事は母の最後期の自宅での看護体勢を姉と僕で交代で行っている際に表面化していく。(お医者さんからの要請で)状況的に、もはや母は夜も誰かがつきっきりで居なくてはならない時期になり、姉と打ち合わせる。それまで日中はずっと母の世話をしていた姉にとって、「夜通し母と居る」...という状況は限界を超えていたらしく、僕にそれを訴えた。そこには身体的なキツさというよりも精神的な重さを感じ、それが決定的だった印象がある。再び僕に置き換える...確かに死期が近い母を意識しながら一晩中そばに居るという状況は確かに大変ではあった。しかし、かと言って限度を超えているとか、そういう発想にはならなかった。死期を向かえる親に対して最後の時間を作っていく...これは子供として自然な感情で動く部分と同時に、子供としての義務感で動く部分もあると思う。その(今はこうするべき、という)義務感で動く部分でさえも姉の中で揺らぐ程に葛藤していた時があった。つまり、姉にとってそこまで重くのしかかっている「何か」が母に対する感情の中に確実に存在している事を感じたし、そうなっていった経路、それが何なのか僕なりに分析したくなった。

これはあくまで弟の僕が感じた印象と推測での判断になるのだけれど...つまりは僕たちの母(そして両親)は、その(思想性故の)特殊性からか、こと家族という人間関係の中でありながらも、最も優先されるべき事は「思想/信念」の下に生き、行動する事であり、その大義/教義の後方に子育てや育児がある。その場合、親が子供に対して注ぐ「自然な愛情」というものが、それでさえも一旦イデオロギーのフィルターを通過/ろ過させて降りてくる...その段階で親は子供に対してすでに「客観の態度」になってしまっていたのではないか、という事。親であるならそんな大義は関係なく状況によってはもっと直接的にストレートに感情をぶつけるなり注ぐなりするのではないか、という事。家族の第二子である僕はその影響はそれ程強くはないけれど、第一子である姉にとって、その親の「客観化された愛情」というのが(もし、そうだとしたら)後々の姉と(特に)母との関係に実は水面下で常にうごめいていた深い影響として根付いていたのだろーか。(比べれば)比較的ノンビリ生きてきた僕とは違い、姉と両親との関係は知られざるある種の緊張感があったのだろーか。

(何度か聞いた事があるけれど)姉にとって父は「絶対的な存在」だったという。確かに(散々述べてきた通りの)「あんな人」であるから、だいたいその通りではあるのだけれど、僕以上に姉にとって父の威厳は強固な支配力を持っていた気がする。「あんな親」であるから、親とは逆の人生は選択する事が(暗黙的に)許されない雰囲気があったのかも知れない。姉は両親が人生かけて貫いている道筋と同じ道を進んで行く。...彼女が高校の時、姉だけ東京に残って家族は4年間長野で暮らす。東京の町田で下宿生活をしていた姉は(かなり奔放にやっていたそうだが)反面、まだ15、6才...当然寂しさはあったかと思う。そんなある時街角で捨てられていた(生まれたての)子猫を拾ってしまう。自由な生活の裏側でポッカリ空いた寂しさを子猫で埋めようとしていた様子は想像出来る。しかし、やがて下宿先の主人に見つかり猫を手放さなくてはならなくなった。...そんなある時、東京に来ていた父が長野へ帰る際、上野駅ホームで姉も同行した。父と会った時、姉は子猫を持参してきていた。すでに情感も入り、処分できないので長野の家で引取ってもらうべく持ってきた。しかし、父はそれを見るなり姉の横っ面を引っぱたく。おそらくその時、姉は泣いたであろう。人間に対してでさえも甘ったるい愛情という感覚を持ち合わせていない父が、ましてや猫というペットを好むワケがない。今、これを打っていても、姉のこの時の(やり場の無い)胸の傷はちょっと同情してしまう。...ただ、後日談として、長野の家にやってきたその猫は無邪気に父の読んでいる新聞の中をバシャバシャ入って邪魔したりのやんちゃっぷりで、あの父がその様子を僕とかに嘆きつつ伝えるサマが、実はそうまんざらでもないニュアンスがあり、まぁ、そういうものだなぁ...と感じた。

姉の人生をハタから振り返り眺める時、最も重要に思う事がある。...姉がまだ未成年の頃だと思う。おそらく親に連れられて、ある民族舞踊劇団の舞台を経験した姉は、その雄々しく生命力溢れる演者の魅力に激しく虜になった(僕も同様に観ていたのでその力強い迫力と魅力は理解出来る)。その強烈な体験によって姉は保母としての職の方向性を決めかけていたものの、その座員になる事を内心熱望してしまう。つまり、姉にとってそれは自らが選び取った道筋でもあった。...しかし、父の反対に会う。保母としての道を決めかけていたのに横道に反れる事が父にとって(それこそ)「邪道」に映ったのだろう。姉にしてみればこんなに激しく自分の中で渇望している夢の前で、絶対的な(指標の)存在であった父の判断の前で、やはりその壁を打ち壊すには(若さ故)微力過ぎた。そして姉はその夢を断念し、保母の道を選択した。...しかし、若くして子供を2人産み育て、やがて姉が50才になる手前の頃、「私は50になったら保母を辞める」...と、次の人生への宣言を聞く。そしてそれは強い意志を持って実行された。そのずっと前から姉は民族舞踊にまつわる活動(太鼓/笛/一人芝居等)をメイン仕事のかたわらずっと続けてきて、50を境にその活動をメインのライフワークとすべく現在に於いて遂行してきている。...要は、若き日の体験によって得た夢が父の壁の前で打ち砕かれた...その事の悔しさと、自身の弱さを責めてしまう感情が混ざり、逆に時と年齢を経る毎に姉の「(父によって打ち砕かれた)自分の夢を取り戻す!」というモチベーションをより強固なものとして維持させる原動力にもなっている。第二子である僕は両親からの「人生の方向性へのプレッシャー」はそれほど強くなかったし、例えそれがあったとしても「親は親、自分は自分」というポジションで開き直れた。第一子の姉にとって、両親の壁というのは人生を左右してしまう程の影響があり、そこには100%自分の人生と言い切れない何かがあり、だからこそ「親の存在が無くなった」現在、おそらく初めて姉にとって何のプレッシャーも感じる事のない、自分自身の人生を100%遂行している。

ここで再び姉と母の事に戻る...姉から母に対する感情にある種の隔たりを持っているような事を聞いた僕は、自分に置き換えてみても、親に対してそこまでの感情を持っていないというか、そういう事すらほとんど考えた事がなかった。それ程、僕の(後々の)人生にとって、親というのは(決して嫌な意味ではなく)背景だったんだと思う。でも、姉にとっては現在進行形的な感情として継続されていた。...その違和感のような感覚は何なんだろう...と、僕なりに考えていて、ちょっと「ハッと」感じた事があった。それは...姉が両親に対して過敏な感情を持ってしまうという事は、逆に(前途したように)親からのストレートな愛情を注いでもらえなかった幼少期があり、特に母からの本能的な愛情を幼き姉は皮膚感覚としても感じる事があまりなかったのではないか...だからこそ、姉は母に対して感情の膜を持ってしまうのは、母がそうだったからで、本当は姉は「母からの本能的な愛情が欲しかった」...という幼少期のトラウマが裏返しになってそのまま成長期まで継続されてきたんだと思った。姉は母から無垢な愛情をもらいたかった。そうしてもらえなかったから自身も母に対してどこかで感情の線を引いてしまう。...これは僕も娘を持つ父になり改めて感じる事だけれど、幼い頃に愛情をストレートに子供に与えていないと子供は不安になる。不安になる子供は「親に愛される事」が当面の目的になってしまう。愛されている実感が無い限り子供はずっと不安で、ずっと愛されたい、愛されていない...の負のスパイラルを繰り返してしまう。逆に、幼少期に子供が親からのストレートな愛情をもらっている事が実感されると子供は安心する。その安心感が全ての「前提」になり、そこを意識しなくなり、初めて外の世界に気持ちが向かって行ける。...いかに幼少期の愛情の力が後の子供の成長に影響を持つかが分かる重要な事だと思う。...これは勝手な深読みかも知れないけれど、「親にもっと愛されたかった」感情があったからこそ、姉は親の希望する指標から背く事が出来なかった所もあったのだろーか。

「しっかり者で自立心の強い」...という子供の頃の姉の印象は、大人になるにつれてその裏側では悩み傷つき葛藤があり...という側面が見え隠れしていた。ちっちゃい時の姉は「よく泣く子だった」と母は言っていた。逆に僕は「ほとんど泣かない子だった」らしい。しっかり者の姉は実は感情の波に時として揺れてしまう面がある事を後々知っていく。...余談だけど、父の葬式の際、亡がらの父を見て泣いていた姉の長女を見て号泣していた姉の姿が印象的だった。時として感情をむき出しに出来る姉を見た。逆に母は葬儀中、ほとんど涙は見せなかった...そこで父に対してなり振り構わず号泣してしまう母であったなら姉は少し救われたのかも知れない。

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さて、また長くなりましたが...姉の人生は若くして子育てが終わったのもあり、今はかなり自由に人生の後半を夢と目標と共に生きている(ずっと自由気ままでやってきた末に子育てに追われている弟の人生展開とは真逆...人生それぞれであります)。30年以上に渡る保母という職業に区切りを付け、ライフワークである民族舞踊の活動を軸に、そのかたわら姉は現在、国立市、谷保にある古民家を利用したオーガニックカフェで知られる「やぼろじ」にて、日々スタッフとしておもてなしをしています。この「やぼろじ」はCMでも使用された事もあり、母がまだギリギリ頑張っている今年の春先、雰囲気が何処となく友部の家に似ている事から、母を少しでも元気付けようと、そこを貸し切って親族を集めて会食しました。...そしてその数週間後、母が亡くなった葬儀の後の会食もそこをお借りしてしばし過ごしました。最寄りの際には一度足をお運び下さい。僕とほぼ同じような顔をした姉が迎えるかも知れません(笑)。

やぼろじ

姉は僕より5才程上で、子供の頃からの印象は「しっかりとした自立心のある人」という感じだった。三鷹のアパート時代は目の前が小学校で、僕が入学して間もない頃、とある朝礼で校庭で並んでた時、前の朝礼台に立って全校生徒の前で生徒会長として何かしゃべっていたのが6年生の姉だった。列の後ろの方で見ていた僕は何だか羨望の気持ちだったかと思う。姉の自立心を子供ながらに最も強く感じた事は...まだ姉が小学6年位の時だったか、父方の親戚の法事か何かで我が家の代表としてなのか(親が都合付かなかったからなのか)...当時、小学生の姉が一人で長距離電車に乗って東京からはるばる秋田方面まで行って帰って来た事があり、それは当時の自分に置き換えてみたら明らかに凄い事だった。

仲は良かったと思う。ただ今振り返ってみると子供の頃(三鷹時代)の僕は時々カンシャク起こす気質があり、嫌な事があると直火的な衝動で大のお気に入りのサンダーバードのオモチャを壁に投げ付けて結果壊しちゃって後でその残骸見て泣いたり、姉とのいざこざがあると姉のお腹を蹴っ飛ばしてしまったり、ある時には包丁を振りかざすという(本気では無いにせよ)物騒な場面もあった(本人は覚えてないだろうけど)。あと、何だか記憶に残っている場面として、(おそらく)友部からの帰りの常磐線の車内で僕と姉でもの凄くテンションが上がってギャーギャー楽しくはしゃいでしまってた時があって、そのあまりのうるささに同席してた隣の(知らない)おじさんに「うるさい!!」と一喝され、一気にシュン...としたのを覚えている。姉とあんなに無邪気にはしゃいでたシーンというのはこの時の他には見当たらない気がする。

物心がだんだん付いてくると家族の状況も肌で感じてはくる。当時は姉も両親の道筋に沿った活動に携わっている様子は(何となく)見てとれた。5才の年の差というのは姉弟で同じ状況下にはなかなかならないもので、僕が小学校高学年の時には姉は高校生...その姉の高校の文化祭に家族で行った時の事も記憶にある。...小学生から見た高校生というのは明らかに大人の世界。しかもこの高校は(どちらかと言えば左翼系でもあり)校則に縛られない自由な校風でも知られていて、私服だし、子供の僕は猫のように校内を親と一緒に歩いていた気がする(笑)。当時は1970年代初頭、学園闘争の時代の余韻がまだ残る中、(自由な校風故に)おそらくロン毛ヒッピーみたいな風貌の学生もいたり、それこそロックやってる学生もいたような気がする。...それらの学生らを見ていた父は(ちょっと感情をむき出し気味に)「(あいつらは)トロだ!トロ!」...とさかんに言い放っていた。...つまり、この場面での父の言動こそが小学生ながらに僕の記憶に明確に刻まれていた。ちなみに父が吐き捨てていたトロとは「トロツキスト」の事で、主に極左(革命の為には暴力を肯定する考え)集団に対する略語(詳しくは トロツキズムWikipediaを参照して下さい)。...今の感覚でフラットに振り返ってみて...髪を長くしてるとか、エレキでロック演ってるだとか、その姿形だけで「トロツキスト」呼ばわりする父の極端っぷりが今でも際立つ。

前途したように、僕が小6の始めから(姉が高2位の時)姉だけ東京に残り、僕と両親は長野へ引っ越す。そう考えると実は僕は姉と同じ屋根の下に暮らしていた期間ってせいぜい10年位になる。振り返ると(姉がいない生活が続いていると)あまり自分には姉弟がいるような感覚が薄くなっていたような気がする。...後に僕が高校の入学の時期に東京・国立へ引っ越し、再び姉と一緒の家族生活になる(前途の通り、それは半年程で終わるが)。そして僕が通う高校というのは姉が出た同じ学校であった。入学して学校生活を送っていく...(これも前途したけれど)僕にとっての高校生活はダウナーライフで、もはや当たり前のようにしょっちゅう遅刻(たまにサボり)していた。くしくも以前姉の担任だった同じ先生が高1の時の担任で、ある時、けっこう真顔で「山田くんはお姉さんとは全然違うね--」...としみじみ言われた。姉はこの高校でも生徒会の会長(か副会長)をやっていて、生徒会の活動に積極的だった。かたや弟は...遅刻ばっかりサボり時々、勉強無関心、女子とはロクに話せない、対人恐怖で精神安定剤常用、唯一の積極性は高3の時のパンクバンド...というネガティヴの典型。

姉に甘える...とか、そういう記憶はほとんど無いかと思う。そもそもあの父や母の遺伝子を受けてれば、他人に甘える下地がそもそも育ってないというか、僕自身、あまり人に甘えるという発想が最初からなかった気がする。そんな遺伝子の姉弟であるからお互い淡々とした関係、それでいてお互いをそこはかとなく尊重してるような...つまりは結局どこかで似た者同士のような感じはある(笑)。それは大人になればなるほどに。

姉は僕が18の時に結婚する。当時姉は22、3才(義兄はまだ大学生だった)。吉祥寺の「ともしび」にて互いの親族が集まり結婚パーティ。僕の席の隣の父はありえないピッチでビールを呑み続け、すぐコップが空になる度に真っすぐ前を見たままコップだけ僕に突き出し、それを見てその度にビールを注ぎ足す...という行為を何回繰り返したか。パーティ宴後、「信夫くん、ありがとうね」と花嫁姿の姉がやってきたので(冗談っぽく)姉に抱きつく真似事をしたら、そばで見ていた(生け花の師匠でもある)叔母(父の姉)が「アラ---!」とか笑っていたのが思い出される。この場にいた人、今は沢山他界していない...ちょっと懐かしい。

その翌年あたりには長女を出産し、姉の人生は早い段階で家庭を築き、自身は保母の仕事を(その後30年に渡って)続けた。その姉の保母時代...僕が20代後半期で阿佐ヶ谷のアパートでイラストレーターとしての暮らしを軌道に乗せつつある頃、(何となく唐突に)姉から「(保育園の)職場の同僚でいい人がいるので信夫くんに会ってもらいたい」...という紹介オファーを受けた事があった。僕は「何だ?何だ?(笑)」...という、戸惑いつつも半分は(このテの事の)経験の好奇心に誘われ、2人して確か阿佐ヶ谷のアパートまでやってきた。そんなかしこまった雰囲気ではなく、ほぼいつもの感じで部屋で適度にくっちゃべり、絵を見せたりして過ごす。最後にそのお相手の方が気に入った絵をプレゼントしてその場は終了。僕は(実は最初から)好奇心の枠からはみ出す事なくそれだけの事だったけれど(相手の方は優しそうないい方でしたが)、よくよく振り返ってみて、あの時の姉の行動が(そもそも僕の自宅にわざわざ足を運ぶ事自体が珍しく)やはり唐突で興味深い。

お互い大人になれば接点というのは年に1、2回程度家族単位で会ったり近場へ旅行へ行ったりの関係として続く。...そして(それまでは姉弟という意識が薄かったけれど)やがて親の人生の終焉期にかけて、ある意味それきっかけで、再び(そのテの件で)姉と断片的に接触する機会が増えたりしてくる。そうすると、親に関するシリアスな状況下だからこそこの両親の下で生まれ育った姉と弟という関係がいやがおうにも改めて意識されてくる。そこで僕は姉から、彼女が人生で背負ってきた内面の葛藤を初めて知る事になる。

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ここで告知です。3年前にも演奏させて頂いた、栃木は益子の手作りパン屋さん「pain de musha musha and coffee」のギャラリーにて(お世話になっている)アヴァンギャルド音楽ショップ「Art into Life」の協力の下、3者による演奏会が行われます。10/6(sat)...もし連休で最寄りまで足を運ばれる方で興味を持たれた方がいましたら是非足をお運び下さい。僕は(相も変わらず)ディスコライトと車輪と金属ガラクタでガチャガチャ演ります(そして次の日は長女の運動会なのでそそくさと帰って来ます/笑)。

Art into Life
pain de musha musha and coffee

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ついでのタイムリーな話になりますが...僕には栃木に住む従兄弟がいて、3年前のムシャムシャの時も、次の年の日光でのライブの時も彼は(特に本人にインフォしてなかったのに)会場に観に来てくれていた。聞くと(決してマニアではないけど)こういうアート表現を味わう事に関心があるらしい。...で、ちょっと前に(別の親族的な件で)彼と電話で話した際、今、益子では「土祭(Hijisai)」という、この地域性を生かしたアートイベントが開催されていて、聞くと従兄弟の彼がその中の映像作品上映に関しての発起人としてバタバタと頑張っているらしい。(何度か言った事あるけれど)こういう地方の地域の特性を混在させたアートイベントというのがちょっと羨ましくもある。東京だと前提として情報の間口が広過ぎて逆に特化した地域性云々とは関係ない場だったりするので。

今月いっぱいまで開催中の「土祭(Hijisai)」も最寄りの方がいましたら足を運んでみて下さい。
土祭(Hijisai)2012

そんな僕たち孫にとってパラダイスだった友部の家は、大人になった今、改めて振り返れば祖父の持つ強烈な自己実現力と思想と美意識がいかんなく表現された、一つの大きな作品とも言える。それは(程度の差はあれど)例えばウォルトディズニーやマイケルジャクソンが己の理想郷をその実現力によって具現化したのと同類に思う。

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祖父と接してきた時間から感じた事はこの「思温荘」の家屋や取り巻く敷地全てが祖父の頭の中に俯瞰の空間意識として完全にインプットされているという事。例えば、僕たち孫はだんだん成長するに連れてこの友部の家に来ると、かつての子供時代のDIY的遊び場としての目的から変化していく...。まず家に着くと祖父が書いた紙があったりする。そこにはこの家の滞在期間中に「やるべき仕事内容」が箇条書に書いてあって、例えばそれは庭の雑草の手入れだったり、屋根のコールテン塗りだったり、雑木林に散乱してた小枝の集積だったり...。だいたい中学あたりからは友部への目的は仕事的な意味合いが強くなってきた。そして同じく祖父の筆による「働かざる者食うべからず」のメッセージも壁にある(笑)。そういう感じで、大人になって行く過程での友部は滞在期間中、与えられた仕事をして、帰り際に多少の報酬をもらう...といった形態になっていく。先のメッセージの通り、祖父は「労働」する事の重要性をこのような形で僕たちに教えようとしたのではないか、と今思う。「自然の物は自然に返す」...と言い、ゴミとなった生もの食材は土に埋めていた事からも、農業を通して体感した祖父の哲学が印象を残す。祖父のこうしたライフスタイルに対する完全主義に対して、僕は高校位の時、「祖父は(人生を作品化する)"ライフアーティスト"」だなぁ...と感じた事がある。どうみても影響は受けていると思う(子供の頃の友部の環境と体験も含めて)。

さて、そんな祖父の人間像を具体的に回想すると、さすがに強い個性故に様々なディテールでエピソードが思い起こされる。...コテコテハードコアなマルクスレーニン主義者の部分がベースにありながらも、それでいて語り口などは時折ユーモアを交えて話しを豊かに膨らましては笑みを誘うような話術が長けていた。とにかく祖父がどんな場に於いても輪の中軸になって、皆でその話しを聞き、時々面白ポイントで笑ったり、の印象がある。

僕が三鷹にいた小学生の時、当時家はどうにも貧乏で、どうやら母が祖父にお金の工面をお願いしていたのだろうか、ある時アパートに祖父が訪ねて来た。しばし歓談した後、いきなり僕に向かって手でピストルの真似して「手を挙げろ!」って冗談っぽく言った。僕は最初何の事だか分からずにリアクションに戸惑ってたら笑いながら100万円の札束をポーンと食卓の上に置いた。そんな冗談が好きな人でもあった。

いきなり断言するとしたら、祖父は「極めて自己中心的なロマンチスト」...という事が言えるかと思う。正月になれば子供や孫を集めてはその中心にいる。とにかく人を呼び寄せる磁力は強く、その輪の中で祖父なりの考えや思想を(時にハードに時にユーモラスに)展開している空間が幸福だったように思う。後年になる程面白い事に、祖父が敬愛していたレーニンに段々と似てきた(笑)。祖父は30代頃からすでに頭髪は無かったらしいのでその頭の感じも含めて「レーニンに似てきたよね--」とか従兄弟同士で言ってた。そして、以前何かの新聞記事でレーニンの人間性に触れていたのを読んだ事があり、前途した「自己中心的なロマンチスト」という気質も丸々そっくりレーニンもあったらしく、どこまで同細胞なのか(笑)。

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そんな祖父の気質が顕著になってきたのは、僕がハタチの時に祖母が亡くなり、激しい悲しみの中で何年も苦しみ、つまり伴侶がいなくなってからの祖父は(子供の時のような)冗談やユーモアとか、それ程言わなくなったし、その後の写真見ると明らかに(祖母を亡くしてからは)祖父から笑顔が消えてしまった感がある。独りになった祖父はその人間性がよりストレートに表されていく。...これは一般にどの夫婦関係でも言える事だと思うけれど、伴侶が存在している間はお互いの関係性によって自身の人としてのエゴなどは(良い意味で)バランス調整されているもの。それが片方いなくなった途端に歯止めが無くなり本来持っていた自我エゴがけっこう直接的に外に出てしまうもの(父を亡くした後の母もそういう感じがあった)。「あれ?おじいちゃんってこんなにワガママだったっけ?」...と親戚内で話した事がある。それでなくても強烈な自我を持った人だから歯止めを無くした分、そのエゴが(娘たちの)母などに向いていった。

祖母を亡くした次の年の1983年、83才の祖父は(かつて祖母と旅行した思い出に浸る為の)中国旅行へ行く、と言い放つ。周囲は(高齢もあり)反対したとは思うが歴史をみても祖父が一旦そう思ったら頑として実行される。そして「付き添い要員として」当時21才の僕と、長男の叔父でツアーに参加する事になった。30名位の団体ツアー、当然皆な初対面。共に観光地を巡り、そんな中、祖父は(持ち前の話術が時折ウケたりしつつ)徐々にこの団体の中心軸としての力を発揮してくる。そして驚いたのは、旅行の最後、成田空港で皆さんとお別れする際、祖父がその中心で一節ブチ始めた。...つまりは、かつて愛する妻(祖母)と巡った中国に関する想い出や、その時よく歌ってた歌の話などを皆の前で感情を込み上がらせながら語り出し、その想い出の歌を祖父は歌い出した。そしてその感情の高まりのまま祖父は泣き出してしまった。...例えば冷静にリセットするなら、海外の旅行の団体ツアーでたまたま一緒になった人たちがいて、通常だったら空港で「お疲れ様でした-」で事は済む所、一個人の想い出話をいきなり語られて歌を歌い、そして感極まって泣き出す...という光景は(どうみても)あまり無いんじゃないかと思う(笑)。同調して感情を入れた方もいたのかも知れない。しかし、この異質な余韻の残るこのエピソードを後年になるにつれて何度も読み砕いて回想する程、(前途断言した)祖父の「自己中心的なロマンチスト」気質がMAXで現れた場面だったと思う。ついでに、この時の団体で一緒だった人たちに祖父は呼びかけて(何と)後日改めて自宅の友部に皆さんを集めた。(10人位は集まったとは思うが)ランダムに色んな地方から集まったであろう人たちなのにわざわざ茨城まで足を運ばせる(まさに)磁力の強さは今思ってもハンパ無かった(ちなみに僕は当時そういうのとても苦手だったので不参加)。

同様に(その前年の)祖母の葬儀の際も、祖父らしいロマンチストっぷりが発揮された。友部の家でそれは行われたのだけれど、1から10まで父は(最愛の妻の旅立ちの)演出シナリオをこしらえた。...(好きだった)喜多郎だったか宗次郎だったかの音楽をエンドレスで流す中、妻の棺は僕たち孫が担ぎ、縁側からゆっくりと歩き、お茶畑の横にあるヤマブキの木の下を通過し、その際、誰それがその木を揺らして妻の棺の上に何枚かの花びらを落とす...そのままゆっくりとお茶畑の間を歩き皆に見守られながら「水仙の花咲く家」から旅立っていく...。感情を増幅させる術を直感で実行する祖父であり、全てそれは自分が感動する為の演出でもあった。

そんな祖父の気質と、僕の父の気質は実はまったく合わない所も今となっては興味深い。祖父はとにかく対人関係に於いて強引にでも自分の方に引き寄せる人。対して父は(時に家族に対しても)人間関係というものに対してその意識自体が希薄な男で、方やグツグツ熱く、方や虚無の塊...合うワケがない(笑)。例えば父は絶対に場の空気を気遣って取り繕う男ではない(できない)。印象的だったのは...場面としてたまに「祖父と父」が同じ空間にいる時はある。父にとっては(祖父は)義理の父ではあっても同じ思想を共有する同志としてのシンパシーは存在はしてるもの。しかしそれ以上に気質の色があまりにも違い、あれ程場の空気を自分の方に引き寄せる祖父ではあっても、こと父と対面する時は「遠慮してる」風だった。あの祖父が父には何処かしら「気を使っている」のが何とも不思議な余韻を残す。ぶっちゃけ父は祖父の気質には嫌悪感を持っていて、事ある毎に友部(祖父)の家父長的なやり方を批判していた。

その他、祖父にまつわるエピソードをランダムに...(これも父とは正反対の部分だけど)祖父はとにかく自分の思想や哲学などに反する「対象」に対して、ほぼ誰ふり構わず攻撃的になる。ちょうど昔、国鉄からJRに移行した頃、つまりは(祖父らが嫌悪する)民営化した事による商業主義路線に変わったのがそもそも気に入らないのは当然の事。しかし、それでも駅の構内で駅員がカードを販売している(つまりは商売)所まで詰め寄って行き、販売駅員に食ってかかっていて孫の僕は若干後ずさる。電車に一緒に乗ってても、たまたま空いてる席が無くても(立ってる自分の前に若者でも座っていようものなら)杖をわざと「ドンドン!」って床に叩き付け、その人が退くまで続ける(一緒にいる孫は気ぃ使うわ!笑)。タクシーの運転手ともよくやってた。最後にお金を払う時に運転手の返事が素っ気なかったり声が小さかったりすると祖父はやたら大きな声張ってそれを注意しつつ威圧する...。

僕がデザインの学校に行っててそのテの分野で動いている事も祖父からしたら一言言いたかったのかも知れない...ある時、国立の団地に祖父もいた時、僕に対して質問して来た。「デザインというのも結局はブルジョアな所があると思うんだがどうなんだ?」...的な事だった。僕は「...ちょっとしたアイデアや工夫によって生活を豊かにするもの」...みたいな返答してデザインが暮らしにとって必ずしも不要ではないような事を言ったと思う。...それにしても、デザインというキーワードで行われる会話に「ブルジョア」という言葉が出てくる家庭ってそう無い(笑)。まぁ、沢山譲ってデザインに於けるブルジョア気質って、ニュアンスを四捨五入すればそっちには傾くんだろうけど、それにしてもあまり一般家族では聞かないクロストークではある(歴史的な苦闘を乗り越えてきた生粋のコミュニストが相手となればこんな場面は珍しくもないけれど)。

もう一つかなり特異なエピソードがある。...僕が30になった時、祖父はかなり衰えてきてそう長くない事は現実になっていた。それでも精神だけは頑として健在だった。そんなある時、僕が友部を訪ねる際に祖父からある発注があった。聞くとそれは「家の一番外れの奥の部屋の扉の所にソビエトの”鎌と槌"のマークを描いてくれ(そこに信夫のサインも入れて)」...との注文だった。もはや祖父との連れ添い歴史に於いてその注文はさほど驚く事でも無くなって、逆に「おじいちゃんらしいな」...という反応。「デザインはブルジョア」と言ってた祖父ではあっても美術系の道にいる僕に、自分が死ぬ前の最後の「ダイイングメッセージ」として描かせようと思ったのだろう。...僕は祖父からソビエトの”鎌と槌"のマークのラフ描きの紙をもらい、それに従って白いペンキと刷毛を使って扉一面に”鎌と槌"を描き出した。L字型の家屋の端で描いている僕の過程の様子を確認するべく、そのL字の反対側の端の部屋のベッドにほぼ寝たきりだった祖父が、(自分で歩く事は困難になっていた為)通路の下の方に手で引っ張る為のヒモがずっと通路に沿って繋がってて、そのヒモを引き寄せながらゆっくりゆっくり向こうの部屋から祖父が床を這いながらこっちにやってきて出来上がりを見に来る。そしてその数ヶ月後に祖父は亡くなる。...こんな家族のシチュエーションはあるだろーか!ここまで来ると祖父の強烈な自我の貫きはアッパレである。つくづく貴重な人物を祖父に持ったと感じる。

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もう駄目だから最後におじいちゃんに会いに行く...という時、従兄弟数人と祖父のベッドを囲む。もうすでに祖父は声が出ず、それでも最後に僕らに何か手振りをして訴えてる。どうやら「皆なでオレの身体を拭いてくれ」という事らしい。それは実際のどうのこうのでは無く、最後にオレの身体を孫達にいたわられ触られたいという感情だった。とりあえず僕らは咄嗟にその辺にあったタオルとかで皆なで祖父の身体をしばらく拭いていた。最後の最後までそういう自我を感じさせる祖父だった(余談だけど祖父に対してため口で話す事は無かった。そういうもんだと思ってたら他の家族はけっこう普通にタメ語だったと知る)。


PS:後で思い出した(どうでもいい)エピソード...大抵子供の頃に友部に行く時は夏休みや冬休み。冬休みの場合は年末から行ってる事も多々あったので友部の家で大晦日から正月を迎える事も多かった。祖父母(と言ってもほとんど祖父だが)が見るテレビチャンネルは当然の如くNHK(水戸黄門だけは唯一の例外)。大晦日のNHKとくれば「紅白歌合戦」となる。子供の頃、この紅白がブラウン管に映ると内心(子供ながらに)気を使う事になる...つまりは、商業主義をどストレートなまでに「敵」とみなす祖父の感覚からすれば、あーいう娯楽エンターテインメントの世界はまさにその対象になる。(僕が小学生だったから)おそらく1970年代初期だろうか、紅白に「森進一」が映った。それを見た祖父が「このバケモノが!!」と叫んでテレビの電源を切って、この時の友部での大晦日が終了した(苦笑)。

...しかし、よくよくこのエピソードを大人になってから反すうする度に、(どちらかと言えば地味派な)「森進一」レベルで祖父がバケモノ扱いするなら、例えば後々の(電気仕掛けの万華鏡)小林幸子とか見てしまった時にはいったいどーなってしまうんだろう...と勝手に想像して恐ろしくなる。

今までは主に父に対するエピソードを中心に述べてきたけれど、僕がこの家族や親族/家系について回想する時、もう一方のとても重要な記憶の軸になるのが、祖父と、茨城県(旧)友部町の「思温荘(別称:水仙の花咲く家)」と名付けられたその生家に関してになる。

以前にも何度かブログで述べた事はあったけれど、僕はこの友部の家屋で生を受けた。僕の母がまだ産まれるかどうかの昭和の初期、それまで長野で教員をしていた祖父と祖母が共にレッドパージ(赤狩り)に会い職を奪われた後に、新たな人生を始めるにあたり農業を開業する事になり、その地として選んだのが、西茨城にあった羊の病気治療用に使われてたという、L字型の独特な西洋風のモダンな家屋を祖父母がとても気に入り購入した。

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僕が物心ついてきた頃、夏休みや正月休みなど、その度に母の実家であるこの友部の家に休みの間けっこうずっと過ごす事が習慣になっていた。(前途したように)僕の家は貧しく、そんな当時の東京/三鷹のちっちゃいアパートから電車に3時間揺られて友部駅に着き、ハイヤーに乗ってやがて細い畑道をガタガタ揺られた先を右に曲がり、まるで吸い込まれるかのように暗闇の雑木林の中をまっすぐ行くとやがてその向こうに鈍いオレンジ色で燈された「思温荘」が見えてくる。幼さ心の僕にとって、例えば三鷹のちっちゃいアパートが日々の現実で日常だとしたら、この友部の家はまるで非日常の、まるでお伽話の世界に自分が入って行くような感覚があった。実際、友部駅に夜着いた時はまだ現実だけど、やがて雑木林が近づいてくるあたりから徐々にお伽話の世界が入り込んできて、だんだんと気持ちがワクワクするようなソワソワするような奇妙な感覚をハイヤーに揺られながら味わっていた(隣で一緒に揺られてた姉もおそらく同じような感覚だったと思う)。それくらいに三鷹のアパートと友部の家との世界のギャップコントラストは子供の僕に強い印象を与えた。

この頃の僕のエピソードで親戚からたまーに今だに語られる事がある。子供の頃、しばらく友部の家で休みを過ごし、やがて帰る時、電車に乗った途端に僕はいつも泣き出すという。聞くと「家に帰りたくない(もっと友部の家にいたい)」と泣いていたらしい。三鷹の狭いアパートの現実に戻るのがそんなに嫌だったのか、今、同じ親の立場からするとちょっと切ない(笑)。...ただ、今となっては三鷹の、アスファルトと町工場と空き地と捨てられた砂だらけのエロ本などの環境も後の僕の感性のバックボーンの一部にはなっているのだけれど。

子供の自分にとっては祖父(おじいちゃん)というのはコテコテでハードコアなコミュニストとしての祖父の本質なんてその頃は知りもしない。...夏休みには雑木林の木カブに群がるカブトムシを虫カゴ一杯に詰め込んだり、木を削って駒を手作りして遊んだり、カゴしょって林の中を歩いて(もう今となっては貴重な)ゴエモン風呂に焼べる為の木屑を集めたり(ただこの風呂に入る際は木板を敷くとはいえ火の加減が原始的なのでだいたいガンガンに熱い)、胡桃の木に吊されたブランコで遊んだり、雑木林の中でハンモックで揺られたり、飼ってた牛の絞りたての牛乳を飲んだり(この濃厚な自然テイストを味わってしまうとスーパーのパック牛乳は水のよう)、両手の平くらいに大きな蛾が飛んでたり...つまり、特に小学生位までの僕たち孫にとって、この友部の家の環境はほぼ理想的なパラダイスでもあった。そしてその背景として祖父母が居る感じだった。

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祖父と共に凧を作って飛ばしたりもした(ちなみに真っ白い凧の表面には祖父が墨で「平和」と書いた。そのテイストチョイスはさすがに一般のただのDIY工作では終わらないメッセージがインされる...笑)。僕ら孫は、その「平和」の凧を空高く上げた。

僕がハタチの時にここで祖母が亡くなり、30の時に祖父が亡くなる。1992年に(完全)無人となったこの「思温荘」は、逆に無人となった事で不思議な「磁力」を親族たちに放ち出す。家の中の隅々に完全なまでに展開・表現された、祖父のメッセージや美意識が何もいじる事なくそのまま時だけが何年も経っていく。そしてこの家屋は築70年以上になり、朽ちた雰囲気と自然に溶け込みながら、現存する記憶の風景として、無人でありながら(母ら姉妹や)従兄弟関係や、そして僕も何度となくここに訪れては静かに佇む時間を送ったり写真に収めたりしていた。と、同時に...このような家屋と周辺環境と強い信念や美意識に基づいて表現された理想的な住空間は今後、引き継いで再生するという事は不可能である事も皆な暗黙の意識の中に自覚していたと思う(だからこそ、この風景を後に「記録」する行動が続いていく)。

数年前に道路計画により完全取り壊されるまでこの「思温荘」の環境は関係者に少なからず影響を与えた。そしていよいよその取り壊しが現実化した4年程前、僕ら孫の世代が中心になって親や関係者・この「思温荘」と関わってきた方々を集って「お別れの会」を行う。その際の詳細は当時のブログ記事を参照して下さい(2008年8月から9月にかけて)。

「水仙の花咲く家」お別れ会

ずっと愛用していた眼鏡がとうとう壊れた。長女が勢い付けて振りかざした顔が僕の眼鏡に当たり、若干フレームが曲がった所を(ちょっと強引に)力で戻そうとした時にポキッと。...10年以上は使っただろーか(歴代で一番寿命は長かった)。それまで何度も落としたり、歪んだり、踏んじゃったり、2年前はバイク事故であり得ない角度まで曲がったり、つい先日は突然何処かに消えてしまい、探せど見つからず(結局ソファの端っこに隠れていたのを偶然べにこが発見)。...そんなこんなを乗り越えて、か細いフレームながらも頑丈に持ちこたえてきただけに、このお陀仏は実は軽くショックでもあった。

とりあえず以前に(眼科で勧められて)購入した遠近両用眼鏡を使用してはいるんだけれど、やはり最後の所で目が馴染まない。「眼鏡は顔の一部です」...とは改めて良く言ったもんだ。

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何度か述べてきたように、親や祖父らが強烈に提示してきた生き様の継承を子孫に託すべく、コテコテのコミュニストである祖父と父の字を取って僕は「信夫」と名付けられた。それはすでに父や祖父と同じ道を継承して歩んで行って欲しい...といった、暗黙のメッセージが刻まれている事を意味していた。そして、やがて僕が成長し、物事を把握する年頃になるにつれて、(今思えば)この名前に対する僕の回答(立ち位置)を、(別に親や祖父らに言う事ではないにせよ)自分の中だけでも「自分はどのように捉えてどの考えの位置に立つのか」...という自分なりの回答を、時々思ってはまた遠ざかって、また何かのきっかけで考えたり...と、自分の人生の何処かしらに必ず見えたり隠れたりしている、つきまとってきた(密かにデリケートな)問題ではあった。そこで、今の時点まで、僕なりにこの問題に関して感じたり考えたりした事を(とりとめないと思うので)ランダムに乱記します(吐き出す感じなのでどんなに長くなるか分かりません)。

...僕が今までずっと自覚的に意識してこだわってきた部分というのは...親や家系があらかじめ敷き詰めていた道筋があったとして、だからと言って僕が歩んで行く道筋は、絶対に自分でゼロから探して試行錯誤して失敗して獲得して...その道筋の選択の自由を得る、という事だった。性質性が強い特種な世界を親や家系が持っていると、大抵そこで生まれ育った子孫はその道筋に従順に自分の人生をはめ込む場合は多いかと思う。もちろん純粋に親や家系の道筋に影響を受けて、自身が自覚的にそれを選択するならいいのだけれど、そこに最初から選択の自由が無いのは嫌だった。とにかくフラットな状態で判断して行きたかった。...我が家の場合、例えば親なりがもっと権威力を持って高圧的に子供に対して選択の自由を与えない方針にしていたら、僕はもっと明確な反発行動を起こして事は済んだかも知れない。しかし我が家は(父や祖父の)存在としては絶対的な雰囲気は持っていたものの、子供や孫に対してはあからさまな継承要請はしなかった。ただ、それ故に、僕としては自分なりの思いや考えのポジションを見つける精神作業を投げ出せない部分があった。

まず、子供の頃から...(何故)父や祖父らが誇りを持って正義や真実の為に動いてきたものに対して、社会や世間からは嫌われている(ように思える)、または排除的な印象になっているのか、その疑問はあった(親族の従兄弟からも同様なエピソードは聞いた事がある)。世の中全体が軍国主義に染まる中、それに反発して身体を張っていた様(サマ)は誇りに思うのに、社会主義者/共産主義者はとかく世間では嫌われていた。その両方のギャップ、ズレは何なんだろう...という所から僕の回答探しは巡っていく...。ただ、僕の場合、専門的な学習という展開には(性格上)なれないので人生の過程で経験した断片からの判断になる。

まず、感じたのは(前にも述べたけれど)社会主義体制に特徴なものとして、その組織が全くもって「一つの思想/考え」の下に集っている事で、ある意味ではその統一感・団結感は素晴らしいのだろうけど、反面、その性質に若干の不自然さも感じていた。僕が成長と共に考えてきた事の一つに「人は元々皆なデコボコ」...みたいな感覚があり、人はそれぞれ考えも違えば感じ方も違う、だから面白い...という考え。ただ、政治や組織や体制でそのフラフラした考えは多分通用しない(笑)。ましてや今の社会体制をひっくり返して新しい体制を作る為の目的の下での組織だとしたら、そんな生半可な考えでなく、もっと強固に一つの強い信念の下に凝縮されなくてはならない。...そして、その組織的な使命感の永続的な遂行...といった部分ですでに僕は(希望的)脱落を要してしまう。言い直すと...人は色んな考えが多面的にあるからこそ豊かで面白いのに、考え方を一つに統一させている組織という体質に対するやんわりとした拒絶感...。考え方の多面性...それを承認してしまえば大義目的の組織は力が分散してしまうので成立しない。組織論としては納得出来るけれど、僕自身に置き換えれば、そこは自分の生きて行くべきゾーンではなかった。今では(同じ活動仲間の事は)「同志」と言われているけれど、かつての時代は「細胞」と言っていたらしい。個人主義の僕の感覚からして、「同じ細胞」...という命名がすでに(時に生理的に)受け付けられないニュアンスが正直あったかと思う。...加えて、例えば両親や祖父母らの取り巻く人間関係って、まず自民党や公明党支持者らとは友達になる事はないと思う(笑)。とにかく同思想を共有する人脈の中で生きて行く(ただ、中で見てきて、それもとても幸せだったけれど)。それも僕の感覚からしたら、その人の考え方の差異で自らの人間関係をあらかじめ制限してしまうのが嫌だな、っていうのもあったかと思う。「同じ」である事よりも「差異」を確認する意識の刺激の方が自分にとっては重要だった気がする。

(繰り返しになるけれど)組織として生きるか、個人として生きるか...その2者の選択だけだとしたら僕はすでに答えは出ていた。それは単純に(親が選択した)「政治の世界」と、僕が選択した「芸術の世界」との、あまりにも種類の違う両者の食い合わせの悪さという事でもある。芸術の世界は「いかに他者とは違う、独自の感覚を持つか」...が前提となる。政治(組織)活動では(稀に独自の理論なりが生かされる事はゼロでなないにせよ)大方の体制は、トップの指導者がいて、以下、それに属する組織員が同一化する...という形式になる。そうなると、そこに僕が没入したくなる要素は無かった。芸術の本質の一つに...そこに真実が隠れていればそれが社会的であろうと反社会的な性質であろうとタブーとされる壁は(表現に於いては)全く無い。(政治的/思想的な)「敵と味方」に分かれた図式は無く、もっと人間の根源の部分と向き合う分野だからこそそこに本質を感じる。...僕は自分が作家タイプかどうかはわからないけれど、表現者としての作家が個人として社会と対峙しているサマの方に僕は魅力を感じる。大きな目的意識の下に組織化され、その中に個人が埋没しているサマが僕の生き方からすると息が苦しくなってしまう(例えその大義が正しかったとしても)。...たった一人の個人が社会や世界と対峙し、成し遂げようとしてきた作品に刻まれた内的宇宙に惹かれてきたし、影響を受けてきた。例えそれが作家でなくとも、僕は個人の力で成し遂げようとする起業家や事業家に対しても同様の思いはある(単純に"一匹狼"に対するシンパシーなのかも知れないけれど)。

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現在の歯止め効かない新自由主義が社会全体にダメージを与えている中で、ずっと社会的弱者の目線に立った政策は正論だとは思う。しかし、まだ(上手く言えないけれど)ウブ過ぎる感じがある。過去にビートたけし氏が「弱者の立場を盾に取っている気がする」...というような発言をしてたのが僕の中で残っている。清く正しく美しいだけでは力は弱いと思う。世の中には「必要悪」というものがあるように、清く正しいだけの範囲からもう一つ何か「したたかな強さ」が無いと弱体したままだと思う。冷戦の時代とは時代が変わり、アイデンティティの位置づけも曖昧になってしまった。

昔、古本屋でたまたま買った(詩人の)萩原朔太郎のエッセイ本の中に、このテの事に言及してる一節があって、これも印象に残っている。「共産主義/社会主義者は、外部に敵がいて、その敵を倒せば幸福になると思っている。敵が見えるというのは幸せな事で、本当の(人間にとっての)敵というのは人間の内部にある...」そんな感じだったか。さすがに政治家ではなく詩人ならではの一節ではあるが(笑)。ただ、それを抜きにしても、確かに言えるのが、(前途したけれど)「敵と味方」の対立構造って対象となる敵を倒せば自分たちや世界が幸福になる...という考えは、僕はあまり反応出来なかった。

正論なのに世の中から拒否反応を起こされる...その最たる要因として、諸外国の社会主義国家のイメージがあまりにも悪い...という事もある。僕も一時期その部分に引っかかっていた。...一党独裁の中国による(言論や芸術・文化を武力によって制限弾圧する)毛沢東の「文化大革命」なんて冗談じゃないって思ったし、かつてのルーマニアのチャウシェスク独裁では(国民の事を)「我が子供」とか言って支配してたりとか、そして北朝鮮とか...。社会的正義の為の活動として親や祖父らの携わっている組織と、それら諸外国の社会主義国の悪しきイメージとのギャップ・コントラストを僕はどう捉えたらいいのか...貧しい知識の中で自問自答してたりした。ある時、その疑問を親にぶつけてみた時が(確か)あった。あまり明快な回答は無かったような印象だったけれど、要は「他国は他国で、自国とは関係ない」ようなニュアンスだった(まぁ、そうなんだろうけど)。

...そんな中、確か僕が30前後の頃だったか、父と2人っきりの時があり、ふとした流れでこのテの話になった事がある。父からは社会主義の国になればこういう利点がある、ような事を聞いたと思う。僕は僕で上記したような疑問に感じてた事などを思い立つままに父に話したと思う。僕もそこそこ大人になってたし、父も老いてそこそこ穏やかで...つまりこのひとときでの父と息子は、実は初めてこの事をテーマにした対話をちゃんと向き合って話した...とても貴重な時間だったかと思う。...僕は僕で「何で○○は○○なの?」とかざっくばらんに(それでいてテーマがテーマだけにそこそこの緊張感はあったかと思う)。父は話ながら僕に対して(おそらく最終的な)組織への誘いの思いが根っこにあった感じがした。それでも僕は安易にはなびく事無く、自分なりに不透明な部分があるままでは返事はしなかった。ただ、父の話で印象的だったのは...(こういう時の父の良さは高圧的/教義的には言わない)父なりに率直な言葉で、「ある特定の巨大な資本家が利益を独占する事ない、公平な世の中を目指している」...ような類いの事を言ったのだけれど、それに対する想いが(老年になったその時でも)純粋で清々しい余韻を残していた。実際はそうでも無かったのかも知れないけれど、今、その時の事を振り返ってみてそのように感じるという事は、僕の中で父はそのように映っていたんだと思う。そして父が話しながら理想とするその世界を僕も想像してみた...そこで僕が浮かんだ言葉は「ユートピア」だった。このワードは実は受け方によって微妙にニュアンスは変わる。父が話した世界は(もし、それが本当に実現したら)まさに理想郷(ユートピア)だなぁ...と、僕は明確に思った。思ったと同時に(反面)、その理想郷に現実感を完全には感じえなかった、というのも正直な感想だった(ちょっと宗教の世界にも通じるような)。「公平な世の中」は誰もが望んでいる。しかし、「公平さ」を完全なものとして社会に強いるとしたら、それはそれで無理がかかる制限された社会にもなる。行き過ぎた資本主義や社会的弱者への保障など、ルールとしてコントロール出来る枠組みを作れれば、それ以外はデコもボコも色々あって社会が多面的な表情を持った世界の方が(芸術エリアからの)僕は魅力を感じる...って思った。

ただ、やっとなし得た、父とのこのような自由な感情のままにフランクに対話するような時間がその後も必要だったし、そうしたかった。しかしそう思った時にはすでに父はそれ以前の、健康に致命的な問題が発生し、やがて息絶えてしまう。...結局、父が意向にしてた、同じ道筋への誘いに対して僕は最後の最後では頑としてなびく事はなかった。そしてこの対話の最後に父はボソッと「....信夫は頑固だ。」と言った。そしてそれを最後に父は一切この関係について僕には触れる事はなかった。

ダラダラと述べてきたけれど、最後に、僕なりに(信夫という名前に対する)回答の着地点で今の所最も落ち着いた所というのが...かつて友人と(何となくこのテの)長電話になった時に、その彼が言った言葉が僕の中ですっと程よく収まった。それは(社会主義体制は)「(社会の)システムとしては成り立つけれど、思想としては無理がある」...という事。社会のシステムの形として社会主義的な形態を実現する事は可能だけれど、その思想までを統一コントロールする事は出来ない。...僕にとっての回答の着地点は今の所ここに落ち着いている。...余談だけれど、僕がある時期から(クリェイティヴな活動を通して社会と関係を持つようになってから?)名前を「信夫」からカタカナの「ノブオ」にしたのも、親や祖父らの、「信夫」の名に込めたメッセージから(無意識に)解き放たれたかった表れだったようにも(今思うと)感じる(これは半分以上後付けかな?...笑)。

右翼だろうが、左翼だろうが、皮肉な事に、その両極が対立軸として成立・機能していた時代の方が分かりやすく対立力がバランスを作っていた。しかし現在はそんなイデオロギー対立が曖昧になり、より、自分でその立ち位置を探っていかなくてはならなくなった。...以前に聞いてたラジオで、人類学者の中沢新一氏が「グリーンアクティヴ」という新たなネットワーク組織を立ち上げ、現在の政治や文化や社会のあり方に一石を投じる動きを始動させた...との話の中で、ある意味正反対の(右翼系の)一水会の鈴木邦男氏も同組織に誘った経緯が興味深かった。鈴木氏にすれば何故右寄りの自分にオファーしたのか中沢氏に尋ねた時、「今は右を見たり左を見たりする時ではなく、前を向く時なんです」...みたいな事を言ったと言う。(この団体についてはそれ以上は知らないけれど)この中沢氏の言葉は、単なる言葉遊びの範囲を超えて現在、ある説得力を持つ言葉に思えた。

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