barfly diary

daily voice of nobuo yamada (abh) / since 2005 https://www.abh-oto-yamada.com/ https://www.instagram.com/abh_yamada/

November 2012

前回に引き続き、後半のノートです:

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5/22(母)
信夫は家で元気に過ごしているくせに保育園へ着いた途端、大人しく恥ずかしそうにしていて驚いたと、付添った妹が言っておりました。集団の中へどうしたらとけ込めるか、私も我が子ながらじれったくなります。恐らく何かのきっかけから一つずつほぐれていくのだろうと思いますか?今のところお友達とは気持ち良くふれ合っているみたいです(これは先日迎えに行ってこっそり遊びを見ていたときの感じでした)。先生方に色々ご苦労をおかけしておりますこと、恐縮に存じますがよろしくご指導下さいますようお願い申し上げます。

5/31(M先生)
お昼はよく食べました。速度は相変わらずノロノロですが、気にしない事にしています。いつの間にか食べてしまって私の方を見てニッコリしてくれました。私も三倍位愛想良くニコニコしてみせるとすぐに外に出て行ってしまいました。信ちゃんなりに集団に慣れていってる姿が見られます。最近はバスの乗り降りにも非常に成長が見えます。

6/1(母)
おかげさまで朝嫌がる事も殆どなくなりました。昨日はとくに家に帰ってからすごく元気で陽気に騒いでいました。

6/5(M先生)
このごろニコニコとして信夫君なりに園生活を楽しんでいる風です。お鼻もきれいですし一段とお兄ちゃんになったようです。

6/18(M先生)
お弁当がおやつまでかかってしまい、お昼寝はさせませんでした。色々心づてのものを持って来ますが、あまりにも色々あり過ぎる事がありますね。夏みかん、パン、牛乳、園の給食と並べてのろのろ食べているのではいつまでかかるかわかりません。今日もお弁当と牛乳を持って来てましたが、かなり牛乳の方が負担になっていたようです、考えて下さい。

6/22(M先生)
元気で一日を終わりました。なかなか皆と同じようにお返事やおゆうぎをしてくれません。

6/22(母)
お返事は大きい声でなく、小さい声でするんだと云っています。家で2-3度おけいこさせてみましたが明日はきっとお返事する約束になっていますのでしなかったらちょっとお知らせ下さいませ。

6/23(M先生)
小さい声で返事をしているのかも知れません。何しろ手は肩の所まで上がるようになっています。ただ声には出していません。ささやくようなお返事がもれているのかなと思います。折紙、せいさく、ハサミの使い方なんかとても上手なのに何でもっと遊びの面、生活の面で活発でないのでしょう?おしっこの時も自分で自発的に行く事はなく、よくよくの時は泣き出します。私が気をきかして時々「おしっこ?」と尋ねますとそれこそかすかに微風にゆれる草の様にごくかすかにうなづいたり横にふりかけたりします。隣の子供につっつかれると子供同士はニコリと笑いあっていますが、それ以上には発展して行きません。

6/24(母)
全くはにかみ屋で困ったものです。明日はもう少し大きい声でお返事すると本人は云うのですが...しばらく長い目で....よろしくお願いします。

6/24(M先生)
今日はかすかではありますが声がもれました。「ハイ」と。えらいえらいとほめてあげますととても元気でニコニコと遊んでおりました。

7/13(M先生)
お返事したりしなかったりです。名前が呼ばれて次の動作に移るのが他の子供より2、3倍の時間を要します。

9/2(M先生)
信夫君、まだ9月半ば位までお昼寝をさせます。

9/10(M先生)
朝のお返事がとても上手になりました。見ていますと意志みたいなものを内にしっかり持っていて、気に入らないと静かではありますが強く抵抗します。彼なりに結構楽しく上手に園の空気を吸っているように思えます。

10/15(母)
今度の運動会についての記事を読みまして、先生のご意見は全くその通りだと存じます。私の場合、信夫がのろのろながらも得意そうに走っている様子を見て、昨年の状態にくらべやはり成長したことにホッとしておりました。ところが玉入れの時はお並びしている時から泣いており、出場しても玉を投げも拾いもせず、ベソをかいており、疲れたにしては少し様子がおかしいので戻ってから聞いてみますと、おやつに食べたアメを丸呑みしてのどが胃の辺りにつかえていたらしいのです。あわてて水を飲ませてすぐなおりましたが、こんな時、自分でちゃんと先生にお話できるようにならないといけない事はあとで本人によく言い聞かせました。ご迷惑をおかけし、すみませんでした。

ところで信夫は園であったことのあれこれを夕食を食べながら姉と競争で報告するようになりましたが、まだ先生やお友達に自分から話しかける事は全然ないものでしょうか。一度伺ってみたいと思っておりました。全体の事はのろくてもついていければまあまあですが、そろそろ意志表示をちゃんと出来るようになって欲しいと思いますので。

10/15(M先生)
玉入れの時は私自身気がつきませんでした。お母さんさぞご心配でしたでしょう。すみませんでした。信夫君は自分から私達に話してくれる事はありませんが友達同士ですと目を見張る様なふざけ方をしたりしています。そんな時の顔はさも楽しそうに顔中口にして笑っています。でも信ちゃんのお母さんは同じ様なお仕事をしていられる故か細かい理解を持っていて下さり私共ありがたく思います。

10/25(M先生)
毎日お弁当がビリでひどい時はおやつと一緒になります。一粒ずつ。おかずですともやし等一本ずつ口に入れているので「もっとたくさん食べてごらん」と言いますとジロリとにらみつけます。最近気に入らないとじっと見つめる様になりました。以前は目が合うと下を向いていたのですがそれだけ進歩したのかすれたのか....。

10/28(母)
どうしてお弁当が遅いかと聞くと「しみずくんとおはなししてたんだもの」との事です。量を加減してみたりよく言い聞かせますがどうぞきびしくご指導下さいませ。

11/8(M先生)
お迎えの時は(5時過ぎる場合のみ)オヤツを持たせて下さい。他の子供は持って来ていますので一人だけ無いのはかわいそうです。10円のキャラメル程度のもので結構です。特に暗くなると急に元気がなくなり、お腹は空くし心細いらしく、オヤツによって大分救われています。

11/9(M先生)
お弁当の量、多過ぎます。

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以上で年中期のM先生と母との連絡ノートは終わっている。前半、後半と読んでみて、いくつか(当人としても)ポイントがあげられる。...すでに全面的に露呈されているように、園児ののぶお君はクラスの中でも(ほぼ)最も集団でのコミュニケーション能力が劣っていて、友達同士というフラットな関係性に於いては自然な態度を見せられるけれども、縦の関係には恐怖心がある。集団という一つの(強いるべき)活動ペースに合わせる事が出来ない。しかし、反面、一人で創作などに向き合う時には能力を発揮する。他者から何かを指摘されると抵抗心が働くなどなど...。

ここで40数年振りに発見された事は...それらの(3-4才時の)僕に関する客観的な他者からの評価の内容はまさにその後の僕の人生の展開に則したルーツになっていた。「集団の中では異様にタマシイが萎縮する」「回りのペースに合わせる事が苦痛」「自分のペースに於いて創作に没頭する時間が己を豊かにする」...実際に、僕がタマシイを自由に開花させたのは学校生活から解放された後で、自分のペースで生き方を模索して、好きで没頭出来る事を探して見つけて、そこに没頭して...という、ここまでの僕の人生の展開の(それらは)根源になっていた。

しかし、それにしても冒頭に述べた「保育園期の記憶がほとんどない」...という事も、あまりに僕がダメダメだった故にそんな事すら覚える能力が備わってなかったのか、もしくはそうであったのをすでに自覚していて自らその記憶を消そうとしていた結果なのか...色々憶測もしてしまう。


...ここで、あまりにもダメダメなだけでこの項をただ終えるというのも何だか悔しいので、最後に自分でフォローしたいと思います:

「明るく元気」という性格が特に園(そして学校)の時期では当然の如く良質に評価される基準であるが、僕自身、その後の人生を40年以上やってきてその経験から実感した事は、「明るく元気」な、先生の評価に正当に則した優等な子は結局「そこ留まり」の人間である事が多々ある、という事実。そこが評価の平均基準だったとして、その後の人間の活動の展開として、その基準からポジティヴにはみ出す人間やマイナスにはみ出す人間は後々何かしらを「しでかす」要素を密かに持っていたりする。僕の場合、当然後者のタイプで、正直この連絡ノートを読むまでは自分はそこまで(集団の基準に対して)劣っていたとは思ってなかった。このノートの限りでは、明らかにこの頃の僕は何かが「欠落」していた感じがある。しかし、その後の学生時代の渦中ではどこかでその「欠落している」自分に対して激しいコンプレックスを背負いながら生きていたのだけれど、それはあくまでも「自覚」としてのそれだった。今回のノートが(自分的に)軽くショッキングだったのは、他者からの決定的な評価がすでに下されていた事実を知った事。僕が小6の時長野に転校した際、担任先生に(同行した)母が「内気な子ですがよろしくお願いします。」と言ったのが内心ショックだったのを覚えている。つまり、内心薄々とそういう部分は自覚はしているんだけれど、何処かで違うとも思いたい。しかし、(やはり)母もそういう風に僕に対して感じていた、という事が心にちょっと傷をつけた。「やっぱり僕はそうなんだ...」と自覚だけのコンプレックスが他者からも再度被さってくる。

「平均の基準からマイナスにはみ出す」...しかし、何かが決定的に欠落した人はその分他の部分で思いがけない程の豊かさを発揮する(後々何かしらをしでかす)...という事実(真実)を知るにはその後30年程待たなければならない。そういう意味では少なからず僕の人生の過程に於いて欠落した部分を反動にしたような、内なるエネルギーを沸騰させるようなベクトルを(20代後半位からやっと)持つ事ができた。僕自身の人生はその頃からやっと始った感がある。逆を言えば、人の平均(平均って何だ?)から決定的に何かが欠落したものを抱える事は(ある種の人間にとって)幸運とさえ思う。そこにこそ宝がある。独自の。


話は変わり、今、父としてもちょうどべにことこのノートをダブらせてもみた。...普段、食事が遅いだの、皆の中ではちゃんと大きく声を出して挨拶できないだの、先生に話かけられないだの、べにこに関してもそういう日常があったりするが、「どのツラさげてそんな事言えるか!」...と、父自身の園児記録の前では考え改め中になる。かつての父の欠落に比べればべにこなんてまったくノー問題の範疇。それでもいくらかべにこが今後同じ様な悩みを抱えるようになったとして(遺伝子同じだし)、上記のような「欠落こそ人の宝」みたいな事を言っても実感として得るにはやはり30年位待たなくてはならないかも(そしてその時すでに父は居ないかも...そこが淋しい所)。ただ、そんな父だから?言える(言いたい)事は...集団(社会)というのは機能させる為に一定の同じペースというものを要求するけれど、本来人は皆な「自分の呼吸するペース」というのがある。その自分が生きていくべきペースだけは(周期に振り回される事なく)頑固に貫いて欲しい。それがいくら回りと比べて遅かろうが。/あと、例えばこのノートでのM先生による激しい指摘内容をそっくり今のべにこに(あえて)置き換えたら...さすがに親としても心配がMAXになると思う。そう考えると当時の母にはかなり精神的にも負担をかけてしまったんだなぁ...と、申し訳なくなる。


PS:余談のポイントもう一つ...ノートの中にM先生が母に対してお弁当や牛乳やみかんなど多過ぎる....という指摘があって、これは息子としてウケてしまった。...母を取り巻いていた親族関係者なら分かる事なのだけれど、母はとにかく(何かっていうと)持参する食物がトゥーマッチな人で、例えば家族数単位で旅行とか言っても、なるべく身軽に行きたいのに母は一人でみかんだの牛乳だの(時には飲みかけの牛乳に洗濯バサミで止めて持ってくる)お手拭きタオルだのおにぎりお菓子バナナ等々、それだけで荷物が膨れ上がり、車に詰めるもそのせいでスペースがキツキツになり毎度いら立つ...というパターンを何年もやってきた。昔からそういう母のパターンが貫かれていたとは、これも興味深い発見。

例えば人と話していて「自分が保育園(幼稚園)の頃の記憶ってある?」...って類いの話になった時、意外にも人はその頃の記憶ってちょっとあったりする。で、僕の場合、ほとんど記憶に無くて、それでもその中でも一番強く覚えている事が、ある朝、園に着ていく自分の服に異様に大きなボタンがあしらっている服を母親に着せられ、それが嫌で嫌でそれを着て行きたくなくてかなり泣きじゃくって抵抗し続けた...という記憶(今、その状況の親の心理を察するととってもシンドい...)。あとは運動会で「よーいドン!」のピストル音に驚いて走らず泣いていたとか(これは見にきてた親戚の叔母の証言)...その程度。...つまり、自分で記憶が無い分、逆を言えば「自分に都合良く」保育園期をまとめてた(って言うか気にしてなかった)って事で現在に至っていた。

...が、しかし、今回の母の遺品整理作業に於いて出てきた僕の保育園期の、母と園の先生との(黄ばんだ)連絡ノートを40数年振りに(って言うか初めて)読み開くと、そこには「自分に都合良く保育園期をまとめてた」曖昧な記憶を思い切り床に叩き付けるかのようなシビアな現実を2012年に突きつけられてしまった。その連絡ノートは2冊あって、園に入って2年目(年中)と次の年の年長時のもの。年中時のノートによると、その時のM先生(当然全く記憶すら無いが)の、母に宛てたノートの内容(つまり3-4才時の、のぶお君に対する評価)の文章がかなりキツい。だんだん読んでいけばそれだけ子供に対して熱心な姿勢の表れ...という事も分かってはくるが、それにしてもストレート過ぎる程に突き刺す気質のM先生の言葉は、(40数年経ってるとは言え)今の僕が軽くショックを受ける程のインパクトだった。要は(自分が思ってた以上に)僕は相当「ダメダメっ子」だった事実の証言記録。以下はそれらのM先生と、それを受けた母(当時30代前半)とのやりとりを抜粋して掲載してしまいます(長いです)。...ストレートにぶっ放すM先生に対して、意外にも母も母なりに時には応戦したりのやりとりがしばし興味深く、当時は母もM先生と同様に同業の仕事をしてたのでそこのプライドも見え隠れしてるサマも含めて...。

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「ひよこ組/やまだのぶお:連絡ノート」pt.1(1965)

4/10(M先生)
新しい子供で手が一杯なのでついつい2年目の子供は放っておかれてしまう現状です。でも本当に何もできませんね。何もやろうとしませんね。動作ものろく意思表示もあいまいです。これで2年目かと思うと疑問を覚えます。家ではどの様な態度で子供にのぞんでいらっしゃるでしょう?時間はかかっても自分で何でもやらせる様、仕向けていますか?もっと明るくもっと元気があっても良いと思います。

4/15(M先生)
お返事が出来ません。信ちゃんとあと一人、新しく入った女の子と二人だけお返事が出来ません。

4/17(母)
半年あまりの信夫なりの経験で、保育園の楽しさはわかったようですが、体が慣れないためしょっちゅう風邪をひきますし、4月に入っても新しいお友達に囲まれたためか、やはり疲れる様子です。朝ぐずったりする事がなくなれば、この子としてはずいぶんの進歩だと思うので、まずこのあたりを当面の主眼にしてあります。(中略)お返事ができてはきはきとしゃべる状態になるまでにはおそらく1年ぐらいはかかるのではないかと思います。家ではふつうにしゃべったり歌ったり(歌がとても好きで一人遊びしながら鼻歌です)大人の言う事もこの子なりに理解できるようです。

集団生活から洩れるようでは残念なのですが、この子の性格上しんからとけ込むまでは時間がかかるのではないかと思います。この頃、私がついけわしい声を出すと「おこっちゃだめ」と言って泣きますので気の小さいところがあるのでしょう。昨年7月からお願いしましたものの、今年1月に入ってようやく満3歳になったところですので何かにつけお手数をおかけしています。さらにご意見ご指導をお願い申し上げる次第でございます。

4/20(M先生)
だまって見ているとおやと思う程生き生きと遊んでいます。あれこれひねくりまわして眉をひそめているのは熱中しているせいでしょう。一度目が逢うとニヤリとしておしまいになるので気付かれないようにチラチラと見ています。

4/21(母)
昨日迎えに行きました。帰る時、初めて一人で「さようなら」のおじぎだけ、できました。

4/21(M先生)
嬉しいお便りです。I先生も「信ちゃんさよならができたのよ」と教えて下さいました。又さよならができなくなるのかも知れませんが、一進一退しながらそのうちいつの間にかしっかりした子供になっているのでしょう。それで良いのです。

4/26(M先生)
食事が大変おくれます。食べる事自体がもうおくれています。家ではどうですか?

4/28(母)
よく遊んだりしてお腹がすいていれば食事は自分で一生懸命食べますが、そうでない時は食べ方ものろく、すいません。保育園から帰ってすぐ戸棚を開けて朝食べ残してあった茶碗を出して食べ始めるのがこの頃のありさまです。

4/28(M先生)
扱い方によってかなりの可能性があるらしい事を発見しました。希望が持てます。

5/9(母)
今まで「保育園で今日は何をして来たの?」と尋ねても「ブランコ...」ぐらいの事しか答えなかったのですが、8日の帰り道「あしたはにちようびだって、おかあさんの日だって、せんせいがいったよ」と話していました。先生のお話が少しづつ理解出来るようになりました。

5/18(母)
20日の遠足については、私も主人もどうしても欠勤するわけにいきませんので困っております。付添い不可能の場合は子供を休ませるようにと、前回の秋の時も伺ったように思いますが、実状として子供を休ませてもなお困りますし、当日までに対策をあれこれと考えねばなりません。他に私のように困る方はおいでにならないかも知れませんが、私共の家庭の事情では折角の楽しい遠足はやはり大変でも日曜日あたりにお願いしたいと思います。今後、ご研究頂けませんでしょうか。今のところ、いずれにしましても遠足は不参加ということになりますのでお届け申し上げます。

5/18(M先生)
おっしゃる事、良く解ります。他に職場を持っているお母さんが大勢いらっしゃいます。にもかかわらず皆さん付添って下さいます。まして信夫君は11日に特にお願い致しておきました。2-3日、どんな結果になるか、連絡帳を受け取る度に目を通していましたが、何の連絡もなく当然付添っていただけるものと信じておりました。何も欠勤出来なければ子供を休ませてくれという積もりはありませんし、保育園の性質上そういった事は出来ない事はよくご存知の筈です。でなければ私がわざわざ10日も前に特にお願いする必要はありません。

ただ、これだけははっきり申し上げますが、今まで信夫君は付添いと共に遠足に参加した事がないのではありませんか?まして現在でも他の子供以上に神経を配っていなければならない子供です。信夫君の心の中まで察してやらねば彼の方から口をきく事はありませんから。しかし私達の事はそれでもよいでしょう。ただ、信夫君は一体どうなのでしょう。楽しいでしょうか?少しも淋しくないでしょうか?私はそれが一番知りたいと思います。職業柄私は子供を主体として考えます。欠勤出来る出来ないは私の関係する事ではないのですが、でも念のため一応お願いした迄です。日曜日という話も園長先生、I先生の方に届けてはおきました。私の一存ではどうにもならない問題です。しかし、日曜日遠足で月曜日に代休というのでしたら救われるでしょうけど、保育園の性質上、不可能という事になります。そういった場合、私達はあくまで奉仕者でなければならないのでしょうか?常日頃、保育に預ける子の為に6時30分位まで子供を見て来ております。しかし、一旦園を出れば私も子供を預けて働いている母親の一人です。他のお母さん達と変わらないのです。欠勤するのが大変なのも同じです。信夫君は付添いなしでも結構です。遠足も保育の一場面ですから当然私達でお預かり致します。

5/18(母)
今日の連絡帳を拝見して実は大変驚いてしまいました。保護者としての意見をありのままに申し上げたり、どんなことでも気軽に先生にお尋ねしたり、そういうノートだと思っておりましたのでつい朝家を出る前の慌ただしいままに簡単に考えた事を書いた次第でしたが、こんなに先生に叱られようとは夢にも思ってませんでしたので胸がしめつけられるような苦痛を感じました。こういう事はお目にかかった上で詳しくご相談申し上げる方が良かったと反省しております。先日お知らせ頂いてから、毎日気にしており、何とかならないものかとさんざん考えた結果、どうしても駄目だと思ったついでに、日曜日なら私も行かれると考えたのは単純にただ "運動会がいつも日曜日だったから遠足もそういう具合にして頂けるかしら" ということで、これは勿論園長先生にお伺いするつもりでちょっと書いたまでです。

私も信夫の付添いで遠足とは何と楽しい事だろうと本当にそう思うのですが、小さい幼稚園で、しかもまだ日が浅いためもあり、欠勤する事が絶対不可能ですので、せっぱ詰まって最後にやはり信夫がかわいそうで妹に無理を頼む気になりました。妹はまだ18才ですが、勤めを休んでもらえる事に決まってほっとしている所でございます。以上のような経過で遠足に参加させて頂くことになりました。大変お手数で申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。信夫は妹に大変なついておりますから決して先生方のご心配はご無用です。"カズちゃんと遠足に行ける" というので信夫は今から楽しみに待っているようです。

最後にひとこと、"信夫がお世話になっていることだけでなく、働く母親としての共通の悩みや経験などについて、失礼ながら色々お話を伺ったりご指導頂きたいという気持ちを持っておりましたし、日頃言葉にこそ出しませんでしたけれどもそういう意味で深く敬服いたしておりましただけに何か大変誤解をなさっていらっしゃる面がありはしないかと、淋しい気持ちでございます。しかし、機会があれば必ず私の真意もご理解頂ける事を信じております。何卒失礼の面はお許し下さいまして、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。

5/19(M先生)
...遠足については信夫君本当に良かったねと思っています。これ以上書きますと言い訳めいてくるので止めますが、連絡帳とはおっしゃる通りありのままを伝えあう帳面だと思っています。保護者の方は勿論、先生の方も思った事をありのまま書いて見ていただくものだと思っています。私は一段高い所に君臨している積もりはありません。常に同じ立場で子供の事を考えねばならないと思っています。ただ第三者という事でかなり冷静に子供を見る事が出来るので生意気なようですけどこうして何かと書く事も出来るのだと思っております。でも、やはり未熟者の拙さで文書にも相手を叱りつける様な強い響きがあるのでしょう。つくづく自分の未熟さが厭になりました。お詫び致します。(pt.2へ続く)

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...と、まぁ、主に遠足にまつわる、これは先生と母とのちょっとしたバトルとも言える。多分この先生の言葉って今に置き換えるとけっこう問題化するのかも知れない(この時代ならではの?)。今はちょっとした事でもクレームになったり責任問題が増幅したり...だから今は差し障りの無いゾーンで安全にくるまれている。果たしてそれが結果良いのかどーかは疑問もあるけれど。と同時に働く母親と育児との葛藤も浮かび上がり、これは先生と母親の両方の立場に於いてまっとうな思いだと思う。

...が、それにしても園児の信夫君がどうにもこうにもダメダメで我ながら切ない(笑)。ここまで周囲に世話を焼かせる子供だったとは...何処かで少しうぬぼれていた自分を修正しなければならない(次回は後半のやりとりです)。

5月に母が住んでいた団地の引き上げ作業を終えた時、処分とは言っても、それでも段ボールにしておよそ10ケース弱は(父や母や祖父母の関係、僕の幼少期の品など)引取っていた。それらがさすがに場所を取っていたので、それらを再び要・不要と振り分けるべくの作業を数日割いてやっていた。...すると、それはそれでこの家族に関する新たな発見がいくつかあり、その都度作業を中断し、しばし没入する...というパターンがあった。...僕の保育園児期の先生と母との連絡ノートのやりとり/母の16-7才期の(青春の)日記/父との出会った瞬間を克明に記した日記/祖父が記した数々の手紙のインパクト/その(1900年生まれの)祖父が10才の頃の写真/その他、新たに見たこの家系の歴史の断片を収めたいくつかの写真などなど...僕が認識していた事実記憶に則していた部分が大方だったとしても、僕の記憶外の再認識させられた部分も少なからずあり、これは「家族の検証」的見地からしたら見過ごす事も出来ないので、追稿という形でまたちょっと整理しつつ掲載しようと思います(結局年内までこんなモードを引きづりつつ、それで今年中にすっきり吐き出したい気分でもあります)。

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まず、「家族の検証_9(青年期/父との死別)」にて、当初はその父の項の最後に姉が当時寄せた父への文章があってそれを掲載したかったのだけれど、その冊子が見つからなくて諦めていた所、今回見つかったのでその項の最後に改めて追加掲載しました。

家族の検証_9(青年期/父との死別)


次に「家族の検証_12(祖父と友部のエピソード:2)」から、後で思い出した重要なエピソードがあり、追記しました(森進一のくだり)。

家族の検証_12(祖父と友部のエピソード:2)

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