barfly diary

daily voice of nobuo yamada (abh) / since 2005 https://www.abh-oto-yamada.com/ https://www.instagram.com/abh_yamada/

September 2013

先週末は姉の家に出向く。目的の一つは義兄と共に家の一階部をブチ抜いて音楽スタジオに変容してしまい、そのオープン祝いで近しい親族が集合。すでに子供たちが独立し、ほぼ自分の為だけに残りの人生を謳歌できる状況にある姉夫婦は、お互いの趣味(フォーク/和楽器)の発信の場としてもついにそれをこしらえた(弟である僕の人生はそれとは真逆の、これから子育て&家のローン&死ぬまで働く&それまで死ねない...という後半期にタフな辛抱を要するシナリオ。これも人生、何でもござれだ)。賑やかな宴。

さて、もう一つの目的は栃木に住む従兄弟から送られてきた木のボウルを受け取りに。...これは(何度となくこのブログでも紹介してきた)母の実家でもあり僕が生を受けた場所でもある(今は無き)茨城・友部のかつての家屋にシンボルとして立っていたクルミの木、これに関してそこを全て取り壊す際に、何か別の形でこのクルミの木を残しておくアイデアを親族皆なで考えた末に、栃木の従兄弟のK君から、この木を輪切りにして工芸品として再生して各親族家庭に送るのはどーか、という流れになった。それから数年経って今回実現した。

かなり老木でもあったそのクルミの木を今回木工芸品に再生してくれた作家さんというのが、現在栃木在住の「アビコトシロウ」さんという方で、栃木の従兄弟のK君の知り合いであると同時に、さらに僕が音活動の方で何かとお世話になっている栃木の音系ショップのAさんとも前からつながりがあり、木工と照明工芸アートの作家さんとして(Aさん経由で)知ってはいたけれど、ちょうど去年の秋に栃木でライブイベントに参加した時に(K君と共に)アビコさんも観に来ていてライブ後に(紹介がてら)ちょっとお話出来た。

木という自然物の特性に逆らう事なく、氏の作品は(絶対さを持たない)有機的なフォルムがあり、そこに木の温度も表されている感じが心地よく、早速姉は追加注文を予定している。

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安彦年朗@colocal
アビコトシロウ HP

祖父母がかつて(戦前よりはるか前)友部の地に(人生の)根を生やす時に植えたクルミの木が、やがて平成になりその家には誰も居なくなり、道路計画が持ち上がり全て取り壊され今は跡形も全くない県道が広がる。かつてくの字型の家屋の真ん中にそびえて夏休みには耳が痛くなる程セミが鳴き乱れ、どこまで登れるか子供の冒険心を刺激し、時には害虫駆除の消毒煙がまかれ、時にはお手製のブランコが吊るされた...それもこれも遠い記憶の話。今、良質な作家さんの手により日用の物としてその「手触り」が再び(各家庭に)生き続ける。

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僕にとっての(少年期の)「ロックの入り口」は(すでに何度か言ってるけど)キッス/クィーン/エアロスミスあたりの70‘s ハードロック(つまりは13-15才という中学時代のリアルタイム)。キッスが一番ハマっていたのだけれど、当時クィーンだけは(その中性的/貴公子的ルックスから)女子ウケしてて(...とは言っても当時はクラスでもロック聴いてる女子なんてほとんどいなかったと思う)「クィーンを聴いてる」というのって妙に気恥ずかしいニュアンスも確かに漂っていた気がする。

ただ、初期の音楽性はスリルでハードでポップで複雑で、ティーンのロック的好奇心を充分満たすだけの魅力はあった。初期作品で展開されるスピード感や目まぐるしく変化する場面転換、キャッチーなメロディにハードなエッジ等々、彼らが影響受けた下地として(ビートルズの)サージェントペパーズやツェッペリンなどがあったとしても、当時のティーンの感性からしたら(ビルドアップされた)クィーンのスピード感に飛び付くのは当然の感覚で、クィーンが富士急のジェットコースターだとしたら、ビートルズは浅草/花やしき...位の差があった。

ティーンの頃は理屈抜きで聴いてはいたけど、大人になった耳で初期クィーンを検証すると、この(フレディマーキュリーの咲き開く感性を具現化した)独特な音楽性は全体見渡してもかなり際立っている事が分かってくる。特に凄いのは、異質で複雑な楽曲ではあるはずなのにその出口ではエンターテイメントなポップフィーリングでコーティングさせて聴く者をエンジョイという作用に誘うという術に長けていたグループだった。例えばクリムゾンとかプログレバンドの、最初から「難解です」と始るのとその出発点からして違う。

何回か「初期の」とことわってるように、僕にとってのクィーンというのは初期の4枚(もしくは5枚目まで)と、78年の「Jazz」は好きなのでその範囲。個人的に「We Are The Champions」のクィーン像(パブリックイメージ)はまったく別物でむしろ避けてしまう(応援歌嫌いなので)。クィーンのアルバムで1枚選ぶとしたら、僕は1stになる。次の2ndから(前途した)ジェットコースター的歌劇ロックは開花していくのだけれど、その開花前の一歩引いた感じがけっこう好きで、おそらくツェッペリンの1stにけっこう素直に影響受けた痕跡も見受けられ、そこに瑞々しさも感じられる。そして「Doing All Right」や「The Night Comes Down」などのアコースティックテイストの表情に英国の田園風景も浮かび上がる。この辺りの音の(自然光のような)空気感って実はその後の作品には見られない部分かと思う。裏ジャケの(メンバーが撮ったと言う)くすんだ色味のポラロイド写真のコラージュイメージもそれらに加味されている。中学の水泳部の仲間でロック仲間でもあった友達の家で一緒に聴いてて「Liar」の激しいコーラスワークに二人で驚いたのを覚えている(笑)。

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(大方の英国バンドと同様に)クィーンも米国をマーケット視野に入れ始めると同時に音楽性が一気に変容する。と同時に僕の興味もそこで終了。その後のフレディマーキュリーのスタイルが(初期のミステリアス女装家の雰囲気から)リアルゲイな(口ひげ+タンクトップの)いでたちになり、大衆的にはそのフレディのイメージの方がメジャーなのかも知れないけれど、僕は逆にそれが受け付けづらくなってしまった(生理的に...)。あのリアル感より(できれば)プリンスとかボーイジョージとか、「それっぽいけど実際はどうなんだろ?」的な曖昧さでファジーに芸能っぽく包んで欲しかった。

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「ボヘミアンラプソディ」という複雑楽曲を歴史的スタンダード曲まで押し上げた(クィーンの)力も凄いけれど、それをアカペラで成し遂げたエンタメテクもただただお見事。

(最近作の宮崎アニメの影響か)主題歌の荒井由実「ひこうき雲」の歌フレーズが気に入ったのか、ある時期から長女がそれを時々鼻歌唄うようになってたので(パパそれ持ってるよと)荒井由実のファーストを流してあげたらけっこう気に入ったらしくここ最近のリビングでのBGMになっている。4才ともなればある程度までは一緒に歌えるので「そらにーあこがれてーそらをーかけてゆくー」「あのこのーいのちはーひこーきぐもー」...と、とりあえず意味も分からず1973年のユーミンと一緒に歌ってる(笑)。2曲目「きのーはくーもりぞーら、そとーにでーたくーなかーたーのー」と。「(外に出たくない気持ちなんだから)もっとこれは気だるく歌わないと」とチチが助言してもほぼ無駄(笑)。「こいのすーぱーぱらしゅーとー(パラシューター)ーおーえー!」、「あなたーがすーきーきーといえーるー」とか...。/僕の中ではこの荒井由実のファーストアルバム「ひこうき雲」は、現時点までの日本人が作ったポップス作品ではベスト3には入るスタンダードアルバムだと思っていて、それが作られてから早40年が経っていても4才児(時々2才の次女もつられて歌っている)の音楽的感情の中に素直に受け入れられている光景というのは(特に作家からしても)とても幸福なものだと思う。

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ついでにその流れで言うと...1年以上前頃、星野源の「エピソード」を気に入って車の中で(何回か)流していた時、後ろで聴いていた長女が自然と歌い出し、3曲目の「変わらないまま」という曲のサビで「変わらないままーー」というフレーズの「ままー」が彼女の中では「ママー」とインプットされ、その後も「あーめのひーもかーぜのひーもーかーわらなーいーママーー!」って一緒に歌う(笑)。子供たちにとって、基本的にはリズムが跳ねてる感じのきゃりーぱみゅぱみゅとかパフューム、ハルカリ辺りを楽しんでいるのだけれど、そういうダンサブルでない、いくらかしっとりした内容(雰囲気の)音楽も受け入れる感性がすでにある事を逆に教えられた。

僕はリビングなど、家族がいる中でのBGMは例えばこのような...荒井由実/星野源/(夏は)小野リサ/ナチュラルカラミティ/(姪っ娘にもらった)フィービースノウ、ジュディシルなど、比較的まろやかで温度のあるようなものを流す事が多い(ハハのチョイスはほぼテクノだが)。...ある時フと思ったのは、その家に流れる音楽によって(つまりは親の音楽チョイスによって)その家の子供が育つ「感性のタイプ」のようなものに違いはやっぱり出るんじゃないか、という事。分かりやすく振り分けるならば、例えばウチのようなチョイスの音楽を日常で流している家と、エグザイルや倖田來未、浜崎あゆみ、またはAKBを日々流している家とではそれらを聴いて育つ子供のタイプって...やっぱり違ってきそう。

PS:全然関係ないけど、ある時、the Hairのファースト流してて「Pretty Little Girl Blues」のプレイオン時、急に「この曲好きー!」って言ってきた時はちょっと驚いた。

When: 2013, 9-7
Where: tokorozawa

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この地に越してきて早半年以上が過ぎた。...けれど、日々に追われ(状況的に)休日も独りになることはまずないので(かつては新しい環境に移る度にまず行っていた)「地元散策」という行動パターンがまだ行われていない為に、今一つこの地と自分との関係に(よそよそしい)距離感があったのは事実。(今後余程の事がない限り)僕の残りの人生はこの地で過ごすワケなので、車でいつも通過するだけでない「横道をそれる」散策をして馴染みを感じたかった。そんな折、先日の日曜日が珍しく朝から僕一人の日だったのもあり、それを利用するテはないとバイクで地元を自由気ままにフラツく。ちょっと楽しい。

まず、それとは関係なく、まずはこの地と自分の嗜好するベクトルとをリンクさせる何か「場」やムーヴメントはないものか...と前に検索した事があって、今回も試しに調べてみた。...つまり、この埼玉の(表向き)ファミリータウンであっても、どこか文化やアートの香りの漂う「場/ムーヴメント」が無いものか、と。...そこで見つけたのが(数年前から自主開催されているという)「所沢ビエンナーレ」というアート展。会場は当初は西武鉄道旧車両工場跡地だったらしい。その後名称を変えて今年から「引込線2013」となり、会場も(隣接する?)旧所沢市立第2学校給食センターで(ちょうど現在)開催中。外部からそこへ訪れるとなればけっこうアクセスに苦労するらしく、僕はバイクで気軽に行けた(場所はいつも利用するTSUTAYAの裏のエリアではないか...笑)。

会場に着いて中を淡々と見て回る。...ざっとした感想で言うと、元々僕自身が何よりまず「何々跡地(半廃墟化された)」という空間自体の嗜好が強くあって、会場内に置き去りにされたままのそれらの給食センター(放置)オブジェ、そのもののディテールがすでに嗜好インパクトを持っているので、それらの空間に無造作に設置される絵画や造形物やインスタレーションたちは、まずこの空間があらかじめ放っている造形インパクトに負けてしまっているなぁ...というのが率直な感想だった。このようなコンセプチュアルな現代アートに接する度に個人的に感じる事なのだけれど、例えば(その制作過程に於いて)100のコンセプトがあったとしても現実はそこに存在する造形アートそのものがそれを飛び越す程のインパクト(強さ)を外に放っていないとあっけない程にこっちに響かない。岡本太郎の「太陽の塔」は実際に屋根を突き抜けたワケだけれど、あれは分かりやすい例えとして、コンセプトの範疇に収まっているものよりそれらを無にする位(それこそ)笑っちゃう位にべらぼうな物を求めてしまう。詳しく精通してない身で言うのも見当違いかも知れないけれど、(こと物作りの世界であるような)作家と、それを評価する批評家の関係って、だんだんと作家が批評家の顔色伺って作っていくような、そういう傾向もあるような印象がある。それはどの分野にも少なからずある事で、その批評家なりそういう機構が妙に影響力があったりすると(その)批評家ゾーンが喜びそうなテイスト/ニュアンスを作家の方が探ったりする。で、器用な人はそれが出来ちゃったりする。気が付けば作家と批評家だけの関係で繰り返されて、いったい表現物とは本来誰に(何に)向かって開かれるものなのか?...という思いがどうしても浮き上がってしまう。僕が「太陽の塔」に感動するのは、あのべらぼうにでかい表現物は決して批評家の為に創られたものでなく、全ての人間の根源にある生命力を高々と刺激するから。ただ、逆に(最近のもう一方の傾向でもある)お客参加型の「アートを楽しもう」的な感じもどーも好きになれない。生理的にも。

脱線したので話を戻して...僕は現在どちらかと言うと音創りの方に重心があるので、その視点で言うと、「旧給食センター」という廃棄空間内における造形作品という並びでは前途したように場に依存した結果、その場(空間)に埋没させてしまうといった印象を与えてしまったけれど、逆にこの空間を使って「音を鳴らす」という行為はすこぶる相性はいいと思う。淡々と場内を歩き回りながら「ここでライブやれたらいい感じだろうなぁ...」と内心思っていた(笑)。ただ近隣住民との相性は(音だけに)難しそうだけど。

写真は作品と場空間自体の写真と結果関係なく混ぜてます(そんな印象だったので)。...ただ、いずれにしてもこのような形で自分が住んでいるエリアで少なからず文化/アートの香りがくすぶっている動きがある事がよかった。継続して欲しい動きでもあります。

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引込線2013

この夏中、こんなにTSUTAYAに足を運んでいると(当初の目的とは違った)掘り出し物件に出会ったりもする(関係ないけど割と主要なTSUTAYAには「裸のラリーズ」の実況盤シリーズが唐突に20枚位置いてあったりもする)。...そんなハプニング物件の最たるは「ルーリード&メタリカ」の異色コラボ2CDアルバム!...僕は知らなくてその組み合わせにまず「え!?」ってなる。そして後日即借り。/ざっと調べたらとにかく純粋なメタリカファンからはこのアルバムは酷評の嵐。(多くは見てないけど)おそらくルーリードのファンから見たらこの作品はけっこう受け入れられている気がする(僕も含めて)。

さてプレイオン。...冒頭曲「Brandenburg Gate」の出だしは通常のルーリードらしいアコースティックギターでのリーディング、しかし後にメタリカサウンドが空間を埋める。「ルーリード」とは、声を発しただけでそれがすでに鑑賞価値になってしまう希有な存在。そしてリーディングにメタリカのボーカルが自然と被さっていく。最初、あまり先入観なしで聴いていた事もあってか(次の曲「The View」も同様に)僕はメタリカがシャウトしてるとは思わずにリーディングしていたルーがいきなり覚醒増幅してパワフルにシャウトし出したと思ってしまい、思わず心躍ってしまう(笑)。すぐに勘違いと気付くのだが、聴きようによっては2人の声質が似てなくもない。冒頭のこの2曲からしてカッコ良く、メタリカファンがいくら酷評しようが結果、僕はこのコラボ作品は傑作だと思っている。ヘッドフォンだと伝わらない。できれば10トントラックにでも乗ってカーステを低音ゴリゴリに利かせてスピーカーが踊る位に超爆音で身体で浴びなくてはダメだ。

ルーリードのインテリジェンスとメタリカの肉体性の混在。かなりこの組み合わせは賛否両論を呼んでいるようだけど僕はけっこう(脳と肉体で)楽しめた。ルーリードは何処を取ってもルーリード。メタリカはそんなルーの世界感を邪魔する事無く時に従順な背景となり、しかし時には前面に押し出てはアイデンティティを発揮する。おそらく通常のメタリカイズムからしたらその抑制感に欲求不満を持つ人もいるのだろーけど、この作品はメタリカミュージックでもルーリードミュージックでもない、またちょっと別のポジションにある印象もある。ハチャメチャで取り留めの無い内容ではなく、実に大人の理知/理性的な統率感が全体を覆っていて(これは最終的にルーリードによるバランス感覚だと思うけれど)、それ故に作品性を高めている。Disc 2ではメタリカは(いい意味で)よりルーワールドの背景となり、時にはギターの逆回転、(ジョンケイルを想起させるような)フィードバックドローン等、意外なまでに実験的な表情がほどこされる。

いずれにしてもこのコラボ作品の感触は、骨太な男臭で貫かれた久々の硬派アルバムを聴いた気がする。CDの裏ジャケの写真がまさに全てを物語っているイカツさ満点のお気に入りのショット(まるで映画のシーンのような)。そして個人的にはルーリードが過去の人なく今だ現役でしかもゴリゴリの先鋭で帆を掲げているサマにちょっと胸を打つ。

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もっとルーリード&メタリカ(画像)
作品情報1
作品情報2


要爆音


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PS: この作品でのメタリカの、実直さ(ルーリードに対する)リスペクト感や誠実さまで感じ、ちょっと好感持ってしまった事もあり、ついにこの流れでメタリカも(初めて)レンタルしてしまう(笑)。...普段の僕からしたらそのような様式化されたヘヴィメタルにはまず手は伸びないのだけれど(ついでにAC/DCも)。つまり、(ツェッペリンからきっかけで)いかにこの夏の嗜好が「リフ(グルーヴ)ロック」というものに飢えていたかが表れている。


11/5 追記
メタリカのラーズ・ウルリッヒ、ルー・リードとの喧嘩を振り返る

プリンスを通過して、そうなるとフとよぎったのが「岡村靖幸」...というとっても安易な連想(笑)。で、ディスコグラフィを網羅。...「岡村靖幸」というと簡単なイメージで言えば「和製プリンス」とか当初言われてたかと思う。僕自身は当時もその程度の認識で、音楽自体にはちゃんと向き合った事は無かった。その後間接的に接したのが(世代的にチャラやユニコーンの時代の)奥さんがティーンの頃に(割と)好きで持ってたカセット。あくまで見た目で敬遠していた僕ではあったけれど、その音楽性は思ってたよりはちゃんとした独特の世界感は感じてた。で、僕がかつてレンタルした曲は「ハレンチ」のシングルのみだった。

岡村靖幸というイメージを(例えば)表だって言えないような「何か」はある(笑)。実際、今回氏のデビューの頃のCDを借りて、それを車で流しつつ助手席に何気なく(ピンク色に染まった氏の自己陶酔的微笑みの)CDジャケットをポンって置けず、誰が見るワケでもないのにそっと裏返してしまった(笑)。...つまり逆を言えば、人によってはそうさせてしまうのはある意味アーティストの勝利で、受け手がどう感じようが「俺の花はこう咲く」とでも言うような、やり切る強さを感じる。

和製プリンスとか言われても当然似た(影響受けた)テイストもあれば、そこを出発してても後は岡村靖幸ワールドを独自全開させているので段々とプリンス云々は関係なくなる(ある意味プリンスよりもアクが出ている場面も多い)。前回のプリンス「3121」のブックレットのイメージフォトで述べた「孤高のセレブリティ」と、僕自身の「TSUTAYAと子育ての日常」とを悪戯に対比させて面白がってたけれど、岡村靖幸の音楽はまさにそんな日本の日常の地面ギリギリでうごめく汗や涙や性液などが混ざり合ってむき出される。そこに「青春」というワードを包むから余計に爽やかなんだかベトベトなんだか分からない独自臭が生まれる。サウンドメイカーやパフォーマンス性などではプリンスの登場に対して氏はかなりの共感と同調性を感じ、自分を後押ししてくれる存在であったと想像出来るけれど、歌で表現される世界感の部分では岡村靖幸ワールドは80年代の日本の若者の土着的日常をむき出しているという点で(当たり前だけど)プリンスとはまったく別物。

時代と共に妙に洗練とオシャレとスマートな空気が世間にはびこって久しいけれど、真逆の"ベトベトな岡村靖幸"という存在はそんな時代のフィーリングから(暗黙に追いやられ)身を隠すかのようにしばらく潜む事になる(クスリで3回?も逮捕され、本当に潜伏せざるを得ない時期も過ごし)。ただ、時代というのは面白く繰り返したりもするもので、あまりに洗練さとオシャレさとスマートさと汗知らずな風潮が蔓延すると必ず反動フィーリングが顔を上げてくる。そこで岡村靖幸というベトベトな青春アーティストが「必要味」としてリスナーの感覚に再浮上してくる(けっこうムードで言ってます)。

色々あったにせよ、今回いくつか動画見てて、現在復活して活動をしているサマが垣間見れた。年齢的には中年であったとしてもその姿、パフォーマンスからは現役感は存在していた。今回その点で僕の何かをグッと捕まえたのが氏のサイトのトップページで展開される現在の岡村靖幸の存在力。持ち前のリズム感が冴え渡るインスタントエレファンク、意味性をぶっ飛ばして奇妙なワードグルーヴを羅列するセンス、その風貌と不動の「入り込み」感などなど...個人的には今の岡村靖幸により凄みを感じた、非凡な才能(ただ、もはやそこでしか生きられない感じも加味されていて印象を深くさせる)。


岡村靖幸info


最後に、再び(あえて)プリンスと岡村靖幸に感じる共通点で言えば、自己陶酔と自己完結型のナルシストという事ではあるのだけれど(それ故なのか)「他者と群れない」...という事も言えるかと思う。例えば他者と群れて活動する(身内ノリで)音楽活動をしているようなミュージシャンたちとは違い、その点、プリンスと岡村靖幸には(そもそも)「身内がいない」ような印象が勝手にあり(笑)、"群れないオタク"であるからこその個の臭いが存在感を増す。個であるからこそ自分を背負い、社会と対峙する覚悟(運命)を背負う。

(おわり)

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