週末は母が不在の為、父と子供たちとの2日間。上の子と下の子は一緒に仲良く遊んでたかと思いきや急にケンカになったりのパターンを日中何回も繰り返す。渡すのが遅くなったママへの母の日の絵を2人で描いている。3時のおやつまでにとっ散らかしたオモチャの類いをかたすように再三言うも特に下が相変わらず片付けにやる気を見せずたまに母がブチギレる気持ちが分かる。やがて上が片付け終わりおやつを先に食べているサマを見て急にスイッチが入ったようだ。夕方前いきなり公園まで自転車で行きたいと強く言い出す。予想通りS公園は混んでたので小さい別公園に行くもそこも埋まってた。上の子は公園に学校の(お友達でない)子がいると引いてしまう。自転車で行ったり来たりしてたらさっきの小さい公園に人がいなくなったのでそこで遊ぶ。滑り台しか無いのだが子供は何もなくても融通きかせて遊ぶ。やがて父が鬼になり「ドロ警」みたいな追いかけっこをする。しばらくして逆に上の子が鬼になり父は捕まらないようにヘラヘラと逃げるのだが、これは追いかける状況より追われる状況の方が格段にスリルがあるという事を認識する。裸足で公園を走り回っていたので足裏が真っ黒、帰って風呂に入り夕ごはんが終わった段階で子供たちが眠くなる。下の子がすでに8時前にリビングで落ちかかってたのを無理矢理起こして歯磨きとオシッコをさせる。上の子も眠そうだが「志村動物園」を見たいらしく頑張っている。それでも8時半頃にはソファで寝てしまう。

母から10時半頃帰宅予定のメール。上の子から「ママが帰ってきたら(絵を渡したいから)絶対起こして」と約束したのもあり、そのまま母が戻るまで父は(寝てる子供らと共に)リビングにいる事に。この時間を使って(平日ラジオに出てた是枝映画監督の話を聞いてたら見たくなってた)前に録画してた映画「そして父になる」をイヤホンを繋げて明かりを落として観る。…育ててきた6才の子供が生まれた時取り違えられた2つの家族の話。直ぐに自分たちに置き換えてしまう…この状況の感情は本当に当事者でないとリアルにうごめく事はできない気がした。後半、ずっとぎこちなかった(交換した)実の息子が隣の部屋で「次はお父さんだ-」…とはしゃいでいる声を聞いた父(福山雅治)の場面から涙が出てくる。大人たちの作り出した世界(環境)の中でしか子供は生きていけない。子供は言葉で表現する術がまだ足りないだけで、感じてる心のヒダは大人と変わらない。大人たちの都合で出来ている世界で言葉無くそれを受け止めようとする子供たちのサマに(「誰も知らない」と同様の)感情が染み漂う。大人の都合による様々な(子供を巻き込む)事件が後を絶たない。子供が子供である時期は(どんな状況であれ)100%大人が悪く子供には何も罪は無い。初めて福山雅治を俳優として良いと思った。加えて、福山父の人間性を単純な悪者扱いにならず彼は彼としてのやり方として(意外な程嫌悪感なく)僕の感情は受け入れてた。是枝監督は当然その辺のラインも意識されてたと思うし、改めて監督による「両側の視点」への巧みなバランス描写感覚を感じる。物語はエリートと庶民派との分かりやすいコントラストを示していたけれど、ここで再び自分たちに置き換える…両側ともある意味極端ではあるのでウチはその中間位だと思いつつも、どー転んでも四捨五入すればリリー家族派だった(笑)。ラスト辺りの、(福山)父と平行して子供が歩く場面は静かに込み上げてくると同時に「パリテキサス」も想起させた。…「家族」とは本当に生(ナマ)の歳の違う人間同士が日々向き合って「一から作っていく」人生作業と思う。

…やがて母が帰宅。ソファで熟睡中のほとんど意識がもうろうの上の子を(約束通り)起こしてオシッコさせて2階まで抱き上げて運ぶ(映画の余韻で2割増しで子供が愛おしい)。ママに絵を渡した途端そのまま布団に倒れる。

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