この週末で我が家の庭のメイン花壇とも言えるミニバラがほぼ満開になった。…この、(リフォーム済みの)中古物件に出会って居を構えてから4年。(そんなに広くもないけれど)ここの庭全体を形成している数々の花や木々たちのほぼ7割位は、前に住んでいた家主の方が土台を作り上げたもので、僕たち家族が越して来た時は2月で、ここの木々たちの姿は控えめに冬眠してる様子だった。そして春が来て命が芽吹く季節になると庭の所々で芽が出て花が咲き虫たちや鳥が訪れて、それぞれが命の存在感を放ってきた。その中でも最も鮮やかな色彩を放ち命の芽生えの幸福感を醸し出していたのがミニバラだった。このバラしかり、四季を通して見ると、いかに(フラダンスの先生だったという)前の家主さんが四季を通じて常にその季節毎に何かしらの植物が生えているような構成をこの庭に工夫していたかが分かる。僕たち家族はこの(前)家主さんの残していった庭の環境をほぼそのまま受け継いで、そこに自分たちのテイストなりをプラスして「マイガーデン」としてリフォームさせた。当初は僕は今程庭木関係/自然環境にまるっきり関心が無かったのだけれど、それでも春に芽吹き溢れるここの庭の花や草木などの生命パワーは薄々と感じてはいた。そして巡り巡って現在の僕の自然生態への(うっとうしい程の)熱量の表れ…その、現在に繋がる意識の、その現実のきっかけをこの庭は作ってくれたと思う(去年秋はカマキリ三昧だったし)。そんなモロモロの過程も含めてつくづく前家主さんには感謝しています。
そんな、この季節の幸福感を最大に表現するミニバラの姿をパシャリパシャリ。色もギリギリで下品にならない程度のグッドピンク。(ちょっと前にも述べたけれど)まだ若いつぼみの時はアブラムシがビッシリ貼り付き家の面側はやむなく殺虫剤で対応して、道路面は牛乳や水を噴射したりして、なるべく(アブラムシを大量に捕食してくれる)テントウ虫の生態も守りつつのやや緩めの対策を経て、そんなこんなで見事に咲いてくれました(テントウ虫もけっこう頑張って?アブラムシを掃除してくれた)。
意識して見てると、とにかくハチが蜜を求めてバラにやってくる。特にクマンバチがお尻振りながら慌ただしく蜜を集めてる姿をよく見る。/よく分からないけれどインパクトのある何かの幼虫も花粉を食べていた(多分)。
こーして白い椅子を置いちゃうとちょとした「英国風ガーデン」っぽくハッタリ感が出る(笑)。…それで思い出した余談だけれど、ちょっと前にやってた「地球ドラマチック」で、ヨーロッパでの巨大な(バラやユリの)超ハイテクな切り花産業の現在を観たのだけれど、僕はそれを見て複雑な感情になった。徹底的な「同じ顔の/鮮度が保たれた」商品としての切り花を大量生産/スピード流通のオートマチックシステム。ちょっとでも質が落ちた花はどんどんはじかれる。そして徹底的な管理システムの中、商品として生み出されるバラやユリは自然の太陽の光は浴びる事が無い。ハウスの中で調整が常に一定に保たれた人工光や栄養バランスが計算された土の元それらは育っていく…。確かに「商品として」それらの花は価値があるのだろうけど、僕は違和感が残る。...生まれて来る花の本来の姿は、本当の太陽の光を浴びて、ミミズやら微生物が営む自然バランスの土に育ち、やがて訪れる虫たちとの共存で命を繋いでいく…という姿にこそ感情が生まれる。商品として育ったサイボーグのような切り花は翌日には街角のフラワーショップに飾られて、人間社会の様々な側面(プレゼントや冠婚葬祭、パーティ会場のコーディネート等々)の「演出物」として消費され、すぐ萎れてゴミになる。僕が20代後半の頃に作った詩があって、ちょうど同じような事を題材にした詩があったのを思い出す。「花は自らの為に咲く事が出来ない」…みたいな事を(カッコつけて)書いてた(笑)。
そんな、この季節の幸福感を最大に表現するミニバラの姿をパシャリパシャリ。色もギリギリで下品にならない程度のグッドピンク。(ちょっと前にも述べたけれど)まだ若いつぼみの時はアブラムシがビッシリ貼り付き家の面側はやむなく殺虫剤で対応して、道路面は牛乳や水を噴射したりして、なるべく(アブラムシを大量に捕食してくれる)テントウ虫の生態も守りつつのやや緩めの対策を経て、そんなこんなで見事に咲いてくれました(テントウ虫もけっこう頑張って?アブラムシを掃除してくれた)。
意識して見てると、とにかくハチが蜜を求めてバラにやってくる。特にクマンバチがお尻振りながら慌ただしく蜜を集めてる姿をよく見る。/よく分からないけれどインパクトのある何かの幼虫も花粉を食べていた(多分)。
こーして白い椅子を置いちゃうとちょとした「英国風ガーデン」っぽくハッタリ感が出る(笑)。…それで思い出した余談だけれど、ちょっと前にやってた「地球ドラマチック」で、ヨーロッパでの巨大な(バラやユリの)超ハイテクな切り花産業の現在を観たのだけれど、僕はそれを見て複雑な感情になった。徹底的な「同じ顔の/鮮度が保たれた」商品としての切り花を大量生産/スピード流通のオートマチックシステム。ちょっとでも質が落ちた花はどんどんはじかれる。そして徹底的な管理システムの中、商品として生み出されるバラやユリは自然の太陽の光は浴びる事が無い。ハウスの中で調整が常に一定に保たれた人工光や栄養バランスが計算された土の元それらは育っていく…。確かに「商品として」それらの花は価値があるのだろうけど、僕は違和感が残る。...生まれて来る花の本来の姿は、本当の太陽の光を浴びて、ミミズやら微生物が営む自然バランスの土に育ち、やがて訪れる虫たちとの共存で命を繋いでいく…という姿にこそ感情が生まれる。商品として育ったサイボーグのような切り花は翌日には街角のフラワーショップに飾られて、人間社会の様々な側面(プレゼントや冠婚葬祭、パーティ会場のコーディネート等々)の「演出物」として消費され、すぐ萎れてゴミになる。僕が20代後半の頃に作った詩があって、ちょうど同じような事を題材にした詩があったのを思い出す。「花は自らの為に咲く事が出来ない」…みたいな事を(カッコつけて)書いてた(笑)。
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