barfly diary

daily voice of nobuo yamada (abh) / since 2005 https://www.abh-oto-yamada.com/ https://www.instagram.com/abh_yamada/

カテゴリ: シリーズ<素晴らしい絵本との出会い>

(文・絵:三芳悌吉 1976/福音館書店)
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(※ネタバレあります、ご注意下さい)
"生き物関係の自然科学絵本"を集めていた頃、出会った「生き物を描く」作家の中で特にお気に入りだったのがこの三芳悌吉氏による「おおさんしょううお」。すでに亡くなられている方だけれども、昔の画家ならではの基礎のしっかりした、そして対象となる(氏が嗜好する)生き物に対する愛情が指先から絵筆に流れ伝わる素晴らしい描写力。その実直な技術をバックに、この作品で展開されるのは…おおさんしょううおが瑞々しく生息する環境風景と、かつての時代の日本の田舎の暮らしと自然。柔らかいタッチに、時にシックにさえ感じるやや渋みを持つ絶妙な色彩。
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(天然記念物指定であっても)一見、グロテスクな風貌にも見えるおおさんしょううおは、淡々と生の営みを遂行する。やがて時代が変わり川の水も汚れて暮らしにくくなったらもっと上流まで登っていって穏やかな環境を見つける。その姿が何とも慎ましく見えてしまう。勝手に人間が環境を変化させているだけでそこに暮らす様々な生き物たちは文句も反抗もせず、ただただ(死んでいくものもいれば)もっと暮らしやすい所を求めて生き延びていく。この絵本で描かれる昔の日本の田園風景と川の生き物たちの絵を見ているだけで自分の遠い子供の頃の記憶を浮き上がらせる普遍的な郷愁がある。ずっとやさしい文体にも心が染みる。
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(文・絵:ジャニナドマンスカ/訳:わたりまりこ 1991(org.1976):アリス館)
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(※ネタバレあります、ご注意下さい)
ずっと(そっと)自分の心のすぐそばに置いておきたい…と思わせる絵本はそんなに多くはないものだけれど、それに出会ってしまうとずっと(そっと)その本を自分の心のすぐそばに置いておきたくなる。今振り返って、そんな"mayココロの絵本"は…バーニンガム「はるなつあきふゆ」/シャーリップ「ちいさなとりよ」/アーマEウェーバー「じめんのうえとじめんのした」/Rブルックス「アラネア(あるクモのぼうけん)」…となる。そこに新たに加わったのがこのドマンスカの「はるなつあきふゆ」。…この絵本に(図書館で)出会ったのはもう1年以上前なのだけれど、欲しくてネット(amazon)で調べるも、(絶版で中古でも)数千円もの高値だった。「いつかは安値のが出品されるのではないか」…との思いを日々持続させる(時々思い出しては出品チェックする)事数ヶ月、ついにそのタイミングがやってきて購入したのが今年の春頃、この絵本を自分のそばに置いておく事が出来た。

ポーランド生まれの女性絵本作家:ジャニナドマンスカが描いた、春・夏・秋・冬の季節の流れ。細い線と僅かな色数で自然の中で生きる(植物や生き物たちの)いのちの姿を何とも言えない間合いを持ちながら優しく描き包む。(ダックスフンドのような)犬が画面の何処かに必ず描かれていて、季節と共に色んな虫たちや木や花や鳥や小さな生き物たちと出会ったり一緒に宙を舞ったり…。添えてあることばはそれ以上でも以下でもなく、ぽつんぽつんと紡いでいる。決して見る人を押し付けないこの独特な「余白感」にとてつもない詩情を感じてしまう。ことばがふっと途切れる間合いがあって、その時画面は絵だけの無言劇になる。この感覚は正直手に入れたいけれどそんな簡単に得とく出来る類いじゃない事が同時に判明してしまう。(大人目線ではあるけれど)残しておきたい絵本の一冊。
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ずっと絶版高値で手が出なかったこの本が状況変わったのは、ここ最近、訳を谷川俊太郎氏による改訂版が出版された事も一因としてあるのかと思う。タイトルも「はるは」となったこの改訂版も図書館にあり、それも早速借りて、旧版との感触の違いを比べてみたくなった。旧版のわたりまりこ氏の訳の印象は、簡潔にまとめた(画面の)状況を説明しつつ、子どものすぐ隣で話しかけるような優しい温度を感じる。対して改訂版の谷川氏の訳は、よりワードをミニマル化し、その一つのことばが持つ響きだったりリズムだったりを連続させている。そして印象は(旧版と比較するなら)ややドライで、説明を排除して洗練させている。…この両版、どちらもニュアンスの特徴がありどっちを選ぶかしばし迷ったのだけれど、最終的に僕は旧版を選んだのには決定的なものがあった。…旧版の「はるなつあきふゆ」の冒頭のことば…「はるって やさしい 雨なんだ」…このフレーズが僕とって何とも言えずグッと染みてしまった。この出だし、そして「春」という季節を表すことばに「やさしい雨なんだ」というのがたまらなく素敵で愛しかった。こういう絵本は理想です。
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(絵:ケイティスコット/著:キャッシーウィリス/日本語版監訳:多田多恵子 2017:汐文社)
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かなり久々の更新になりました。この本はいわゆる子ども向けの絵本とはちょっと違うけれども「絵」の「本」という意味でもかなり素晴らしい「蔵書」とでも言うべき、家が家事になったら抱えて出るべき類いの1冊。1年程前に地元の図書館に子どもと出向いた際、このA3サイズ程の大きい本が立てかけてあって、中身を見て、その圧倒的なグラフィカル、植物のあらゆる部位が持つ…妖婉さ、不気味さ、美しさ、奇妙、驚き、生命感、猥雑さ、全てが表現されていて、こんな贅沢な植物画は当然見過ごすワケがなく、後に即購入。この内容に(大きさも含めて)3千円ちょっとという価格は安いと思う。これは大袈裟でなくこんなショボいWEB写真で見るよりも実物を手に取って見た方が数十倍陶酔感触が違う。紙の質感、印刷、見事なお仕事。
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ケイティスコット氏によるあまりに素晴らしい植物絵画は、植物本来の持つ「生殖体」という本質が随所に醸し出されている故に、時にそこにサイケデリックなニュアンスも(個人的には)感じてしまう。と同時に、僕が去年ずっと取り憑かれたようにあやゆる植物の形状やディテールを写真に収めまくっていた、その根っこにはこの本で醸し出されるストレンジな植物の魅力の部分と同じ匂いに惹かれて突き動かされていたんだと思う。
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(2015:金の星社)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
絵本をむさぼるように探しまくってた(特に)2年前。いわゆる創作系の物語りとは別に、自然科学を柔らかく紐解く作品も数多くある事に気付き、一時期そればっかり集めてた時期があった。動物/昆虫/植物など…それらの作品は図鑑とはニュアンスが絶対に違っていて、作者がその対象に深く思い入れた愛情故の、情熱が絵に(時にはみ出る位に)表れていて刺激的だった。(僕が出会った狭い範囲内での判断なので当然正確ではないし、偏ってるかと思うけれど)このテの自然科学の絵本は日本の作家に優れた物が多いような印象がある。

そんな中、その時期に出会った荒井真紀氏による「たんぽぽ」の描画の有機的な精密さのクオリティは本当に素晴らしかった。普通の人からしたら"たんぽぽ"って道端に気が付けば咲いている…程度の認識だと(数年前までの僕と同様に)思っている。そんな、気が付きゃ見向きもされず通り過ぎ、邪魔だと(人が)感じれば無為に粗雑に引っこ抜く…その程度の存在でもあったたんぽぽの、その生態の成り立ちから種の存続・繁栄の為のしたたかな仕組みなど、荒井氏の圧倒的な(静寂すら漂う)画力によって一つ一つ丁寧に柔らかく紐解かれ、観る側は、その「たんぽぽ」と名の付いた、あまりに見慣れた植物の内側の生命のフォルムと生態構造の神秘を驚きと共に発見する事になる。トホホな位に無知だった僕は、しょっぱなの、たんぽぽの(予想を超えた)根の深さ、存在感にまず驚いてた。ハーフトーンの色彩でまとめられた、気品のあるボタニカルアートを絵本で鑑賞するという(ちょっと妙な)贅沢さも味わえる。180224_tanpopo2
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(訳/神沢利子 1972:学習研究社)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
前回からの流れに合わせて…"木を切る(自然に影響を及ぼす)人と、動植物との物語り"…の括りでもう一冊。1945年生まれのイタリアの作家による割とコンパクトな作品。正直、お話的にはかなりあっさりと終わってしまうのだけれど、何より木々のグラフィカルな表現が気に入っていた(木を一本描くにしても描く人によって様々になるので面白い)。...きこりたちが木を切ってたら一匹のこりすが乗っかってた。「ぼうずが喜ぶぞ」…とこりすを家に持って帰る。こどもは喜んで一緒に遊ぶ毎日。ある時、森にでかけたらこりすは森のりすと楽しそうに遊び出した…。180224_bokunokorisu2
元々自然の中で暮らしていた生き物が人間の都合で人のペットとして暮らす。生き物は(おそらく)そこで生き延びようと慣れない環境でも何とか適応しようとする。しかし、再び生まれ育った環境(森)と再会すれば本来の幸せが蘇る…人間社会の都合と野性の世界との関係性の難しさを(あっさり味の作品の背景に)何となく感じてしまったりする。この本では(手作業で木を切る)「きこり」という、昔仕様ののんびりとした時間軸での世界感なのでまだのどかに観れるけれど、現代での(開発チェーンソーによる)殺伐的な効率による伐採仕様に置き換えたなら、途端に気分が重くシンドくなると思う。180224_bokunokorisu3

(訳/ふしみみさを 2007(orig,1953、1955):あすなろ書房)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
1898年生まれで僕が生まれた年に亡くなった、オーストリアの作家。時折僕は(先日のブログの様に)感情に任せて(身近な木々や林などの)自然の伐採に出くわす度にえぐられる心の嘆きを吐き出しているのだけど、この絵本の根っこにあるものもそのような感情な気がする。…回りの真っすぐに伸びた木々たちは次々に(人間社会に役に立つので)切られ続けて家具や橋やマッチなどになる。そんな中、物語の主役のもみの木は元々イビツな形をしていて、人間にとって用は無い。でも森で暮らすシカにとってこのもみの木は家族を守る助け合う関係だった。お互いがずっと年を取っても老木と老いたシカが共に暮らしていく。森の樹木とそこで生きる生き物たちとの共存する姿を、作家はフリーキーでチャーミングな動きのある絵で幸せに描いている。7:3位の割合でもみの木&シカの彼らの立場を称えていて、ここでは人間側は厄介者扱いになっているのだけれど、物語的にそっち(人間)側の立場(顔色)を気にしない、やや強引な持って行き方でさえ、逆に作家の自然観やその感情が構わず滲み出てる感じがあって、各方面に顔色伺い過ぎてしまいがちな現代にあって、そこは僕は好感を持ってしまう。180223_mominoki2
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(1962:福音館書店)171222_africataiko1
(※ネタバレしてますご注意下さい)
『あふりかの あるむらに タンボという おとこのこがいた』

…タイコを打つのが大好きなタンボ、ある時、ジープに乗ったフランス人のボンポンが村にやってきて(ハンティングの)道案内にタンボを雇った。立派な銃をいくつも持って来たボンポン。

『けれども ボンポンは、えもののにくを たべるのでもない。えものの からだを しらべるのでもない。--- その つのを とっておけ。--- けがわを うまく はげ。--- はねを そっと ぬいてくれ。と、えものの しるしだけを ほしがった。ふらんすへ かえってから、いえに かざって、しゃげきの うでを じまんするつもりなのが、タンボには わかってきた。タンボは、おともをするのが いやになった。』『とうとう あるばん、タンボは もってきた たいこを うちはじめた。「けものを みなごろしにする はくじんが いる。けものを どこかへ にがしてくれ。ぼんご、ぼんご、ぼんご」』171222_africataiko2
…あくる日、ジープで狩りに出かけたボンポンは、けものがまったく見つからない。何日も見つからず、やがて水が尽き、食料が尽き、そしてガソリンが尽きた。唯一見つけたインパラの後を追いながら森に入り込み、やがて見えてきた世界は、あらゆる生き物たちが命の泉が流れる池のほとりに集まっている光景。171222_africataiko3
『タンボの くちから、ひとりでに、たいこの ことばが ながれでた。「じゅうを てばなせ。けものに まじれ。いのちの みずを のんで、いのちに めをさませ」』

この、美しい生命溢れる光景にボンポンは銃を捨てた。

『「ああ、みごとだ。うつくしいなあ。いのちの あるものは、いきて、うごいて、ちからづよい。どれ、わたしも みずを のみに いこう」』

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…僕は上記の中の「けものに まじれ。」という言葉に特にやられてしまった。…もの凄くざっくりと言うと、文明が栄えた(特に)西洋の人間は、とにかく生き物を乱獲・利用しまくってきた歴史がある。人間第一主義、人間が自然を支配するという考えが前提にあり、この作品は実に今から55年も前(最初の東京オリンピックの2年前!)のものでありながら、お金で現地の黒人を雇い、自身の娯楽趣味の為に動物をハンティングする…という一連の行為パターンというのは55年経った今でもまったく変化する事無くこの構図は継続されているという事を思い知らされる。そして現在、このような内容の絵本というのは明らかに主流ではないのだろーし(見渡す範囲で)見当たらない…。絵のタッチも素晴らしいのだけれど、紙面によってそのタッチが(輪郭線あったり、無かったり)変わったりするのは何気に違和感があった(ほんのちょっとだけです/笑)。

(訳/清水真砂子 1988(orig,1973):アリス館)

(※ネタバレしてますご注意下さい)
前回の記事で(西洋の富裕層で悪趣味に繰り広げられる)娯楽やスポーツとして動物を殺す「トロフィーハンティング」なる行為に対して感情をぶつけてしまいましたが、「不必要に生き物を殺す事」に対する人間への批判精神というのは、ただひたすら声高に叫び訴え続けるのも一つのベクトルではあるのだろーけど、人の創造の力というのは逆にワンクッション「表現」というフィルターを通す事で普遍的な包容力を染み渡らせる…例えばその一つのサンプルに「絵本」という媒体が生きていると思う。171222_karyudo1
…ニューヨークの片田舎にて森や動物たちに囲まれて(出版当時)暮らしているという作家ならではの独特な表現タッチと相まった作品。マザーグースのうたの一編に乗せて、三人組の狩人たちが森にやってきて獲物を探すのだけれど、一日かけて獲物を探すもどーにもこーにも見つからない。次の日も夜通し探すも見つからない…。それもそのはず、森の動物たちは狩人たちを森影で静かに見張りながら「森という空間のからくり」を駆使して狩人たちを煙に巻く。森の中では彼ら(動物たち)の方が(危険回避の)術を熟知している。そーとも知らずの道楽気分な狩人三人組はのんきに森の中をウロウロ…。171222_karyudo2
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森の中という神秘の空間に溶け込み生息する動物たちの入念なタッチと、何だかドボケた風貌の人間狩人(おっさん)三人組のコントラストにより、「森と動物を侵すな」…という作家自身がこの森の中の動物の一部となりメッセージを投影しているのが見えてくる。かと言って、決してそのメッセージを直球で力任せに押し付けるのでなく、淡々とした余韻で終わっていくという、「絵の本ならではの抑え」のニュアンスがとても勉強になる(そう、勉強中…笑)。/次回、同様のテーマの「あふりかのたいこ」という絵本を紹介します。

(訳/やかべひろみ 1999: 新世研)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
(当時の)ブラジルの若手作家というマリオ・ヴァレのこの作風も、(前回のハイディ・ゴーネル同様に)自分にとって似たテイストを感じる作品。見ての通り、カラフルな紙を使ってそれを人形劇風な舞台のように画面を(光や奥行きなどを利用して)空間設定しているのが面白かった。そしてお国柄:ブラジルっぽい?陽気でチャーミングな雰囲気も全面に出ています。…森に暮らしていたさるが都会に興味を持って出かけてみたもののいろいろ大変な事が…というお話。(当たり前なのだけれど)「上手いなぁ…」ってつくづく(2回目/笑)。171209_makkanasaru2
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(訳/えくにかおり 1992(orig,1988): PARCO出版)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
この作家の絵を見た時、まるでマティスの簡略化を感じ(そして僕のタッチにも似たものを感じ)瞬時に共鳴してしまった。何冊か見た範囲で僕はこれがお気に入り。子どもが1日を過ごす様子を(絵と同様に)簡略的にぽつりぽつりと時間軸に沿って描いているだけなのだけれど、そこには作家さんが醸し出す(または作家が見つめる子どもたちへの眼差しの)ゆったりとした「テンポ」があり、逆に(大人の)深読みをしてしまうならば、子どもたちが生きている日常のテンポは、大人社会の競争感でせっつかれるストレスフルなスピード感に対するアンチテーゼとも感じてしまう。
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僕もかつて人の顔は簡略して(シルエット化して)表現していた。僕にとって顔のパーツの表情は情報過多な思いもあった。その答えをこの作家は見事にクリアしていて、子どもたちの顔はベタ面だけで表情は描かれていないのだけれど、ちゃんと子どもたちの動作・しぐさに表情がある。(当たり前なのだけれど)「上手いなぁ…」ってつくづく。この作家にしか出せない味を持っている事の強み。171209_ichinichi3

(1983: 岩波書店)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
動物好きな「まきと」と「めぐみ」のきょうだいは「もっと大きい動物を飼いたい」ってお父さんに頼んだら、ある日恐竜の子どもをもらってきました。それから「まきと」と「めぐみ」、そして彼らの友だちも集まってきて、さてさて皆で体長10メートルもある「恐竜の子ども:どん」を飼う為に色んな事を考えたり工夫したりします。171202_kyouryuu2
…この本の、ごく普通に「恐竜もらってきたよ」…みたいな当たり前のトーンで子供たちの日常の中に恐竜:どんが入り込む、その発想からして目からウロコだった。さて、恐竜を飼うには…住む家はどの位?/何を食べる?どの位の量を食べる?/体を洗うにはどうやって?/トイレは?…ここでは実際に恐竜を飼う時に必要な具体的な事柄が子どもたちの愛情の頑張りを通して(ファンタジーでなく)あくまでも日常の行為として描かれているのがとても面白いです。そしてどんを飼う準備が出来た子どもたちは、どんの体に乗って街を練り歩き、湖で水浴びし、森へハイキングに行きます。自然の中で(野性の)喜びで元気一杯になったどんと、子供たちのワクワク感は言うまでもなく歓喜に満ちています。171202_kyouryuu3
イラストレーションは(精密な動物イラストで知られる第一人者)薮内氏が、ここではタッチを軽くして、まるで教科書に出て来るような真面目で実直な挿し絵に感じる特有の「その類いの味」を醸し出していて、そこも個人的にも気に入っている部分です。

(松代洋一(訳)/1978(orig.'77): 佑学社)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
去年の春頃、むさぼるように図書館に出向いては僕の琴線に触れる絵本との出会いを探し求めてた。この作品も瞬時に気に入って早速ネット上で検索してみた。確かあったはいいけど(絶版だったのか)えらく値段が高くて手が出なかったと記憶してる。その後、しばらくしてから(何かの拍子で)同じ絵本でタイトルだけ違ってた(おそらく旧発行時の)同作品を見つけた。これは図書館を経たリサイクル図書扱いで逆に安価だった。そのタイトル違い(元タイトル?)のがこの「王さまはとびはねるのがすき」(表紙左下に図書館シールが貼ってあったのをちょっと細工して消しました)。

1941年ベルリン生まれの作家。見ての通りの様々な柄素材を切り貼りした切り絵コラージュ。…とっても忙しくストレスを抱えた孤独な王様は、寝る前にベッドの上でピョンピョン飛び跳ねるとぐっすり眠れるという。でもある時、その行いが国中にバレてしまい王様失格とされ王様は体調を悪化させてついに息を引き取りそうに...その前にもう一度ベッドでピョンピョンさせてくれ、とピョンピョンする程にどんどん元気になった…というお話。こんなチャーミングな発想がチャーミングなコラージュタッチと共に表現出来て、僕はとっても羨ましい。本当にこんな味を養いたいけれど、正直限界を感じる。スコーンとした抜けの明快さ。171123_oosama2
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くわえてこの作品のとっても好きな所は、お話の文章の言葉のリズム。訳の方の感性も加味されているのだろーけど、子どもに読み聞かせている(読んでいる)僕の方も楽しくなるという貴重な本。ネタバレですが以下、好きな言葉のリズムを:
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『おうさまは、ピョンと とびました。 そして にっこり わらいました。「あ、おうさまが わらったぞ!」おいしゃたちが さけびました。 おうさまは、もういちど とびました。 なんども なんども とびました。 なんども なんども とぶうちに だんだん げんきに なりました。』
『おうさまは、とても しあわせそうに みえました。 それにつられて おいしゃまで、おもわず ピョンと とびました。 おいしゃばかりか だいじんも、だいじんばかりか けらいまで、けらいばかりか まちのひと、くにじゅうのひとが とびました。 みんな たのしく なりました。うれしなみだを こぼしながら、こえをそろえて さけびました。「ピョンカだいおう ばんざーい!」』
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ラストにかけてたたみかけるこの上向きのリズムアップにスコーンと抜けたハッピーエンド感がとても好きです。

(1982(orig.'81): ほるぷ出版)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
(実に半年振りのシリーズ更新になりました)よく知られたアメリカの作家で、どの作品にも心の優しい眼差しで包まれている印象がある。この本は文字のない絵本。…かりゅうどが狩りをする為に森の中に入る。そこでしあわせに暮らしていた様々な動物や鳥たちがかりゅうどに気付き、驚き、逃げながらも、森の中では動物たちの方が知恵がある。隠れつつ武器を隠し、やがてかりゅうどの目的をなくしてしまう。目的を失ったかりゅうどがやがて動物たちに囲まれて新たな眼差しが生まれる…。171123_karyudo2
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全編に渡って構成されている画面は、作家がある時出会ったハンガリーの民衆芸術の、木の板を使った彩色切り抜き絵にとても感化され、その影響下で制作されたという。それ故の、味わいのある柔らかい質感と色彩、そして装飾的な配置のような森と動物たちの構成表現など、文字が無い分、逆に心の温度が緩やかに上がっていくようなハートフルな絵本。もの言わぬ動物たちの、何とも愛しい表情も。


PS:前に同作家で購入していた別作品「おいっちに おいっちに」(発行時期によってタイトル違ってたかと思う)でも、おじいさんと子どもの時間の経過を通して子どもの成長と共に変わっていく人間(家族)の関係というものを(これまた)優しい眼差しで包んだ良作です。171123_oicchini

ちょっと前に連絡を頂き、その方が運営されている…「元気になる本」を様々なクリエーターに推薦してもらう、という主旨の企画に参加しました。元書店員、現在はデザイナーというその方は、東北の震災の後、長期的・継続的に支援していける方法として今回の企画を考え選書活動をされているとの事です。

僕は「元気になる本」というくくりで考えた時、そんなストレートな意味での「元気になる」ものって(見渡して)「…そんな、無いもんだな」とか感じてしまった(笑)。僕の場合、どちらかと言えば「ジワジワ染みるような」系が多いような気がする。…で、見渡してみて思い付いたのがやはりこれでした。現在の自分を表している本…つまり(元気というか)生命エネルギーを感じる本という感じです(下記にて推薦文と共に紹介されています):

B-bookstore〜元気が出る本屋〜

(1987: 童心社)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
ひょんな事で先日のアシナガバチとの関わりがあったので、ちょーどいいタイミングで所有していたアシナガバチの(科学)絵本を。…僕が大人になって改めて絵本というものにハマってからまだ日は浅いのだけれど、どんどん嗜好を進ませていくにつれ途中からベクトルが移行していったのが、自然科学系の絵本だった。振り返れば(このシリーズの最初の方で紹介した)「じめんのうえとじめんのした」や「りんごとちょう」、ほぼこの2冊の出会いが現在の僕の根っこの(自然生態を敬う)ベクトルへと決定づけた。それまではあまりにも足元の世界の仕組みにまるで無関心だった。まるで初めて世界を知った子供のようになっていた。(このブログでも散々アップしてましたが)去年の秋口の庭のカマキリの観察記を経て、昆虫の生態に(当時)のめり込んでいた流れで出会った、昆虫絵本作家:得田之久氏のいくつか購入(または観覧)した中で、このアシナガバチの生活の様子を描いた「はちのヤヤ」は特にお気に入りの本だった。

…ある春の日、冬眠から目を覚ましたアシナガ女王バチ「ヤヤ」が、枯れ木から削り取った材料で巣を作り始め、そこに卵を産んでいく所から始まっていく(ちょうど先日のウチに作り始めてた巣作りの様子と絵が似てる)…日記のような日付を追って夏から秋、やがて冬に誰もいなくなった巣の残骸になるまでの、アシナガバチの生態の様子が(割と)淡々と綴られている。そこに過剰な演出や"盛り"がない所が気に入っていた。…ヤヤが巣と家族(働きバチ)を増やす/雨の日、働きバチと共に巣に溜まった雨水を吐き出す/逆に暑い日には水を運んで巣穴に入れて羽を使って中を冷やす…この本でアシナガバチの(家と家族を守る為の)ディテールをフレッシュに知る事が出来た。ページをめくると唐突にヤヤが死んでいる。そして女王バチがいなくなった巣(家族)の所にスズメバチが侵略にやってくる…これらの場面は自然界で当たり前に繰り返されてきた世界。作者の視線はその自然の摂理そのものに神秘を感じ、そのままを提示している。そこに共感していた。170427_hatiyaya2
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得田氏の描く昆虫絵本は精密なリアルイラストレーションとは違い、氏がおそらく少年時代に体験した、自然や昆虫に対する驚きや神秘の生き生きとした感触がそのままタッチに浮かんでいる感じがある。その頃、(パパが好きそう、とか言って)長女が学校の図書館で借りきた「昆虫」が当時の僕のグッドタイミングでもあり、「昆虫」第二集も合わせて購入してしまった。今後、生き物を描く日本人作家さんの作品も(織り交ぜて)紹介していく予定ですが、この方面で残されてきた諸作品を通して思うのは、写真以上の「何か」が絶対いずれの(生物)イラストには加味されていて、その後ろには各作家さんの、その生物に対する圧倒的な愛情と愛着が必ず存在しているという事だった。僕には到底真似も出来ない画力エネルギー…ただひたすら「ひゃー凄いなぁ」を呟きながらページめくっています(笑)。170427_konchuu1
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(ダーロフ・イプカー(文・絵)光吉夏弥(訳)/1988(orig.1969): 大日本図書)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
(おそらく)イギリスの作家による69年の作品。昼間は寝てばっかりのねこが、実は夜になると家の周辺を冒険しながら探索して歩く…そんな「野生動物は夜動く」という生態の豊かな場面を、シルエット画面から実態の動物たちの活動の場面へカラフルに展開させる楽しい構成。(日本人からすると)ヨーロッパの田舎/郊外の農場環境の様子、雰囲気も伝わってきて加えて楽しい。夜の黒に(品が保たれた)色彩がカラフルに浮かび上がり、動植物たちのフォルムがチャーミングに放たれているグッドイラストレーション。
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(ブレア・レント(絵)エルフィンストーン・デイレル(文)きしのじゅんこ(訳)/1976(orig.'68): ほるぷ出版)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
「太陽と月がどうして空にあるのか」…というアフリカ民話を、部族衣装を身にまとった海や太陽や月を登場させてシンプルに語るお話なのだけれど、この絵本の魅力は何と言っても奇想天外ユーモラスな部族風キャラクターの味わいに尽きる。特に太陽の家に招待されてゾロゾロとやってきた海の生き物たちの何という脱力的チャーミングさ(笑)。ただただ愛くるしい。こんなイラスト描けるなんて…ただただ憧れてしまう。
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(バイロン・バートン(絵)シャーロット・ポメランツ(文)谷川俊太郎(訳)/1992(orig.'84): 評論社)
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(※ネタバレしてますご注意下さい)
アメリカの絵本作家:バイロンバートンの本を最初に買ったのは…どこかへ行ってしまった愛犬を街中ドタバタと男の子が探して行くお話の「アル どこにいるの?」(1972)という絵本だった。よれっとしてカラフルでどこかトボケたポップさが割とお気に入りだった。そしてその後、この本「くまはどこ?」に出会う。「アル どこにいるの?」から10年ちょっと後の(同作家による)この作品のタッチは、さらにトボケたような妙な味わい度が確実に増していて、ページをめくった途端一発で虜になる。文章は(いわゆる)"遊び歌"的な類いなのだけれど、正直その辺は僕の場合印象が薄く、やはり何と行ってもこの…健気に生活の営みを遂行している最中の、とある村の奥にある森にくまが出たと叫ぶ声に、村中が一気に騒ぎ出し、とりあえず見た物手に取り恐る恐る、森に入り込む村人たち、くまが現れ大慌て…そして結局急いで家に逃げ込む村人たち…という、言っちゃえばそれだけのお話なのに、このイラストレーションのチャーミングさが何倍か増しで僕を惹き付けた。とにかく必要に「ずっと不安ゲな村人たちの表情」、それでいて実際のくまは(本編には見開きいっぱいのくまの姿のページがあるけれど)妙にジェントルな雰囲気だったりする(笑)。あまり上手くこの絵の「味」を例えられないもどかしさがあるのだけれど、何かしらの部分をくすぐられるような、「何とも言えない味わい」が全ての本。170326_kumadoko2

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「ほね、ほね、きょうりゅうのほね」
(バイロン・バートン(作)かけがわやすこ(訳)/1998(orig.'90): インターコミュニケーションズ)
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その後、バートン作品は色々見て回った時があった。この「ほね、ほね、きょうりゅうのほね」は、「くまはどこ?」からさらに5、6年が経ち、この作家のタッチはさらに単純化していく(現在はさらに単純化)。「くまはどこ?」で感じたおトボケな抜けたポップフィーリングはこの作品でも健在で、これも流れとしては…仲間(グループ)が恐竜の骨を探し歩き、発見したらそれらを皆なで掘って、くるんで、つめて、博物館に運んで、ティラノザウルスを組み立てて、また新たな骨を探しに歩く…というだけのもの。しかし、ずっと画面が楽しい。「くまはどこ?」でも感じたのだけれど、(特にこの2作品で共通で思うのは)誰か中心となる主役がいて脇がいて…という設定はなく、村人/発掘隊といった、グループがそこで(一心に)作業をしている…という状況を(要は)描いているだけなのだけれど、逆を言えばそこがいいんだと思う。読者の画面に向かって過剰に欲張ったりしない、この力の加減が心地良い。何かを声高に言う事なく、それでいて何とも言えない魅力を醸し出す…ある意味、このニュアンスを体得しているこの作家しか表現出来ないようなものを感じてしまう(羨ましい)。PS:ただ、この2作、子供にはいま一つその面白さが伝わらなかった…。170326_honekyoryu2

(パット・ハッチンス(文/絵)いしいももこ(訳)/1975(orig.71): 福音館書店)

(※ネタバレしてますご注意下さい)
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イギリスを代表する絵本作家の、(おそらく)最もスタンダードな作品「ティッチ」。この絵本をたまたまブックオフで見つけたのも僕を絵本の世界へ目を向けさせたきっかけになった。実際に彼女の息子さんがモデルになっていて、上のお兄ちゃん、お姉ちゃんがいち早く成長して何でも出来てしまう中、末っ子のティッチはいつも惨めな思い。それでも最後に、ティッチが植えた木はぐんぐん伸びる…この上なくシンプルで明快なストーリーで最後にみそっかすティッチの自尊心を「木の成長」と重ねて逆転表現する、見事な構成(ラストの絵を見た時に涙が出そうになったのは僕だけだろーか)。全然話は脱線するけれど、昔のドラマ「ふぞろいの林檎たち」で、確か一部の最終回で、エリート集団の学生が就職試験場で自信満々な振る舞いの中、中井貴一/柳沢慎吾/時任三郎の、いわゆる(ふぞろい落ちこぼれ)3人が肩身の狭い思いでいる中、特に柳沢慎吾が周りのエリート集団にビビって惨めな態度を見せた。しかし、横にいた時任三郎(全部役者名で言ってます)は、そんな慎吾に「いいから胸張ってればいいんだ!」とさとすシーンがあって、これを見た時も僕は込み上げるものがあって泣きそうになった。程度は違えどこのティッチでのラストと込み上がる感情の種類は同じような気がする。どんなに自分がダメでも惨めだとしても、「胸を張っている」という、真の自尊心、自分の存在に対する誇りのようなものが表現された時、僕はこの感情になる。
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加えて、まずとっかかりは絵のタッチの魅力もあった。ハッチンス氏のイラストはハンドメイドでチープな装飾包装紙のような味があって、特にこの作品で言えば、バキバキの原色から2トーン位抑えたような品のある色味と色数、そしてお兄ちゃんたちの得意気な表情とティッチのしょんぼりな顔もとても上手。

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ハッチンス氏の作品は何冊か集めたけれど、そんな中、「風がふいたら」も(絵柄も含めて)70年代っぽくて好きな作品(購入出来てないのだけれど)。ただ、この作家さんのパターンというのも何となく見えてきて、いわゆる一つの事象を繰り返してちょっとづつ変化させていく…という構成が多い気がする。特に読み手の場合、ちょっとこの繰り返しパターンって正直面倒な感じもある(笑)。

そんなハッチンス作品の中でちょっと異色っぽくて面白かったのが「なんにかわるかな?」(1975(orig.71): ほるぷ出版)。170320_nanni1
…これは積み木風の画面に男の子と女の子が登場して、画面毎にその積み木の世界(状況)がハプニングと共に変化していくという、文章の無い絵本。子供には最初、文が無い事がつまんなそうだったけれど、ある時、勝手に自分たちでその画面を見ながら話を作って、いわゆるストーリーテラーやってたりして「へー」って感心した時があった。この絵本の本質はその辺にもあるような気がする。この本の裏表紙にあったハッチンスの言葉で…「私は子どもだからといって調子を下げるつもりはありません。ただ物語が論理的にきちんとしていることを心がけています。」…という記述があり、絵本の入り口にいた僕としてはその時とっても共鳴してしまった。
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(J.ワグナー(文)R.ブルックス(絵)大岡信(訳)/1979(orig.75): 岩波書店)
(途中、様々な所要が入り込んで、実に4か月振りの再開になりました。)…この絵本との出会いは確か入間の図書館に入った時にたまたま返却棚にあったのが目に入って。まず表紙のモノトーンの線画の雰囲気に興味が行き何気に手に取った。ラテン語でクモを意味するという「アラネア」。170220_aranea1


この…"住宅地の片隅に誰に知られる事無く一人(一匹)ぼっちでただただ淡々と自分の生の営みを遂行しているだけ"…のこのクモの日常の物語は、同時に、淡々とそれでいて眼差しの暖かい視点で語られる思慮深い文体と、引き込まれる雰囲気を放つ線画の美しさと相まって(手放す事は出来ない)これまた自分にとってとても大切な本になった。興味深かったのは、この本、当初は「子供にはとっつきづらいかな…」と思ってたら長女がもの凄く「アラネア」を気に入ってたのが意外な驚き。一時期は「アラネアが一番好きだ-!」…と、毎晩欠かさず読み聞かせを要求された(ちなみに次女にはまだ早かった)。

僕自身の、(人間以外の)生き物の生態に対する関心に火がついていた矢先の出会いという事もあって、こ絵本はさらにその感情を深めた。何よりも心が動いた部分というのは…人間のテリトリー世界に於いて、例えばクモ、またはクモの巣があると大抵の人間は「気持ち悪がって」それを避けたりそのテリトリー圏から排除しようとする。実際、この物語でも夜の間、淡々とクモの巣を仕上げたとしても朝になって登校中の子供や洗濯干している主婦らにあっけなく引きちぎられてしまう。時には嵐もやってくる。…そんな様々な(自身を脅かす)災難が茶飯事的に起こったとしても、アラネアは(周辺の事態が収まり静まり、やがて巣が再び作れる状況になるまで)ただひたすら動かずじっとずっと待っている。そして状況が戻ったらまた1から淡々と動き出す…この、アラネアの目線で描写される...「作る/壊される/待つ/また作る」…といった(しつこいけど)淡々とした営みの繰り返しの姿に、孤独と自由の愛しいような切なさとが混ざり合ったような、不思議な感情がアラネアに移入していく(おそらくこの辺のニュアンスも長女は幼いながらも反応したんだと思う)。人間からみれば(その容姿要素だけで)害のように扱われる生物たちであっても、全ての生き物にはそれぞれ「生きる(て行く)為の営みが在る」事を改めて感じさせてくれる。そして白と黒だけで表現された線画の世界。暗闇、嵐から逃れるように人家に入り込み、画面は黒から一気に真っ白に…このコントラストの移動も見事だった。170220_aranea2


『まず いっぽんを よこにわたし それから わくのいとをはり つづいてぐるぐる ながいらせんを はりめぐらし ついに みごとな あみになるまで。』170220_aranea3


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PS:クモの事ついでに…以前に見つけた「クモの巣を作り上げる動画」が実に美しく見事なので貼ります:…クモの巣作りは、まず足場になる糸を出し、そこを足場としてらせん状に(罠となる)糸を貼り巡らす手順なのだけれど、凄いのは足場となる糸は粘着性が無く、罠の糸はベトベトしてるという様にクモが出す糸にはその用途によって何種類か使い分けているという(加えて、自身の卵を保護する糸も黄色い別糸を出す)。まさに「アラネア」の本とリンクするドキュメントです。



前途してきた絵本との出会いをきっかけに、僕はすこぶる"自然という生態系の営み"に関してある種の敬意(リスペクト)のような意識が今さらながら芽生えて来ている。生き物は植物によって「生かされて」いる。その植物も太陽と水(雨)と土によって生かされている。植物はそれによって酸素を作り出す。春に芽生え、冬に落ちた枯れ葉が土に沈み、それが腐り微生物の助けを借りてまた土の栄養になる。蝶や蜂を誘惑する花によって花粉が遠方へ拡散していく。植物は根を張って動けない分、種を風に舞わせたり(イチゴのように)茎を地面に這わせそこから新たな根を生やしながら営んでいく。木々の葉っぱはそれぞれ(影にならないよう)まんべんなく太陽の光を浴びられるよう重なる事無くすき間に広がる。それらは全て「生命維持」の為の生き物の無為な活動。それらが自然の中で延々と共生しながら繰り返されてきた。とりわけそんな植物と共生関係にある昆虫との生命活動の姿に心が動かされた。…つまりは、この年齢になって今さらながらバタバタとそんな心境に(鮮度を持って)辿り着いた、それ位に、それまでの自分の人生の(あらゆる)軸は、対人間、対社会という枠の中だけで生きてきた感じがある。上文の自然の生態系に関しても、今まではただ漠然と捉えていただけで、今回のように具体的で自覚的な意識など持っていなかった。つまりは(人間界での活動にアタフタと終始して)自然界の内部構造など正直興味が無かった。

人生観は変わる時は変わるもの。年齢的な事や(もちろん)子供を授かった事なども大きな要因なのかも知れない。「生きている」ものに対する愛おしみのような感覚がどんどん膨らんできている。今、わが家の庭には四季に沿って草花の芽生えから越冬へのサイクルの中で実際に目にする自然の生態の場面に出会う事が度々あり、それも関係してると思う。春夏には庭に咲く花に蝶や蜂が集まり、夏の夜には蝉が脱皮し、オンブバッタが交尾し、時折り目が合うカマキリは毎年庭の何処かしらに卵を産んでまた来春にキッズカマキリが誕生する。その他、トカゲ/ダンゴムシ/アリ/クモ/ナメクジ/蚊/そしてゴキブリと、ざっと思い付くだけでもこれらの生物がわが家の庭で毎年生態のサイクルを繰り返してきた。そういう事をイメージするとまさに「手のひらを太陽に」の心境に辿り着く…。161022_kamakiri

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「手のひらを太陽に」

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから おどるんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 愛するんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
スズメだって イナゴだって
カゲロウだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
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(アンパンマンの生みの親)やなせたかし氏によるこのメッセージは、ちょうど今の僕の心境とリンクしてしまう。(もはやハタからどう見えるのか判断が分からなくなってしまっているけれど)今、僕は生き物を(無為に)殺せなくなってきている。…かつて、自分が子供の頃は…平気でアリの巣に爆竹ぶっ放したり、カナブンを糸でくくって飛ばして空中散歩したり、地面のアリの行列を片っ端から踏んで歩いたり…(よく言われる通り)「子供の残酷さ」そのままの事を平気でしていた。平気で出来るのはそこに「生きているもの」に対する深い想像力が無かったからで、故に罪の意識も生まれてなかった。今は大人でも「そのまま育った」人間がしばしば表れる時代になってしまった。「虫が殺せない」…自分でも驚いたのは、前に家の階段にゴキブリが出て、さすがにそれは咄嗟に手が出てティッシュ越しに手で潰してしまったのだけれど、それをトイレに流す時、流れていくティッシュのかたまりに向けて何と無意識に手を合わせて一礼してしまう(笑)。思わず出たこの自分の動作に自分が驚いた。夏に姉のファミリーと会った時、姉が「ゴキブリだけはどーしても殺意が出てしまう」と言ってたので僕のこの話をしたら「えー!それってもうお坊さんじゃん」って言われた(笑)。そう言われても仕方がないかも知れない。僕は無宗教だし無神論者なのだけれど無意識にそんな動作をしてしまったのは、虫であっても生きている命をこっちの都合で簡単に終わらせてしまったという感情が働いたんだと思う。あまりにも人間の都合で地球環境を支配し続けていると強く思ってしまうと、「生き物」という事で言えば全て同等だという思いになってゆく。そして僕は昨日、ついに(腕に止まった)蚊に対してしばし自分の血を吸わせてしまう…。よく見てたら段々お腹が膨れてきたので「もーいいだろ」って手で振り払って追い出した。反射的に「パチン!」しなかった。客観的にこの感じはどう見えているのだろーか…。

(自分が意識してるからなのかも知れないけれど)こーいう境地の時っていくつかの偶然がさらに合わさるもので、数週間前、たまたま下の子が幼稚園で植物図鑑を借りてきて、それがまさに(チチ的に)タイムリーで、次女よりチチの方が熱心に図鑑を眺めてた。そしてもう一つグッドタイムリーなのが、(ネットニュースで見た)俳優の香川照之氏がかなりの昆虫好きで、それが高じて先日Eテレでカマキリの着ぐるみを着て番組をやったという情報を得る。一部ではその(俳優然とした)振る舞いやキャリアなどの肩書きは全てかなぐり捨ててかなりの熱量で語り振る舞う氏の姿が反響を呼んでいるそうで、今の僕としても願ってもない共鳴機会。その番組の再放送が23日(日)の午後4時30分からやるとの事(もちろん録画チェックOK)。どちらかと言えば半沢直樹よりも(映画)「ゆれる」での氏の演技に凄みを感じた氏とは年も近いしこれでさらに親近感を感じるかも知れない。

「香川照之の昆虫すごいぜ!」

(1976/ほるぷ出版)
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前回の「じめんのうえとじめんのした」と同様に、<図解とイラストレーションの融合>…という意味でもこのイタリアのグラフィックデザイナー:イエラマリによる、ハッとする程に研ぎすまされ、洗練されたグラフィックイラストレーションのストイシズムも素晴らしい。「絵本」というのは大概が絵と文字による仕様なのだけれど、「絵」の「本」という本来の意味で言えば、この本のように文字による説明が一切無く絵(図解)のみでページ毎に連動して伝えていく画面構成力が完璧で美しい。現代のデジタル時代の遥か昔に描かれた仕事(原画自体はおそらく60年代)でありながらもそのモダン感覚は揺るぎない強度を持っている。161020_ringotocho2
りんごに産みつけられたちょうの卵から幼虫、そしてちょうになってはばたくまで、四季の時系列に沿って植物と虫との(人知れず延々と繰り返されてきた)共生する生態の神秘を見事にグラフィックアート化した傑作絵本。「じめんのうえとじめんのした」と、この「りんごとちょう」との出会いにより、僕にとって自然界の生態への興味が決定的になった。161020_ringotocho3

(1968/福音館書店)
確か、僕がこの春に本格的に絵本にハマった最初のきっかけになった本の内の一つだったと思う。このIrma E. Webberなる植物学者の女性が手がけた、植物がいかに自然(生き物)の生態系の根本となっているかを、初めての手を取るかのように柔らかくとてもシンプルな語り口と画面で見せてくれる本当に素晴らしい絵本。地面の上での自然界の営み、地面の下での自然界の営み、それらをオレンジとグリーンのみで画面構成して、極力最小限の説明までそぎ落としながらも、(植物を軸とした)生命の有機的な連鎖と共存という最も大事なメッセージを明確に伝えている。氏の描いた図解とイラストレーションとの絶妙な雑ざり具合も何とも言えない味わいで素晴らしく、そこには研究者としての実直な眼差しも見て取れて好感しか持てない。161019_jimenuesita1

(いずれまたクドクドと書く時があると思いますが)僕は本当に恥ずかしながら、この本に出会うまで植物(または野菜)がどのようにして自然界の仕組みから栄養を取り入れて、それが他の生き物(人間も含み)へと命を繋げていく役割りを持っていたのかという事を、(何となく漠然とした曖昧知識としては持っていたものの)今回、初めて自覚的に認識した次第で(にんじんは根っこでじゃがいもは茎だという事すら)、人生もとっくに折り返し過ぎてる者として今さらながらこの本に情けない位に教えられた。そしてこの本をきっかけに同じような自然の生態系にまつわる絵本にも反応するようになり、そして今現在は、生命の連鎖活動としての植物/花/虫/微生物等の生態に関する興味が頭の中のほぼ8割を占めている(笑)。「じめんのうえとじめんのした」は子供に向けた本ではあるけれど、(僕のような)自然の生態系にそれまでぼんやりしていた大人にとっても改めて(地球環境のバランスを狂わせ続けている)今こそ自覚的に見直さなければならない、そうも思わせる1冊。161019_jimenuesita2

(1978/岩波書店)
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この絵本も「出会えて良かった!」…と思わず心に噛み締めてしまう程のものだった。著名な児童文学家:マーガレットワイズブラウンの詩情に乗せたレミーシャーリップのイラストレーションがとにかく魅惑的で引き込まれた。(どなたかのレビューでもあったけれど)この本は、ページをめくると見開き全面が絵だけ、またページをめくると次は文章だけ…つまり、絵と言葉が交互に(ページを挟んで)独立している仕様の為、まさに読む側はサイレント映画でも観ているような、独特な静寂と不思議に神秘的な時間を醸し出している。色んな絵本を見てきたけれど、このニュアンスの空気感を出している絵本は(知ってる限り)他には無い。レミーシャーリップによるこの絵は1958年のもの。何なんだろう?この絵の世界の魔力は!?と思う。…死んだ小鳥を見つける子供たち/生き物が死んでしまった感情を見つめる/森へ行って地面に穴を掘る/小鳥のお墓を作り花を飾り供養する…といった物語りの淡々とした場面は、横長のスクリーンによる空間感も手伝って、青と黄色と緑だけで彩られる独特な発色の光線と、子供たちの表情やしぐさの妙、そして幕間の言葉…それらが合わさって、見る側は絶妙に神秘的なこの森に音も無く吸い込まれて行く。シャーリップ氏はこの本のタッチとは違った「よかったねネッドくん」という絵本が一般的に人気のようだけれど(ネッドくんも確かに面白かったけれど)、「ちいさなとりよ」の、何気ないシュールさが背景に敷き詰められたような魅惑は何より特筆したくなる。
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(PS:余談だけど、この本が届いた時(おそらくシャーリプ氏来日時におけるものであろう)本人の直筆サインが入っていて、ちょっとラッキーだった。)(PS−2:この本はテーマ的に?まだキッズにはちょい不評…)(PS-3:その後、同じ話で違うイラストレーション作家の本があったのだけれど、おそらく今時風に合わせての改訂なのだろうけど、やや可愛いタッチで描かれたその本にまったく反応出来なかった自分に驚く。つまり、同じ話であっても絵柄が発しているテイストでこんなに印象が変わるものなのか、という驚き。)

「ちいさなとりよ」みんなの声

(その4につづく)

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"四季のうつりかわりが画面いっぱいにくりひろげられていきます。春になると、鳥は巣をつくり、ぶたはどろんこであそび、ひつじはとびはね、あひるはぱしゃんとみずにもぐります。花はいっぱいに咲きみだれます。夏になると、麦がみのり、みんなの夏休み、虫たちもとびかい、あついあついお日さまが照りだします。それから、秋、冬、と四季の美しさが、あざやかに描かれていきます。子どもたちに自然の美しさを教えてくれるすばらしい絵本です" :解説文より(1975/ほるぷ出版)
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さて、シリーズ<素晴らしい絵本との出会い>…今まで数々の素敵な絵本を見てきて、最初に何を紹介するか少々迷いましたが、やはりこの本との出会いは自分的に瞬間的に心動くものがありました。散々近郊のブックオフを見て回り、最後の方で地元のブックオフに散歩がてら寄って見ようと行ったらこのB4サイズ程の絵本が。ページをめくる度にワクワクする見事な絵の魅力…まさか地元でこの宝物のような絵本に出会えるとは。

1930年代生まれのイギリスの絵本作家:ジョンバーニンガム。経歴によると若い頃は大学へは進学せず兵役を拒否し、農場や森林で働いたりスラム街で地域活動したり、たびたび世界中外国旅行もしていた…という人生経路からも伺えるように、(そして、前途した解説文のように)…人間にとっての最も幸福な生き方とは、「(植物や動物や虫たちが共生している)自然の移ろいと共に暮らしていくこと」…という、作家自身が人生の中で辿り着いた揺るぎない思いや感情が圧倒的な描写力によって(メッセージを持って)絵に注がれている。何よりもこの四季の流れで色とりどりに変化していく自然と人間の暮らしの絵の魅力が全てで、本当の意味での"自然との共生"という意識に(ここにきて)やっと辿り着いてきた僕自身にとっても、この絵本はその思いをさらに決定づけてくれた。161010_harunatsuakifuyu2

本の仕様は、四季それぞれのシーンがあり、その最後のページが四つ折りになっていてそれを広げると(だいたい)A2サイズ位になる。(アマゾンのレビューではこの仕様が扱いづらいとの評だったけれど)僕はまさにこの大判仕様にヤラれた。後期の作品では比較的あっさりとした素描風のタッチになっているけれど、「はるなつあきふゆ」制作時はジョン氏が40才位…ほとばしる情熱と情感が見事に絵にぶち込まれ、イラストレーションと絵画の境界を無意味にさせた。そして(詳しい事は分からないけれど)日本版の紙の質感と印刷具合いも絶妙に(きめ細かい粗さと言う感じで)素晴らしく、何より現物を手に取って初めてうっとりする類いの絵本。これに出会った時、もちろん衝動が走ったのだけれど、それ故にこれに関しては値段関係無くレジに向かってた(余談だけど、そんな本がアマゾンではけっこうな安値である!)。

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ジョンバーニンガム絵本は何冊か買った中で「はるなつあきふゆ」が個人的には別格的に良いのだけれど、その他でピックアップしたい(下記の)…おじいちゃんと孫のそれぞれの人生から出る言葉が時にちぐはぐで噛み合ないけれど妙に「ふたりで過ごしている空気」が成立している「おじいちゃん」(1984)も、大人が見ると必ず誰もが(自分が孫の時の)記憶のシーンとして残っている感情を呼び起こしてくれる。ラストシーンの絵を見てこれを買うと決めた。/みにくさ故に飼い主に捨てられた犬がさまよいながら辿り着いたサーカス団で生きる希望を開花させる「ずどんといっぱつ」(1966)…ある人からすれば自分は価値のない存在だとしても、違う人からすれば自分は大事な個性なのだ、という感情。ラフな黒塗りのワンちゃんだけれど、それが愛おしく見えていく味のあるタッチ。/(その3につづく)161010_ojiichan-zudon

「この春、あるきっかけから絵本にハマった」….という事をちょっと前にも述べました通り、今現在の僕にとってのイラストレーションのイメージ源泉にもなっている(影響を受けている)絵本について、しばしシリーズ特集しようと思います。毎度の前置きをダラダラした後、素敵に出会った絵本を紹介していこうと思っています(そこそこ熱量があります、ご了承下さい)。

<"ちゃお" がきっかけ>
今年の5月のある時、どうやら(友だちの影響で)長女が(小学女子が愛読してるという)漫画雑誌「ちゃお」を買って欲しいって必用にねだられた事があった。あまりにしつこかったけれど、ウチ(親)の判断として、発売毎に買い与える事は避け、とりあえず1冊を与える事に。…で、「とりあえずブックオフとかにあるんじゃない?」程度の気持ちで近所に向かうも置いてなかった。後日、外出先で立ち寄った何件かのお店でもどこにも置いてなく、そこまで来たら新品を買うのが何かに負けた気がして(笑)意地でも探そうとしばし無駄な労力を使う。「…あのぉ-、"ちゃお"ってゆう子供向けの漫画雑誌ありますぅ?」…みたいな事をお店の人に聞いたりした(笑)。…で、結局無くて何かに負けて新品を買ったのだけれど、その意地の最中に立ち寄ったとあるブックオフの子供コーナーで、その流れでたまたま手に取ったのが海外作家によるいくつかの絵本だった。その選んだ絵本は主に60-70年代に描かれたもので、新鮮で面白いって瞬間感じた。「へ〜」って静かに唸ってた。確かその時は衝動で3-4冊買ったと思う。

<絵本という時間>
まず、大人になってかなりの年月の僕にとって、「絵本」というモノに対してこれまでに感じてきた事といえば…「子供の頃に家にあった印象に残っている絵本がいくつか」「大人になってたまたま目にした絵本を大人目線で気に入り買った何冊か」「子供が出来てからちょっと選んで買ったのが何冊か」…せいぜい自分の人生の中での絵本との距離感ってこんな感じだと思う(大方の人もそうだと思う)。…それが現在は…時間があれば図書館へ行き子供連れの若いママさんに混じって絵本コーナーを片っ端から(レコード探しの如く)見て回り、気に入った本に出会ったらチェックして(安ければ)アマゾン等で購入、そして毎晩寝る前の「絵本読み聞かせタイム」は、以前まではチチとハハは都合がいい方が(正直義務的に)受け持っていたけれど、現在、気が付けば僕(チチ)が完全担当になり、(時間があれば)寝る前3冊、通常でも2冊は子供たちに読み聞かせする…というのが日常になっている。「絵本を読み聞かせる(子供との)時間の重要さ」は確かにあると感じる。実際に子供たちは「絵本を読んでくれる」事を毎日すごく楽しみにしていて、3人で寝っ転がりながら読んでいくと途中から子供たちがその絵の世界と物語りの中に深々と吸い込まれて行って集中している空気を読みながら感じる時、確かにある種の"尊い豊かさ"みたいなものを実感する。加えて、そーして何ヶ月も毎日絵本を読んで聞かせていると、僕が昔から(学校の授業とかでも)大の苦手だった「音読」というのがスムーズに(それ程つっかえる事なく)手慣れて来ているというひょんな変化も生んでしまった(笑)。当初、僕の審美眼オンリーで入手した絵本を(半ば意気揚々と)子供たちに読んで聞かせた時、そのほとんどは「えーあまり面白くない」…と不評だらけだった。それがしばらく経つと「パパが買って来た絵本、面白い。」って評価が逆転。/PS:今、僕の周辺の友人、知人には小さい子供のいるパパさんがけっこう何人かいるのだけれど、もし可能であればパパが子供に絵本読んであげると、その内そのひとときに何かしらの感情が生まれると思うのでおすすめします(余計なお世話かな/笑)。

<子供に初めての世界をプレゼンするべきものであるなら>
大人になってからの「絵本」に対する先入観って、前途したような距離感での温度だったのだけれど、それは裏を返せば(巷で目にする)「絵本」の大方のイメージに対する「あまり惹かれない」という理由が強いと思った。ざっくり言えば絵本というのは「子供だけのもの」「幼稚でマンガっぽい」「メルヘン/ファンシー」などのイメージはどーしても主流としてあるかと思う。それらの勝手なイメージで今までの僕にとっての絵本は「さして興味の無いもの」という距離だった。もっと言ってしまえば、今、書店の店頭に売れ筋として置かれているような(つまりは今時ウケてる)絵本には奇をてらった感じや子供に媚びた感じやほぼマンガになっているものが氾濫してる感じがある。確かに出版不況の時代、売れなくてはならない事情も察するけれども、「子供に初めての世界をプレゼンテーションしていく」意味での絵本の本来の魅力は、もっと深くて豊かな所にあるべきで、(今のスマホやゲームを楽だからという理由で子供に与える風潮と同じで)人間の一番大事な最初の成長時間だからこそ"楽"だけに流れていくのは本質的に危険だと思う。マンガ自体はその分野では成立している世界だけれど、それ以前の年齢の子供たちにとっては表層刺激とは違う、静かにゆったりと世界へ誘う絵と文の世界が大切だと思う。先日立ち寄った図書館に置いてあった(絵本に関する)冊子に、「(絵本というのはあくまで)美術であるべき」というような表現があって、全く共感してしまう。僕がこの春に(ちゃおきっかけで)ハマり、集め出した数々の絵本にそのような魅力を次々に発見して、むさぼるように「出会い」を求めて行った。

<グラフィックイラストレーションの魅力>
最初は(きっかけ流れで)ブックオフを主に多摩地区/東京寄りの埼玉地区を、ほぼ片っ端から見て回る。各店、真っすぐに絵本コーナーへ向かう中年男性(笑)。コーナー何百冊?ある中で気に入った絵本に出会えるのは1冊か2冊。全部見るのはさすがにシンドいけれど、出会ったその瞬間の「宝物見つけた」感が至福のモチベーションなんだと思う。前途してきた意味での魅力を感じる絵本は(僕が感じた範囲で言うなら)新刊(書店)に望むより中古やアマゾンなどでこっちが自覚的に「探し出す体」で行かないとなかなか出会わない(だからこその価値かも)。5月末から6-7月と、素敵な絵本との出会いを求めての怒濤のブックオフ巡り。やがて一通り(可能エリアの)店舗を網羅し、次に出向いたのが「図書館」。地元エリアを中心に巡り、借りられる所はフルに借りて特に気に入った物は後日購入のパターン。…こーして人生で最も数多くの絵本を見まくって来ているとおのずと好きな作家が何人かまとまってくる。僕が絵本を手にしてまず一瞬で判断するのがやはり「絵」の魅力。僕の場合は(自身の絵の指向も同様なのだけれど)「グラフィカル」なタッチにやはり惹かれてしまう。思い起こせば昔から水彩やデッサンなどでなく一番好きだったのが「平面(色面)構成」だったし、色同士が混じり合う感じよりパキパキと色がブロック毎に並んでいる感触の方が好みだった。今回の絵本収集の流れで出会ったマイフェイバリット本はそれぞれ自由多彩なグラフィックイラストレーションの魅力に溢れていて、どーしてもそれらは(現代作家でなく)50-70年代の絵に結果的になってしまう(これは意図しなくても選んだ結果が確実にそーなってしまう)。そして8-9割で海外の作家の絵に惹かれた。日本の作家の絵もたまーに好きなものがあったけれど、調べたらやはりそれらもほとんど30-40年前の作品だった。まず「絵ありき」で気に入った本を購入するので、実はそれ程文章(物語り)を読まなくて買う事が多い。でも、後々つくづく感じる事は、「本当に素晴らしい絵本」というのは魅力的な絵と同時に素晴らしい物語りにもなっていて、その両方の魅力が合わさると、画集や小説とはまた違った絵本独自の世界感を味わう事が出来る。今まで正直な所(自分を棚に上げてるけど)他の人のイラストレーションというものにあまり関心(思い入れ)を持つ事がなく、どっぷりとそれらに向き合う事すら薄かったのだけれど、今回の経験で数多くの(世界の)作家の絵(イラストレーション)を見る事ができて、そこから豊かな刺激と影響を受けられた(そして憧れる対象に出会った)事がちょっと嬉しい。

<まなざしの包容感>
もう一つ、(優れたと感じる)素晴らしい絵本には、作家(作者)が子供たちに対して「世界は(ときどき悲しい事/辛い事もあるけれど)とてもワクワクして楽しいんだ」…という、世界を見つめる「まなざし」の包容感が全ての前提として根っこに在る事。いのちが育まれる最初の時間への生に対しての絶対的な肯定。当たり前の事なのだけれど、残念ながら大人の世界は愚か過ぎているからこそ「生の肯定」にはより強い意味を持つ。ここまで深読みしてしまう程、"たかが絵本"ではなくなってくる。たかが絵本では収まらない(と思っている)出会った絵本を次回からピックアップしていこうと思います。(長文、お付き合いありがとうございます)
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