社長の朝礼

社長が、毎日自分のために朝礼をする。社員に朝礼で訓示をする前に、まず社長が自分に訓示することで、自分自身を正す。そして、今日の仕事を開始する。 「今日の朝礼で、一日の成果が決まる」そんな、緊張感を持った、そして笑顔で出発できる、理想の朝礼を目指します。

「不惑」という言葉がある。数えの40歳が不惑の年だ。
この言葉は、孔子の「論語」からきている。

子曰はく、「吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ(したがふ)。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰えず(こえず)」と。

現実は、還暦が過ぎても惑うことばかりで、孔子の心境にいつなれるのだろうと考えてしまう。
でも、目標(ゴール)がはっきりしていれば、戸惑いながらも進んでいける。
目標を失ったり、方向性を失うと迷いの世界に入り込んで、わからなくなってしまう。
不惑の人は、人生の目標(ゴール)を明確に持っている人だと思う。

九州地方の水害が大変なことになっている。熊本に止まらず九州一円に水害が広がっている。球磨川に続いて筑後川も氾濫した。いずれも九州を代表する川である。普段は風光明媚で思わず水遊びをしたくなるような所だが、一転、脅威の川になった。また、岐阜県・長野県にも大雨特別警報が発令された。被害が大きくならないことを願う。
被災された方には本当に気の毒に思う。心からお見舞い申し上げる。
治山治水の対策が十分でなかった等の話が出ているが、東日本大震災の後、政府は「国土強靭化」と称して、災害対策に予算を投入して取り組むと言っていたが、いつしか忘れ去られた感がある。
国家100年の視点に立って、未来の国づくりを進めてほしいと思うのだが、現実はなかなか難しい。今の政治家は目先のことに翻弄されて、国家100年の国づくりへの想いに至らないのである。日本のこれからは大丈夫だろうか?今ほど国のかじ取りが難しい時はないのかもしれない。幕末・明治維新の時のような志士が現れることを期待するのは夢想なことだろうか?

65歳なると、「肺炎球菌」のワクチンを受けるようにと手紙が届く。私はまだ65歳ではないが、その年度に65歳になる人には皆送られるらしい。案内の文章には、予約が必要とあったので、いつものかかりつけ医で、持病の薬をもらうついでに予約をしようと思って出かけた。そしたら、ワクチンの在庫があるのですぐに受けられるとのこと。幸いと思ってワクチンを注射してもらい、家に戻った。しばらくすると、注射を打った腕が痛くなり、だんだん具合が悪くなった。それほどひどいわけではないが、倦怠感があり明らかにいつもと違う。しばらくベットで休むことにした。2時間ほどして起きだしたのだが、その時妻が予防接種の副作用だと教えてくれた。送られた書類に、2・3日副作用の症状が出る旨のことが書かれたいた。とりあえず原因が分かったので安心したが、結局、次の日は1日寝たり起きたりの日になった。3日目にようやく副作用はなくなり、いつもの体調に戻った。やれやれ。
それにしても、もう以前の体ではないと改めて思った。年相応の過ごし方を考えなくてはいけない。
気持ちは今でも意気軒高、青春時代だが、体は初老である。心身のバランスは必要だと思う。どんなに気持ちが青春でも、体が言うことを聞かないと気力もなくなり、何もできない。体を大切にし、気力も衰えず、最後の日を迎えたいものだ。やりたいことは山のようにある。でも人生のカウントダウンは間違いなく始まっている。限られた時間の中で、悔いが残らないよう一生懸命生きようと思う。

コロナ禍の中、熊本が大きな洪水に見舞われた。
テレビに映る映像は悲惨なものだ。
被災された方々に心からお見舞い申し上げる。
昔、わずか3ケ月だが熊本で過ごしたことがある。
その熊本が地震や洪水に見舞われるのを見ると
他人ごととは思えない。「熊本頑張れ」とエールを送りたい。
それにしても近頃、災害の発生が多いように感じる。
「備えあれば患いなし」もしもの時に右往左往しないよう
普段から備えをしておこう。

「縁は異なもの味なもの」という。元々は男女の関係を言った言葉だ。「男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、非常に不思議でおもしろいものだ」(故事ことわざ辞典)との意味。理屈では説明できない縁があるという意味から、現在では異性関係以外の結びつきにも使われるようになっている。(同上)
人との出会いを振り返る時、本当に不思議な「縁」を感じる時がある。まさに出会うべくして出会うよな出会いがある。だから、出会いは大切にしないといけない。
「良き出会い」をするためには、自分自身が相手から「良き出会い」だったと言われるような人間にならないといけない。「類は友を呼ぶ」というが、自分が魅力的な人間なら、魅力的な人に出会うだろう。自分が公的に生きる人なら、そのような人と出会うだろう。「出会い」はある意味、自分を映す鏡のようなものである。どんな人と出会うかで自分がどれだけの人間なのか分かるだろう。

今日のお昼はマグドナルドで食べた。モバイルオーダーで注文してみた。席に着いてから、スマホでマックのアプリを開き、メニューを選んで注文のボタンを押した。支払は事前に登録したカードでの決済だ。ほどなく店員が席まで注文の品を持ってきた。いたって便利だ。食事をしながら、受付(レジ)を見ていると大半の人が電子決済をしていた。もう現金で支払う時代は終わるのだろうか?そんな気がする光景だった。政府も、コロナの影響もあってか、モバイルによる生活様式を前倒しで推し進めるようだ。時代は間違いなくそして確実に変わっていく。時代に取り残されないために、柔軟な頭脳と心が必要だ。いつまでも、これまでの生活様式や価値観に囚われていると、時代に取り残されて生きていくのに窮屈な人間になってしまう。いくつになっても、変化に対応できる柔軟な自分でありたいと思う。

野球という球技は面白い球技だ。
他の球技は、自陣と敵陣が分かれていて、常に攻守が入れ替わるのが殆どである。それに対して、野球は攻守が完全に区別される。自陣・敵陣もない。同じステージで入れ替わるのだ。
試合時間の制限も基本的にはない。他の球技は試合の時間は60分とか90分と決まっている。しかし、野球は9回が終わるまで、何時間かかろうが続ける。
野球はアメリカが始まりだが、そのルーツはイギリスのクロケットである。明治の初期に日本に広まった。日本では国民的スポーツになった。その象徴が高校球児の甲子園である。純粋に汗を流して仲間と共に甲子園を目指す。その姿が、人々の心を打つ。その甲子園が今年はコロナで中止になった。残念だ。
野球のルールは3という数字が基本になっている。3ストライクでアウト。3アウトでチェンジ。3の倍数の9回で終了。野球は1チーム9人だが、基本は1対1の戦いである。つまり、ピッチャーとバッターとの勝負なのだ。それでいて団体戦である。野球は3という数字を基本にしたルールに従って、個と全体がバランスを取って戦う球技である。
最近はなじみの選手もいないので、見る機会が少なくなったが、他の球技の違いを思い浮かべながら見ると、新しい発見があるかもしれない。3ケ月遅れで始まった野球の試合を見ながら思ったこと。

7月の別名は文月(ふみづき)。七夕の月でもある。
七夕は織姫と牽牛が一年に一度、天の川で出会うという伝説。
そんなロマンチックな伝説を思いながら、夏の夜空に輝く星を見るのは「粋」である。
コロナがなければ今頃は、オリンピック直前で日本は大いに賑わっていただろう。
あらためて、いつどんなことが起こるかわからない。
去年は令和元年で、新しい御代の始まりとラグビーのワールドカップで日本中が盛り上がっていた。失われた20年などと言われた平成だったが、令和の時代は良い時代になると誰もが期待し願った。
その矢先のコロナ禍である。「災い転じて福となす」という諺があるが、そうあってほしいものだ。現状を憂いて役所や他人に文句ばかり言っているだけなら何も始まらないし良くならない。
こういう時こそ、創意工夫とありったけの力で新しいものを創り出していく。
そうすることで新しい時代が始まっていく。
その時「災い転じて福となす」が実現する。

自分でも気づかないうちに、声を荒げることがある。理不尽なことに遭遇したり、何を言っても理解せず自分の主張ばかりする人に対した時、気が付いたら大声を上げている。後で振り返ると、何故そうしたのだろうと後悔する。
「魔が差す」という言葉がある。語源は仏教から来たものらしいが、「普段では考えられない言動」のことをいう。
昨今、パワハラ・セクハラ問題が取り上げられることが多いが、大半は自分でも気が付かないうちにしているのではないか?だから、パワハラをする方はその自覚がない。された方は忘れることができない。
自分を律することは簡単なことではない。どんな時でも冷静沈着でいることは難しい。しかし、これからの時代、人の上に立つものは益々、心身における管理が求められる。特に心の管理は不断の努力が必要だ。それこそ、「毎日が修行」だ位の気持ちで日々を過ごすことだ。そういう人は良きトップ(経営者・指導者・管理者)になれる。
「魔」に差されないように気を付けたいと思う。

今日で6月も終わる。2020年も折り返し点。この半年は新型コロナ問題で世界は「パンデミック」が発生し、「大パニック」になった。世界はまだコロナ禍が収まっていないが、これからコロナ後の世界秩序をどのように構築していくのか大きな課題だ。やはり、今年は歴史のターニングポイントになることは間違いないだろう。

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