中東の窓

長年、日本の外交官として中東に深く関与。中東から見た国際関係を日々発信するブログ。

2010年01月

ミニ解説(イエメン 4)

Dec19380珍しい写真を見つけましたので、貼り付けて見ました。
何故珍しいかと言うと、実はこの写真は南、北イエメンの統合直後の写真で(多分1990年の5月ではないかと思われる)筆者が握手をしているのが、ベイドと言って昔の南イエメンの指導者で統合後副大統領になった男。その右側で気をつけみたいな姿勢で妙に鯱鉾ばっているのが、アリ・サレハ大統領(当時も現在も)です。
この時は統合後と言うことで、南北の対立は表面化しませんでしたが、次第に旧南の北イエメン指導者に対する不満が強くなって、遂には1994年の南側の分離独立の試みから内戦となり、武力に優れたイエメン軍(その主力は北イエメン軍)が南イエメンの勢力を圧倒して、内戦は中央政府(と言うか北イエメン)の勝利で終わりましたが、その時の南側の指導者ベイドは確か今ドイツだったかに亡命中です。
今後、この二人の指導者がこんな具合に隣同士で並ぶという姿が見られることはまずないでしょう。
未だに南部のイエメンで、中央政府に反対し、南の独立や自治を求める動きが根強くあることは何度も書いた通りです。
それにしても、イエメン統合はサレハ大統領にとっては絶好のタイミングでした。
それがアラブ政治の解り難い所ですが、実は北イエメンとサウディ政府とは常に微妙な関係にありました。問題は一つはサウディがイエメンの領土の一部を併合したことですが、同時にイエメンの共和政体に対する反感もあったかと思います。
このためサウディはイエメン北部の部族に武器や資金を提供して政府をけん制させたり、はてはマルクス主義の南イエメンとも裏で手をつないだりしていました。
1990年と言えば正しく湾岸戦争の時でしたが、イエメン内ではイラク系バース党の活動も結構活発で、サウディに対する反感からイラクに対する同情も強いものがあり、その立場は正しく微妙でした。
従って、この時イエメン統合が実現していなかったら、サウディ政府がイエメンに対して部族と南イエメンを通じて干渉したことはまず間違いなく、サレハ政府は窮地に陥った可能性が強いと思います。

イランの革命記念日

31日付のle figaro は、2月11日の革命記念日を前にして、改革派のムサビとカルービはそろって、支持者に対て記念日には街頭に出てデモをするように呼びかけるとともに、政府が2名の改革派を処刑したことを強く非難したとのことです。
同紙は、また革命防衛隊の司令官が、革命記念日を別な目的で利用しようとしているものは外国の手先で、革命防衛隊はそのような動きは厳しく取り締まるであろうと警告したこと、および元大統領のラフサンジャーニがその出番を覗っていて、政府及び改革派の双方に自重を呼び掛けたと報じています。
2月11日と言えばもうすぐですが、果たしてこの日に大規模な改革派のデモがあって政府側と激しく衝突(と言うか激しい政府の弾圧)があるのでしょうか?
lefigaroが指摘している通り、ラフサンジャニの動向が注目されますが、結局は彼が漁夫の利を占めることになるのでしょうかね?
今年もイラン内政からは目が離せないですね。

北朝鮮の武器はイラン向け

昨年12月にバンコック飛行場で(確か)ウクライナだったかの飛行機の中から多量の北朝鮮製の武器が見つかり、搭乗員がタイ警察に逮捕された事件について、haaretz は次のようにイラン向けの武器であったと報じています。確か昔誰かがイランとイラクと北朝鮮の3国を「悪の枢軸」と呼んだことがありましたが、イラクのサッダム・フセイン亡き後もイランと北朝鮮はその名前を汚さないように頑張っていると言うことなのでしょうかね?
「35トンの武器は、ロケット、ロケット発射気、手榴弾発射機等を含み、総て北朝鮮製の武器で、その仕向け地はイランであったと、タイ政府の国連北朝鮮制裁委員会あての書簡が述べていると外交筋がかたった。
北朝鮮のイラン等に対する武器輸出の最大の目玉はミサイルであるが、国連の制裁で北朝鮮の武器輸出は禁止されている。イランは武器輸入についてt禁止はされていないが、国連制裁員会としてはこの手紙を両国にまわして、そのコメントを求めることになろうとのことである」

ミニ解説(イエメン 3)

イエメンの昔の思い出を書きだしたので、ことのなり行き上最初の南イエメン訪問も書いておきます(2回目はパレスチナゲリラのベイルート退去と日本赤軍とも関係しての南イエメン出張だったが、これについてはそのうち別途書きます)。

最初に南イエメンを訪問したのは、確か1972年の2月で、イラン、クウェイト、イラクと回ってアデンに入りました。
中東と言うと一年中暑いという印象をお持ちの方も多いと思いますが、冬は結構寒く雪も降りますが、この年は大雪の年で、小生がテヘランを離れて暫く後、余りの大雪にテヘランの待合室の屋根が落ちてかなり多くの死傷者が出たことがありました。クウェイトもバグダっド小雪でした。
ところがアデンに入ったら2月と言うのに蒸し暑く閉口しましたが、これが一番しのぎやすい2月の気候で、他はおして知るべしですが、いくら大帝国の栄光のためとはいえこんな所に何年も滞在してインドへの交通路を守った英国人の執念には感心しました。
それはともかく、南イエメンでの仕事は外交関係設立の交渉の下準備で、いわば日本代表ですから、先方政府が車を1台提供してくれました。ホテル代までは持ってくれませんでしたが、街の中の古い立派な確かロック・ホテルとかいう名前で、大きな岩の上に建てられた10階建ての結構立派なものでした。
仕事の方は外務次官とのアポをひたすら待って、アポができたらものの1時間も話をして、この問題はお互いのカイロの大使館を通じて交渉することにしようと合意しました。
従って、次の場所への飛行機街の間は時間があったので、随分町を見学できましたが(先方政府の方針とかでアデンの外には出してもらえなかった)、同じイエメンと言っても昔見た北の方とは全く違う国だなと言う印象でした。
流石に英国の貿易中継基地だけあって小さいなりに立派な近代的な(当時の水準で)街で、街を歩いている女性も頭からヒジャーブ(北イエメンでは日本の市松模様に似た赤とか緑の布を頭からすっぽり被っていた)をかぶらず、男も腰に半月刀(ジャンビアと呼ぶが)などささず、いずれも裕福そうではないがこさっぱりした格好でした。
町で先ず驚いたのは貨物の港から客船の波止場までまっすぐな道が両側2車線で走り、その両側には2階建てで高さをきれいに連ねた家々が面なっていたことです。
また英国統治の中心で、独立までの間テロの舞台となったクレイター地区(おそらく昔は火山の噴火口であったのだろう)は高い建物も含め、立派な建物が並んでいました。
また歩いている人々の顔もインド人がかなり混じっているようで、インド系も含めてかなりの人が英語が上手いのには感心しました。
またきtでは殆ど全員がやっていたqat(これも後で書くが覚せい作用のある葉っぱ)を噛んでいるものにはお目にかからなかった。
また子供たちが小奇麗な半袖に共産党青年組織か何かの印と思われる赤いネッカチーフをつけているのも印象的であった。
なお、当時まだ独立日も浅いせいか、外務省でも課長以下の事務員はどことなく英国学校で教育を受けた感じで、英語も上手いのに局長以上が如何にも労働組合出身みたいな感じで、英語もできないことが印象的でした(これはずっと時間が下がって革命直後のイランでも同じ経験をしました)。
要するに当時の南イエメンは外国人から見てごく普通の国で、北のようにタイムスリップして中世の世界に紛れ込んだような国とは別世界の感がありました。
いくら昔、昔は同じ国であって、どこかで同胞意識は有しているとは言っても、これだけ社会が違ってしまうと、将来統一などすることあるのだろうかと思ったものでした。

イスラエルの暗殺の歴史

昨日ハマスの軍事部門の要員がドバイで暗殺されたと言う話を書きましたが、31日のaljazeerah は、英国のタイムズからの引用で、「イスラエル情報機関と軍のパレスチナ人暗殺の歴史」と言う記事を載せています。
その記事は今回の事件との関係には何も触れていませんが、言外に匂わせていることは明らかで、どうも火に油の感じが強いですね。
「タイムズ紙によると、イスラエルのモサド(対外情報機関)と軍の特殊部隊はこれまで長いパレスチナ人指導者暗殺の歴史を有している。また軍と空軍は暗殺予定者のリストを有している。
最も有名な暗殺事件は1988年チュニジアでPLOのNo2のアブージハード(本名ハリール・アル・ワジール)の暗殺で、その事件の時は偽造のレバノン旅券を有するモサド要員が事前にチュニジアに潜入し、対象者の詳しい情報を集めたうえで、特殊部隊からなる暗殺隊員がゴムボートで上陸し、TVでインティファーダ(西岸における青年の不服従、イスラエル軍に対する投石による抵抗)の映像を見ていたアブジハードを殺害した。
もう一つ有名な事件はアンマンでハマスの政治局長ハーリド・ミシャイルの暗殺未遂事件で、この時は毒薬が使用され、モサド要員が路上で彼の耳に毒薬を入れたが、犯人はヨルダン警察に逮捕された。ミシャイルがまだ存命中であったので、激怒したフセイン国王が解毒剤で彼bの命を救うように伝達し、ミシャイルの命が救われた(彼は現在ダマスカスに滞在)ので、モサド要員は裁判にかけられずに送還された。
またモサドはヒズボラの軍事部門の長アマード・モグニヤのダマスカスでの2008年の暗殺に関係したとされているが、このモグニヤはアルゼンチンでのユダヤ人関係施設の爆破の責任者と見られていた。
イスラエルの暗殺者の中には2004年のハマスの創始者アハマド・ヤシーン他多くのパレスチナ要人が含まれている。
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