中東の窓

長年、日本の外交官として中東に深く関与。中東から見た国際関係を日々発信するブログ。

サーレハ大統領

イエメンの騒擾 2

イエメンの騒擾イエメン大統領サーレハ

12日付アラビア語紙al sharq al-ausat 電子版によると、イエメンのサーレハ大統領が、最近の南イエメンでの騒擾に関して、その地方の学生たちとの懇談会にて、分離主義者はサナア(イエメンの首都)やサアダ(イエメン北部の都市でシーア派ザイディ派の根拠地)の方が南イエメンより強く、イエメン国家にとって問題であると語った由。
同大統領は、またこれら北部の分離主義者は、南に対する敵愾心をあおり、内戦をもたらそうとしているが、イエメン軍は国家統一にコミットしており、イエメン軍は必ず国家の統一を守ると述べたとのことです。
イエメンにはその昔勤務していたことがあり、またその昔には仕事について最初の外国出張がイエメンであったこともあり、特別の思い入れがあり、なんとなく気になってニュースをフォローしてしまったが、中東全体と言うコンテクストではその重要性は、決して高くないと思います。
サーレハ大統領が何を言おうとしたのか不明ですが、もしかしたら彼の言う通り北イエメンでも中央政府に対する反対が強まっている可能性もあり(その場合、最も考えられるのはアルカイダ系の原理主義者たちです。またいずれにしても歴代のイエメン政府に取り、最大の内政課題は部族主義と中東政府の弱体という構造的問題でした)、仮にそれがアルカイダ系を意味しているのであれば、今後十分注意する必要のある話だが、単に部族対中央政府と言う話であれば、サーレハにとっては深刻な問題でも、中東全体から見れば小さな話と思われます。

イエメン(ウィキペディア)

南イエメンの騒擾

Dec19380
真ん中の大きな男が元南イエメンの指導者ベイド、その右隣りの余り大きくない方が現大統領サーレハ(北イエメン)

11日付のal jazeerah電子版によると、イエメンの南部で分離主義者が治安当局と衝突して、3人死亡、相当数が負傷したとのことで、同紙によればイエメン南部の騒擾はかなり以前から続いていて、数千人規模のデモが行われたり、前にも何人か死亡していたとのことであるが、その背景としては、1994年の旧南イエメン出身者による、イエメンからの分離独立を求めた内戦が政府軍に依り鎮圧されてから15周年になることで、いずれも分離独立を求める旧南イエメン出身者によるものとのことです。
イエメンはアラビア半島の突端にある国で、その昔はシバの女王の国として有名ですが、わが国ではあまり馴染みがないので、背景を若干解説しておきます。
イエメンはその後、英帝国主義がアデンを中心とする南イエメンを占領して植民地にしたので(アデンは19世紀、20世紀初頭を通じて、欧州からアジア、インドへのカイロの重要な寄港地として栄えた)、南北の2つのイエメンに分割さrていたが、その後も北が封建王制の下で閉鎖的な社会を維持し(ただし62年に軍部に依るクーデター後は共和制)のに対して、南は1967年に独立した後、共産政権が生じ、ソ連の湾岸及びにアフリカ戦略上の拠点として、その軍事、経済援助を受けて生存してきました。
ところが、ベルリンの壁崩壊で社会主義圏が崩壊し、ソ連の援助を期待できなくなった南が、北に吸収される形で、1990年統一イエメンが成立しました。
統一イエメンでは旧南出身者にも一応配慮した政治が行われたが、国家の主導権はあくまでも北出身のものの手中にあり、北よりは開かれた社会を維持してきた南イエメンにとっては統一イエメンの政治には不満が多く、それが1994年の内戦につながった訳ですが、al jazeerah の報道に依れば、内戦終結後15年しても依然として旧南の不満がくすぶっていたのでしょう。
因みにベイドと言う旧南イエメンの指導者(亡命中)が安保理の介入を呼び掛けたそうですが、その男が冒頭の写真の真ん中に立っている男です。

イエメン(ウィキペディア)
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