「信なくば立たず!」ピープルネット

ゲバラ

 ピープルは「人々・人民」の直訳です。大衆の視点から訴えるブログがモットーです。 「私を導くものは、真実への情熱だけだ。 あらゆる問題について、私はこの点から考える。」(エルネスト・チェ・ゲバラ)

具体的な清貧の見本

 中野氏が『清貧の思想』を刊行した後、「貧乏礼賛で経済活力をなくすものだ」という誤解が随分あった。だが、そういうものではない。質素倹約の思想だ。明治生まれのお爺ちゃん、お婆ちゃんが口うるさく、「物は大事にしなさい。食べ物を粗末にしたら罰が当たるよ」と言っていた倫理観である。
 清貧を実践していた人に、川嶋紀子さんをあげたが、他にも伊藤正義さん(大平首相の親友・自民党宏池会幹部)や土井たか子さんが好例だろう。伊藤さんは2度も自民党総裁候補に名前が挙がった大物だが、生涯雨漏りのする家に住んでいた。親友の大平さんらが見かねて大きな家に引っ越すよう勧めても聞かなかった。官僚時代は農水次官、政治家になってからは官房長官や外務大臣などを経験しているような立場にも関わらずだ。
 土井さんも野党とは言え党首になったのだから、一戸建て位に住んでいても良さそうだが、生涯2LDKの西宮のアパートに住んでいた。アパートではなくマンションかな? 阪神大震災の倒壊は免れたらしいから。
 こういう人々を「清貧」というのである。伊藤さんはちと極端な気がしないでもないが、渋谷区松濤の麻生太郎財務大臣の大豪邸の前を通った時、伊藤さんと彼は本当に同じ保守本流の自民党政治家なのか? と考えさせられてしまう。
 セブン−イレブンのS前会長の私邸も品がない。「Sさんの豪邸ってすごいな。うらやましい」という声を聞いたことがない。「何だあのやたらデカい家は・・・」と取材した記者や地元の人からは呆れているのだ。
 「往生要集」の「足ることを知れば貧といへども富となづくべし」を前者とすれば、「財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」は後者に当てはまるだろう。それにしても、「財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」とはS前会長のためにあるような言葉である。彼は「人間の欲望を刺激すればまだまだ消費者の二−ズはある。それが資本主義だ」と公言して憚らない人なのだから。

 

古い日本人の考えは活かすべきである

 私は政治的には保守ではないが、文化的な価値観に対しては保守だと思う。『清貧の思想』では戦前からある質素倹約の思想がどうして日本に築かれたか述べている。日本が皇国史観などで右傾化したのは一時のことである。戦争に導いた極右思想は否定されるべきだ。
 だが、戦前あるいはそれ以前からある日本人の生活観は良い物が多いのだ。私は高度成長をずっと経済学的見地から批判しているが、中野孝二氏のお母さんが「天罰が当たる」と言ったことを重く考えるべきだろう。
 高度経済成長で日本の技術力・生産力が飛躍的に向上し、日本のメーカーの製品が世界を席巻したことは正当な経済行為であり、否定するのはおかしいという気持ちはわからなくもない。「物づくり」で儲けたのであって後のバブルとは違う言いたいのもわかる。しかし、日本人の経済感覚がおかしくなったのも高度成長の時期なのである。急激な経済繁栄は必ず反動が来るものだ。
 『清貧の思想』にも出てくるがバブル末期の日本人の東南アジアあたりでの評判は惨憺たるものだ。「日本人は金の話しかしない。哲学がない。自国の歴史もよく知らない・・・」と呆れられる話を中野氏は散々聞かされたという。こんなものは繁栄ではなく、ただの堕落と言うべきだろう。
 哲学や歴史に無知なのは国際的視野からは恥なのである。バブル期にはどうせ「文学部って就職率悪いしィ、ダサ〜い」なんていうギャルがいたのだろうが、正にバカギャルである(現在40代後半ぐらいか?)。このバカギャル思考から抜け出せない人が多くいるので情けなくなる。
 ちょっと真面目にものを考えている若者はK福の科学とかO真理教に足を踏み入れたという不幸な時代でもある(冗談でなく)。両者とも共通するのは「お布施を惜しみなくしなさい。お金に執着するのはよくない」とか言いながら、自分はチャッカリ愛人を囲い、贅沢な食事を好むなど宗教家と言うよりは、ただの下品な成金オヤジだったことである。
 まだこの2人より悪い人がいる。「廃棄ロスを恐れていはいけない。弁当や総菜、おにぎりは常に新鮮なものを仕入れ期限切れのものはドンドン廃棄すること」なんてことを煽っている某大手コンビニの創業者。本当に罰当たりな人間である。救いなのは加盟店オーナーには良識のある人が多く、「こんなに食べ物の廃棄を出して良いのか」と心を痛めながら働いていること。誰かS前会長より年配の人が「この罰たりめ!」と叱ってやるべきなんです。

まだ一億総中流?

 「格差社会・格差社会」と言われて10年以上になる。「一億総中流」は昔話だ。確かに日常を観ていても「勝ち組・負け組」の差がハッキリしているように思う。奨学金が問題になっているが、奨学金を使わず大学進学できる人は今や「勝ち組」の部類かもしれない(ただし、無暗に使う人が多い気もしている)。
 企業でもファミリーマートの上田準二会長が「上位2社しか生き残れない」と発言し、サークルKサンクスを統合し躍起になっているが、これも「もう昔みたいにのんびり商売をやっていたら生き残れない」という危機感からだろう。最近、ローソンの凋落を記事にしたが、まあ納得はいく話だ。
 それにしても、そんなに皆貧乏になったと感じているのだろうか? 「一億総中流」の根拠は昭和40年代の内閣府の調査が根拠らしいが、最近の調査でも「自分は中流」と考えている人が9割を占めるというではないか!? 何だこれは?
 周囲を見渡せば貧乏人も金持ちもコンビ二弁当を「おいしい」と言ってほうばっている。「セブンイレブンの弁当はそこらレストランよりおいしい」というのが今や定説である。要は所得によって極端に差がないのだ。逆にコンビニ弁当あたりがおいいしから、高級料理店にさほど行きたいと思わなくなり、バタバタとそういう店は潰れているのだ。そういう光景を見て「やはり不況もエライことですね。アベノミクスは一体何なのでしょうか」とか言ってるんでないの? 
 見ていると600円か700円当たりの定食とかラーメンとか味の勝負の厳しさが激しいよね。だから、そのぐらいの値段の食べ物の質は上がっているんだ。
 確かに顕在化しない「貧困」を感じるのも大事な時代だ。貧困家庭を支援している人から聞くと、所得が低いだけなく、モラルが低下した親が多いという。ロクに食事も子供に与えず昼間から男と遊び狂う母親がいたりするそうだ。「母ちゃんはいらないから、お前ら食べな」という清貧の思想がそこにはない。真面目にやれば低い所得でも子供の食べ物ぐらい何とかなるはずだ。格差を問題にする以外、視点を変えてみるべきである。





高度成長を批判した戦前派主婦

 『清貧の思想』の著者である中野さんの母親は高度成長時代、大量生産・大量消費の状況をみて「天罰があたる」と言ったそうだ。別に難解な経済理論なんか知らない人だろうが、直観的に日本経済が将来大ダメージを被ることを予感したのであろう。
 中野さん曰く、お母さんの性格は、
 「『往生要集』の『足ることを知れば貧といへども富となづくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく』を、教えられなくとも身をもって知っていた」
 ような人柄だという。そう言えば今日観た不愉快なテレビ番組の「30代以上の独身女性」は、皆そこそこ儲けている仕事らしいが、その発言たるや「財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」を地で行くようなものであった。
 覚えている限り書いてみると、
 「結婚相手の給与は1500万円以上、私より物知りが良い。学歴は法政か中央大以上の人がいい。東大までとなると理屈っぽいからダメ。だけど、中卒だけどタレントの〇〇さんからプロポーズされたら1ヶ月考えちゃうな」
 欲望限りなしと言った発言である。この発言をしたのは確か40代半ばの人だから、ギリギリバブルの恩恵を若い頃に享受している世代でその価値観から抜け出せないのだ。そういう考えは実は貧しいのである。食べ物に飢えた人が物乞いしているのと変わりはない。
 川嶋紀子さんがバブル当時秋篠宮と婚約した時、「テレビがない」というのが話題になった。お父さんも学習院大教授で社会的地位は高いが、3LDK住まいで所得は当時としては高くはなかった。皇族入りした彼女は現在まで安定感があるが、「足ることを知っている」からではないか。
 

だからテレビはダメなんだ

 何とかテレビの情報を有効活用できないかと思っていたが、今日放送されてバラエティ番組を観て呆れた。東大生と30代以上独身女性数十人を集めて議論する番組だけど、「東大生はこんなに変」という点が強調されていたが、「ラムネを常に食べている」とか「ホテルを起業した」とか元々変わった人をチョイスしただけ。別に東大に行かなくたって彼らは変わっていたに決まっている。
 30代以上独身女性もこれまたイレギュラーなタイプの仕事人間をチョイスした感じだった。
 以前からあの手の番組は「引きこもり・ニート」を特集したりして、有名人とディスカッションさせるとかナンセンス(本当に切実な引きこもりの人がテレビのスタジオに来るわけがない)なことを行っていたが、これではおかしな情報が入るだけだと思った。類似番組として『ここが変だよ日本人』があったが、あの番組のほうが余程真面目だった。
 番組予算がないから、質の悪い企画でギャラの安い素人を引っ張ってくる。どうせ素人だけでは間に合わないから、実は何処かの事務所に所属している自称「素人」も混じっているのだろう。
 それにしても東大生を特集すると何故おかしくしたがるのだろう。クイズ番組では東大生とは言え普通の学生と変わらなく見えたものだ。というか、それが普通の東大生なのだ(クイズ研究会所属の連中はオタク的かもしれませんが)。それに反して京大生をおちょくった特集は見たことがない。絶対、京大の方が面白いキャラがいるはずだが、やはり2番手ではインパクト欠けるんだろうね。
 いつまでもコンプレックスを刺激するような番組をやっている。そんなのでもう視聴率は取れない。だからテレビは駄目なんだ。

清貧の思想

 20年以上前にベストセラーになった中野孝二氏の『清貧の思想』を読んでいる。良寛僧や『徒然草』などを引用しているが、これが中々良い物である。バブル経済の終焉直後に刊行されたのだが、貧乏を推奨しているわけではない。
 金銭や財物よりまず命が大事なのだとか、質素な生活でも生きることの楽しみを享受出来るのだとか、そういことが書いている。終戦直後の物資の無い時代を例に挙げているが、阪神大震災を経験した身としては理解できることがあった。最初の数日は救援物資も届かず、普段の生活の有難さが身に染みるのだが、そのうち避難所から仮設暮らしになり、再度まともなところに転居して普通の日常を取り戻すと「のど元過ぎれば熱さを忘れる」という状況になってしまうのだ。東日本大震災でもそういう人が随分いたと聞いている。
 例えば「貧困問題」を取り上げている人から怒られるかもしれませんが、今の世の中少ない予算でも割と良い教育が出来たりするものですよ。参考書も良書が多いし、ネットでも貧困世帯向けのボランティア塾などが沢山あるし、そうした人向けの塾も出来つつあります。
 ましてやコンビニやスーパーが溢れ、安くて手ごろなものがいくらでも手に入るのだから、物が不足していた昭和40年代くらいまでを考えると、「1億総贅沢」と言えます。例えばホリエモンなんか福岡県八女市の新興住宅街出身ですが、お父さんは普通のサラリーマンで所得は貧しくないけれど、何しろ近所に商店街は勿論、スーパーもない。食べるものは粗末なものしか手に入らなかったという。ようやく10年前にコンビニが出来たそうです。
 「お金はそれなりにあるけど、物がない」ということに悩まされた時代があったのだ。正しく物は考えようで、金銭的所得に関わらず、それなりの生活が出来るのだから、「カネカネ」と拝金主義みたいなことは必要ないと思うが。
 
 

唯物論=無神論の誤解

 幸福の科学あたりが、私を「左翼=唯物論・無神論者」と思っていたようだが、違うので驚いたようだ。そもそも唯物論=マテリアリズムとは「物質論」ないし「実質論」と訳すのが適切と言われており、唯物論(ただものろん)と訳すのは誤訳だという説が言われているのだ。
 今の日本共産党は宗教の自由を認めて下記のような見解を出している。
 「日本共産党が理論的な基礎としている科学的社会主義は、世界観としては宗教的世界観とは異なりますが、宗教の存在を否定して宗教の廃止を主張するものではありません。」
 一見もっともな見解に見えるが、宗教に対し同党がまだ勉強不足だと言わざるを得ない。マルクス・エンゲルスがいかにキリスト教・プロテスタンティズムの影響を受けたかということに無知である。
 そもそもニーチェなどが提唱した「無神論」も日本人の感覚とは異なるものだ。二ーチェはルター派の神学科出身で宗教をみっちり勉強した上で無神論を提唱したのである。クリスマスや結婚式を教会で祝い、正月には神社に行き、葬式は仏教という日本人の感覚とは全く異なる見地から無神論を唱えているのである。
 だがしかし、「唯物論=無神論」という誤解は解けないのだろう。「1192創ろう鎌倉幕府」(現在は1185年が定説)の歴史年表式の暗記と同じだ。暗記教育とか〇×式教育の弊害はこんなところに表れていると思う。暗記した答えの真相を深く考えないのだ。
 

哲学を何故軽視するのか?

 「哲学とか社会学とか役に立たない学問をしている文系の馬鹿」
 という書き込みを理系の研究者と思しき人がしているのを以前見かけた。何という貧しい視野だろうと思った(文系優遇に対する怨恨もあるのだろうけど)。実際、「文学部系の学問は役に立たない」と親教師から言われて育った可能性がある。そういう風潮は戦前からあって、西田幾多郎が建材だった時代に京大哲学科を志望した梅原猛教授は「哲学なんて役に立たない」というようなことを親から言われたという。こんなことだから、日本から大物哲学者が戦後殆ど育たなかった。戦後教育の大物哲学者は廣松渉氏だろうが、彼は天才だったと言える。
 加えて彼が高校時代には共産党活動に熱中し、高校中退後大検を受け東大に入学したという普通の学校優等生とは違う経歴が独特の視点を与えたのだろう。彼が教授になる頃には全共闘運動が高揚し、彼は共産同系のイデオローグとしても活躍した。学生として全共闘運動に参加した者からは廣松のような大物は育っていない。
 廣松氏も厳密には戦後生まれではなく、戦前(1933年)生まれで小学6年生の時に終戦を迎えた世代だ。戦後型のマニュアル教育にドップリ浸かっていた訳ではないのだ。これが団塊の世代以降の戦後教育を受けた世代になると、どうも考える力が弱いのである。「全共闘学生は今の学生より、よく物を考えていた」という評価があるが、指導部クラス(大田竜や革マルの黒田寛一、中核派の本多・陶山等)の人間や新左翼を支援していた羽仁五郎などの学者・文化人が独自性のある思考力の持ち主だったのであって、全共闘学生自身の殆んどは一皮むけば戦後教育のマニュアル思考人間が殆どではないか?
 その中で完全な戦後世代の佐藤優氏は異色だろう。彼の時代の同志社神学部は「本当に無茶苦茶」と言われていたそうだが、その無茶苦茶さがマニュアル思考から解放される原動力になったのだろう(ただし、佐藤氏もマニュアル的思考を完全に抜け出せているとは思わない)。 
 それにしても何故哲学を軽視する風潮が強いのだろうか? 佐藤氏と「お互い尊敬しあう仲」だという池上彰氏がそうだが、ああいう軽く分りやすいものが受ける時代なのだろう。20年前は『ソフィーの世界』が流行ったりしたものだが、今はそういうブームが起こりにくいかもしれない。
 
 
 
 

法律家に哲学者はいないのか

 「法律家に哲学者はいない」
 ということを昔教わったことがある。佐藤優氏の神学関係の著作を読んでつくづくそう思った。もし、佐藤氏が同志社神学部ではなく、東大・京大法学部のキャリア外交官出身なら、今ほどの活躍はなかっただろう。現に官僚出身者の著述家で政策や官僚改革論を論じる人は沢山いるが、佐藤氏のような独自の思想・哲学を語る人はいない。彼らの多くは東大法学部出身である。法律論や政治・行政学には精通しているが、哲学がないのである。
 私はマルクスはヘーゲルを超えられなかったと結論したが、これはヘーゲルが神学者であったのに対し、マルクスが法学部出身者だったことにも関係しているだろう。マルクスは『資本論』を残すなど実学的な分野には強かったが、哲学的な思考はヘーゲルに到底及ばなったのだ。
 これが弁護士だったレーニンとなるともっとひどい。『唯物論と経験批判論』などは、マルクス・レーニン主義が全盛期の時代から批判する人が左翼系学者にいたし、『哲学ノート』などは精々哲学科の優秀な学生レベルだろう。「レーニンは哲学者としては2流・3流」と言っていた学者がいるが、そもそも哲学者のレベルに達していない。
 だが、日本では「哲学科にいく」と言うと「就職率の良い法学部か経済学部に行け」と言われる風潮が強い。「哲学なんて何の役に立つんだ」と本気で思っている人が多いからだ。哲学は学問の基礎というのをまるで知らない。
 こうした大人たちの心無い言葉でいかに多くの哲学青年が、文学部哲学科以外の学部を選び、失望していったことか!? 彼らの中には西田幾多郎を超える逸材がいたかもしれないのだ。
 法律とは所詮、規則を決めたもので人生の羅針盤とかそういうものではないのだ。哲学とは相反する学問なのかもしれない。
 

『朝まで生テレビ』の宗教論争

 ユーチューブで昔、オウム真理教と幸福の科学の論戦となった『朝まで生テレビ』の討論を観た。番組には他の新興宗教の信者も観客席に出席しており、話題になった伝説の回だ。
 後に、この時既にオウムは坂本弁護士事件などを起こしており、問題になるのだけれど、麻原は仏教をよく学習しており論理的にものを言っている。それに比べて幸福の科学はやはり考えが浅いという感じだ。
 しかし、当時(1991年)の頃の人々はまだ知性的な欲求が残っていたのではないかという感じも受けた。他の団体の信者も真面目に人生や生き方を考え入信したような人たちで、独自見解をきちんと持っている。
 最近の宗教界を見てみるとドンドン軽薄化している。例えば幸福の科学はかつて「霊言だけでなく、ルソーやカントのような哲学の原典を読むように」と堅い読書を推奨していたのに、最近は霊言ばかりだ。
 キリスト教神学校は「繁栄の神学」とかいう拝金主義みたいな思想がはびこり、伝統的な神学校はルターやカルヴァンは難解だからと読まない。反知性主義がはびこっている。
 宗教だけではない。哲学なんてダサいと読む人自体が少ないのだ。
 なぜこうなったのか? ゆとり教育の所為だとは思わない。自分の世代は団塊ジュニアで受験戦争が激しくなった世代で基礎学力はそれなりに高い方だ。だが、哲学の勉強会に入るような人間は変人扱いされた。実際に、ある大学の哲学勉強会の主催者の教授が「うちは哲学オタクしか集まらない」と嘆いていたが、今はその哲学オタクも集まらないのではないか。
 反知性主義がはびこれば必ず政治家や宗教家の質は劣化し、社会の頽廃につながる。既にそうなって言えるが。
 
 

スポーツっていいなあ

 「新聞はスポーツ面から読む。1面や2面は政治や経済の汚い話だらけ」
 と言った人がいるが、その通りだと思う。
 政治や経済面を見てもちっとも幸せにならないし、不愉快な気分が募るばかりだ。
 だから、オリンピックシーズンは毎日新聞・テレビがスポーツだらけになるので実にすがすがしい。
 スポーツは勝っても負けても爽やかである。政治のようなドロドロした怨念試合はなく、ライバル選手でもプライベートでは友達というケースもよくあることだ。
 政治で友情は育だたないと言われる。お互いの利害のために協力し合うだけ。角栄・大平の友情などは例外だとそうだ。政治を間近に見ているとそうかな? と思う。悲しいけど。
 その反面、スポーツは純粋な友情が育つ。現役時代仲が悪かった選手でも引退すると親しくなる場合が多い。よい意味での戦友として付き合いが続くことが多いようだ。「ピンポン外交」のように政治的な敵対をスポーツが解消してしまう場合もある。スポーツはやはり気持ちが良い。

私は勉強・学問主義者である

 佐藤優氏が「学歴崇拝は偶像礼拝である」と言っていた。全く同感である。どういうことかと言うと、学校のブランド名が第一で実際の学問・勉強内容は二の次というのが、学校・学歴信仰である。
 こういう考え方が日本のアカデミズムをダメにしたことに気が付かない人が多い。例えば難関大なら東大、品格を重視するなら学習院とか表面的なブランドばかり追いかけて中身をまるで見ようとしない。
 もう東大に丸山眞夫や廣松渡のような伝説の大物学者はいない。また、そういう人が育たないようになっているのが、現在の東大アカデミズムである。こういう状況を小室直樹教授が『偏差値が日本を滅ぼす』という本の中で予言していたがその通りになってしまった。
 私が歯ぎしりするほど公教育の上部機関である文科省や教育委員会を嫌うのは、国家という権威がその背景を利用して人々を「信仰」させているからだ。国家神道などと同じである。
 私は勉強主義・学問主義である。だから、教育行政が嫌いなのである。彼らは勉強や学問の楽しさを奪う輩であるから。

宿題代行業者って?

 『日刊ゲンダイ』で随分、ひどい記事を読んだ。中野区の公立中学の話だが、余りにも宿題が多いいので「宿題代行業者」が出現しているとか。作文を3000円で請け負ったりしてくれるという。全部丸投げすれば、10万円ぐらいになるそうだ。格差をなくす為に宿題を増やしたというが、これでは本末転倒である。
 昔、塾に行くのを快く思わない教師からいびられた記憶があるが、これは塾とは違って「代行業者に宿題を頼むのはやめなさい」と教師が言うべきだろう。だが、黙認しているという。
 決して、異常な受験戦争時代を肯定する気はないが、「宿題は自分の力でやるもの」という風潮は間違っていなかったと思う。中学受験の時などには、学校の宿題は邪魔なので親が代わりにやっているというケースはあったが、それは宿題の量が知れていたからだ。
 実を言うと、「夏休み最後の3日で間に合わせ」という人は自分を含めて周囲に殆どいなかったように思う。自分の住んでいた地域の子供は意外と真面目だったなと思います。
 

高校時代の担任の先生

 「自分は良い教師に恵まれなかったなあ」
 と思ったが、よく考えると高校時代の担任教師は若くて優しい社会科教諭だった。僕が真面目な生徒だったこともあり、ひいき目に見てくれた人だった。教師の世界の裏側の陰湿さも時折話してくれ、生徒の目線に寄り添う人だった。
 だが、一つだけ足らない部分があった。授業レベルが低かったのである。特に現代社会など公民の授業などは僕の方が勉強しているから、授業でこちらが間違いを指摘することもあった。こちらを生意気だと非難せず、
 「角田にはかなわんなあ」
 と言っていた。
 レベルの高い授業をしてくれていたら、辞めなくて済んだのにな、と思う。だが、それは超一流高校でも難しいのかもしれない。灘高出身の和田秀樹氏は「学校の授業は受験の邪魔」と言っているが、これは小学生の頃から僕が感じていたことだ。開成高校なども受験対策は塾任せの傾向があるらしく、高校3年を受け持った直後の教師が中1を担任した時、センター試験の問題を出すという出鱈目な授業があったそうだ。
 それにしてもあの先生、本当に人柄は良かったんやけどなあ。定時制高校教育という枠組みでしか動けなかった悲劇と言うべきか。

ルター・カルヴァン・ツヴィングリは信長・秀吉・家康に匹敵する

 宗教改革者として知られるルター・カルヴァン・ツヴィングリと言えば、世界史や倫理の問題集の定番だけれど、それこそ試験が終わったら忘れたなんて人がきっと多いよね。
 だけど、ヨーロッパの神学生の人に聞いたら、もうプロテスタント運動が盛んだった地域の中に、彼らの伝説は土着化しているのだと思ったね。プロテストタントの思想が清教徒革命に繋がったり、ルソーの思想を生み出しフランス革命の背景になるなど、ヨーロッパ史を動かしていくのだから、その存在感は日本で言えば信長・秀吉・家康のようなものだ。いやそれ以上かもしれない。ルター派の神学者からヘーゲルを産みだし、その後マルクス・エンゲルスの思想に繋がっていったことを思うと、その巨大さは世界的なものだ。同時にプロテスタント勢力はカトリックと並ぶ教勢として世界を席巻している。それも、ルターが聖書をどの民族にも読めるようにしようとドイツ語に翻訳したことから始まったのだ。
 明治維新の志士やレーニンやトロツキーも間接的にではあるが、彼らが作った潮流の流れにいたと言うと驚く人が多いかもしれないが、歴史を観ていくと事実である(毛沢東あたりになると外れてしまう)。近代革命はプロテンタント運動を思想背景としているのだ。
 

2部(夜間部)卒は恥なのか?

 吉野氏の関連スレで「2部(夜間部)卒」は恥だと思っている人が多いという意見を見つけた。実感から言うと、これは誤解である。きちんと働いて夜間部を卒業した人の評価は高いものだ。吉野氏のように努力もしないで夜間部に行った人が白い目で観られるのだ。自分も定時制に行ったのは怠けた結果でもあるので、これはよくわかる。学校辞めるとき、定時制出身というのを敢えて明るみにしようと思った所為もあるが、本当に努力しているのがわかると人は馬鹿にしないものなのだ。吉野氏批判派の人が僕を馬鹿にしないのは、堂々と学歴を明るみにしているからだろう。
 そもそも「定時制中退」と本にも書いてあるのに、「俺は大卒じゃないよ」と言うと、「ええ!?」とキョトンとする人が多い。現役の学生や院生の人などは「信じられない」という顔をする。そんなものだ。
 故人となった税法の権威、北野弘久名誉教授が眼を掛けてくれたのも僕の経歴が気に入ってくれたからだ。「まだ、君みたいな奴がいたのか。昔は役所でもボーヤから大検や夜間部に行って出世した人がいたし、高等小学校卒業の弁護士の生き残りもまだ少しはいるんだよ」と言ってくれた。別に「褒めてくれ」とこっちから言ったのではない。「高校中退とは思われない位勉強して世間をあっと言わせてやる」という気持ちがあったのは事実だが、それは他人が判断することだと思っていた。
 吉野氏もどうせ経歴詐称するなら、ある程度普通に働いて夜間部に行ったことにすればよかったのだ。当時は景気がよかったから、仕事も良いのがあっただろう。
 「夜間部の勤労学生が予備校講師になるまで」
 という触れ込みなら馬鹿にされなかったはずだ。それどころか、「模範的苦学生」と褒められただろう(ただし、それなりに仕事はしとかなきゃいけないよ)。元暴走族なんかより、その方が手っ取り早かったのに。

世界にそして国内は深部に眼を向けよう!

 その明治維新期を調べてる知り合いが話していたが、「戦前の日本人はもっと賢かったのではないか。オランダ語が出来て、英語も出来る。色々勉強している」と言っていた。それも当然で江戸時代の名残で唯一の交易国オランダ式の学問、蘭学がまだ盛んだったし、カントやヘーゲルなどドイツ哲学の翻訳も盛んだったから、英語のみならずヨーロッパ語をよく勉強していた。更に漢文の教養もエリートの間では当然だったから、中国古典への造詣も深い人が多かった。
 敗戦後、日本は貧しくなり海外旅行や留学は富裕層の特権になった。バブル期まで海外旅行が一般化するのを待たねばならなかった。実に40年もの間日本は鎖国状態だったのだ。ただし、国内の技術は新幹線などは戦前から開発をしていたから優秀で、国内産業の発達に打ち込むことが出来、経済大国になったのだ。 
 海外留学が今は一般的になっているが、それでも欧米に比べれば日本の高等学問は遅れていると思う。最近、神学部のヨーロッパ人学生と話したが、宗教改革の時期に建学された大学だけに歴史や伝統がまるで違う。奥深いのだ。「ルターやカルヴァンの本は難しいや」なんて言っている、日本の神学生は小学生レベルだと思ったぞ。 
 高校までは「ゆとり」でも良いから、高等学問の遅れは緊急に取り戻すのが、今の日本の課題であると思う。「受験戦争が終われば、勉強も終わり」という風潮の名残は非常によろしくない。戦前のように希望者は大学全入出来るのだから、高等学問を学ぶチャンスが広がっているのだ。吉野敬介先生が「今頑張れない奴は一生頑張れない」とか言って、自分は2浪で無試験に近い夜間学部の出身じゃないという怒りはわかるが(僕も失望したぐらいだから)、その怒りはその辺で止めて海外の教育事情などに眼を向けてはどうだろう。
 吉野氏をとやかく言わなくても、彼らの世代は滅亡する。代々木ゼミナールが凋落し東進に優秀な講師陣が集まっているが、吉野氏と同世代の予備校バブル時代の講師ばかりで後の世代が育っていやしない。本当に優秀な講師は大学教授に転じる者もいるだろうが、吉野氏では無理である。一番売りの過去の経歴が暴かれたのに、「暴走族から遂に大学教授になった俺の爆言」とか言って売り出すのか? 
 無理だ。あるいは古典で何か独自の発見をしたとか、研究成果があるのか? 平家物語などを訳しただけでハッキリ言ってない。札幌大学客員教授も辞めている。彼の経歴詐称は予備校講師だから通用したのであって、大学(中学・高校など公教育機関では)では無理である。余程優れた研究成果でも残さない限り無理だ。彼は古文以外知らない。日本史も奥深いとこまで知らないだろう。大した論文なんか書けないに決まっているではないか。吉野氏こそ「今頑張らないと一生頑張れない」状況にあると思うぞ。
 そんな人はさておき、世界にそして国内は深部に眼を向けよう!
 
 

古文は役に立つのか

 私が予備校古文講師の吉野敬介氏を批判したら、ネットで盛り上がりを見せてしまった。彼の経歴詐称にガッカリしたという内容だが、批判派の人たちを盛り上げることになってしまった。
 それは置いといて、「古文は勉強としといて損はないのではないか」と思うことに最近遭遇した。明治維新前後を知り合いと研究しているのだけど、幕末に無名の人が書いた日記が発見されたのだ。古文的には江戸時代末期のものだから難しくないが、「古文が苦手、勉強してない」という人にはちんぷんかんぷんだろう。
 実は野口悠紀雄教授が一橋大学の教授時代、「一橋大学は古典を入試に出していないのは良いことだ」と書いていたので疑問に思ったことがある。年を取るにつれ「古文は日本史の一貫として考えると合理的ではないか」と思うようになった。日本史を本格的に掘り下げて学ぶなら古文の知識は必須だと言える。それなのに、「古典はどうせ配点が少ない」とか言って、全く勉強せずにパスする人が多い。実にもったいない。
 「マドンナ古文」で知られる荻野文子先生の講義をネットで見たが、実に見事なものだ。ネット上の書き込みにも大学生or社会人らしき人が「こんな先生の授業を受けたかった」と書き込みしており、教養としても役立つものだ。
 こういう授業を「役に立たない」と放棄するのは勿体ない。配点が低くても古文は勉強しよう。
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