November 11, 2007

火星が出てゐる

火星が出てゐる。

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。


火星が出てゐる。


木枯が皀角子の実をからから鳴らす。
犬がさかって狂奔する。
落葉をふんで
藪をでれば
崖。


火星が出てゐる。

おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさえ滅した
必然の瀰漫よ。


火星が出てゐる。

天がうしろに廻転する。
無数の遠い世界が登って来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな不気味な美が
ひしひしとおれに迫る。


火星が出てゐる。
  

 

※皀角子=さいかち。藪=やぶ。瀰漫=びまん。

高村光太郎詩集「火星が出てゐる」より。

高校生のとき、それは火星大接近の年でした。この詩に惹かれた私は、ある冬の夜、家の外に出て、雲ひとつ無くよく晴れた空を仰ぎ見ていました。

火星は、血の色でした。血を、ひと粒にぎゅっと集めて凝固させたような、そんな不吉な天体でした。

怖い。

あの星を、神様が創ったというなら、あのとき感じたのは、むしろ「畏怖」かもしれません。

宇宙の暗闇のなかに浮かぶ、何者かの、しるし。

そう感じると、頭がくらくらとして、足元が覚束なくなってきて、何か地球に立っているということが、とても不安に思えてきて。

地球がゆっくりと回転して、地平線の下に隠れていた星座が少しずつせり上がって来て。

そして、聴こえる。

回転を続ける地球の成層圏と電離圏が摩擦しあう、シューッという、乾いた、悲鳴のような声。

ほんの数分のまぼろしでしたが、私は、この日の夜空のことは、今でも、忘れることが出来ないでいます。

 

◆高村光太郎:詩人・彫刻家。光雲の子。東京生まれ。東京美術学校卒後、アメリカ・フランスに留学してロダンに傾倒。帰国後「スバル」同人、耽美的な詩風から理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふれた格調の高い口語自由詩を完成。ほかに「智恵子抄」「典型」「ロダンの言葉」など。(1883〜1956)

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ac5562aozora2 at 16:10│Comments(1)clip!高村光太郎 

この記事へのコメント

1. Posted by たいじ   March 04, 2020 22:32
いいですね

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ごあいさつ
まじめ書店 店主
まじめ書店のオヤジです。16歳から詩を書き始め、30歳でやめました。R.M.リルケの詩「秋」を読んで世界への最終的な信頼を、J.プレヴェールの「朝の食事」で愛の深さと残酷さを学びました。すぐれた詩の言葉は、人生の脊髄に突き刺さってきます。スゴイです。そしてまた、コワイです。