2011年11月

2011年11月15日

更木陣屋と徳山則秀

先月の全社の合間を縫って、岐阜の史跡巡り。

各務原市の代官を務めた徳山氏の尊崇も厚かったと言われる、各務原市の手力雄神社を訪問。岐阜市の火祭りで有名な手力雄神社とはまた別にある。左右一対の龍の木像で知られる。

左龍 右龍

左の龍の近くには古墳の石室もあり、古代からの要所だったことが伺える。承久の乱の北条軍も、斎藤氏攻めの織田信長も、FC岐阜トップチームも練習に使用する、フェニックスグラウンド(各務原市勤労者グラウンド)の近く河田の渡しより木曽川を渡河し、死闘の末に湿地帯を越え、美濃に入っている。

続いて、各務原を治めた旗本徳山氏の更木陣屋跡地へ。

更木門

陣屋とは、城を持たない小大名や旗本の政庁。徳山氏の江戸時代の身代は5000石。

徳山氏は、徳山ダムの湖底に沈んだ徳山村の豪族で、各務原の代官を務めた間も、本貫を徳山村としていた。初代代官は、徳山則秀。通称五兵衛。号の秀現(しゅうげん)さんの方が、通っているとも言われる。徳山貞孝の次男で、長男は四郎兵衛で代々の惣領名の模様。弟に忠右衛門秀貞。

徳山氏は土岐氏の末裔だと言われるが、則秀の父の貞孝の代は、朝倉氏にも仕えていたとも言う。現揖斐川市の北部が、日本海側の勢力である朝倉氏の領土だったとは直ぐにはピンとは来ないが、一乗谷を始めとする越前国の主要都市へは、峠を越えなければならないものの、今の417号線などが通っていた時代は、斎藤道三の美濃国の井口城(稲葉山城・岐阜城の事)などよりもむしろ近いので、おかしな事ではない。三河国の徳川家康が、当初、駿河の今川義元に仕えていたというのと同じ事。徳山村から攻め入った朝倉宗滴に従い、道三と戦って破り、井口城付近まで攻め寄せたこともあると言う。

竹中半兵衛が稲葉山城を占拠した時期に、徳山氏にも信長からの接触がある。

朝倉氏が姉川の合戦と刀根坂の戦いで敗れ、一乗谷の戦いで滅ぶと、織田信長に仕え、柴田勝家の甥の鬼玄蕃こと、佐久間盛政の寄騎となる。加賀国の一向一揆の拠点であった御幸塚城(今江城)を攻めた際、則秀が城の中から内応者を出すことに成功し、落城させる。この辺りは、竹中半兵衛に比類する働きでもある。この功績により、父は御幸塚城主、則秀は別に小松城代となる。

則秀は長篠の合戦で、軍艦を務める。父とは別に松任城4万石を拝領しているので、かなり優秀だったということか。本能寺の変の頃には、上杉景勝の魚津城の戦いにも参加している。

柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いにも参陣。秀吉が岐阜城の織田信雄を攻めるために不在の際、羽柴方から元柴田の寄騎であった前線の山路正国が寝返り、佐久間盛政がこの機を活かすべきと主張し、攻撃が行われる。佐久間隊のその先鋒を則秀が務め、正国が抜けた事により出来た道を通り、中川清秀の大岩山砦を落とす。更に岩崎山の高山右近を追い落としている姿が、賤ヶ岳合戦屏風にも描かれている。ちなみにこの時、この徳山則秀たちの活躍により、黒田官兵衛も苦戦に陥ることになる。

徳山五兵衛

だが、賤ヶ岳砦の守将の桑山重晴が退却を開始し、陥落間近と思われた頃、丹羽長秀が駆けつけて持ちこたえる。更に秀吉が大垣城から大返しによりこの地に帰還。、佐久間隊も退きながら、賤ヶ岳七本槍たちと激しく戦闘を行う。この時に前田利家が本国へ撤退を開始したことで、柴田軍は崩壊する。その後、兄の四郎兵衛は帰農し、石川県辰口町徳山村の由来となった。徳山則秀は越前の武生で降伏。高野山にて蟄居となる。

則秀は丹羽長秀に8000石で仕えたが、2年後に長秀が亡くなり、その子の長重の代に丹羽家の知行は秀吉に10分の1に減封され、則秀は前田利家に仕え、小松城主5000石となり、佐々成政との鳥越城の戦いに参加している。(ちなみに利家はケチで有名で、家臣に俸禄を払い惜しみしていたため、この戦いで兵士が足りず、正妻のまつに「金銀を召し連れて槍を突かせてはいかが」と皮肉を言われている。)
その後、丹羽重永が小松城に加増移封してきた際に則秀が何処に移ったかは今のところ不明。

1597年、伊達政宗が、上方でゆすりに遭った際に騒動を嫌って金を渡しして治めたことを、利家が聞きとがめ政宗を非難する。その際の使者に則秀が立ち、上手く場を収めている。

しかし、前田利家とは馬が合わなかった様子。利家は1599年の春に危篤に陥るが、その時の遺言に、「高山右近などは信頼できるが、片山伊賀守延高は裏切る。徳山五兵衛も隠れて諸大名と連絡を取っているようだから信頼できない。」としていた。

賤ヶ岳でほぼ裏切りと言えるような退却をした高山右近と、完全に裏切った利家自身を棚にあげて、批判されているわけではないだろうが、先の伊達家への使者の件も、深読みすれば、相手方を怒らせて斬られても惜しくない人物として選ばれたとも考えられる。

1598年秋の秀吉の死の直後に、利家を含む五大老たちが豊臣家を託されたが、利家を後ろ盾とした文治派の石田三成などと、家康を後ろ盾とした反三成派の武断派たちは、既に一触即発の状況にあった。この時はまだ家康の方が若干不利で、既に利家の寿命が長くないことも明らかだったため、和睦となっている。この緊張関係の中で、利家が前田陣営か徳川陣営か、敵か味方を見分けたという事である。

そして、その利家の亡くなった翌日に、則秀は前田家を出奔し、京都伏見の徳川家康のところに駆け込んでいる。なお、この日、武断派たちの襲撃を予想した石田三成が伏見城内に逃げ込み、翌日に徳川家康が調停している。

一方の、1万石の身であった片山延高は、利家の後を継いだ前田利長により7日後に、4千石の松田直秀により上意討ちにされている。出奔は。則秀自身を救ったとも言える。(ちなみに、直秀は、後北条家で最大の貫高を所領する早雲以来の譜代家臣の次男だったが、父と兄が秀吉の北条征伐の際に利家や堀秀政に通じていた事を、2人の助命を条件に通報し、戦後秀吉の怒りを買って処刑されかけたところ黒田官兵衛に救われている。)
翌1600年、利長は家康暗殺計画の疑惑をかけられ、家康に降服し、母であり利家の正室であった芳春院(まつ)を江戸に人質に出す。

その年の関ヶ原の合戦で、則秀は東軍として参加し、戦後その功績により、旗本として取り立てられ、各務原の地5000石を与えられた。しかし、本拠地は徳山のままとした。

その後、お伽衆として家康に近侍し、前田家での事などを語った。芳春院が利家の危篤の際に極楽へ行けるように経帷子を着せようとして断られたと言った逸話はこの時に伝えられた。

則秀は1606年に死去。

もう少しいい仕官先や領地を選べば、もう少し立身出世を果たしていたのかもしれない。その点では派手さにやや欠ける武将だ。しかし、徳山村に愛着があって、遠くはない場所を選択していたのであれば、その条件下で優秀な状況判断力で戦国時代を見事に生き抜いたと言える。

幾度と無く主君を変えたが、「表裏比興の者」と評された真田昌幸同様、それは大勢力の狭間で生きる少勢力には止むを得ない事情もあった。その中で、出来るだけ筋を通して生きてきた勇者だったようにも思われる。

徳山会館(フォト蔵)

徳山会館から徳山村を見下ろしても、ダム底は見られない。館内にもその当時の資料は殆どない。湖上に残る山峰を、徳山氏たちも歩きまわったのだろうと想像する程度。

徳山村史の「勇邁にして機智策謀にたけ、隠忍長久の人生観を持ち」という記述は決して誇大・過大評価ではないと思われる。

更木陣屋

歴史公園100選の中では小さな、地元民の子供たちのための公園と言った規模だが、こちらには徳山氏の歴史が残っている。一周はあっという間だったが、終わりごろ、中秋の名月が揚がってきていた。
acekiller6 at 11:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 岐阜散策 | 岐阜の人物

2011年11月12日

各務原Brothers vs FCオリベ多治見3

スポーツ広場2試合目。

   1
4  3  8 16
14 26 11 6
  23 13
--◯--
  22 15
11 26 30 27
25 5 28 6
   16

社会人トーナメント行き候補とも思われた多治見は、可児、古川の後ろ、LIBよりは上の4位。

1試合目のハイレベルな攻防と比べれば、そこまでシビアーなボールコントロールは無い。いきなり岐阜県全体のサッカーレベルが向上したなどという訳ではなかったと、それはそれで安心する。

各務原はトップの13番やレジスタ11番といったセンターラインが効いている。得点はセットプレーからスイーパー8番が決めた。岐阜県サッカーの急激な進化は無くとも、着実に成長は続いている様子。

多治見土本はトップに。しかしセカンドトップ15番も仕事が出来ている。右SH27番も安定感がある。ストッパー28番も積極的にプレーする。

この試合の勝敗を分けたのは、多治見の左SHの11番だったと思われる。スピードとテクニックと判断力を活かし、再三各務原の右サイドを脅かす。セカンドトップ15番が下がればトップに入り、SBにボールが入ればプレッシャーをかけてブロックし、各務原をナーバスにさせた。

各務原はサイドアタックのスムーズさをやや欠いた様子。

多治見優勢の中で、土本がストライカーとしての力を発揮して2ゴールをあげるなどし、3-1と勝ち越した。
オリベ

オリベ2

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FC川崎 vs LIBERTA4

今週も雨。しかし、各務原スポーツ広場にて、見たかった本格派サッカースタイル同士の対戦。特にFC川崎は今年度の県リーグでワンランク上の強さ見せて首位を行き、東海リーグ昇格を見据えている。その川崎が相手だけに、LIBの強さを見るにも丁度良い機会。

        27今井
 14藤井  3松久 23平野 6加来
 30小田 7津田 15神谷 13福田
      31   17馬渕
------◯------
     7岩田 15藤田
10原田 9立道 8山本 13板津
5小寺 6武藤 24中村 12堀江
      33鈴木

上が西サイドのLIB、下が東サイドの川崎。

想像以上にハイレベルな試合が行われる。特に川崎の4-3-1-2形のMF4人は素晴らしい出来だった。原田や板津辺りが良い選手である事は知っていたが、8番アンカー山本が安定感をもたらしていた。9番立道もやや強引だったが、パスカットに来る相手の出す足の下を狙って右サイドに振るなど、能力の高さを見せていた。立道に視野の広さも備わっているならば、黄金の中盤と言っていいとも思われる。全体的にもトラップはきっちりとして、プレッシャーを躱し、ターンも良く、パスも角度を工夫して出されている。

一方のLIBも、技術的には劣らない。レジスタ15番の強さが目立つ。アンカー7番がややフィットしていない様子で、川崎相手に劣勢だったが、ベテランの闘将23を中心に良く守る。

前半の終盤に差し掛かった頃の、川崎の先制のFKは、山本がキッカーの位置からダミーで縦に走って壁の横を抜けて注意を引きつけ、壁をジャンプさせ辛くしたところで、堀江が直接決めた。LIBキーパーも、ややファー寄りだったかもしれないが、ほぼ見送るしかなかった。

更に後半、左サイドから、オウンゴールにも見えたが、角度の無いシュートを放たれ決まって2-0。以前は後半のスタミナが問題でもあり、今回は一方的な展開になりかけてきた事もあったので、好ゲームのための反撃に期待して若干LIB寄りの観戦になってくる。

そして、後半のLIBERTAは期待に応えてくれた。FW17番とアンカー7番がポジションを入れ替えている。7番が小柄ながら強さを活かしてボールを収めることで、川崎の流れを押し返す。
10分頃に、31番から18番葛谷に交替。31番としてもここからというところたっただろうが、18番からは、スピードとドリブル力を兼ね備えた、スーパーサブの様子。そしてLIBは互角以上の展開に持ち込む。

川崎は攻撃力に優れたチームにありがちだが、CBの対応が不完全だった。中盤の守備ブロックを抜けてくるボールをしっかりと処理しない場面が多く、一度は後ろから来たFWに奪われ、キーパーと1対1のシュートを撃たれたが、冷静だったキーパー鈴木の脚に当たって外れるという場面もあった。

そしてLIBの攻勢で何度かのCKになり、そのうちの1つが、キーパーの前に入ってきた選手へのマークが外れていて、ゴールとなった。終盤には、ミドルシュートが上手くそれてパスになり(あるいはパスだった?)、ゴール前の30番がヒールでボレーシュートを放つが鈴木のほぼ正面で、冷静にキャッチされる。試合はそのまま2-1で川崎の勝利。

川崎は恐らく3回に2回は東海社会人トーナメントを勝ち抜いて東海リーグに昇格出来るだけの力はありそうだ。そのまま再来年に東海1部にいても不思議ではない。しかし3回に1回は守備陣の対応ミスが響いての敗退ということにもなりそうだ。

川崎
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2011年11月05日

長良クラブ vs 芙蓉クラブ

アウェー中心の前半戦を善戦しつつ、ホーム中心の後半戦に下り調子の様子の長良クラブ。今年度最後のホームゲームと言うことで、雨の各務原スポーツセンターへ観戦に。

    17田中 7夏原
    10小寺 16羽賀
   14西沢朋 11蓮池 
30千葉? 5青木 18若園  15丹羽
       21播磨

既に昇格も降格も無く、テストを兼ねているのだろうか。あるいは、これが久松監督の理想とする形なのか。小寺は低い位置にいて攻撃に絡めない。止む無くなのか、指示なのか夏原がセカンドトップで低い位置にいて、トップに田中が残り孤立気味。

長良クラブの調子のいい時の攻撃の形は、岡田や小森が田中の前にいて、田中にボールの落とし所があり、夏原が左サイドを抉り、羽賀がゲームを組み立てる。しかし、ストロングポイントをほぼ全て用いていないだけに、勢いが生まれない。

加えて、芙蓉はまだ残留可能性を残していて、モチベーションの違いも明らか。勢いに加えて、イーブンボールでの粘りも強い。4-3-3気味のシステムで、アンカーの7番の守備がいい。また、流石は教員チームというだけあって、全体的にもポジショニングが良い。

しっかりとFWにボールを収め、周りはカバーしつつ前に出てくる。劣勢の長良DFによる少々のファールでは声を荒げることもなく、冷静にプレーをする。MFが開いて、蓮池が付いていったところに、パスコースが出来たトップにボールを入れるなど、頭脳的なプレーも随所に見られる。芙蓉のベンチから、長良はボールが収まらないという声が聞こえたが、その通りだったとも思われる。

教員チームとの試合は、色々と勉強になる、ためになる部分が多い。加えて、今は円高デフレの影響も殆ど無く、夜勤などの重労働による疲労が無いというのも有利な点だろうか。

いずれにせよ、システムの不慣れさに、モチベーションの差があれば、その時点での順位は参考にならない。芙蓉が前半の早い時間にミドルシュートを決め、前半の終了間際にも7番の守備からショートカウンターを決め、2-0に。長良は出来からして、2点差は少し厳しい。

後半に入り、平均年齢が高めの芙蓉の運動量が少し落ちる。そして、長良の久松監督の選手交代のタイミングが良く、投入された三宅が左SHで開き気味にポジションを取ったことで、幅も出てくる。後は長良はポジショニングで劣るものの、体力差で何とかポゼッションを高めていく。小寺、三宅、青木などのサイドアタックがチャンスを生む。

開いた小寺が切り返したところに芙蓉DFが飛び込み、PAの左角でファールでPKを獲得し、1-2と追いあげる。

長良は、中に人が居ない状況もあったが、中に入っている場面でのポジショニングが良かった。CKでも、キーパーがボールに触れない動きが良く出来ていた。味方とかぶる場面もあったが、FWに上がった若園の動きには期待感があった。それらにボールが合えば、2~3点は取るチャンスがあったと思われる。しかし、クロスボールが合わなかった。

逆に決定機を吹かす場面も何度かあり、精度が、あるいは監督の言うとおり気合が足りなかったか。

守備やクロスボールなども課題だが、何より長良はシステム的に迷走している様子なので、これが来年に持ち越されたりしないかが、やや不安な点。先日、外出中に、会話中の高校生らしき集団から、FC岐阜と長良クラブという言葉が聞こえた。試合会場や知人との会話以外で聞かれる程、東海リーグでプレーする長良クラブは、岐阜県下のサッカー関係者にも意識されているのだと思われる。不調を上手く乗り越えて、来年も残留以上の成績を残して欲しい。
acekiller6 at 03:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 2011年度東海2部リーグ 
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