2014年02月21日

軍師官兵衛第7回と小寺氏

黒田官兵衛は荒木村重から東国の武田信玄の死を聞き、織田信長の勢力が西国へ向かってくることを予感する。

西国の最大勢力である毛利氏は当主の毛利元就が逝去してまだ数年であり、未だにその子どもたちである吉川元春と小早川隆景は健在だった。

そして毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊が播磨の武将たちを毛利氏側に引きこもうと策動する。

官兵衛の妻の光姫の姉の嫁ぎ先である上月氏は毛利氏側に着くことを決め、兄の櫛橋左京進もそれに続いた。

左京進から官兵衛も説得を受けるが、毛利元就の跡継ぎである孫の輝元はまだ若く、しかも大大名としての器量に疑問が持たれていた。一方の織田氏側は着実に領国内を整備して繁栄させ、日増しに勢力を拡大し、長篠の戦いにおいて、信玄の跡継ぎの武田勝頼を破っていた。

毛利氏側で固まっていた評定の場で、官兵衛は当主の力量の重要さを自らの当主である小寺政職に対して訴え、その賛同を得る。

官兵衛は自ら小寺が織田氏側に付くことを伝える使者となり、それを阻止しようとする勢力による妨害を払いのけながら岐阜へと向かう。

史実において織田氏と毛利氏が全面的に敵対するのは、もう数年の後に足利義昭が毛利氏領内に押しかけて上洛を要請してからの事。

信長にとってみれば、最も恐れていたとされる武田軍を破ったとはいえ、反攻はまだ先であり、畿内の本願寺や丹波衆や雑賀衆など、まだまだ敵も多かった。

しかし、織田氏側となっていた山名氏や浦上氏などが支援する山中鹿介を筆頭とする尼子遺臣団が、尼子氏の旧領回復を目指して毛利領内を脅かしていたため、徐々に関係は悪化していく。

なお、官兵衛が仕える小寺氏の先祖は、(今回も浅井、朝倉、武田に対して活躍していたはずの稲葉一鉄の祖父の稲葉塩塵(あんじん)が三千貫で土岐氏に仕え始めた場所である)岐阜県池田町の小寺から出ている。足利尊氏の時代に播磨の赤松氏に属し、赤松氏が一旦没落した後に御家再興に尽力して成し遂げるという、構成の山中鹿之介や大石内蔵助たちが憧れそうな家系である。

小寺の姓を授かっていた官兵衛が岐阜への使者となったのは、一つには小寺氏と岐阜との縁によるものもあったのではないだろうか。

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