中山道

2014年03月13日

中山道(鵜沼宿~太田宿~中断)

真墨田神社0743連日の中山道ウォーキング。鵜沼駅を出て、村国真墨田神社へ。壬申の乱で天武天皇の勝利に最も貢献したとされる、各務原の豪族の村国男依を祀っている。社内の金毘羅社でウォーキングの安全を願う。

鵜沼台0746鵜沼台を、鵜沼宿や合戸池で日光浴をする鴨たちを眺めながら登り、陰平山のうとう峠を目指す。


うとうの森0752合戸池0747

うとう峠水路0753通行用と水路用を兼ねた、旧街道ウォーキングでも珍しいトンネルをくぐり、昨日一旦離れた21号線に戻る。


ゆらぎ0754景勝地として日本ラインと名付けられている。




うとう峠出口より0761うとう峠出口0770ここでアクシデント。鵜沼宿方面へ向かう歩行者のための標識が、太田宿方面へ向かいたい歩行者に見える面にも設置されていた。つまり、トンネルから21号線へ出て、各務原市に戻る方向に20分ほど歩いてしまう。坂祝町役場へ訊ねると、2月末に付けたばかりで間違えられていたとのこと。



成田山0760お陰で、ロダンやピカソにも影響を与えたという女優のマダム貞奴が建立した貞照寺で彼女の墓参りをすることになった。立派な金剛力士像がある。


坂祝町峠の展望台0780峠の出口を越えて、歩行者用に整備されロマンチック街道と名称された堤防道を歩く。岩屋観音堂付近には、21号線が開通する前の、難所だった時代を忍ばせる道が残っている。


猿喰城この難所を抑える猿啄城を見上げれば難攻だっただろうと思わせる。伊木山城を抑えた織田信長が、攻略を丹羽長秀に命じ、黒母衣衆筆頭の河尻秀隆が武功を立てて城主となり、勝山城と改められた。

坂祝町役場の交差点で、堤防道から車道沿いの歩道に戻るのが、標識などは無かったが正式。パジェロ製造関連の工場の間を通って美濃加茂市に入る。

太田宿手前0787やはり標識もないが、深田神社の石標から太田宿へ入っていく。中濃大橋の辺りが承久の乱で大井戸の戦いの古戦場跡となっているが、最激戦地域だったという事だろうか。

太田宿東0792大橋をくぐると、本陣跡などがある宿場町の風景になる。ここにもうだつの上がる脇本陣があり、休憩所も用意されている。

太田宿は、明治時代でのシェークスピアの『ハムレット』翻訳や、そのハムレットをオマージュして大坂の陣の片桐且元を主人公とした『桐一葉』などの新歌舞伎の創作などで知られる、坪内逍遥の出生地でもある。

太田の渡し0796中山道三大難所の一つと言われた太田の渡しも、現代では太田橋で簡単に渡れる。そこから御嵩宿を目指して暫く進めば21号線に合流という大雑把な考えで道を間違える。

新太田橋方面に曲がった時はすぐに気がついたが、ラスパ御嵩を眺めながら歩き、旧21号線に入ることを見落とした後は、新しい21号線のバイパス側を30分以上進んでしまう。右手に見えるはずの明知鉄道の車両を左手に見たところで間違いに気付く。

そのまま後5kmほどの御嵩宿まで進むか、分岐まで引き返すか、数キロ分は諦めて明知鉄道を越えて旧21号線まで戻るかとも考えたが、暗くなっていたので、また岐阜に戻ってきた時に歩き直すことにして、顔戸駅(ごうどえき)から戻る。

駅の南側に、この地に平安時代に美濃守に着任した在原行平の墓があったという伝承の説明板が立っていた。父の阿保親王は平城天皇の第一王子だったが、薬子の変に連座して皇位継承権を失っており、行平は本来なら天皇(国王)となっていた嫡孫の人物で、源氏物語のモデルとも言われている。

しかし、記録の上で美濃権守に着任したことがあるのは、弟の美男子かつ皇后となる女性との駆け落ち、そして「ちはやふる」を詠んだ歌人としても有名な在原業平の方である。当時に近江守だった行平が手伝いでもしたという事だろうか。

それでも、行平が因幡守に叙任され都を離れる際に詠んだとされる「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」を目に出来たのは、岐阜散策中断としては良かったのかもしれない。
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中山道(加納宿~新加納宿~鵜沼宿)

20142岐阜駅南口中山道ウォークの加納宿から東という、ブログ的な宿題が残っている。昼過ぎに岐阜駅南口から出て中山道に入り、鵜沼宿を目指す。


20142加納天満宮加納の川手は応仁の乱で戦火の京都から逃れた貴族たちが住み、山口市の大内氏と並んで賑わったが、加納天満宮は乱の後に沓井城が建てられた場所。

20142加納城大手門宿の道は随分と綺麗に整備されている。迷路のように曲がりくねるが、標識のお陰で正しく進むことが出来る。


専福寺親鸞ゆかりの専福寺。織田信長と石山本願寺が対立した時に、「本願寺の味方をしないように」との書状が残っているが、門徒は大阪で戦死したという。

20142旧加納役場1926年に建てられた古ぼけたコンクリート製の旧加納村役場、岐阜市学校給食会の旧事務所。2005年11月に国の登録有形文化財となった。しかし、今は耐震性の問題で使用することは出来ず、修復予算も付かず、景観や用地利用としては残念なことになっている。

20142御鮨街道茶所駅の手前に、鮎寿司を江戸まで運んだという笠松までの御鮨街道との追分(交差点)。つまり宿の一等商業地だったと言える。


20142可能和宮茶所駅を通過すると、中山道でお馴染みの皇女和宮の歌碑。相変わらず都から遠ざかって行くことを嘆いている。間もなく加納宿を出る。


20142加納宿一里塚少し進むと一里塚。枝が落とされているが、木の俣で鳥が鳴いている。



20142長森城跡歩いて156号線を越えると、幕臣の福島県磐城平藩の三河安藤氏の切通陣屋跡がある。ここはかつて土岐氏が川手城に移る前に入っていた長森城の跡でもある。

更に時代を遡れば、長森城は源頼朝の家臣で源義経の追討を名乗りでて返り討ちにあった土佐坊昌俊と同一人物いう説がある澁谷金王丸が築城したと伝わる。

20142手力雄神社鳥居長森城を少し行けば火祭の手力雄神社。岐阜侵攻を図った織田信長が退けられ絶体絶命の危機に陥った地でもある。関ヶ原の戦いの際には信長の孫の織田秀信が石田三成たち西軍側に味方し、東軍を待ち構えたが、池田輝政や山内一豊たちに打ち破られている。

20142新加納宿西少し勧めば道が名鉄各務原線に沿いになり、東海北陸自動車道をくぐると。新加納宿。中山道六十九次には含まれないが、加納宿と鵜沼宿の間の宿として栄えた。信長はこの地に陣を貼ったと言われる。

20142新加納宿東ここも標識と色付きの道のお陰で歩きやすい。蛙の像があちこちにある。日吉神社には狛犬の他に蛙蛙が置かれ祀られている。


20142三柿野駅西側徐々に賑わいが出てきて、那加駅を越えると食事をする場所には困らなくなる。やがて21号線に合流し、車の往来の横を通って行く。航空自衛隊基地の祭りで最寄り駅となる三柿野駅は手前で歩道橋を渡る。

20142中山道各務原スポーツ広場方向21号線を進んでいくと、一つ北の筋に各務原スポーツ広場が見える。



20142鵜沼羽場町2鵜沼に来ると21号線を離れる。ライトアップされた犬山城を眺めつつ、鵜沼宿へと入る。夕方まで歩くことを考えると、宿のサービスが利用できないことが残念なところ。

20142鵜沼宿西口20142鵜沼宿犬山城方面

うだつの上がる脇本陣の前を通り、東の見附まで歩いてから電車で帰宅。大きな難所もなく、ゆっくりであれば初心者でも完歩できる区間では無いだろうか。
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2014年02月13日

金華山登山

七曲り口風もない初春の穏やかな日。岐阜Ⅰは大分別府でキャンプ中。金華山を七曲り口より登ってみる。

七曲り口は岐阜城の大手道に当たり、整備が行き届いている。かつて、ルイス・フロイスなどもこの道を通り、織田信長に茶席でもてなされたと言う。

休憩久しぶりなので無理はせず、遠慮なく設置されているベンチで休憩する。丸太を半分に割って、上面を平に削っただけだが、座り心地はいい。その脇を年配の方々が元気に登り下りされていかれる。

七曲り眺望三分の二も登ると、眺望が開け、岐阜市内や長良川が見下ろせる。


リス園山頂付近のロープウェイ駅の近くにあるリス園に入る。発車時刻待ちの方々が数組入られている。関東では記録的な、20cmの積雪だったというが、ここでも少し残っている。係員の方が貸し出しの手袋の上に餌を乗せてくれる。

やななサイン入り口のところに、引退したやななのサインが飾られている。



岐阜城模擬天守岐阜城(稲葉山城)に到着。登山客や年配の観光客に混じって、デート中の人たちの姿も多い。

天守閣の最上階から、長良川メモリアルの向こうには鷺山や祐向山が良く見える。斎藤道三と斎藤義龍の親子での長良川の戦い、斎藤龍興と安藤元就・竹中半兵衛との戦いなどは、この視界内で行われた。

義龍と信長の戦いは、当初は墨俣方面で行われた。

伊木山小牧山眺望西南西方面の眺望。
右端の地平線近くの(30×3ピクセルの)僅かに緑が濃い杜が、墨俣方面からの岐阜攻略を諦めた信長が本拠地とした小牧城。左端が前線となった伊木山。

水の手口関市方面が見える、水の手口より下りる。関ヶ原の戦いの前哨戦では、福島正則が七曲り口から攻めている間に、前岐阜城主であった池田輝政がこの道を通り、最後の岐阜城主となった信長の孫で秀吉の養子の織田秀信を降伏させた。

メモリアル鷺山方面眺望水の手口からのメモリアル、鷺山、祐向山方面の眺望。



瞑想の小径水の手口は、瞑想の小径と名付けられ、家族向けとされているが、整備されているのは中腹までで、上部は岩肌が露出するなどほぼ未整備で険しい。
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2014年01月27日

軍師官兵衛第4回と西岐阜

正ヒロインの櫛橋氏の次女の光姫(てるひめ)が登場。

幼馴染の死によるショックを乗り越えた官兵衛は、守役が指揮する領民たちの治水工事に協力する。やがて主君の小寺政職の指令により、櫛橋氏の領地の周辺で狩場を調査する。その道中で病気の母親のために山桃を採ろうとして木から降りられなくなった子どもと、それを助けようとする光姫に出会う。

その頃、三好三人衆に兄の足利義輝を弑逆された足利義昭が、仇討ちと将軍の座を目指して、各地の豪族や大名たちに畿内を抑える三好三人衆を追い払うための上洛を促す。

その内の一通が小寺政職、また別の一通が官兵衛の父の小寺職隆にも届く。面白くない政職だったが、狩場で職隆が大物の猪を仕留めたことで、まだ赤子の嫡男の将来に職隆が害を為すのではないかと不信感を抱く。主君の不信感が溶けない事を見て取った職隆は、隠居して官兵衛に家督を譲ることを願い出る。

櫛橋氏の館で政職の一行が休息すると、櫛橋氏の姉妹が接待をする。そこで職隆は長女との縁組を提案するが、官兵衛のライバルの兄から悪い噂を聞いていた長女の力姫は拒否し、父を困らせていたところで次女の光姫が、「私が嫁ぎます」と立候補して、家督を相続した官兵衛との祝言に至る。

治水工事の描写と、家督相続への流れは、この経験がこの先の選択に影響を及ぼすと言うことだろう。力姫との因縁も描かれた。婚礼というイベントの中でも、義昭の書状という史実を上手く織り込んで伏線が張られた息抜き回だった。

出来れば、赤松政秀にも書状が届き、それが史実においても決戦への因果となる事を、ほのめかして貰いたかった。全体的にもっと詰め込んでも不足しない題材のはず。

立政時東海パートは稲葉山城が落城し、信長が岐阜と地名を改め、岐阜市西荘立政寺で、義昭と面会し、「御所は造らない。早期に上洛を果たす。」事を約束し、天下布武を世の中に掲げる。

立政軒上の写真の右側が、面会の場となった立政軒があった場所で、今回は石碑を撮影。



岐阜城の落城の頃に、乙津寺(鏡島弘法)南門前にあった、この西岐阜駅周辺の地頭であった石川氏(石河氏)は秀吉の家臣となるが、居城であった鏡島城も廃されたとされる。関が原の合戦の時期に、黒田長政や藤堂高虎などが、乙津寺の将軍地蔵菩薩に勝利祈願をし、江戸時代はその礼のために、参勤交代の際には参拝に立ち寄っている。合戦時も参勤交代でも鏡島と西荘は大勢の武士たちで溢れたのだろう。

鏡島弘法観音堂乙津寺もまた本願寺岐阜別院と同じく第二次世界大戦の戦火に遭い、将軍地蔵菩薩も消失したとされる。今は、本堂に掛け軸の絵が安置されている。申請すれば参拝させてくれるが、毎月21日の縁日には、本堂も開放されているので拝むことが出来る。

鏡島弘法案内板案内板が設置されるなど、史跡として幾らか整備された様子。ただ、近所の人たちは犬の散歩に立ち入っている。


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2014年01月26日

軍師官兵衛第3回

前半で多くが出演期間を終えるベテラン俳優たちが、ドラマのテンポを作ってくれていた。荒木村重、今井宗久、ルイス・フロイスなどの登場は、演出の好みだと思われるが、歴史上の有名な人物を多く絡ませられるのも、官兵衛という題材。最後の方まで出演する若手、あるいは演出スタッフなどにも、それに乗ってもらいたい。

信長役の江口洋介などが貫禄を見せ始めた東海パートは、1564年2月の竹中半兵衛と安藤守就がらによる半年間の岐阜城の乗っ取りがある。この間の5月に、信長に反旗を翻し、伊木氏などの美濃衆の後援を受けていた犬山城の織田信清が、信長の重臣の池田恒興に敗れて逃亡し、伊木山城も秀吉の調略などにより、信長の美濃攻めの拠点となる。

伊木山信長が半兵衛に美濃半国を与えるので岐阜城を渡せという勧告を断られたというエピソードが知られているが、信長も大きな利益を得ることに成功している。
acekiller6 at 04:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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