美濃路

2012年04月25日

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鬼岩鬼岩温泉

宿地桜宿地

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2012年02月29日

鎌倉街道(大垣宿~笠縫の里~赤坂宿)

大垣駅を南に下った、郭町交差点の少し手前にある大垣市の観光協会で、鎌倉街道について尋ねて大垣から赤坂へ抜ける古道が記載された観光マップを頂く。美濃路に対する鎌倉街道は、中山道に対する東山道と同じで、古い時代の官道。しかし、生活道としては長く使用されてきた。


名古屋門芭蕉スタート

スタートは水門川が北から西に折れる大垣宿東端の名古屋門。300m北の線路に突き当たった芭蕉ウォークスタート地点にある愛宕神社の道標は移転されたものということ。水門川の一筋東の北行一方通行が鎌倉街道。ガードは無いので線路はもう一筋東へ迂回。

すぐに日吉神社があるが、ここが赤坂と呂久の渡しの分岐点だった模様。

萩神社またすぐに右手に一筋東側のバローが見えてくるが、バローに入る道の1つ前に左折してはぎ神社の南側を通過するのが正解の様子。



アクアウォーク・アピタ大垣の北の徳洲会病院東側に出て、その北の大垣日大高校の一筋北側を西へ行く。この辺りは道が完全に変わっているので適当に進む。

宿地するとトミダヤ大垣のある宿地町交差点に出る。この北東角に笠縫の里の石碑がある。



交差点の北西角に細い道があり、そこへ入っていくと、信長の侵攻により延焼したという受円寺があり、その南側を西へ。

子守神社北側には笠縫の里の歌碑がある子守神社が見える。




国道21号線岐大バイパスをくぐる。くぐったらまたすぐに今度は養老鉄道をくぐる。

かつて杭瀬川(旧揖斐川)のものだった権現のぞきの地堤防に突き当たると、真っ直ぐ北への道しか進めないが、一筋めを西に折れて堤防に突き当たると、そこに杭瀬川の戦いの時に、石田三成方が監視台を立てた場所だという、権現のぞきの地の碑がある。ポイントハイクのノリの流れだが、戦いのイメージが立体的になる、歴史好きとしては貴重な史跡を発見できた。

18-417
21号線との交差点から417号線となっている、笠縫の里の石碑の車道に戻ってきて、渡る。



養老線の再び当たり、沿ってバイパスをくぐると田んぼの中。

更に北上すると、池尻町に入り、西へ。三たび車道を渡る。

200m先を北上。四たび渡る。

道があっていれば渡って200mで徳蔵寺。

その北側が中山道と鎌倉街道が合流する追分。

徳蔵寺斜め徳蔵寺裏

しかし、そんな重要な地点だとは思えないし、それを伝えるような標識もない。

ここまで、迷い易いので、時間はかかるが、正確に進めば5kmほど。そこから東へ500m足らずの東赤坂駅で帰宅することも可能。西の赤坂宿へは800mほど。バスもJRもある。

赤坂から大垣に向かう方が、より簡単だったかもしれない。

終了後、マップに載っていた21号線北側の杭瀬川の戦いの地へ。両軍の激突はこの南の南一色公園付近かもしれないが、島左近清興が農作物を刈って東軍を挑発して逃げた場所だとするには、確かにこの辺りは丁度いいだろうか。

杭瀬川21交差

地元の人に、場所や石碑などについて尋ねたところ、なんと大垣城にある戸田氏鉄の銅像を制作した人だという。曽根城の夫婦像の奥さんの製作者でもあるという。寒い中なのに、色々とお訊きしてしまった。

大雨の時にはこの川幅いっぱいに水が流れ、昔は洪水になりそうな時、自らの家族財産を守るために、余所の輪中の堤を切ろうとする人がいたなどという、美濃の輪中根性にも繋がりそうな、歴史などもお話されていた。

大垣城氏鉄像については、関東の根岸の資料館を訪れて、木曽馬とサラブレッドの中間のような馬に乗せたと言われていた。昔の木曽馬も騎乗用の馬は鍛えられていたと思われるので、イメージは近いのではなかったでしょうか。

いつか、稲葉一鉄や島左近の銅像を造る機会があれば、良いものをお願いしますとお伝えした。強豪相手の他の製作者は現在は多いということ。


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2012年02月23日

中山道(赤坂宿~青墓宿跡~垂井宿)

東赤坂東赤坂駅から赤坂宿までは、すぐかと思ったら30分ほど歩く。歩きやすい道だ。



赤坂やがて杭瀬川に出て、向こう岸に赤坂宿が見える。




赤坂港少し入ったところに、旧揖斐川・旧杭瀬川にある赤坂港がある。往事には300艘以上もの川船が、今も採掘される石灰の他、鉄や大理石、それらを加工した物を、大垣や桑名まで運んでいた。当時の石灰は、漆喰などに使われている。大理石は幕末から明治時代にかけて生産され、家具や調度品の他、国会議事堂にも用いられていることが有名。

鉄製品としては、やはり室町時代の刀剣類が有名。「真柄切」などで有名な三阿弥派の兼元関の孫六として知られるが、最も有名な二代目までは赤坂で刀工を営んでいた。伊勢の刀匠の村正も、赤坂千手院と呼ばれる一派をルーツとしている。なお、徳川に祟るとの伝説が生まれたのは江戸時代の後期とのことで、村正の後継者たちの一部が三河に移り住んだことにより徳川関係者にも広まり、徳川四天王最強と言われる本多忠勝の槍「蜻蛉切」もその中の作品である。

街並みには和宮降嫁の時の嫁入り普請の姿がまだ残っている。幕府の維新を賭けた大規模な中山道整備事業により潤った沿道の住民たちは、和宮内親王への感謝を忘れていないということだ。武蔵野で朽ちる決意への憐れみも併せてのことだろう。

赤坂本陣公園と、それに隣接する休憩所の五七処は、旧街道を歩く時は、休憩所や食事処、資料館などの場所について気にかかるが、今ひとつ目立たない。数週間前に可児市の御嵩宿が国土交通省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」(一般部門)を受賞したが、訪れたことのある図書館に併設する資料館などは確かに素晴らしいものだった。ああいった、住民の暮らしと観光資源が共存する場所が増えて欲しい。

公園内に、所郁太郎(ところ・いくたろう)の像があり、その先に生家跡の碑がある。郁太郎は有名な適塾で学び、やがて長州藩の藩医となる。そこで後の明治政府の元老となる井上馨が、政敵に襲われ危篤状態だった時に手術を行い、奇跡的に救ったことで、若死にしたが歴史に名を残し、司馬遼太郎の作品にも登場している。

郁太郎の生家の横が、人が明星輪寺に登る時の入り口。この坂路は近隣の住人や学生のトレーニングやダイエットに役立っている様子。

所郁太郎妙林寺坂

それを通り過ぎて少しすると、JR美濃赤坂駅以北の貨物用だった廃線が現れ、渡ると石灰関係らしき古い工場地帯へ入っていく。昼飯町のJR東海道下り線ガードをくぐると田園風景となる。

しかし、この田園風景が、かつて赤坂宿以前に栄えた、遊女や傀儡子たちの集う宿場町、青墓宿の今の姿であり、国分寺跡も近くにある。昼飯大塚古墳に由来するのか、大墓が青墓に変化した地名と言うこと。

平安末期の源氏と遊女の逸話が多く残り、西行の外祖父の源経清が今様の名手を都に連れて帰ってプロデュースしたり、源為義、義朝、頼朝が3代続けてこの宿場の遊女たちに関わっている。

近くの円興寺には、頼朝や義経の兄である朝長の墓がある。平治の乱で平清盛に敗れた父義朝と共に落ち延びてきたが、矢傷により逃亡を諦め、父に討たれ、遊女たちにより葬られたという。円興寺は最澄により開山され、山頂に大伽藍を連ねたが、信長により焼き討ちされ、江戸時代に麓に再建された。

義経が鞍馬寺から奥州へ脱出する際、源氏の再興を祈願してヨシ(葦)の杖を立てたところも、よし竹庵という史跡になっている。

これだけの縁があるから、西美濃に源氏の戦勝を祝って鳳凰の羽を挿して踊る風習が残ったのだろうか。また、濃尾地方に今も残るからくり人形の伝統は、ここの傀儡子たちに由来するものなのだろうか。

照姫井戸この宿場に、小栗判官伝説の照手姫が、カゴで水を汲まされたという萬屋の井戸がある。

この伝説は、明治天皇と和宮の石碑の無い江戸時代以前には、ヤマトタケルや空海などに並んで、関東から関西まで間に旧街道沿いによく残っている。室町幕府4代将軍の足利義持の頃に幕府と対立する鎌倉公方の足利持氏と、常陸の国(茨城県)小栗城主の小栗道重の間で、小栗道重の乱が起きる。敗れて三河(愛知県東部)岡崎などへ落ち延びた小栗郎党の末裔に、幕末に新政府軍の総指揮官大村益次郎を恐れさせた、徳川埋蔵金などでも知られる小栗上野介忠順が出ている。

その中の、満重の子の助重が三河に逃げ落ちる際に、相模国(神奈川県)藤沢宿にて、照姫という舞を踊る女性に救われたと、鎌倉大草紙などのエピソードがある。これらをベースに、後に照姫が安八郡の結神社に再開を祈念したところ叶い、持氏郎党を倒し小栗判官は美濃国池田に任官し、青墓宿で大炊の長者の下女となっていた照姫と再開し結ばれるなどと脚色された、仏教説話や浄瑠璃が作られた。(参考:相模原郷土の歴史研究会

御伽草子ではない、こういった伝説の多くが天へ旅立って終わる中で、ハッピーエンドで終われたのは、1つには美濃が枕詞で「結びの神の美濃」と形容されていたこともあると思われる。奥の細道で大垣を結びの地とした松尾芭蕉も、故習には縛られなかったが、好ましい故習には自由に従ったこともあったのではないかと思われる。



それにしても、説話の中の照手姫は、結婚を反対されたので実家を飛び出したり、姿の変わり果てた判官を乗せた車を5日間押したり、長者が言いつけた16人分の仕事をこなしたりと、実に逞しい女性だと思われる。

多くの伝承が残る青墓宿は、稲葉一鉄が家督を継ぐ切っ掛けとなった、1530年の土岐頼芸と浅井亮政との戦いで焼け落ち、その後、杭瀬川の渡し場であった赤坂宿に集合することになったという。ちなみに洪水により、揖斐川が杭瀬川となったのも1530年(亨禄3年)である。
西岐阜にとって随分と印象に残る年になっている。

そこからすぐ先で、県道216号線と交わり、コンビニのミニストップがある。史跡では無いが、休憩場所として非常に助かる。茶屋とは旅人にとってこういう存在だったのだろうか。喫茶店文化がある地域なのだから、旧街道歩きに便利な茶屋がもう少しあってもいいと思う。

垂井宿後は垂井宿まで真っ直ぐに歩いて行くだけ。やがてマックスバリューの前を通り、大垣宿から東海道の熱田宿にまで繋がる美濃路との追分(交差点)があり、すぐ側を流れる相川を渡れば到着。JR垂井駅から帰宅。

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2012年02月17日

大垣城と金生山

大垣市散策。

関ヶ原の戦いにおける杭瀬川の戦いは、最終決戦の前日に、大垣城と赤坂宿の間で行われる。両本陣までの距離は4kmで、南一色公園付近の河川敷である古戦場跡地(追記:21号線北側辺りも?)はそのほぼ中間地点。

杭瀬川2杭瀬川



関ヶ原の戦いの一連の流れは、徳川家康が会津の上杉景勝を征伐に向かった隙に大坂城において石田三成が景勝に呼応したというもの。三成方西軍は、毛利輝元や織田秀信などの有力者を味方につけて、伊勢と美濃までをほぼ勢力下においた。

しかし、家康の主力部隊が引き返してくると連戦連敗。秀信が在城した岐阜城が僅か1日で落とされ、三成が拠点としていた大垣城近くにあった美濃赤坂まで占領され、最終決戦を迎える。

この三成方西軍が連敗中に、唯一一矢を報いたのが両軍の中間の杭瀬川河川敷での合戦。三成に過ぎたものとして、佐和山城と並び称される筆頭家老の島左近清興が、籠城用の糧秣の収穫と見せかけて田畑の作物を刈り取り、それを阻止しようとした中村一栄や有馬豊氏を誘い込み、森林に隠していた伏兵で打ち破った。

大垣城いわば、西軍贔屓の歴史ファンにとっては、重要な場所だと思われるのだが、石碑の1つも見つけられなかった。市内にも案内板を見かけられなかったように思われる。大垣城天守閣と資料館の展示品は素晴らしいものだと思うが、現代は天守閣から杭瀬川を見ることは出来ないのだから、現地を見たい人たちのためのものが無かったのだろうか。

芭蕉館その後、ここに松尾芭蕉の奥の細道むすびの地記念館のある大垣市福祉会館へ。少し南に建設中の新しい資料館が完成すれば、ここの展示物も移されると思われる。

芭蕉は三重県伊賀の出身。岐阜城下でも鵜飼いを見たり、鵜沼に滞在したりしているが、大垣城下には有力な後援者たちがいたこともあり、奥の細道のむすびを含めて4度も訪れている。

現代人にとって旅は優雅なイメージのものになったが、芭蕉の記録からは決死の思いが伝わる。奥州や北陸では、時に1日40kmも歩く健脚ぶりを見せ、「芭蕉は伊達家の様子を探るための幕府隠密だった」という説も現代ではあるようだが、後援者が少なかったという事情もある様子。減退でのバックパッカーをやってみようと思っても、切り詰めすぎて食事や宿で失敗するのは怖い。

また、旧街道の峠越えなどは、坂道は急、細い、滑るなどで大変な思いをする。追分(交差点)では道標が立っていたりするが、無ければすぐに迷う。特に日が落ちれば危険性が高まる。奥まった場所にある旧跡や名蹟を訪れるのも、ちょっとした決心が必要になるもの。

芭蕉は月と時雨(しぐれ)を多く歌に詠んでいる。夜風も体を冷やすが、時雨は初冬から年末にかけた辺りに多い日本海からの湿った空気が入り込んで天気が崩れる気象で冬の季語。芭蕉に詠まれたのは、伊吹おろしとセットになって特に厳しい西濃の時雨ではなかったようだが、それでも体をすくませるような冷たさを詠んだ芭蕉が壮健な人物であった事は伺える。

芭蕉の好物は真桑瓜。もちろん信長や秀吉なども好んだかつての美濃の名産品。芭蕉は京都のものが特に美味しかったと評しているようだが、大垣でも芭蕉ゆかりの地をアピールするならば、観光客に真桑瓜を提供するくらいのサービスがあっても良いのではないだろうか。糖度が足りないのであれば、蜂蜜などを添えるなどして。

真桑瓜にも関係したかもしれないが、芭蕉が大垣を好んだであろうことは、「そのまゝよ つきも頼まし 伊吹山」、羽島市では「をりをりに 伊吹を見てや 冬ごもり」という句を詠んでいることから伺える。岐阜には他にも名山が多くあり、また普段から見慣れているために大垣市民、その他の岐阜県民は見逃しているが、特に芭蕉のような旅人にとって、当時も今でも、伊吹山は頼まないと言われるほど、特別な山なのではないかと思われる。

もちろん、伊吹のウサギ伊吹山は濃尾平野の人間にとっても特別な山だ。しかし西側の人間にとっては意外とそうでもない。歴史的に見れば、大和朝廷のヤマトタケルが唯一、壬申の乱でも大友皇子の近江朝が、そして沢山城主の石田三成率いる西軍が敗れた。比叡山や三上山などと異なり、伊吹山は酒呑童子を代表とする鬼が住む場所である。明治時代に滋賀県側に伊吹村が誕生したが、合併で消滅。伊吹スキー場も閉鎖となった(奥伊吹スキー場は残っている)。今は石灰採掘業者が当初は山肌を、現在は山中を掘っている。

だが、濃尾平野の人間から見れば、伊吹山は、恐らくは狗奴国のような国が、大海人皇子が、そして徳川家康方の東軍が、上方勢相手に勝利してきた場所。歴史的にも織田信長が南蛮の薬草を育て、徳川家康が食した氷を運ばせた。住人たちは伊吹おろしに晒されながらも、清浄な風景を讃えてきた。もし伊吹村が岐阜県内にあれば、国見岳スキー場が伊吹スキー場で、緑茶の「伊吹」は静岡県産や福岡県産ではなかったと思われる。

滋賀県側にも貴重な固有種の植物が自生する場所という認識はあり、保存に努められているようだが、富士山が静岡県と山梨県の両側から讃えられるのとは随分と違うものだとも思われる。僅かに伊吹山から下ってきた湧き水が伊吹そばに利用されている程度だろうか。しかし、このまま採掘を続ければ、数十年後にはこの水も醒井の湧き水も水質が悪化することは十分に考えられる。嘉田滋賀県知事も、琵琶湖だけではなく、北近江の水質のことも、少しは考えて頂けないだろうか。山頂を含め西側は滋賀県の所管だが、可能ならば岐阜県も、芭蕉にとっても大切なこの山を、出来るだけ大事に扱ってもらえるように働きかけて欲しいもの。

金生山航空写真しかし、岐阜県内にも、もう100年もすれば大部分が消える、伊吹山に次いで重要な山が近くにある。美濃国の一之宮の南宮大社の主神は金山彦神、総社の南宮御旅神社の主神は金山姫神だが、その神名の由来は、鉄を産する金生山(きんしょうざん・かなぶやま)である。

赤坂宿の名称の由来も、酸化鉄だと思われる。金生山山頂にある虚空蔵さんとして親しまれてきた明星輪寺は10ヶ所近くある三大虚空蔵の1つだが、他の西美濃三十三霊場や華厳寺よりも古く、持統天皇や役小角を由来としている。

明星輪寺妙林寺坂

国分寺近くに置かれた、今では一見子ども用の夏休みの迷路以外に役に立つかという空き地だが、美濃国分寺跡などからも、歴史的にこの地が重要であり、また繁栄していたことが窺える。黒血川を突破出来なかった南朝方の北畠顕家だが、この青野ヶ原の地で待ち受けた土岐頼遠との激闘が影響している。関ヶ原の戦いにおいて、家康は勝山を本陣としたが、後陣は金生山にも陣を構えている。また、全国の一連の紛争の中で、東軍を最も苦しめた真田昌幸は、戦後の配流先である高野山九度山にて、息子の真田信繁(幸村)に、「豊臣が徳川と闘うことがあれば、青野ヶ原で徳川を待ち構える」という構想を伝えている。

また、大垣市の歴史を見れば、赤坂町と合併したのはまだ1967年の頃だが、中山道の赤坂宿と美濃路の大垣宿は鎌倉街道以外にも、杭瀬川が揖斐川本流であった時代から水運で結ばれている、親子のような関係である。金生山で生産された刀剣などの鉄製品が、水運で大垣にももたらされている。大垣城を守った水門川も、杭瀬川より引きこまれたものである。大垣は杭瀬川に囲まれた輪中であった。

芭蕉の兄弟子であり大旦那である木因も、杭瀬川の水運で富を成した人物である。芭蕉館となる木因の屋敷跡も水門川沿いにある。大垣市や西美濃の歴史のおよそ半分は金生山により、残りの内の何割かは伊吹山により生まれている。

大垣市が代名詞としている水都も、ただ湧き水が豊富なだけではなく、中山道と美濃路を繋いだ鎌倉街道と水門川の役割を明らかにできれば、大垣城周辺に限られている現在の観光地を、北は赤坂にまで繋げ、更に曽根、墨俣にまで広げられるのではないだろうか。大垣市観光はタクシーや鉄道、レンタルサイクルなどで行われるものになるように思う。国分寺跡もレンタルサイクルで通過するには手頃な観光地だ。近年に朝鮮半島から入ってきた習慣のようだが、勝山ともども現在のような日当たりの良い墓地で終わらせるのが信じられない、公園化すれば、観光、研究、育児にも役に立つ史跡だと思われる。

伊吹と採掘金生山に話しを戻すと、鉄鉱石や大理石は、殆ど採られていない。今は石灰採掘が行われているが、製鉄や高架橋などに使われているのは、日本の総生産量に対してわずか1%ほど。

鉱山であるかぎり、山が削岩の歴史を持つことは仕方ない。しかし、山名に由来する金山彦神・姫神が神武天皇の時代に府中に創建され祀られ、後に南宮大社のたという伝承が史実を反映したものだとすると、恐らく1800年近い歴史を持つ金生山が、大型掘削機で100年ほどで大部分が失われるというのは、今の大垣市財政の重要な財源だとしても、何千年、何万年の後の子孫の事を考えると、残れば半永久的に文化的にも経済的にも利益をもたらすことが出来る山を、1t幾らで切り売りして掘りつくした将来に何が残るのだろうか、もう少し慎重になっても良いのではないかと思う。鉄に由来する一之宮というと、他に大和朝廷の聖地、奈良県の大神(おおみわ)神社の三輪山があるが、この山を掘り崩そうという奈良県民は殆ど存在しないはずだ。

大垣市は近くの県内最古の前方後円墳である昼飯大塚古墳などの古墳群の整備保存を行なっているが、古墳群の主たちがどのような文化を持っていたかを考える時、もう少し金生山の事を考えてもいいのではないだろうか。またそれが、水都大垣の湧き水を守ることにも繋がるのではないだろうか。湧き水を守るということは、芭蕉が好んだ真桑瓜を始めとする甘柿や苺などの農作物を守るということにも繋がるのではないだろうか。
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