2017年07月19日

『彼女の人生は間違いじゃない』

彼女の人生は間違いじゃない遠回りしてしまった人生、それも決して間違いじゃない。
廣木隆一監督自身の小説を自ら映画化したこの作品が描くもの。それは東日本大震災で人生を狂わされた人々の不安と葛藤、そして甘えと覚悟。
どんなに苦しい人生も誰かが助けてくれる訳ではない。自分で勝手に助かるだけ。それが人生なのだから。

東日本大震災での福島の災難はまさに理不尽だ。福島ではなく東京で消費される電気を作っていたがために原発事故に見舞われ、その負債は東京都民ではなく福島県民が背負わされているのだから。

でも同時に福島を始めとする東日本は東京の恩恵を授からずには生きていけない環境下にもいるのも事実。共に切磋琢磨する京阪神を要する関西とは違い、デカ過ぎる東京という巨大都市を無視できないその環境は、精神的にも東京依存という歪な甘えも生む。そしてその「東京依存症」から逃れるには自分で頑張るしかないのだが、そこでもデカ過ぎる東京という存在が邪魔をする。

だから多くの人が上京しようとする。上京すれば何かが変わると信じている。上京すれば新しく出会う人が自分を変えてくれると期待してしまう。

平日は市役所で働き、週末は英会話教室に通うと嘘をついては東京でデリヘルとして働くみゆきも元々はそういう人間だ。性産業に足を踏み入れたのも半分が母親が震災で亡くなった際に彼氏とデートすることで現実から逃げていた弱い自分への戒めで、後の半分は自分を助けてくれる誰かに出逢いたいという願望からだろう。

それは後半で明かされるデリヘル嬢としての面接シーンで泣きながら全裸になる姿に対して、彼女をスカウトした三浦が放つ言葉からも分かる。彼女はずっと誰かが助けてくれると期待していた。

またその弱さは父親の修も同じで、「農家しか出来ない」と言ってはパチンコで保証金を使い果たそうとするも、壺を買わそうとする男に怒ったり、近所の子供とキャッチボールをする優しさを自分の強さと認識出来ずに、終いには亡き妻と出逢わなければ今頃彼女は秋田で幸せに暮らしていただろうにと弱音を吐く姿もまた誰かの助けをひたすら待ってるだけだ。

本来なら市役所で孤軍奮闘する新田勇人のように、いくら祖母や母親が新興宗教に嵌ろうとも、幼き弟の世話も嫌がらずに、また東京の女子大生からの配慮のない質問や墓地探しに苦悩する老夫婦の期待に応えられない現状にも耐え、それでも福島の現実を伝えたい女性カメラマン:山崎沙緒里に写真を多くの人に見てもらう機会を作るといった行動が必要なのに、そんな強き行動が取れる人間はそうそういないものなのか。

いやそうではない。誰もが外部からの不安や葛藤で苦しみ、自分の強さを見失っているだけなのだ。そして自分を助けてくれる誰かを待っているという甘えた自分に喝を入れ、覚悟を以て戦うという機会を得ていないだけなのだ。

現実は誰も助けてくれない。自分で勝手に助かるだけだ。でもいつも誰かが必ず「きっかけ」は与えてくれる。後はその「きっかけ」を自分が「好機」と捉えることが出来るかどうかだ。

みゆきは舞台と場で前へと歩み出すデリヘルドライバーだった三浦の姿を見て、彼の父親になる覚悟を知る。
修は沙緒里が撮った写真に記録された桜並木を楽しむ家族の姿を見て、妻の衣服を妻が眠る海に投げることによって、娘が「買ってきた」ではなく「拾ってきた」子犬の世話をすることで農家としての再起を決める。

「もう元の生活には戻れない」「私は何か悪いことをしたのでしょうか」
そんな言葉が福島の現状を、不安を、葛藤を静かに語る。

けれどその言葉に対する答えは福島の人にしか出せない。しかもその答えを出すのは容易ではない。きっと多くの人が悩み、苦しみ、人生の遠回りをするだろう。

でもその遠回りした人生も決して間違いではない。むしろその遠回りがあってこそ、いまの自分が形成されるのだから。

ストレートに幸せな道を歩んで歳を重ねる人生なんて、ほぼほぼあり得ない。誰もが悩み苦しみ、そして人生の遠回りをして今の自分を作り上げている。

福島の、東北の本当の強さは何か。
今を生きる全ての人が持つ本当の強さは何か。

静かに苦しみ、そして強く立ち上がる演技を見せてくれた瀧内公美という素晴らしい女優を見て思う。

遠回りする人生もいいじゃないかと。

深夜らじお@の映画館も人生の遠回りをして今の自分を形成しました。

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2017年07月17日

『パワーレンジャー』

パワーレンジャーあぁ懐かしや、スーパー戦隊魂!
雑魚のみなさんもいなければ、変身してからの戦闘もメカに乗ってばかり。合体シーンの高揚感もなければ、フェイスガードはほぼオープン状態と不満を挙げればキリがない。
けれど5人のレンジャーが並ぶ様を横から撮るカットや意味なく採石場で戦うなどのお約束シーンには、思わず涙が…流れたよ!

以前から東映の「スーパー戦隊」シリーズがアメリカで新たな形でヒットしているとは聞いていたものの、その頃の情報では「人種のサラダボール」国家アメリカらしく、黒人はブラック、アジア人はイエロー、女性はピンクと人種や性別に合わせてレンジャーの色分けも分かり易く仕分けされていたとか。

ところがこの映画ではそういった色分けはほぼないに等しい状態。一応リーダーがレッド、女性がピンクというのは受け継がれているものの、なぜか黒人がブルーで、アジア人がブラック、ヒスパニックガールがイエローという始末。

しかもブルーにサブリーダー的要素もなければ、イエローにカレー好きという要素もない。ただ「臆病な」という意味も併せ持つイエローには宿敵からの裏切りのお誘いがあったのは如何にも英語圏らしい設定かなと。

さらに使命や宿命としてレンジャーとして集い人類を守る責任感の強い「スーパー戦隊」に対して、アメリカ版ではおバカさんや変人さんの高校生5人がたまたま同じ場所にいたという理由だけでレンジャーになるうえに、なぜかそんな状況下でも不真面目だった彼らは毎日立ち入り禁止区域に出向いては真面目に「レンジャーになるための訓練」を受ける始末。

だから自然と思えてくるのは、彼らって本当は凄く純粋な少年少女ではないのかと。ただ単にアメフトスターとしての周囲からのプレッシャー、女友達との歪な友人関係、亡き父親への想い、病状の母親への心配、自分を認めてもらえない孤独に苦しみながら、そんな自分の悩みを共有できる仲間を探していただけではないかと。

そう思えてくるとブルーが一度亡くなって復活する辺りからの5人の「人間としての」成長ぶりが微笑ましくも思えてくること。けれどこの辺りまでほぼ変身がないのは本当に辛い。青春ストーリーに少々重きを置きすぎたのは残念無念。

だがそんなことさえも吹っ切ってくれるのが、やっとこさ変身してからの戦闘シーン。特に何がいいって敵のリタが意味なく採石場を戦いの場に選んでくれる本家本元への愛情や、変身した5人が一斉に並んだ姿を横から見せるあの「戦隊シリーズ」特有のカット、そして左足を基軸に右足だけで連続横蹴りをする戦い方。これが素直に「懐かしい〜!」と思えてくるのがたまらんばい!

アクション映画の公式を無視して雑魚のみなさんとの戦いも適当ならば、等身大の怪人を倒してからの巨大化怪人を合体ロボで倒すお決まりもないのが淋しければ、画面割をしての合体シーンが一番興奮するのを知らんのか!という合体シーン見せずも淋しい。
宿敵リタの倒し方が「バイバイキ〜ン」なのもどうかと思えてくるうえに、合体してからの必殺技もなくビンタで終了なのも淋しい。

それでも「クリスタルを狙う者はまだ他にいる」というリタの言葉に、パワーレンジャーのロゴ完成に、またこのレンジャーたちの活躍が、いや正確には「スーパー戦隊」の名シーンへの愛情が見れるのが楽しみでならない。

深夜らじお@の映画館はアジア人枠を本家本元に配慮して日本人を起用しなかったことを評価したいと思います。

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2017年07月14日

『ジョン・ウィック:チャプター2』

ジョン・ウィック:チャプター2プロとしての礼儀、相変わらずこの映画にはあらず。
ご都合主義も極めれば荒唐無稽を越えたゲーム感覚のアクションに昇華するのか。そう思えるほど、本当に「ご都合主義」「荒唐無稽」「ゲーム感覚」に彩られたアクションしかない映画。
そして相変わらずキアヌ・リーヴスは止まるとお洒落なのに、動くとキレがなく格好良くない…。

前作から5日後という設定で始まるOPからロシアンマフィアにうばわれた愛車を取り返しに来た割りには、相変わらず「伝説の殺し屋」と謳われているはずなのに敵に殴られるわ、車に撥ねられるわ、さらには大事な愛車でさえも武器としてボロボロにしてしまうジョン・ウィック。

そういえば、この殺し屋さんもこの映画も詰めが甘かったな…と思い出しつつ、さてシリーズ化されて何がパワーアップしたかと楽しみにしたのに、パワーアップしたのは敵の数だけ。いや、ご都合主義なシーンの数も増えて、荒唐無稽なシーンへとパワーアップしてました。
でもそれが逆にジョン・ウィックの魅力を下げるシーンになっていたのも残念無念。

特にそれを感じるのはバズーカ砲で思い出の家を木っ端みじんにしてくれた依頼人サンティーノとの血の契約を、結局は履行せねばならなくなってからのくだり。
武器を選ぶのも、防弾スーツを手に入れるのも、ターゲットの場所を知るのも全て他人任せ。裏稼業専用金貨さえあれば何でも手に入るんだ♪と楽されちゃったら、もはやそれはゲームの世界と変わりませんやん。

しかもターゲットであるサンティーノの姉を殺害したというよりはほとんど介錯に近いことしかしていないのに、カシアンには目の敵にされずにライバル視だけされちゃうっていうのも何だかなぁ〜。

一応ジョン・ウィックは「伝説の殺し屋」であり、引退したいのにさせてもらえないということは現役バリバリのはず。
なのに助けてもらってばかりなうえに、鬼気迫る殺し合いもなければ、「プロとしての礼儀」云々と言っている割には何度も人混みの中で銃撃戦を繰り返す素人ぶりのオンパレード。しかも敵もその程度のヤツばかり。カシアンも詰めが甘ければ、地下鉄構内でもあちらこちらに殺し屋はいるのに警察は一人もいないのだから、そりゃジョン・ウィックに「追われている」「逃げ切れるか?」という緊張感もなくなるのも当たり前。

挙句の果てにはロビーでのサンティーノ殺害によりウィンストンからコンチネンタル追放処分になって、お情けとはいえ1時間の猶予を与えてもらったにも関わらず、しかも「近づいてくる敵は全員殺す」と強気な態度を取っている割には、あちらこちらで鳴る着信音にビビりながらNYの街中を逃げるように走るラストシーンも、何だかキアヌ・リーヴスのガンフーアクションでのへっぴり腰同様に無様でしかない。

でもまぁそれがこのシリーズの「ご都合主義」「荒唐無稽」「ゲーム感覚」が織り成す魅力なんでしょう。何のために登場したのか、別にローレンス・フィッシュバーンでもなくても良かったやん…としか言いようのないキングの存在感同様に、本当にどうでもいい映画でした。

しかしまぁガンアクションがゲームアクションに成り下がった映画が昨今増えてきましたなぁ…。

深夜らじお@の映画館はガンアクションが見たいです。

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2017年07月10日

『メアリと魔法の花』

メアリと魔法の花ジブリの看板が重ければ、新たにポノックの看板を背負えばいいじゃない。
スタジオジブリの製作部門が一旦解散になったとはいえ、まさにまんまスタジオジブリの作品どころか、既視感だらけの前半に萎えて欠伸まで出るも、EDロールではスタジオジブリの作品らしい「あの感情」が蘇ってくるとは…。
これは評価が分かれますな。

まるで『風の谷のナウシカ』を見ているような躍動感あるOPから感じる、純度100%とも言うべきスタジオジブリの世界観。登場人物の動きといい、燃え盛る火の手といい、勢いよく成長する木々といい、そのどれもがまさにジブリ作品。いや正確に言うと「ジブリ作品で見てきた」、まさに既視感だらけのシーンばかり。

しかもメイちゃんに似た髪型のメアリに、彼女が引っ越ししてきた家には老婦人とバーサさんと思えるようなシャーロット伯母様とバンクスさんコンビ。さらに目つきの悪いジジのような黒猫ティムに、ハクのような顔をしたトンボではなくピーター。加えて塩沢ときさんのような風貌ながら存在感は湯婆婆のようなマダム・マンブルチュークに、釜爺のようなドクター・デイ。
そう、キャラクターまでも既視感だらけなので、とにかく前半は新鮮味以上に監督の個性すら感じることが出来ない時間が続くこと。

また「いつモップにまたがるんやろ?」と思わせるメアリの魔女っぷりに加え、ラピュタのようなエンドア魔法大学、巨神兵を連想させるような木偶の坊たち、ヤックルのようなカモシカ、タタリ神のような変身魔法失敗で生まれたアメーバと、様々なシーンでも既視感は続く続く。

だからこそ、あまり印象が強くないストーリーもこんな既視感だらけの世界観ではさほど入って来ない。どこで盛り上げるかというシーンもこれまでのジブリ作品を見ている者にとっては簡単に読めるので、逆に盛り上がりにも欠けてしまう始末。

結局、ひょんなことから一時的にとはいえ魔女になれた少女が大切な人を守るために、最後は自分の力で生きていく素晴らしさを知る、ジブリ作品によくあるストーリー。

けれどEDロールでふと気付く。「物語を堪能して心が温かくなったと同時に、物語が終わる淋しさが主題歌をより印象的に感じさせる」というジブリ作品独特のこの感覚。あぁ、久しぶりだなぁ〜と。

そして、また気付く。
そうか、米林昌弘監督や西村義明Pには「ジブリ」という大きく重すぎる看板ではその素晴らしき才能は活かせないのだと。だから実質ジブリの看板をポノックに架け替えただけにしか過ぎないとはいえ、その重圧から彼らを解き放つことでこの作品は生まれたのだと。

そう思うとEDロールで一際目立った「感謝:高畑勲 宮崎駿 鈴木敏夫」という部分に様々なものを感じずにはいられない。
ジブリで培った世界観を新たなレーベルで残す決断をしてくれたこと、独立したばかりのスタジオに日テレや電通といった大手企業と組ませてくれたこと、自分たち若手アニメーターに様々な夢を与え続けてくれたこと。まさに色んな意味での「感謝」があったのだろう。

そう思うと感慨深い作品ではあるものの、やはりそれでもまだまだ米林昌弘監督や西村義明Pの個性が弱いこの作品を見て思う。メアリの泣くシーンをあまり重要視しないこの作品を見て思う。
メアリはツインテールよりもポニテが似合ってるのに、なぜそれが帰路につくシーンだけなのかと!もっと高畑勲先生、宮崎駿先生、鈴木敏夫先生のように自分たちの女性の好みを作品の投影させなはれ!

深夜らじお@の映画館はツインテールよりもポニーテール派です。

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2017年07月03日

『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』

パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊大海原で繰り広げられる狭い人間関係。
何て薄っぺらいストーリーなんだ。何て中身のない映画なんだ。でも何て楽しい映画なんだ。これぞカリブの海賊、いやジャック・スパロウ・ザ・ムービー。
見終わって数十分で内容を忘れるほどの映画ではあるが、酔いどれ千鳥足のジョニー・デップはこれからもまだまだ見れそうだ!

ウィル・ターナーとエリザベス・スワンの息子ヘンリーが呪いのダッチマン号に囚われた父親を救いたいと「ポセイドンの槍」を探す、父親を知らぬ女性天文学者カリーナが父の痕跡を追い求め「ポセイドンの槍」の謎に迫る、若き日のジャック・スパロウにハメられ亡霊と化したサラザール艦長が復讐のため「ポセイドンの槍」を求める。
そしてこの3人が求める先にいるのは、相変わらずの酔いどれぶりと千鳥足がトレードマークの我らがジャック・スパロウ船長。

そんなジャック・スパロウがOPから手下と共に銀行から金庫を引っ張り出して盗むはずが、妙な手違いで建物ごと盗むハメになる絵面がまさに岸和田のだんじり祭りか!と言わんばかりの迫力。これぞこのシリーズ特有の「勢いで押し切れ!」。あぁ〜、久しぶりにスクリーンでジャック・スパロウに出逢えたわ〜と思っちゃうこの面白さ。

しかも魔女扱いされるカリーナに、反逆者扱いされるヘンリー、ギロチンの意味も知らずに処刑寸前にまで追い込まれるジャック・スパロウの、何だかんだありましたけど結果が良ければまぁええか♪なドタバタ劇も面白い。ジョニー・デップのピンチに陥る度に繰り広げられる「あぁ〜!あぁ〜!」という叫びがたまらんですたい!

ただ自分の船さえ持っている体のジャック・スパロウに対し、海賊軍団を形成したバルボッサが魔の三角海域から蘇ったサラザール艦長に形だけの協力を申し出るくだりから、ドタバタ劇というよりは正統派の海洋冒険劇になっているのが評価の分かれ目。

もちろん海洋劇が十八番のノルウェー出身の監督コンビの冒険劇の見せ方は実に面白いうえに、若き日のジャック・スパロウが生前のサラザール艦長を急転回で魔の三角海域に追いやる面白さも素晴らしい。

けれど何だか世界観が映像ほど広く感じないのはどうしてだろうかと考えると、やはりジャック・スパロウとヘクター・バルボッサの掛け合いが物足りないと感じてしまうからだろうか。ヘンリーとカリーナの恋模様がウィルとエリザベスほどではないと感じてしまうからだろうか。それともカリーナの父親がヘクター・バルボッサだと分かった瞬間、登場人物の人間関係が狭いなぁ〜と思ってしまったからだろうか。

特に呪いが解けてサラザール艦長が生身に戻り、ブラックパール号の錨に飛び乗るジャック・スパロウたちを追い掛けるクライマックスでのスパロウとバルボッサの行動がどうも腑に落ちない。

別にサラザールによりカリーナの命が真っ先に狙われている訳でもなければ、バルボッサの命が先に狙っている訳でもない。なのにバルボッサはジャック・スパロウから渡された剣でサラザールと共に海の奈落へと落ちていくのはなぜか?娘を守るためという理由が成り立たない状況下でのあの行動は腑に落ちない。
またジャック・スパロウもあれではまるでサラザールを葬るためにバルボッサを生贄にしているようなもの。そんなことをバルボッサもそうすんなり受け入れるものなのかと。

でもまぁウィルとエリザベスの再会も無事に済み、全てが円満に終わるかと思いきや、EDロール後でまさかのウィルとエリザベスの寝室にフジツボが…。あれはもしかしてウィルの父親ビル・ターナーか?それともデイヴィ・ジョーンズか?もしくは不死身のバルボッサか?

てな訳で何はともあれ楽しんだ勝ちの映画でしたが、やっぱりメインテーマはもっと重低音を響かせてもらわないと!あの重低音で心身ともに震わされてこその「パイレーツ・オブ・カリビアン」ですから!

深夜らじお@の映画館は若き日のジャック・スパロウを見てみたいですが、ジョニー・デップ以外が演じるのはありえんなぁ〜。

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2017年06月30日

7月戦線映画あり!

livedoorブログのTBが全面廃止になるかと思いきや、6月29日までの記事に関しては引き続きTBの送受信が出来るのかどうか…。受信出来たりしてるんだけどなぁ〜。
さて仕事の繁忙期に入り、人員不足のなか、果たして身体はもつのでしょうか?いやそれ以前に映画を見に行く時間が取れるのでしょうか?不安でなりません。まるで8連敗中で明日の勝利さえ期待できない阪神ファンみたい…。
てな訳で7月公開の注目作をピックアップしたいと思います。

【7/1〜】
●『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』
ディズニーのドル箱映画もついに5作目。

【7/7〜】
●『ジョン・ウィック:チャプター2』
ネオvs.モーフィアス、実現!

【7/8〜】
●『メアリと魔法の花』
スタジオジブリの作品ではありませんよ!
●『ライフ』
真田広之は生き残れるのか!

【7/15〜】
●『パワーレンジャー』
多人種国家アメリカだからこそ、これが見たかったのよ!

【7/21〜】
●『ビニー/信じる男』
首の骨折から舞い戻ったボクサーがいたのか。

【7/22〜】
●『ウィッチ』
サンダンス映画祭監督賞受賞作品。
●『心が叫びたがってるんだ。』
実写化する意味などあるのだろうか?
●『ボン・ボヤージュ〜家族旅行は大暴走〜』
フランス発のロードムービーコメディ。

【7/28〜】
●『君の膵臓をたべたい』
レアでもミディアムでもウェルダンでも私はお断りです。
●『ザ・マミー/呪われた砂漠の女王』
トム・クルーズのアメリカンスマイルが眩しいです。

【7/29〜】
●『海辺の生と死』
奄美が舞台の戦時中の恋物語。
●『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』
マクドナルドの裏側とは…?
●『ローサは密告された』
フィリピン発の社会派作品。


てな訳で7月の注目作は
『パワーレンジャー』
『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』
『ジョン・ウィック:チャプター2』
『ウィッチ』
『海辺の生と死』

深夜らじお@の映画館は7月の休みが少なすぎて困ってます。

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acideigakan at 23:55|PermalinkComments(2)clip!映画予告編 

2017年06月28日

トラックバックの送受信について

6月29日以降、当ブログではトラックバックの送受信を以下のように行うことに致しました。
皆様にはお手数をお掛け致しますが、何卒よろしくお願い致します。

新たにトラックバック専用のブログを立ち上げます。
「こねたみっくす(goo版)」

記事を更新する度にTB専用ブログにも該当記事をアップ致します。TBはそちらにお願い致します。
2017年6月29日までの記事は随時TB専用ブログにて該当記事を作成していきます。
2017年6月30日以降の記事に関しては、新たなTB専用ブログにて送受信を行います。
livedoorさんからの情報と実際のTB送受信状況が混乱しており、こちらも正確な情報の入手に難儀しております。皆さんにはご迷惑をお掛けして申し訳ございません。
過去記事に関してはコメント欄に「TB希望」としていただくか、試しにlivedoorブログにTBを送信してみてください。TBもしくはご要望をお受け次第、該当記事を作成し、TBを送信させていただきます。

※この記事は2017年7月2日に再々度書き直しました。

2017年06月25日

『ありがとう、トニ・エルドマン』

トニ・エルドマンユーモアなくして人生楽しからず。
こんな親父を持つと娘は苦労する。でもこんな親父になってみたいとは思ってしまう。それがトニ・エルドマンの最大の魅力なのかも知れない。
第89回アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた本作が描く、普遍的な父娘関係。やっぱりこの父親にしてこの娘ありですな。

ブカレストでコンサルタント会社に勤務するイネスは仕事ばかりで多忙な毎日を送る、本当に真面目で有能な女性。
ただ堅物に近い風貌に加え、仕事を得るためとはいえ、「私も同感です」という言葉を多用するので、自分の色をあまり出さない。つまりユーモアがないので、どうしても人間としての魅力には欠ける女性。

対してこんな娘を心配してドイツから訪ねてきたヴィンフリートは、どんなにスベっても気にせず悪ふざけを行っては、時に黒髪のカツラを被って「人生コンサルタント:トニ・エルドマン」としても振る舞う、ユーモアセンスに溢れた、偽入れ歯を愛用する父親。

当然、娘のイネスからすれば「いい歳こいて、何してんのよ!」と言いたくなる父親だが、ヴィンフリートからすれば「そんなに多忙で人生楽しいか?」と言いたくなるのがイネスの現状なのだから、そりゃ父親として娘を心配するのは当たり前。

ただ社会人としてそれなりの成功を収め、形だけの彼氏もいる娘にストレートに言っても聞き入れてもらえないのは、世界中どこでも同じこと。
ならば、そんな娘の人生をどうコンサルティングするか?と考えたら、やはり周囲との関係を改善させるのが最も近道な答えだろう。

そしてユーモアセンスに溢れた父親が取った行動がトニ・エルドマンとして娘の行く先々で神出鬼没に登場しては、そこでブーブークッションや誰でも嘘と分かるようなホラで周囲の記憶に残るような「くだらない」悪ふざけを行うこと。

しかも「娘が疎遠なので、代理の娘を雇った」など、相手が答えに困る辛辣なジョークも連発するため、周囲は対応に困る。娘イネスも自分の立場に困る。
けれどそれでもヴィンフリートがやめないのは、ここでユーモアで対応してみろよという無言の要求なのだろう。人生楽しければ、ユーモアにはユーモアで応えることが出来るだろうと。

そんな父親の想いに娘がようやく気付き始めたのは、ホイットニー・ヒューストンの「Greatest Love Of All」を父親の伴奏で歌わされるくだりから。
それまでは、どちらかというと石橋を叩いて渡るタイプだったイネスがやけっぱちになって人前で歌声を披露してからは、自分の誕生日パーティでまさかの裸パーティを提案するのだから、やはりあの父親にしてこの娘ありなのだ。

さらに服が気に入らない、脱ぐのも大変だ、もういいわ、裸になる!参加者も裸になりなさい!とイネスが決めれば、その決断にどういう反応を示すかで人間関係も分かってくるもの。
仲の良かった友人や同僚は裸になりたくないと帰り、部下はイネスの新たな一面に親しみを感じて裸パーティ一番乗りを果たし、上司は困惑するものの裸になって再登場すれば、そこで都会に暮らすからこその希薄な人間関係、希薄と思われていたが実はそうでなかった人間関係が分かってくる。

だからイネスはそこで初めて、社会人となって初めて父親に感謝の言葉を伝えたいと思ったのだろう。毛むくじゃらのクケリになってパーティ会場であるイネスの自宅に登場しては去っていく父親を公園まで追いかけ抱きしめる娘の気持ちは、社会人になって改めて親に感謝の想いを伝えたいと実感したことのある人なら誰でも共感できるものではないだろうか。

そんなクケリの着ぐるみを脱ぐのにも大いに苦労したヴィンフリートが実母の葬式でイネスに再会するラストは、まさにこの父娘はやっぱり血は争えんなと思える、微笑ましいシーン。
父親の偽入れ歯を嵌め、祖母の残した帽子を被るイネスは、まさに偽入れ歯を愛用し、カツラを被ってトニ・エルドマンに扮するヴィンフリートそのもの。

それまで堅物表情だったイネスが不細工だけれど、どこか愛嬌のある顔になる。それを写真に撮りたいという父親を静かに待つ、つまりは写真に撮られることを拒否しない。それはイネスの人間としての大きな成長を静かに描いた素晴らしいラストシーンだ。

やはり人生はユーモアなくして楽しからず。

ボケたらつっこみ、ツッコミを期待してボケる関西人として言わせていただくと、笑いは待つものではなく得に行くもの。笑わせてもらうのを待つのではなく、笑わせていくもの。
それはこのトニ・エルドマンの行動にも通ずるものではないだろうか。

深夜らじお@の映画館の父親はトニ・エルドマンとは正反対の性格です。

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2017年06月24日

『ハクソー・リッジ』

ハクソー・リッジ武器を持たずに英雄になった兵士がいた。
これが信仰の為せる業なのか。これが実話だというのか。
沖縄戦終結から72年。衛生兵としてハクソー・リッジこと前田高地にて75人の兵士を救ったデズモンド・ドスの雄姿を描いた本作は、改めて戦争の恐ろしさを映像で描く傑作。そしてメル・ギブソン監督らしい力作である。

幼少期に弟をレンガで殴ってしまって以降、聖書の「汝、殺すなかれ」という教えを何よりも守り通すデズモンドにとっての苦悩。それは祖国のために戦いたいが、信念に従う以上は銃を手に出来ないというジレンマ。

第一次世界大戦のPTSDに苦しむ父親に銃口を向けてしまったことにも悔やみながらも、ナースのドロシーとの婚約にまで漕ぎ着けた彼にとって、そのジレンマを解消してくれるのは衛生兵という任務だけだが、信頼と規律を重んじる軍において特別扱いはありえないこと。

厳しい訓練や仲間からの仕打ち、上官からの嫌がらせにも耐え、さらに軍法会議に掛けられても曲げないデズモンドの信念とは何か。
当時の日本でなら非国民扱いされるものが、良心的兵役拒否という信仰の自由を認めるアメリカならではの制度に救われた彼を見て思う。その信念は本当に強いのか。戦地でもその信念を曲げずにいられるのかと。

そんな疑念を抱きながらも間髪入れずに平時から戦時へと切り替わる後半からは、前半の平時がどれほど大切な時間だったかを痛感すると同時に、戦場へと送られた者たちが抱く恐ろしさを、多少日本兵を誇張することで描いているところがとにかく素晴らしく、また恐ろしいこと。

例えば己の命を投げ出してでも敵を倒す日本兵は、当時のアメリカ人にとっては自分たちの常識では計り知れない敵だろう。まさに人間の姿をした別の生き物と戦うような恐ろしさに加え、「のこぎり崖」と呼ばれる崖を登り切った場所、つまり逃げ場がほぼない場所で戦うとなると、その恐ろしさはもはや想像を絶する域だ。

なのにデズモンドは、そんな場所で己の危険も顧みずに「絶対に助ける」と約束した仲間を一人また一人と運んでいく。

けれど彼が負傷兵を救う場所は艦砲射撃による砂埃で流れ弾さえ見えない戦場だ。その砂埃が撤退した味方と共に去ると、そこは誰も彼を助けてくれない孤独な戦場だ。
また夜になれば敵に見つかりにくい反面、物音を立てられない緊張感とも戦わなければならない戦場にもなる。日が昇れば夜通し単独で動き続けた疲れから一瞬の気の緩みが死に繋がる危険度が一気に増す戦場にもなる。

そんな戦場で彼はブラジャー結びのロープに負傷兵を絡ませ、屈強な男たちを一人また一人と安全な崖下へと下ろしていく。
だがそんな行動を繰り返せば、いくら同じ軍事訓練を受けた彼でも相当の負荷が身体に溜まっていくはず。となれば自然と観客の心には「もういい、あなたは十分多くの仲間を救った。だからお願い。早くその危険な場所から逃げて!」という想いが生まれる。

でも彼は自分を守る武器も持たず、自分を守る仲間もおらず、自分の命は自分で守るしかない状況下でただただ「神様、お願い。もう一人助けさせて」と繰り返し祈るだけで動いている。本当に信仰心だけで彼は動いている。

だからこそ軍曹を救助し、一度は戦場から離れた彼を仲間の誰もが勇敢な兵士だと讃える。上官からの催促よりも彼の安息日の祈りが終わるのを全員が待つ。そして自分の命を預けるに相応しい仲間だと認め、再び戦場へと戻っていく。

しかしメル・ギブソン監督は最後まで彼を戦場の英雄としては描かない。戦場で仲間を救った英雄としてしか描かない。
祖国を想い戦ったのは敵も同じ。日本兵に治療を行ったシーンを描いたのも「戦わない勇気」を貫く強さこそ、本当に必要とされているものであるというメッセージなのだろう。

戦場は経験した者にしか語れない、いや経験した者だからこそ語れない悲惨な場所だ。そんな場所で「負傷した者を救う」ことで英雄になった実在の人物を描いた本作を見ることで我々は知らなければならない。本当の勇気と強さというものを。

深夜らじお@の映画館は戦争について改めて学ぶためにも、いつか沖縄を訪れたいと思います。

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2017年06月18日

『セールスマン』

セールスマン女は現実に向き合わない生き物。男は現実を許せない生き物。
イスラムの価値観がまだ色濃く残りながらも急速に近代化が進むイラン社会で一組の夫婦に課せられる問い。それは日本にも通ずる封建的な世界での男と女の価値観の違いが生み出す、誰の言動が最も正しいのかという問い。
ただこの映画にはその明確な答えはない。

強硬な工事により住居である集合住宅が崩壊するかも知れないという異様なOPから始まるこの映画には、アスガー・ファルハディ監督作品ならではの要素が点在する。
欧米諸国と変わらない社会環境や生活価値観が浸透している近代イランの姿、男女による物の考え方の違いにイスラムの慣習が横槍を入れる人間関係、そして姿を一切表さないキーパーソン。

小さな劇団で「セールスマンの死」を演じるエマッドとラナの夫婦関係も普段はどこの国にも存在する互いを尊重し合う良き夫婦だ。
ところがラナが新居の浴室で暴漢により重傷を負わされると、そこにイスラムの価値観が徐々にエマッドとラナの夫婦関係に歪みを放り込む。

エマッドは夫として妻を襲った犯人に復讐をしたいと願うが、同時に傷ついた妻に対する思い遣りのある言葉は発しない。むしろ妻を守れなかった自分の代わりに不用心な妻を責めるような、男尊女卑の価値観が抜け切れていない封建社会に生きる男の考え方だ。

対してラナは心身ともに傷を負っても世間体を考えて警察への通報はしない。なのに、精神状態も不安定なままでも舞台に立とうとする。不用心な自分を少しは責めつつも、犯人や娼婦であった前の住人に恨み節を口に出さないその姿は、まさに泣き寝入りも仕方ないと諦めつつある封建社会に生きる女の考え方だ。

だが国語の教師もしているエマッドが生徒の悪ふざけに大人げない態度を取ってしまったり、ラナが知らず知らずに犯人の残したお金で食事を作ってしまったりするなかで不意に現れた真犯人に対する言動を見れば、それが封建的な団塊の世代がまだまだ多く健在な我が国でも、いや男が大人になりきれず、女が男に頼り甲斐を必要以上に求める全ての国において、国境や宗教など関係なく、どこにでも起こり得ることだと思い知らされる。

ラナを襲った真犯人は現場に残されたトラックの持ち主の義父。老齢でありながら、娼婦に振り回された弱き男。でも家庭では妻や娘夫婦からも愛されている優しい男。

そんな男をエマッドは旧住居の一室に監禁する。相手が閉所恐怖症なのを利用して、家族に自白することを条件に復讐を果たそうとする。
一方、ラナはそんなエマッドの行動を正しいとは思わないも、それを止めることも出来ない。真犯人を許せる気持ちも許せない気持ちもあるが、夫の気持ちも考え、最悪の事態だけは避けようとする。

ただ男は妻を襲った犯人も妻を守れなかった自分も許せない、いや許すタイミングを見出せない生き物。だから真犯人が持病で苦しんでも、自分の考えを変えるという勇気が持てない。

対して女は自分を襲った犯人の苦しみや夫の苦悩を目の当たりにしても、それの現実に対して行動するタイミングを見出せない生き物。だからこれ以上やれば最悪の事態になるということだけは避けようとするも、男を差し置いてでも責任ある立場には立とうとしない。

だからエマッドは真犯人を別室で殴るしかなかった。ラナはそれを容認するしかなかった。そうしなければ彼らにはそれぞれの心の整理が出来なかったからだが、それもタイミングを逸してしまえば、もはや最悪の結末に辿り着くだけ。

真相を言えないエマッドとラナの前で持病に息絶える真犯人。事情も知らず狼狽する真犯人の家族。
夫は妻を守るべき。妻は夫に守られるべき。そんな封建的な価値観が抜けきれなかった夫婦に、あの時妻の言うことを聞いていれば、あの時夫に強く忠告して制していればという後悔だけが残る。

男と女の価値観は違う。ただ互いにその違いを認めて尊重し合えば、最悪の事態は免れる。
しかし封建的な世界では、いや封建的な慣習が少しでも残るこの世界中では、その互いに違いを認めて尊重し合うという部分が未だに弱い。
男女平等が精神面でも完全に達成されるにはまだまだ時間と最悪の事態が必要なのだろうか。

深夜らじお@の映画館は団塊の世代やその子供世代がが大半を占める日本でも他人事ではない話だと思いました。

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