2017年06月24日

『ハクソー・リッジ』

ハクソー・リッジ武器を持たずに英雄になった兵士がいた。
これが信仰の為せる業なのか。これが実話だというのか。
沖縄戦終結から72年。衛生兵としてハクソー・リッジこと前田高地にて75人の兵士を救ったデズモンド・ドスの雄姿を描いた本作は、改めて戦争の恐ろしさを映像で描く傑作。そしてメル・ギブソン監督らしい力作である。

幼少期に弟をレンガで殴ってしまって以降、聖書の「汝、殺すなかれ」という教えを何よりも守り通すデズモンドにとっての苦悩。それは祖国のために戦いたいが、信念に従う以上は銃を手に出来ないというジレンマ。

第一次世界大戦のPTSDに苦しむ父親に銃口を向けてしまったことにも悔やみながらも、ナースのドロシーとの婚約にまで漕ぎ着けた彼にとって、そのジレンマを解消してくれるのは衛生兵という任務だけだが、信頼と規律を重んじる軍において特別扱いはありえないこと。

厳しい訓練や仲間からの仕打ち、上官からの嫌がらせにも耐え、さらに軍法会議に掛けられても曲げないデズモンドの信念とは何か。
当時の日本でなら非国民扱いされるものが、良心的兵役拒否という信仰の自由を認めるアメリカならではの制度に救われた彼を見て思う。その信念は本当に強いのか。戦地でもその信念を曲げずにいられるのかと。

そんな疑念を抱きながらも間髪入れずに平時から戦時へと切り替わる後半からは、前半の平時がどれほど大切な時間だったかを痛感すると同時に、戦場へと送られた者たちが抱く恐ろしさを、多少日本兵を誇張することで描いているところがとにかく素晴らしく、また恐ろしいこと。

例えば己の命を投げ出してでも敵を倒す日本兵は、当時のアメリカ人にとっては自分たちの常識では計り知れない敵だろう。まさに人間の姿をした別の生き物と戦うような恐ろしさに加え、「のこぎり崖」と呼ばれる崖を登り切った場所、つまり逃げ場がほぼない場所で戦うとなると、その恐ろしさはもはや想像を絶する域だ。

なのにデズモンドは、そんな場所で己の危険も顧みずに「絶対に助ける」と約束した仲間を一人また一人と運んでいく。

けれど彼が負傷兵を救う場所は艦砲射撃による砂埃で流れ弾さえ見えない戦場だ。その砂埃が撤退した味方と共に去ると、そこは誰も彼を助けてくれない孤独な戦場だ。
また夜になれば敵に見つかりにくい反面、物音を立てられない緊張感とも戦わなければならない戦場にもなる。日が昇れば夜通し単独で動き続けた疲れから一瞬の気の緩みが死に繋がる危険度が一気に増す戦場にもなる。

そんな戦場で彼はブラジャー結びのロープに負傷兵を絡ませ、屈強な男たちを一人また一人と安全な崖下へと下ろしていく。
だがそんな行動を繰り返せば、いくら同じ軍事訓練を受けた彼でも相当の負荷が身体に溜まっていくはず。となれば自然と観客の心には「もういい、あなたは十分多くの仲間を救った。だからお願い。早くその危険な場所から逃げて!」という想いが生まれる。

でも彼は自分を守る武器も持たず、自分を守る仲間もおらず、自分の命は自分で守るしかない状況下でただただ「神様、お願い。もう一人助けさせて」と繰り返し祈るだけで動いている。本当に信仰心だけで彼は動いている。

だからこそ軍曹を救助し、一度は戦場から離れた彼を仲間の誰もが勇敢な兵士だと讃える。上官からの催促よりも彼の安息日の祈りが終わるのを全員が待つ。そして自分の命を預けるに相応しい仲間だと認め、再び戦場へと戻っていく。

しかしメル・ギブソン監督は最後まで彼を戦場の英雄としては描かない。戦場で仲間を救った英雄としてしか描かない。
祖国を想い戦ったのは敵も同じ。日本兵に治療を行ったシーンを描いたのも「戦わない勇気」を貫く強さこそ、本当に必要とされているものであるというメッセージなのだろう。

戦場は経験した者にしか語れない、いや経験した者だからこそ語れない悲惨な場所だ。そんな場所で「負傷した者を救う」ことで英雄になった実在の人物を描いた本作を見ることで我々は知らなければならない。本当の勇気と強さというものを。

深夜らじお@の映画館は戦争について改めて学ぶためにも、いつか沖縄を訪れたいと思います。

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2017年06月18日

『セールスマン』

セールスマン女は現実に向き合わない生き物。男は現実を許せない生き物。
イスラムの価値観がまだ色濃く残りながらも急速に近代化が進むイラン社会で一組の夫婦に課せられる問い。それは日本にも通ずる封建的な世界での男と女の価値観の違いが生み出す、誰の言動が最も正しいのかという問い。
ただこの映画にはその明確な答えはない。

強硬な工事により住居である集合住宅が崩壊するかも知れないという異様なOPから始まるこの映画には、アスガー・ファルハディ監督作品ならではの要素が点在する。
欧米諸国と変わらない社会環境や生活価値観が浸透している近代イランの姿、男女による物の考え方の違いにイスラムの慣習が横槍を入れる人間関係、そして姿を一切表さないキーパーソン。

小さな劇団で「セールスマンの死」を演じるエマッドとラナの夫婦関係も普段はどこの国にも存在する互いを尊重し合う良き夫婦だ。
ところがラナが新居の浴室で暴漢により重傷を負わされると、そこにイスラムの価値観が徐々にエマッドとラナの夫婦関係に歪みを放り込む。

エマッドは夫として妻を襲った犯人に復讐をしたいと願うが、同時に傷ついた妻に対する思い遣りのある言葉は発しない。むしろ妻を守れなかった自分の代わりに不用心な妻を責めるような、男尊女卑の価値観が抜け切れていない封建社会に生きる男の考え方だ。

対してラナは心身ともに傷を負っても世間体を考えて警察への通報はしない。なのに、精神状態も不安定なままでも舞台に立とうとする。不用心な自分を少しは責めつつも、犯人や娼婦であった前の住人に恨み節を口に出さないその姿は、まさに泣き寝入りも仕方ないと諦めつつある封建社会に生きる女の考え方だ。

だが国語の教師もしているエマッドが生徒の悪ふざけに大人げない態度を取ってしまったり、ラナが知らず知らずに犯人の残したお金で食事を作ってしまったりするなかで不意に現れた真犯人に対する言動を見れば、それが封建的な団塊の世代がまだまだ多く健在な我が国でも、いや男が大人になりきれず、女が男に頼り甲斐を必要以上に求める全ての国において、国境や宗教など関係なく、どこにでも起こり得ることだと思い知らされる。

ラナを襲った真犯人は現場に残されたトラックの持ち主の義父。老齢でありながら、娼婦に振り回された弱き男。でも家庭では妻や娘夫婦からも愛されている優しい男。

そんな男をエマッドは旧住居の一室に監禁する。相手が閉所恐怖症なのを利用して、家族に自白することを条件に復讐を果たそうとする。
一方、ラナはそんなエマッドの行動を正しいとは思わないも、それを止めることも出来ない。真犯人を許せる気持ちも許せない気持ちもあるが、夫の気持ちも考え、最悪の事態だけは避けようとする。

ただ男は妻を襲った犯人も妻を守れなかった自分も許せない、いや許すタイミングを見出せない生き物。だから真犯人が持病で苦しんでも、自分の考えを変えるという勇気が持てない。

対して女は自分を襲った犯人の苦しみや夫の苦悩を目の当たりにしても、それの現実に対して行動するタイミングを見出せない生き物。だからこれ以上やれば最悪の事態になるということだけは避けようとするも、男を差し置いてでも責任ある立場には立とうとしない。

だからエマッドは真犯人を別室で殴るしかなかった。ラナはそれを容認するしかなかった。そうしなければ彼らにはそれぞれの心の整理が出来なかったからだが、それもタイミングを逸してしまえば、もはや最悪の結末に辿り着くだけ。

真相を言えないエマッドとラナの前で持病に息絶える真犯人。事情も知らず狼狽する真犯人の家族。
夫は妻を守るべき。妻は夫に守られるべき。そんな封建的な価値観が抜けきれなかった夫婦に、あの時妻の言うことを聞いていれば、あの時夫に強く忠告して制していればという後悔だけが残る。

男と女の価値観は違う。ただ互いにその違いを認めて尊重し合えば、最悪の事態は免れる。
しかし封建的な世界では、いや封建的な慣習が少しでも残るこの世界中では、その互いに違いを認めて尊重し合うという部分が未だに弱い。
男女平等が精神面でも完全に達成されるにはまだまだ時間と最悪の事態が必要なのだろうか。

深夜らじお@の映画館は団塊の世代やその子供世代がが大半を占める日本でも他人事ではない話だと思いました。

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2017年06月14日

トラックバックの送受信について

これは困ったことです。大いに困ったことです。
本日付けの記事によると、2017年6月29日を以てライブドアブログがトラックバックの送受信サービスを終了されるそうです。
利用数の減少とスパム対策が主な理由だそうですが、長年ライブドアブログを愛用してきた者としては、特に映画レビューを書かせてもらっていた者にとっては、これは大きな困りごとに他なりません。

というのも、映画レビューブログにおいてトラックバックは訪問者数を増やす大きなメリットであり、またそのトラックバックを辿って様々なブロガーさんのレビューも拝読出来る、とても便利なサービスだからです。

やはり映画というものは、見る人が違えば感想も違ってくるもの。育ってきた環境も、今生活している環境も、住んでいる地域も、年齢や性別も家庭環境も違えば、そこには何通りものレビューも生まれるもの。

さらにミニシアター好きとしては、対象映画を見ている方が少ないからこそ、そういったトラックバックからの繋がりも非常に大事なんですよね。

なのに、ライブドアブログさんたら…。

しかし決まってしまったものはもうどうしようもないもの。
だから対策を考えたいと思います。

【対策1】
ライブドアブログとはお別れし、gooブログなどトラックバックサービスが停止されていないところへのお引越し。
この場合、これまでの記事を残すこのライブドアブログを更新しないままは淋しい。さらに使い勝手や慣れもあるので、離れたくない気持ちも無きにしも非ず。

【対策2】
いつもお世話になっているBROOKさんの「日々“是”精進!」のようにミラーブログ、つまりTB専用に他のブログを活用する。
この場合、問題なのは私のものぐさな性格。途中で面倒臭くならないかな〜。

これまでの記事も含めて全て新しいところへとお引越しも考えたのですが、その場合これまでにいただいたコメントも消えちゃうのはあまりにも勿体無い。
そのいただいたコメントのおかげで助けられたことも多々ある、いわば友人たちとの交わした手紙を捨てるようなものですから。

てな訳で残り15日。何かしらご意見をいただければと思います。
一人で悩むより、多くの方の経験に満ちたご意見を参考にして悩みたいと思いますので。

深夜らじお@の映画館とってはまさに「今そこにある危機」状態です!

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2017年06月12日

『20センチュリー・ウーマン』

20センチュリー・ウーマン年上女性には敵わない!
あぁ、やっぱり女性は魅力的だ。外見だけでなく内面も世代や関係性が違えば、それだけでまさに百花繚乱。内面を形作るのに時間が掛かる男性とは違い、女性は自分を女と意識した瞬間から内面がほぼ完成している。
だから男性はいろんな世代の女性に刺激を受けて育たねば、いい男にはなれないのかも知れない。

1979年の南カルフォルニア。愛車でもあるフォード・ギャラクシーが燃えてもさほど動じないドロシアは、自らを「大恐慌時代の女」と名乗るほどのワーキングウーマンであり、シングルマザーでもある、メンソールを愛煙する芯の強い女性。
空き部屋を使って下宿人を住まわすわ、お世話になった消防士をホームパーティーに誘うわ、下宿人たちの良き相談相手になるわ、息子ジェイミーを理解するためにパンクロックを見に行ったりと、そのバイタリティーは凄まじいこと。

そんな彼女が15歳になるジェイミーの教育係にと依頼を持ち掛けたのは、下宿人のアビーと近所に住むジュリーという2人の「女性」。
本来なら同性であり、何でも屋まがいのウィリアムに依頼すべきところを、あえて異性を選んでいるというのが、実は「少年」を経験したことのある男性ならその真意を知らず知らずのうちに理解出来ているのではないだろうか。

ちなみにベビーラッシュ時代に生まれたがゆえに実母が服用した流産防止薬のおかげで子宮頸ガンに見舞われたアビーは、赤い髪が特徴のパンクなフォトグラファー。思春期の少年からすれば、芸術の名の下、親や学校から禁止されていることを教えてくれる格好いいお姉さんだが、同時に脆さも見せてくる、男として寄り添ってあげなければならない女性。

そして2つ年上で幼馴染のジュリーは、セラピストの母親にグループセラピー参加を強制されたがゆえに、他人との関係を肉体関係でしか保てない精神的に危うい初恋の相手。思春期の少年からすれば、ちょっと背伸びすれば手に入りそうな近しい存在ながら、毎夜肉体関係は持たないが一緒に眠るという「拷問」を強いてくる彼女はまさに理解出来ぬ女心そのもの。

そんな3人の女性から各々の教育を受けるジェイミーは、とにかく彼女たちから様々なことを学ぶ。人生、音楽、女心、オーガニズム、命の重み、母親との関係、異性を求める意味。それらを学んではウィリアムには特に相談もせず、自分なりに落とし込んでいくのだから、これは男性視点からすると素晴らしき教育システムだ。

というのも、男性視点で語られる女性は所詮「性的魅力」を感じる限られた世代でしかないので、入ってくる情報も限られている。同性を語る時もまた然りで、その多くは自分より年下のことになるので、語る男性が老齢でない限り、こちらもまた入ってくる情報が限られてしまう。

対して女性は世代を超えて同性を理解したり批判したり協調したり出来るうえに、年齢に関係なく「女性としての自己」も確立している。しかも世代を問わず男性に対する意見交換が出来る関係性を築いているので、そんな彼女たちから入ってくる情報は実に様々。生まれた世代、人生経験、年齢により様々な意見が四方八方から同じ高さで飛び交う。

だから女性たちからもたらされる情報の重要度を決めるのは、まさに受け手であるジェイミーでしかない。男性視点なら情報発信者の年齢や人生経験で重要度を受け手も決めてしまいがちだが、女性相手ではまさに受け手が考え動かねばならないのだから、これに勝る教育システムなどありえないとも思えてしまう。

さらにここに男性ならではの「女性を守らねば」「女性に気に入られたい」という2つの男性的欲求が自然と絡んでくるのだから、紳士的で能動的な男性にジェイミーが育っていくのに無理はないだろう。

そんな物語の終わりはジェイミーと3人の女性との別れ。1999年に亡くなるドロシア、それぞれの道を歩んだアビーとジュリー。3人の女性から教育を受けた少年が一人の男として歩み始める。その時に彼の心の中に生まれる女性への尊敬の念。それがフェミニズムであり、男前と認められるための最重要条件なのだろう。

あぁ、私もこんな教育システムの下で青春時代を過ごしたかった…。

深夜らじお@の映画館は年上女性好きな少年だったので、こんな環境が羨ましかったです!

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2017年06月11日

『怪物はささやく』

怪物はささやく12時7分に現れる怪物。13歳の少年が抱く葛藤。それが人生。
これは優しさに溢れた映画だ。だが13歳の少年に酷な現実を突き付ける映画だ。でもそれは誰もがいつかは通らなければならない人生の辛さと美しさを描いたダークファンタジーだ。
コナー少年が語る4つ目の物語。それは私も経験したことのある物語。だがそれはネタバレになる物語ゆえ、未見の方は是非ここでご退席を。

最愛の母親は進行する病に日々衰弱し、学校では日々イジメにひたすら耐え、外国で新しい家庭を築いている父親には期待できず、反りの合わない祖母との新生活には不安しか感じない13歳の少年コナー。

誰も助けてくれない状況に置かれた少年にとって希望となるものは、ただただ母親の回復を信じることだけ。しかし彼は分かっている。心の奥底では理解している。母親の病状が如何なるものであるかを。

だから彼の元に怪物が現れる。部屋の窓から見えるイチイの木が12時7分になると動き出し、コナーの元へとやってくる。そして彼に3つの物語を聞かせるから、4つ目の物語はお前が語れと迫ってくる。

だがそれは現実では起きていない現象。13歳の苦悩する少年の妄想でしかない。
けれどそれは苦悩する13歳の、いわば大人と子供の狭間にいる少年にとっては必要不可欠な妄想。この過酷な現実から逃げて後悔しないためには必要不可欠な妄想なのだ。

怪物が聞かせる物語。それはどれも大人になればその意味を知っているものばかり。
人望厚き王子が自ら恋人を殺すという策略により祖父の王妃である魔女を失脚させた1つ目の物語は、その時々により変わる善悪の判断が嫌いな祖母との関係を少年に問う。
信念を貫く調合師が信念なき司祭の娘を助けたいという願いを断る2つ目の物語は、他者から罰を与えられない苦しみが家具を破壊させた少年に後悔の意味を知らしめる。
誰からも見えない男の孤独が見えるようになるとより深まる3つ目の物語は、いじめっ子への報復が少年にとって何の意味もないことを痛感させる。

そして最後の治療法でさえ、母親を救えないと知らされたコナーが怪物に語れと迫られた4つ目の物語。それは夜な夜な悪夢として少年が見続けた、地割れに落ちそうになる母親の手を離してしまったコナーの本音。私も母親の余命を聞かされてから願ってしまったことのある本音。

避けることの出来ない家族の死。だがいつ来るか分からないその日。
それまで苦しみ続けねばならない身内と、その苦しみを見続けなければならない家族。
その苦しみが終わってほしいと願ってしまうこと。それは願ってしまった者からすれば悪であり、後悔でもある。
けれどそれは紛れもない人間としての本質。誰からも責められることのない願い。

しかしその「願ってしまった」という事実に向き合うことは、残された時間の大切さを知る機会でもある。
コナーが母親を看取った最後の時間。母親に正直に語った気持ち。それは母親リジーが怪物に託したコナーへの人生教育でもあったのだろう。

恐らく怪物の声を担当したリーアム・ニーソンが家族写真にも写っていたことから、彼がコナーの亡き祖父であり、怪物が聞かせた物語もかつてはリジーが父親から聞かされた物語だったのだろう。
だからこそリジーの部屋を改装し、コナーの部屋となった机の上に置かれたスケッチブックに描かれた物語たちに思わず涙が頬を伝う。リジーもまた怪物に出逢っていたのだと。

ダークファンタジーな映像に加え、水彩アニメーションも駆使して語られる物語。その映像美が13歳の少年に酷な現実に向き合わせながら教えてくれる正論では語れない人生。
これは静かに心に残る秀作だ。

深夜らじお@の映画館もあの日願ってしまったことを今も家族には秘密にしています。

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2017年06月09日

『パトリオット・デイ』

パトリオット・デイボストンよ、強くあれ。
2013年4月15日に起きたボストンマラソン爆弾テロ事件。それは「愛国者の日」に起きた悲劇であり、ボストン市民を愛で団結して悪魔に打ち勝った102時間。
地元警察官、FBI、一般市民、実行犯、被害者。誰がどのように事件に絡むかが分からないまま進む実録サスペンスに、本当の意味での平和を考える。

実在しない架空の人物であるボストン警察官のトミーを主軸に、実行犯のツァルナエフ兄弟、中国籍の若者、休日を楽しみにしていた若夫婦、幼き子供と過ごす父親、気になる女子大生をデートに誘いたい若き警官がどのように事件に関わっていくのかを緊迫感を持って描く前半から、とにかく気になるのはいつ爆破が起きるかということ。

史実を映画化しているので爆破は必ず起こる。けれどそれがいつになるのかが分からない。すると恐怖が自然と増す。平和な日常も誰かの愚行により一瞬にして悲劇の現場となることは、決して日本でも対岸の火事ではないという恐怖が増す。

だからいざ爆破が起こると騒然となる現場に思わず震災の日を思い出してしまう。天災と人災という違いはあれど、共にそれまで誰もそんな悲劇が起こると思っていないからこそ対処に困惑するあの恐怖の時間。

今、自分は何をすべきか。それがすぐに出来るトミーのような人間もいれば、出来ない人間もいる。そんな人々が右往左往する現場で、捜査という名目で人間味さえも忘れ去られた現場で、置き去りにされた8歳の少年の遺体の傍で任務として立ち続ける一人の中年警官の悲しき表情。まだ冷たい4月の風が白い布を吹き飛ばそうとするなかで収容される亡き少年に敬礼するその姿に思わず涙が頬を流れてしまう。

だからこそ、捜査を仕切るFBI捜査官やボストン警視総監、州知事、そしてウォータータウンの老巡査部長が本格的に動き出す中盤からはスクリーンから目が離せなくなってしまう。
誰もが睡眠を取らない捜査本部。地元の地理に詳しいトミーが次々と「白い帽子」の犯人が映っているであろう防犯カメラの位置を特定し、警視総監が怒りで公開させた実行犯の写真の数々。

市民の力を借りれば事件も早期解決に向かうという希望も、自分勝手な解釈による教育を振りかざす実行犯兄弟により射殺された若き警官の無念を思えば、車を奪われ監禁された中国籍の若者の恐怖を思えば、それがいかに難しいものであるかを痛感させられる。

たった2人の犯人を逮捕するがために夜の街中で爆弾が多く投げつけられる銃撃戦が起こり、たった1人の逃げ延びた犯人を逮捕するために快晴の日にいくつもの街を厳戒令レベルで封鎖し、武装警官がシラミ潰しに探す。そんな異様で異常な時間が続いていたボストンやウォータータウン。

でも市民は決してそんな恐怖には負けない。子供が産めなくなった妻との過ぎ去りし日を思い返しながら、亡くなった少年のためにも絶対に犯人逮捕を決意するトミーの言葉には、愛と希望を語り継ぐことこそが平和を享受する者の使命とも思える強き心が見えてくる。

犯人の妻が語っていたようにシリアなどでは多くの罪なき人々が命を落としている。しかしだからといって、他の国で同じように罪なき人々をテロという卑怯な手法でその命を奪っていいという道理はない。むしろ世界中の罪なき人々の協力を得て、一部の権力者という罪ある人々を断罪すべきだ。それすらもしない弱き者が卑怯者と化し、今日もまた世界のどこかでテロという愚行に走っている。

けれど、そんな愚行による悲劇に見舞われてもボストンの街は愛と希望を失わない。逆に市民はより団結したのかも知れない。レッドソックスが「BOSTON」のユニフォームをあえて着るように、誰もがボストンの街を愛している。

EDで本物の当事者が語るくだりは少々愛国心アピールが強すぎてはいたが、それでも『ユナイテッド93』と同じく、あの忌まわしき事件が少しでも鮮明に記憶に残っているうちに描くことにも大きな意味を持っているこの映画。

改めて「世間体」が実は大きなテロ対策として活かされている日本に生まれて良かったとも思う映画でもありました。

深夜らじお@の映画館はやっぱりこのケビン・ベーコンの渋さが大好きです。

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2017年06月04日

『LOGAN/ローガン』

ローガン谷から銃は消えた。ローガンよ、カムバック!
これがシリーズの最終作なのか。これでウルヴァリンの物語は終わってしまうのか。そう思うと何と淋しいことか。
オーストラリアから出てきた無名俳優時代の『X-MEN』から18年。ついにヒュー・ジャックマンはローガンでもウルヴァリンでもなくなってしまったのか…。

ミュータントが激減し、異常な治癒能力も衰えつつあるウルヴァリンがアルツハイマーを患っている90歳のプロフェッサーXの老老介護をするという前半から漂う、もはやヒーロー映画の欠片もないような、哀しき2029年という現実。

思えばウルヴァリンことローガンは常に孤独を選択し続けた男。常に自分が大切に思う人が不幸になる現実に打ちひしがれ、その現実を避けるように孤独を選んでいた男。そんな彼をチャールズが誘い、ジーンやストームが出迎え、マグニートーが戦いという形で交流を育んできた。

だが今の彼には帰る学園もなければ、彼を出迎える温かな仲間もいない。つまりこの映画で描かれる彼は孤独を選択せねばならない状況下に置かれた存在なのだ。だからより彼の苦悩が濃く描かれる。

そんな彼が否応なしに依頼されたのがローラという新ミュータントの保護と、プロフェッサーXを伴い、少女を「エデン」と呼ばれる場所に連れて行くという、いわば西部劇の逃避行のような旅路。
人間兵器でもある新ミュータントを生み出した悪の組織トランシジェンの追手から命辛々逃げ惑う姿は、もはやヒーローでもなければ、ウルヴァリンでもない。
まさにタイトル通りの「ローガン」という一人の老い行く男の逃避行なのだ。

なので、この映画におけるアクションには華麗さもなければ、力強さもない。獣のような目と威嚇で敵を薙ぎ倒してきたウルヴァリンもいない。
ただただ辛うじて使えるアダマンチウムの爪を駆使して「勝つ戦い」ではなく、「負けない戦い」で生き延びようとする、老眼鏡の似合うローガンの姿しかない。

でもそこに哀愁がある。人間味がある。ミュータントも同じ人間なのだという、シリーズのテーマもある。だから自分の遺伝子を引き継いだローラを守りたいと願いながらも、まともに走れもしない男を応援したくなる。

本来なら様々なミュータントが各々の能力を連携させて戦うこのシリーズにおいて、ローガンはその連携に一切頼らなかった。常に孤独だった男が、孤独を選択せねばならない状況下に置かれ続けていた男が、あえて孤独を選択して挑んだ最後の戦い。
それは恩師チャールズの想いを、自分の爪で殺めたジーンの想いを、孤独な自分を迎え入れてくれた仲間たちの想いを次世代へ繋ぐための、ローガンにしか出来ない戦い。

その戦いに命と引き換えに勝利したローガンの墓に建てられた十字架をローラが斜めに、つまり「X」の形にして去るラスト。
それは一つの時代の終わりに敬意を示すラスト。劇中に『シェーン』を引用しつつも、最も有名な「シェーン、カムバック!」というシーンを引用せずにローガンの結末を示唆した、長年シリーズを見続けてきたファンも受け入れるべきラスト。

そんな切ないラストを見ながらふと思う。

マグニートーはどうした?彼ならこんな状況下でも逞しく生きているだろうと。
せめてその辺りは何かしら描いて欲しかったなぁ…。

深夜らじお@の映画館はやっぱりこのシリーズではマグニートーが一番好きです。

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2017年05月31日

6月戦線映画あり!

夏休み映画公開ラッシュ前の6月。梅雨が始まれば映画館が混み合い、7月からの繁忙期前の休みを有効活用する人々で混み合い、失恋したばかりの私の心の中だけはすっからかん状態の6月。
でも夏の始まりは新しい出会いの始まり。てな訳でそんな6月公開の注目作をピックアップしたいと思います。

【6/1〜】
●『LOGAN/ローガン』
ヒュー・ジャックマンがこの役を演じるのも最後か?

【6/3〜】
●『20センチュリー・ウーマン』
マイク・ミルズ監督最新作。
●『ブラッド・ファーザー』
メル・ギブソンが復活だ!

【6/9〜】
●『怪物はささやく』
J.A.バヨナ監督最新作のダークファンタジー。
●『パトリオット・デイ』
ボストンマラソン爆弾テロ事件の裏側とは…?

【6/10〜】
●『22年目の告白-私が殺人犯です-』
こんな内容の韓国映画がありませんでした?
●『セールスマン』
本年度アカデミー外国語映画賞受賞作品!

【6/17〜】
●『おとなの恋の測り方』
背の高い女性と背の低い男性。どっちが本当の意味で小さい?
●『キング・アーサー』
ガイ・リッチー監督最新作。
●『リベンジ・リスト』
ジョン・トラボルタがアクション俳優として帰ってきた!

【6/23〜】
●『フィフティ・シェイズ・ダーカー』
またあの妄想の世界が帰ってきます。

【6/24〜】
●『ありがとう、トニ・エルドマン』
おもろい父親×真面目な娘の物語。
●『ハクソー・リッジ』
メル・ギブソン監督作品。舞台は沖縄なのか?
●『ふたりの旅路』
イッセー尾形×桃井かおりin着物。


てな訳で6月の注目作は
『ハクソー・リッジ』
『ありがとう、トニ・エルドマン』
『怪物はささやく』
『セールスマン』
『LOGAN/ローガン』

深夜らじお@の映画館は6月から再び婚活を始めます!新しい恋を見つけるぞ!!

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acideigakan at 23:44|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!映画予告編 

2017年05月29日

『光』

光見つめる先。そこに光。
コミュニケーションとは何か。当たり前とは何か。思いやりとは何か。想像力とは何か。
前作『あん』と同様、健常者である我々にとっては別に知らなくても不自由のない世界の話。でもその世界を知ることできっと心は自由になれる。本当の意味で。
本作はそんな人としての温かさと優しさに溢れた秀作だ。

視覚障碍者が映画を楽しむための音声ガイドを作成する尾崎美佐子。彼女が読み上げるセンテンスを聞きながら本作を見ていると気付く。自分は今スクリーンに映る映画とガイドにより耳で見る映画の両方を楽しんでいるのだと。

しかしその直後のモニターたちの言葉を聞いて思い知らされる。あぁ、私が耳で見ている映画と彼らが耳で見ている映画はそれぞれバラバラなんだと。
だからモニター作品のラストシーンでの北林重三監督の表情に美佐子が「希望に満ちている」という文章を当てたことに対する違和感の正体も分かる。弱視で光を失いつつある写真家:中森雅哉の指摘した「押しつけがましい」という言葉の意味も分かる。

本来、映画というものは製作者から観客へメッセージが直送ルートで発信されるもの。だから感想も見る人によって様々なのだ。
だが美佐子はその直送ルート上で製作者と観客の間に立ちガイドを作成しているので、当然のことながら彼女が作る文章は彼女の感想でしかない。観客が直接作品に触れる機会を邪魔し、自分の感想を観客に伝えているだけなのだ。

だからこそ、ラストシーンにガイドをつけないのを「逃げている」と批評されるのも当然である。想像力がないのはどちらなのかと諭されるのも当然である。
彼女は一生懸命推敲しているが、最も重要である視覚障碍者が映画を耳で見るという想像力が欠けていては、それはスタートラインにも立てていないのと同じことなのだ。

ただ彼女は失踪した父親を想い、痴呆症になった母親を心配しながらも、弱視に怯える中森とのコミュニケーションを経て知っていく。見えていたものが見えなくなるとはどういうことなのか。当たり前が当たり前でなくなるとはどういうことなのか。

それは父親がいることが当たり前だった日常、母親が元気に過ごしているのが当たり前だった日常が当たり前でなくなった自分自身の現状と同じ。竹藪で泥土に足を取られた時の焦りや怖さと同じ。怖く、淋しく、希望も持てず、それでも生きていかなければならないことが不安でしかない。

曇り硝子のようなぼやけた視界の右上に僅かに見える現実にしがみ続けた中森。同様に父親の残した財布に僅かな希望を託し続けていた美佐子。
父親との思い出の夕陽が沈む場所に連れてきてもらった美佐子の隣で中森が自分の心臓だと大事にしていたカメラを放り投げた時、中森の光のない世界で生きていく覚悟に美佐子がキスで応える。私も覚悟を決めて前に進むと。

それは健常者である私たちが日常生活では恐らく知り得ない決断。知らなくても日常生活には何の不自由もない決断。だがそこに至るまでの心の葛藤を想像すれば、それは相手を思い遣る優しさを知ることの出来る勇敢な決断。

「重三の見つめる先。そこに光。」

美佐子が辿り着いたラストシーンの音声ガイド。自分の感想でも、当たり障りのない文章でもなく、観客の想像力に委ねる見事な文言。
それは視覚障碍者を憐れんでいない言葉。彼らも健常者と同様の観客として迎え入れているがゆえの言葉。そして中森に、自分自身に人生を諦めないと鼓舞する言葉。

相手を思い遣る想像力。それが言葉を相手を想う優しさに満ちた言の葉にする。コミュニケーションを取るのに最も必要な、人の温もりが詰まった言の葉に。

深夜らじお@の映画館は河鹹照監督が撮る木々の緑色がどれも違うがゆえに、その数の多さにも人の個性を重んじる優しさを感じます。

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2017年05月22日

『メッセージ』

メッセージ未知との遭遇でのコンタクトに必要なもの。それはメッセージを受け取る勇気。
さすがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品だ。細部まで丁寧に描かれたその手腕は素晴らしいの一言。
ただオチに関しては中盤で読めてしまったうえに、ヒロインの背景が描かれぬままのあのオチはやはり勿体無いとしか言い様がなかったのが残念。

地球上12ヶ所に突如現れた「ばかうけ」型宇宙船。人類に対して敵意を見せる訳でもなければ、友好を示す訳でもない。なぜなら彼らの言語が分からないし、彼らも人類の言語が分からないのだから、当たり前といえば当たり前の話。

しかしそれはある意味とてもリアルな話。地球上でさえ数多ある言語で意思疎通がままならぬのに、そこに宇宙言語が来れば当然不安は増す、疑念も増す、恐怖も増す。

だからこそ選ばれた言語学者のルイーズ。彼女の才能と知識ならと現地に召集されるも、まずこの映画は彼女が娘を授かり、その成長を見守るも、やがて難病により娘を失うというエピソードを描いている。
ただこの恐らく過去であろうエピソードで描かれるルイーズに対し、宇宙人との対話という任務を与えられたルイーズが老けていないという風貌が個人的には引っ掛かってしまった。もしかして『インターステラー』の事例からも過去のエピソードではないのかも知れないと。

そんな疑念に引っ掛かりながらも流れていくストーリーでゆっくりと強調されていくのがルイーズの母性だ。本来なら数理学者のイアン・ドネリーの理数系ならではの活躍がもっと描かれてもいいはずが、この映画ではほぼ描かれない。常に彼は彼女のサポート役に留まっている。なのでルイーズの左薬指に嵌められた指輪を見ても、そのお相手もすぐに分かってしまった。

けれど中国のシャン上将やアメリカのウェバー大佐を始めとする男共が根気もなく武力行使を主張する一方で、本当の強さであり勇気である「相手を受け入れる」優しさを示すルイーズを見て思う。やはり男は女のサポート役であることが、もっとも事が上手く進む術ではないかと。

ヘプタポッドと名付けられた宇宙人には時間軸という概念がないという事実も、もし男が仕切る場であれば、果たしてこんなにもスムーズに受け入れられていただろうか。娘が死んでしまうという未来が分かっても、その娘を育てるという勇気を持てるだろうか。

でも現実を愛おしむ女性にはそんな勇気が備わっている。今を大切にする素晴らしさを知っているからこそ、子供を産むという能力が備わっているからこそ、どんな未来が来ようとも娘を産むという決断も出来るのだ。

つまりルイーズは人類を守るために、世界を守るために、危険を犯してまでシャン上将を説得したのではない。彼女は自分よりも先に死ぬと分かっていても逢いたい娘を産むために人類の暴走を止めたのだ。
ある意味酷く個人的な理由ではあるが、その理由こそが本来なら人類が最も大切にしなければならない「愛」なのだ。

深夜らじお@の映画館は「ばかうけ」型宇宙船がなぜに北海道に現れたのかも疑問です。やっぱり大阪には宇宙人を倒した過去があるからダメだったのかな〜。

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