2024年06月09日

『違国日記』

違国日記自分のペースで大人になる。
大人は意外と子供だ。逆に子供は意外と大人だ。でも本当に大人として誇れる生き方をしている人なんて一人もいない。みんな大人になることの意味を考えながら、大人になり切れていない自分の存在を知りながら、子供から卒業しようともがいている。そんな不器用な生き方こそが人生。大人になるために各々が通ってきた道のり。

ある日突然両親が交通事故で他界した女子中学生の朝。そんな彼女を引き取ると葬式で宣言した叔母で小説家の槙生。両親の死に現実味を感じれない朝と、彼女の母親でもある自分の姉のことが大嫌いな槙生の共同生活は、大人と子供の境界線が曖昧だ。

誰もが子供の頃に多くの時間で接していた大人といえば、親か教師。縦の人間関係での繋がりが強い大人ばかり。でも槙生は朝に宣言する。あなたの母親は大嫌いだが、あなたを踏みにじったりはしないと。養子縁組などは考えない。あくまでも朝の意見を尊重する後見人として一緒に暮らすだけ。それ以上でもそれ以下でもない。

だから朝の人生に対して、助言はしても口出しはしない。朝の行動に対しても、注意はしても否定はしない。朝の選択に対しても、理解はしても訂正はしない。だから部屋の掃除など、自分が苦手なことに関しては、大人であっても朝を頼る。

一方できっちりとした母親と共に生活していた朝にとっては、大人とは自分を導いてくれる存在。言い方を変えれば、人は多面体であるにも関わらず、その一面しか見れていなかった存在。だから槙生の親友・奈々や槙生の元彼・笠町と接することは、朝にとって槙生の新たな一面を知る機会。子供にとってワンクッション置いた関係にある大人と接する時間の大切さを身をもって知る機会。

そして大人の生き方を知るということは、自分の生き方を見つめ直す機会でもある。周囲の友人との差を知る機会でもある。人懐っこい性格の朝は、高校生になっても友人に恵まれている一方で、同性愛を選んだ親友えみりや明確な進路に突き進む森本、他人の才能を素直に認める三森などと比べると、まだまだ子供っぽい。

でも人の成長はそれぞれペースが違う。だから大人になるという感覚も違ってくる。大人になるという基準も違ってくる。槙生が姉が残した朝への日記を高校卒業まで渡すかどうかを迷ったのも、朝が読む前に自分が中身を確認するのは失礼だと読むのを拒んだのも、それは槙生なりの感覚であり、基準でもあり、そして優しさや愛でもある。

それを受け入れた朝が自分の想いを歌詞に乗せて歌う「エコー」は、16歳の朝なりの槙生への手紙。だからいい余韻を持ってEDロールを迎えることが出来る一方で、残念なことにこの映画には朝が両親の死を受け入れるシーンがないだけに、辛い過去を乗り越えて今の生活を大事にしたいという気持ちが伝わってこなかったのが、少々物足りなさとして残ってしまったのも事実。

けれどもこの映画を見て、「人はなぜ勉強しなければならないのか」という積年の難問に対して、一つの答えに辿り着けたような気がする。人は自分の脳と心のキャパシティーを増やすために、学校の勉強と人生の勉強に励まなけれなならないのではないかと。例えば「心の余裕」とか「大きな心」といった表現があるように、キャパが増えれば余裕が生まれる。余裕が生まれると、自然と冷静に物事を考えることが出来る。これは脳でも同じ。賢い人ほど多くの情報を持ち、かつ自分の意見も持っている。逆に脳や心のキャパが小さい人は、すぐにオーバーヒートする。

そう考えると、朝の周囲にはいい大人が多いなと思う。槙生と奈々との3人での餃子パーティーは、そんな一端を垣間見れるシーンだった気がしたうえに、ちょっと羨ましくも感じた。あんな経験をティーンの頃に出来るのは、大人になると本当に貴重だと分かるから。

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2024年06月04日

『マッドマックス:フュリオサ』

フュリオサ星と共にあらんことを。
ストーリーがあってないようなものがこのシリーズの本質だったのではないか。ジョージ・ミラー監督がやりたいことだけを撮るのがこのシリーズの醍醐味だったのではないか。それらが中途半端で終われば、やはり物足りないという感想しか残らないのが無念だ。
なので、次はフュリオサママでスピンオフを期待します!

前作『怒りのデスロード』撮影時から、同作品ではシャーリーズ・セロンが演じたフュリオサのスピンオフ構想があったというジョージ・ミラー監督。

しかし前作でやりたいことを全てやってしまった感じが否めないこの巨匠。資金が集まったから撮りたいものが撮れる環境を思う存分に味わえば、もはや「そういえば、こういうシーンも撮りたかったな」程度の欲望しか残らない。すると前作を楽しんだ観客には「前作ほどではない」という感想しか残らない。

そもそもマックスの復讐劇として始まったこのシリーズ。なので、フュリオサも復讐劇という単純構想は分かり易くて楽しめる。だが成人したフュリオサを演じるアニャ・テイラー=ジョイが登場するまでが長すぎる。戦闘力の高い母親をディメンタスに殺され、その復讐のためにディメンタスと敵対するイモータン・ジョーの一派で戦闘員として成長するまでに1時間近く掛かっている。

もちろんフュリオサの人物像を描くうえでは大事な幼少期かも知れないが、単純ストーリーが売りだったこのシリーズにおいて、この回り道はもっと短くすべきだ。マックスを彷彿とさせるジャックというトラックドライバーと共にウォー・タンクでディメンタス一味と戦うシーンの面白さが「さすがジョージ・ミラー監督!」だっただけに、ここまでの道のりが長すぎるのが余計に残念。もし前半がもっと短く描かれていれば、このシーンはもっと盛り上がって見ることが出来たはず。

フュリオサが長い髪を切り落とすシーンにしても、彼女の相当な覚悟がさほど伝わってこないなど、やはりどのシーンを見ても、映像も脚本も前作のようなジョージ・ミラー監督の執念のような恐るべき欲望を感じることが出来ない。だから「前作ほどではない」という感想しか残らない。

彼女の左腕が義手になった経緯も唐突すぎるうえに、この荒廃した世界で凄く多機能で便利な義手ですな!と言いたくなるような機能もついており、ここでも単純設定だからこその気持ちよさは微塵も感じてこない。

けれど幼いフュリオサが誘拐されるも、その犯人たちを狙撃で追い詰めていったフュリオサママの格好良さは凄く印象に残っている。彼女がどういった経緯で素晴らしき狙撃手となったかも含めて、次は是非フュリオサママのスピンオフをお願いしたい。もちろん単純構造のお話でね。

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2024年05月30日

『バティモン5 望まれざる者』

バティモン5もっと敬意を。
治安の悪い区域を一掃したいという市長の想いも、住む権利を無残に奪われることに怒りを表すケアスタッフの想いも理解出来る。しかしどちらにも共感は出来ない。理由はただ一つ。相手に対する敬意を持たぬ者の言葉など、何の説得力もないのだから。
ラジ・リ監督が描くパリ三部作の第2弾。パリの現実に驚愕する。

パリ郊外、移民が多く暮らす街、バンリュー。古くなったアパートの一室で亡くなった老婆の棺が狭い階段で丁寧に降ろされていく。だが遺族は愚痴る。エレベーターはもう何年も使えない。行政は何もしてくれない。死者には敬意が示され、生者には敬意が示されない。そんな歪な現実がOPから描かれる。

再開発のためのアパート爆破の影響か、心臓発作を起こした老齢の市長に代わり、選挙もなく議会での投票のみで市長になった小児科医のピエール。真面目な一方で、キリスト教徒以外には冷ややか。市長の任を受ける時も、シリアからの移民待遇にしても、妻への相談もせず、旧態依然な性格も垣間見える。

そんなピエールが地域の犯罪撲滅と再開発のためにと目を付けたのが、移民が多く住む「バティモン5」と呼ばれる巨大アパート。無許可食堂での火事を皮切りに住民一掃計画を強行するも、通知なしに突然退去命令を出したり、住居を失った住民の仮の住まいも準備しないなど、権力の横暴ともいえるような、住民に対して全く敬意を払わない行動に出てしまう。

ただ彼が市長になってからは、市長に要望を聞いて欲しい市民が小児病院に押しかけたり、電話中に話し掛けたりと、誰もがピエールの日常に礼儀もなく土足で入り込んでくる。市民もまたピエールに対して敬意を払っていない。

だからピエールの強硬手段に対し、地域のケアスタッフとして働くマリにルーツを持つアビーが反感を覚えるのは理解出来ても、アポなしで市長室に怒鳴り込んだり、再開発の看板に友人のブラズと共に火を放つなどの行為には、どうしても理解に苦しむ。

もちろん彼女もまたバティモン5から通告なしに退去命令を受けて住居を奪われた一人なので同情はするが、寒空の夜間に住民の家財道具を守ることを理由に、可燃物だらけの場所で焚き火をするのは不用心だし、またその焚き火を消されたことに怒り狂うのも大人として冷静さに欠く行動だ。

さらにブラズに至っては、住居を奪われた報復のためとはいえ、冷静さを欠いたとはいえ、幼い子供の目の前でピエール宅を荒らすわ、灯油を撒いて放火しようとするわなど、もはや子供の手本とは縁遠いにも程がある愚行三昧。

結局ピエールもブラズも、「他人には敬意は払わない。でも自分には敬意を払え」という言動ばかりを取っている。もちろん元を正せば、この地域の移民による犯罪率の高さが原因で、それを一掃したいというピエールの気持ちは理解出来る。けれどその移民に対して何もしてこなかったことを無視して強硬手段に出るのは間違っている。

同じくブラズたちも市長が何もしてくれないと嘆く前に、市長とのパイプを持つロシュの言葉を聞いて、犯罪率を下げるなどの努力をしてこなかった。それを無視して強硬手段には暴力で対抗するのは間違っている。

そんな自分勝手な論理で動いてきた結果、ピエールは自分がやってきたことの間違いを知る。ブラズを諭しに来たアビーは彼と距離を置くことを選ぶ。そしてブラズは大事な人からの信頼を失う。

自由・平等・友愛を意味するトリコロールを国旗にしているフランス。その3つの想いが失われているのが現代フランスなのか。

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2024年05月28日

6月戦線映画あり!

5月は見たい映画が多すぎて、休日はほぼ映画三昧に使ってしまったがために、全く身体を休ませていないまま迎えてしまった梅雨の6月。
今年は梅雨時期は短いものの、雨量が多いらしく、レインシューズの活用が多くなりそうです。その分、靴が臭くならないようにケアもしないと。今年はアニメ作品が既に公開され大ヒットしているようで、実写の話題作も少ない感じ。とはいえ、映画界発祥の「ゴールデンウィーク」ですから、やはりこの時期は映画を楽しんでナンボ。家族サービスで4月後半は映画館から足が遠のいていたので、そろそろ映画館に戻らねば!

てな訳でそんな5月の注目作品をピックアップです。

【6/7〜】
●『違国日記』
芯の強い女性が似合う新垣結衣さんがステキです。
●『かくしごと』
疑似家族は幸せにはなれないのか。
●『あんのこと』
パンデミックで人生を変えられた人は多いようですね。
●『THIS MAN』
まゆげが繋がった男性=バカボンが暮らす町のおまわりさんの世代です。
●『チャレンジャーズ』
ゼンディヤちゃんが輝いてます。

【6/14〜】
●『ディア・ファミリー』
町工場経営者が家族のために医療器具を開発した実話。

【6/21〜】
●『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ』
本年度アカデミー助演女優賞受賞作品。
●『ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命』
イギリスにもシンドラーがいたのです。
●『ザ・ウォッチャーズ』
M・ナイト・シャマランの娘イシャナ・ナイト・シャマラン監督作品。
●『バッドボーイズ RIDE OR DIE』
あの2人が帰ってくる!

【6/28〜】
●『スリープ』
睡眠中の異常行動って怖いよ。

てな訳で6月の注目作品は
『バッドボーイズ RIDE OR DIE』
『違国日記』


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acideigakan at 01:03|PermalinkComments(0)clip!映画予告編 

2024年05月26日

『関心領域』

関心領域無関心という大罪。
壁の向こうから聞こえてくる音が怖い。その音が何を意味しているのかが分かるから怖い。でもそれ以上に、その音の意味を知っていながら、平穏に暮らすドイツ人一家の、特に妻ヘートヴィヒの無関心がもっと怖い。人は無関心になると、見て見ぬふりを超えて、その存在すらをも自分の中から消せてしまうのか。そんな人間という生き物は本当に怖い。

誰がどう見ても、映像的だけは平穏に暮らすドイツ人一家の幸せに満ちた日常風景を描いた作品だ。だがその一家が住む家の壁の向こう側は、あのアウシュヴィッツ強制収容所。そしてこの一家の家長は、その収容所のルドルフ・ヘス所長。だから日常的に壁の向こうから聞こえてくる「音」は、ユダヤ人の命を奪っている音だろう。

一般的な人間の感覚なら、人の命が奪われる施設の隣で暮らしたいとは思わない。だがルドルフが部下たちと焼却炉を増やす会議では、人の命が「荷」と表される。ヘートヴィヒが他の女性たちと話題に挙げる金品は、ユダヤ人から奪ったもの。人命を人命と思わない会話が続くが、それらをヨーロッパ映画らしく定点カメラでしか描かない。俳優たちの表情をアップで見せる演出もしない。観る側に感情を持たせず、冷静にこの異常な日常を見せる。

ただ不思議なことにこのドイツ人一家だけに注視すると、壁の向こう側の映像が一切ないこともあってか、「音」は雑音にも聞こえることが出来る。私たちは「アウシュビッツ収容所」というキーワードから「音」の意味を連想しているが、もしそのキーワードがなければ、もしくは知らなければ、さらには無視すれば、「音」の意味はなくなる。つまりはこの日常を異常とも思わなくなる。

加えてこの「音」が毎日聞こえるなかで暮らすという環境は、学校の近くや工場の近くで暮らしている現代の私たちの環境と似ている点がある。例えばチャイムや機械音など毎日同じような音が繰り返される環境下では、音自体も日常的になってしまうが故に、私たちはいつの間にか「音」に注意しなくなる。いつもと違う音が聞こない限り、私たちは「音」に対して無関心になっていく。

それが最も恐ろしいと感じるのは、壁の向こう側から聞こえてくるリンゴに関する争いとその制裁の会話に対し、ヘス家の幼い息子が将校の真似をするくだり。父親や将校への憧れもあるだろうが、その「音」の意味を知らないという恐ろしさを生み出しているのは他でもない、「音」に無関心な親の教育方針。

思えばヘートヴィヒは人命が奪われている施設に隣接したこの家で、子供たちを遊ばせ、赤ん坊に花の匂いを嗅がせ、夫にまたイタリア旅行に行きたいと話し、その夫が転勤になってもこの家に残ることを選んだ。この環境下が自分にとって、この家族にとって、最良の環境下だと思っているからこその行動は、まさに彼女の関心がこの敷地内だけにしかない証拠でもある。

ただこの家の植物を育てるために使われている灰。何を焼いた灰かの説明は一切ないが、壁に最も近い場所で育てられている植物に与えられているという点からも、間違いなく人の命を焼いた灰だろう。それをも平気で使えるのも無関心の為せる業なのなら、それがどれだけ恐ろしいことか、考えれば考えるほど恐ろしくなるばかり。

でも転勤した夫のヘスがアウシュビッツに戻るとなった時に階段で嘔吐したように、外の世界に出ればその異常さは理解出来る。だがこれと同時に、現代のシーンなのか、奪われた人命が残した大量の靴などを展示したガラス戸を拭く人々も描かれる。この恐ろしい無言の展示物の前で仕事を続けるには、無関心が必要不可欠だが、生活をするために無関心が必要なら、それはヘートヴィヒも同じではなかったのかとも思えてくる。

しかし関心の領域が自分の生活圏内だけになったら、私たちは他人に優しくすることが出来なくなるだろう。ウクライナやパレスチナは私たちの生活圏からは遠く離れた場所だが、もし世界が無関心になったら、彼らはどうなるだろう。もし彼らを攻撃するロシアやイスラエルが私たちにも同じことをしてきたら、ウクライナやパレスチナに無関心になった世界で誰が私たちを助けてくれるだろう。

無関心とは大罪である。他人に優しくなれないだけでなく、未来の自分にも優しくなれない、なのに今の自分だけは誰か助けてくれと願う、とても身勝手なものだ。

他人との会話が苦手な人には、まず他者への関心を持とうという話をよく聞くが、それもまたこの「関心領域」に通ずるような気がする。心の壁は誰にもある。でもその心の壁の向こう側は青空か、それともこの映画のポスターのように黒塗りされているのか。自問自答すべき問題だ。

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2024年05月23日

『碁盤斬り』

碁盤斬り肉を切らせて骨を断つ。
本格的な時代劇ではない。囲碁が分かり易く殺陣と直結することもない。人情モノとしてご都合主義に思えるところもあるかも知れない。復讐劇として物足りなさを感じるかも知れない。
だが不思議と囲碁を知りたい気持ちになる。その面白さを知ると、この作品の奥深さも分かるかも知れない。

囲碁や将棋などの盤上競技には、その打ち手の性格が表れるという。彦根藩を追われ、江戸で娘のお絹と共に長屋暮らしをする柳田格之進の囲碁の腕前も、その実直な性格同様に嘘偽りない清廉潔白さを有している。それ故に彼と碁を打ち続けるうちに、金満家の萬屋源兵衛さえも商売に実直さを取り入れようと変わっていくのだから、復讐劇とは思えないほどの柔らかな空気が漂う前半が何とも心地いい。

だが彦根から梶木左門が訪ねてきたことで、漂う空気が変わっていく。亡き妻が自分にいわれなき嫌疑を掛けた柴田兵庫によって自死に追いやられたと聞き、冷静さを失った柳田の打つ碁が変わっていく。漂う空気も荒れ始める。

さらに柳田が左門から報告を受けた同時刻に、源兵衛が弥吉から預かった五十両を紛失してしまったうえに、弥吉が柳田を疑うような形で聞き取りをしてしまったがために、良好だった人間関係がぎくしゃくし始める。柳田と源兵衛の囲碁の時間はなくなり、弥吉がお絹目当てに囲碁を学ぶ時間もなくなり、心地良かった空気は淋しさ漂う空気へと変わってしまう。

加えて父の嫌疑を晴らすために、お絹が身を売ってまで用立てた五十両に対し、もし柳田が期限の大晦日までに貸主のお庚に返済出来ねばお絹は遊郭に出され、仮に紛失した五十両が見つかれば嫌疑を掛けた弥吉と源兵衛の首をもらい受けると柳田は言い放つ。武士のメンツを保つためとはいえ、清廉潔白さから遠ざかっていく柳田の姿が辛い。

そんな柳田が中山道では見つけられなかった柴田兵庫と江戸の碁会で再会する。清廉潔白さを求めるがあまり、同僚たちを追いやっていた過去を咎められた柳田と、彦根の殿から盗んだ掛け軸を売って藩を追われた仲間たちに仕送りをしていたという柴田の、敵討ちを兼ねた囲碁での再戦。その決着は柳田がお庚に教えた「石の下」。相手に自陣地を取らせると見せかけて、大逆転の石を置く高等戦術。

結局、最後は囲碁での再戦を放棄し暴れ出した柴田を、柳田の一振りと介錯で見事に敵討ちが果たされる。見つかった五十両に対しては、弥吉と源兵衛の互いを思いやる姿に、碁盤を斬ることで柳田は武士のメンツを保つという選択をする。お絹を身受けしたお庚も大晦日という期日を忘れたふりをして柳田の元にお絹を返す。

そんな人情噺の最後は、弥吉とお絹の祝言を見届けた柳田が源兵衛たちに別れの言葉を残さずに去っていく。どこへ行くのか、何が目的なのかは分からない。かつて藩を追われた同僚たちを訪ねに行ったのだろうか。このお話自体が落語の演目にアレンジを加えたものらしいので、この演目を知っている方なら分かるのだろうか。

とはいえ、柳田と源兵衛の囲碁勝負の雰囲気が好きだっただけに、また2人が碁盤を挟んで楽しい時間を送る姿を見たい。言葉は無くても雄弁な碁盤上での会話。それこそが囲碁なのだろうから。

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2024年05月21日

『ありふれた教室』

ありふれた教室大人なら考えろ。
学校での教師や保護者の判断ミスによる皺寄せは、いつの時代も生徒にやってくる。自主性だの不寛容方式だのと綺麗事を並べても、大人の勝手な憶測が、配慮も誠意もない行動が、生徒たちに誤った自主性と意味のない不寛容と大人への不信感だけを植え付ける。
これはどこででも起こりうる話。ありふれた日常の話でもある。

新しい赴任先で生徒からも同僚の教師からも信頼を得ているカーラ・ノヴァクは、優しく真面目な若き女性教師。生徒想いでもあるからこそ、校内で発生している盗難事件に対して、学校側が移民系の生徒を疑うことに違和感を抱くようになる。

ただ彼女はここで間違った選択をしてしまう。探偵を雇うという話まで取り出す同僚教師を余所に、PCの録画機能を使って隠しカメラ状態にして窃盗犯を炙り出そうと単独行動に出てしまう。それは彼女の正義感の強さから来るものだろうが、組織に属している以上、責任者への相談や許可なく単独行動に出てしまうのは御法度だ。

しかも独特の柄のブラウスだけで、窃盗犯の顔がカメラに映っていないにも関わらず、彼女は憶測だけで同僚のクーンを疑い、単独で問い詰めてしまう。そしてここでようやく職場上司への報告が行われるのだが、面倒なことに容疑者クーンは犯行を認めることも身の潔白を証明することもなく、逆ギレして職場放棄をしてしまう。ノヴァクもクーンも大人としてはあまりにも軽率な行動ばかりだ。

さらに人間関係において、一度でも面倒事が起きれば、すぐに噂が独り歩きを始め、また過去の面倒事も巻き込み、事態をややこしくさせていく。クーンの息子でノヴァクが受け持つクラスの生徒オスカーは同級生から侮蔑の扱いを受けるハメになるし、そのオスカーも母親の無実を信じるあまりにノヴァクに対して敵対心を持ち、クラスでも孤立し始める。

また保護者会でもこの学級崩壊への危惧が議題に挙がるも、ノヴァクは様々な理由をつけて真正面から向き合おうとしない。もちろん学校側の方針に従っていることもあるだろうが、一度単独行動での失敗を経験した彼女の正義感は完全に自信を失ってしまっている。だからここでも大人として子供の見本となる対応が何も出来なくなってしまっている。

大人は子供とは違って理論的に考える術を学んできた経験を有している。だからこそ、偏った情報にだけ頼らず、多角的な視野で物事を考えることが出来るはずだ。ルービックキューブはその最たる例として登場するが、ここでもノヴァクはその意味をオスカーに伝えることが出来ていないし、また自分でも理解し切れていない。

その他にも鬱憤晴らしに不満を抱えた生徒たちに大声で叫ぶことを推奨するくだりでも、その後のフォローが何も出来ていない。大声を出して鬱憤を晴らして、そこから冷静になることの重要性を説いてこその教育のはずなのに、彼女はそれをしない。

結局、教師への不信感を募らせた生徒たちは、勝手な憶測と配慮のない行動を身勝手な大人を正す行為だと勘違いをして、稚拙なジャーナリズムを盾に、学校新聞の発刊にまで至ってしまう。もはやここまで来ると、ネットで拡散される真偽不確かなネタと同じ。情報も知識も乏しい子供たちは、目の前にある学校新聞という情報だけを真実だと誤解して信じてしまう。

人間は考える葦である。17世紀の思想家パスカルは、この言葉を用いて、人間は弱い生物であるが、考えることの大切さを説いている。

でも今の時代はどうだろうか。自分は弱い生物であると思っていない人が真偽不確かな情報に踊らされ、また自分で考えることもせずに目の前にある情報を鵜呑みにして、時に詐欺に遭い、時に暴動を起こし、時に犯罪者として道を踏み外してしまう。

この映画のラストは、同級生への暴力行為や器物破損行為で停学処分になったはずのオスカーが登校して、ノヴァクたちの説得に耳を貸さずに、最後は警察のご厄介になって椅子に座ったまま、学校から退去させられるシーンで終わる。

ノヴァクやクーンがどうなったかなどは、一切描かれない。学級崩壊したのか、オスカーが改心したのかも、一切描かれない。ただ静かに「大人なら、この後どうなるかくらい考えたら分かるだろ。だから考えろ」と言われているような空気が流れてEDロールを迎える。

この教室で起こったことは、私たちが生活の中で、特段SNSの中で起きていることと同じ。「ありふれた教室」とは、「ありふれた日常生活」でもある。私たち大人が考えることを疎かにした結果がこれだ。

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2024年05月17日

『ミッシング』

ミッシング自分を見失う。
失踪した娘を探す母親がいる。失踪した姪と最後に逢った叔父がいる。失踪した少女への報道に疑念を持つ記者がいる。
自分が何者かであることを忘れたとき、人は自分を見失う。自分の役割を忘れたとき、人はどう行動すべきかと悩んでしまう。
大人になり切れていない大人こそが自分を見失うのだろうか。

7歳になる一人娘の美羽が失踪して3ヶ月。沼津の駅前でビラ配りをする母親の沙織里は、進展しない捜査、放送後の情報提供が少ないTV局の取材、誹謗中傷しかないのに見ることを止められないSNSといった山積する問題への対応で自暴自棄になっていく。だがなぜか彼女に寄り添いたいという気持ちにはなれない。別に彼女が娘の失踪当日にアイドルのライブに行っていたことが要因ではない。どこか自分は悲劇のヒロインと思い違いをしているかのような一貫性のない言動がただ気になる。

そんな沙織里の弟・圭吾。美羽と最後に逢った重要参考人なのに、捜査や取材へはあまり協力的ではない。自分が犯人だと疑われていることに対する周囲への不信感もあるだろうが、言動が二転三転するなど、人見知りという範疇を超えた言動がただ気になる。

そして沙織里や圭吾を取材する地元TV局記者の砂田。沙織里たちの想いや真実だけを伝えたいという想いと、新たな情報や反響が少ない結果の狭間で葛藤する。けれど彼の取材方針はどこか大まかで、具体的に何をどう撮りたいのかが見えてこない。その中途半端にも思える言動がただ気になる。

情報化社会と呼ばれて久しい現代社会。でもその「情報の質」はSNSの発展とは真逆に劣化の一途を辿っている。藁をもすがる想いの夫婦にいたずら目的で偽情報を流す薄情者たちが娘の失踪に苦しむ親たちを嘲笑うように、情報を扱う「大人の質」の低下が大きな要因なのだろう。

ではその「大人の質」とは何だろうか。真っ先に思い浮かぶのは、子供のお手本になっているかどうか。その点では夫や砂田に対して無配慮な沙織里、姉や取材に非協力的な圭吾、明確な取材方針のない砂田は、大人としてどうなのだろうかとも思えてしまう。

だからこそ、同じ沼津で行方不明になった他の女児が保護されたというニュースに沙織里が静かに涙を流して喜ぶ姿は、少し意外であると同時に、彼女が初めて見せた「母親」の姿として凄く印象的だ。

当初は忘れ去られていく自分の娘の失踪事件と絡ませて女児の捜索に動いていたのではと思っていたが、自分の娘が発見されていないのに他の女児が保護されたことに嫉妬をせずただただ喜ぶというのは、紛れもなく「母の愛」の為せること。子供に向ける「大人の愛」の為せること。

それはかつて姪を可愛がっていた圭吾にも当てはまる。彼が美羽とじゃれ合う映像を見て涙を流す背中は、大人として自分を恥じる背中そのものだ。そんな情けない姿は、決して大事な姪には見せられない。学生時代にイジメにあっていようと、幼き頃に誘拐未遂に遭おうと、目の前にいる子供にはそんな事情は関係ない。大人として子供を守る。その意思の弱さが大人の質を低下させているのだろう。

そんな沙織里の母親としての姿を、圭吾の叔父としての姿を、砂田は取材すべきだった。しかし彼はそこに気付くことさえ出来なかった。目の前にある「子供に関する事件」ではなく、目の前にいる「大人になり切れていない大人」ばかりを見てしまっていたのだろう。

大人は子供より背が高い。だから2つの目線で物事を見ることが出来る。1つは子供よりも高い目線、もう1つは子供と同じ高さの目線。高い目線は見下ろすのではない、俯瞰するのだ。同じ高さの目線は子供に合わせるのではない、改めて知るのだ。

親としての自覚を取り戻した沙織里に、保護された女児の母親が協力を申し出る。そういえば、この女児捜索の際に協力してくれたミカン畑の同僚も妊婦だった。親の辛さは同じ親が一番よく知っているからこそ、夫・豊の涙が希望の兆しにも見える。小学生の見守り隊として横断歩道に立つ沙織里が、娘の帰りを信じている強い母親に見える。

大人として私たちは子供たちに何をしてあげられるだろうか。自分のしているこの行いは、子供に見せられるものだろうか。その自問自答から逃げないのが大人だ。大人の責務だ。

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2024年05月13日

『猿の惑星/キングダム』

猿の惑星キングダム受け継がれるシーザーの伝説。
リブート3部作からは300年後。フランチャイズシリーズとしては10作目。いよいよ1968年のオリジナルへどう繋がっていくのかが楽しみになる一方で、猿と人間の物語だったはずが、猿と猿と人間の物語になってしまうと、どうしても心配も多くなってくる。
果たしてこの新シリーズは無事にオリジナルに帰還出来るのか?

リブート3部作の主役にて、言葉を得た猿:エイプの指導者的英雄だったシーザーが亡くなるという描写から始まり、時代は彼の死から300年後。鷲を操るエイプ:イーグル族の若者ノアが新たな主役として描かれるが、その恰好は服を着ない猿のまま。また住居となる集落も容易な造りのものばかり。つまりシーザーの死から300年経っても、エイプの進化はさほど進んでいないことが分かる。

しかし一つだけ大きく違うことが起こる。それがエイプの団結を謳い、協力し合うことを他の猿に教えてきたシーザーの志が300年後には歪曲されていたり、存在が知られていなかったりと、有名無実化されていること。その最たる例がプロキシマスという冷徹なエイプが、独裁国家建設用の労働力確保のため、様々な集落を襲ってはエイプを拉致していること。ノアがシーザーの教えをオラウータンのラカに出逢うまで知らなかったこと。

なので、ノア自身はトンネルやレールなどの人類が遺した文明に対する見識も疑問もなければ、エコーと呼ばれる言葉を失った人間に対する見識も下等生物扱い程度。そのせいか、他のエコーとは違い、原始時代的な服装ではない謎の女性:ノヴァのことも、彼女が言葉を発するまでは特別視していない。つまり観察力において、エイプの進化はまだ人類レベルまでは到達していないということも分かる。

だがそのノヴァが言葉を話し、自分にはメイという名前があり、母親の教えであえて喋れないフリをしていたという説明がなされると、エイプの世界しか知らないノアにとっては特別な存在になっていく。変化を受け入れるということは、新たな進化にも繋がっていく証だ。

一方でラカを失い、プロキシマスの兵に捕らえられたノアとメイが知る独裁者の目的。それは王国発展のために人類が固い鉄扉の奥に遺した叡智が欲しいが、鉄扉の開け方が分からない。だから労働力確保のためにエイプ狩りをしているという、シーザーの伝説を悪用した私利私欲的なものだが、ノアとは逆に人類の文明に対する価値を理解している証でもある。

そんな猿同士の内輪揉めを利用するかのように、メイはプロキシマスから人類の叡智を守ると同時に「とある」ハードドライブを確保するため、工作活動を行う。人類という仲間を助けるための行動はノアのようで、時に殺人や爆破も厭わない冷徹さはプロキシマスのようで、とても人間らしい二面性は、今後の猿の進化にも影響してくるのだろうか。

ただクライマックスがノアとプロキシマスの対決、つまりは猿同士の内輪揉めになっているので、作品単体の印象としては猿と人間の物語というよりも、猿と猿の物語に人間が絡むという方が少し強い。それが見る人によっては、作品の方向性が少しズレていると感じる理由になるのであれば、これがこの作品の評価の分かれ目なのかも知れない。

それでもプロキシマスを倒し、無事に仲間と共に故郷に戻ったノアをメイが訪ねてくるラストにおいては、やはり猿と人間の物語。かつての猿の扱いを知ったノアが人類に対する多少の疑念を抱くようになるも、メイだけは特別と自分に言い聞かせているようにも思える一方で、メイもノアに別れを言うという名目で会いに来たのに銃を隠し持っていたのは、エイプに対する疑念はあれど、こちらもまたノアだけは特別と自分に言い聞かせているように思える。

そんなメイが奪還したハードドライブ。彼女が防護服に身を包んだ他の人類に手渡すと、どうやらそれは他に生存する人類と通信をするための重要アイテムだったようで、巨大アンテナや望遠鏡といった宇宙を連想させる存在からしても、チャールトン・ヘストンの顔を思い出さずにはいられなくなる。

そしてオリジナルへの帰還を考えた時、これからエイプは服装などの面でもより人間のように進化し、人類は言葉を失うことでより猿のように退化していくのだろう。未知のウィルスへの対抗策を得られずメイたちは退化していき、プロキシマスやノアのようなエイプが増えていく。それはまるで「人の振り見て我が振り直せ」が「猿の振り見て人の振り直せ」と言わんばかりだ。

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2024年05月05日

『悪は存在しない』

悪は存在しない悪意は存在しない。無知が存在するだけ。
人は対立すると相手を悪だと決め付けがちだ。でも本当に相手は悪なのか。相手の事情も知らずに、自分目線で物事を見ているだけではないか。そんな自分自身に気付いていないだけではないか。
だからこれは誰かの話ではない。いつか自分自身の話になるかも知れない話だ。

長野県にある自然豊かな架空の町、原沢。そこに東京の芸能事務所がグランピング施設を建設する計画が持ち上がるが、余所者のずさんな計画に自然を愛する地元住民が反対する。一見すれば、地元住民と余所者との対立構造。やがて敵対関係になりうるかも知れない。

だが地元で便利屋を営む巧という男は語る。戦後開拓で生まれたこの町は、ある意味誰もが余所者。だから何事もバランスが大事だと。区長を務める老紳士も語る。上流に住む者は下流に住む者のことも考えて暮らさねばならない。上流の小さな汚水が下流では多くの被害を生みかねないからだと。

バランスとは何か。天秤に掛けた両者が釣り合うだけではない。意外にもうどんには山わさびが合うように、最良な関係を見つけ出すこともバランス。自分の性格に合う仕事を選ぶように、自分の力量を発揮出来る環境を構築するのもバランス。誰かが損をして、誰かが得をするのではない。Win-Winの関係がベストなバランス。

芸能事務所の社長はコロナ禍での補助金目当てで、畑違いのグランピング施設に手を出した。その計画にアドバイスをするコンサルタントも自分の無知を巧みな言葉で隠す。その皺寄せが高橋と黛に来る。施設の管理人になろうかと言い出す高橋と、人間の汚さを見るのが好きな元介護士の黛が織り成す車中での会話は、余所者というカテゴリーから2人を切り離そうとする、いや2人を個として見せる素晴らしき演出だ。

しかしこの作品は、そんな2人が巧に施設の管理人を任せることで問題解決ということを描きたいのではない。無計画な社長と無知なコンサルタントを悪者にして終わらせる話でもない。巧が言う「バランスが大事」ということを、個として描かれ始めた高橋と黛が経験していくことによって、観客が自分自身と向き合う話へと向かっていく。

巧の仕事に興味を持ち、薪割りをやってみる高橋。沢の水汲みを手伝う高橋と黛。棘で掌に傷を負ってしまう黛。
コツが分かれば、爽快な薪割り。黙々と動くことにやりがいを感じる水汲み。不用心に近づくことの代償を知る掌の傷。それらは高橋と黛が自分にとってベストなバランスを探しているかのようにも見えてくる。

やがて物語は巧の一人娘・花が行方不明になったことで、山中を村人総出で探すというクライマックスへと向かっていく。でも娘に自然の中で生きるための英才教育を施している巧は、さほど花のことを心配していない。

その花は山中の広場で鹿と対峙している。その光景は一緒に捜索をしていた高橋からすれば、花に危険が及ぶかも知れない緊急事態だ。でも巧は知っている。自然とのバランスを考えたとき、花がここで生きていくことを考えた時、ここで高橋に大声を出されて鹿が怯えて予想外の行動に出られることが最悪だと。それがバランスを崩すことになるから。

だから彼は高橋を羽交い絞めにして気絶までさせてしまう。一見すると、巧の変人的な行動も彼の言葉が少ないだけ。わざと棒読み演技をさせているだけ。彼の行動にバランスの大切さが詰まっている。

本作はここで唐突に終わってしまう。少々突き放された感覚に陥る観客もいるはずだろう。でも「バランス」というテーマを考えた時、この先を描くことに何の意味があるだろうかとも思えてしまう。ここで終わらせるからこそ、観客に「バランスの意味」を考えさせることが出来る。それがこの映画にとって最良のバランスの取れた終わり方。

もしこの先、人生において自分と意見が対立する相手が現れた時、恐らく私たちは相手を悪と見てしまいがちになるかも知れない。でも相手の事情や立場を考えてみたら、片方に大きく傾いていた天秤やシーソーは釣り合いの取れる状態に戻るイメージが自分の中でも生まれるのではないか。

だとしたら、やはり悪は存在しない。自分目線だけで物事を見ている自分の中で勝手に悪が生まれているだけ。相手を知ろうとしない臆病者が勝手に相手に憑依させているだけ。

そう考えると、戦争を始めた為政者たちは皆、バランスに欠いた行動を取っている。自分が臆病者であることを隠すために。だから揃いも揃って、相手をけなす言葉ばかり並べているのか。


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