2015年05月06日

『あの日の声を探して』

あの日の声を探してどれだけの家族を引き裂き、どれだけの人生を狂わせれば、大国の指導者は満足するのだろうか。
ミシェル・アザナヴィシウス監督がどうしても描きたかったという、この『山河遥かなり』を第二次チェチェン戦争に置き換えたリメイク作。
悲劇を生むのは悲劇でしかない。その負の連鎖に大国の指導者たちはいつ気付くのでしょうか。

ロシア兵が戦場と化したチェチェンで撮影をしているその映像から始まるこの作品。市井の人がスパイだと疑われ、聞く耳を持たぬロシア兵によってテロ掃討作戦の名目で殺されていく。その光景はまるで人間の形をした異生物が人間を殺すかのよう。

そんな非人道的なことがまかり通る世界で目の前で両親を殺された少年ハジ。赤ん坊の弟を抱え、どうすることも出来ない9歳の少年が小さな体と無言の表情で平和な世界に暮らす我々に語り掛ける。どこまで逃げても無関心なあなたたちはボクたちを助けてくれないだろうと。

その絶望の世界にいる少年はそれでも生きることをやめない。チェチェン人家族の玄関に弟を置き、自分も弟も生きる道を選ぶ。声を失い、笑顔も失い、涙さえ流す余裕さえない少年にようやく助けの手が差し伸べられるのはEU職員のキャロルに食べかけのパンを分け与えてもらった時。

ただそのキャロルも自分の想いと大国の事情の間で悩み苦しんでいる人間の一人。どんなにチェチェンの人々の苦しみを調査し報告しても無関心の服を着た各国の関係者は誰も動かない。話も聞いていない。だから戦争も終わらない。
それどころか一時的にとはいえ引き取ることにしたハジとどう接すればいいのかも分からない。言葉も通じなければ、笑顔を引き出すことも出来ない。一人の少年に取り憑いた絶望が周囲にも憑依していくかのように、ただただ希望が見えない時間がひたすら続く。

一方で、ミシェル・アザナヴィシウス監督はハジとキャロルの物語と同時進行で強制入隊させられた青年コーリャを描く。薬物の吸引だけで強制入隊させられ、遺体の処理を任され、理不尽なイジメに笑顔と希望を奪われた青年が徐々に壊れ始める。
遺体と話す、仲間と共に飛び立つヘリの下に潜る、最前線への転属を喜ぶ、そして初めて人を殺す。しかも銃を持たない非戦闘員を間違って殺す。

コーリャは何のために銃を持ち、戦場を駆けるのか。そこに彼が生きたいという希望はほぼ見えない。ただ死にたくないからチェチェン人という人間の形をした敵を殺す。つまり彼にはもはや人を殺しているという感覚が完全に欠如している。
ならば考えてみてほしい。そんな人間を作り上げるのが軍隊という場なら、そこに国防という名目は果たして存在するのだろうか。人間としての感覚を無くした者が国家を、国民を守れるのだろうか。

そんな絶望がさらなる絶望を呼ぶ負の連鎖が続く世界でハジが自分の気持ちを行動に、そして言葉に表し始める。お世話になったキャロルに恩返しがしたいと。
歳の離れた姉が生きていることも知らない9歳の少年が弟を置き去りにしたことを悔いながらも、それでも生きる道を選んでいる。だからこそキャロルはハジを家族にするという道を選ぶも、運命が選んだのはハジの姉や弟との再会。

この時のハジの笑顔はキャロルが今までに見たことのない本当に嬉しそうな笑顔。ただこの笑顔は両親が殺され、姉や弟と生き別れにならなければ決してこの場で見ることのなかった笑顔。言い換えれば、本来ならこの9歳の少年の人生には別の場所で家族に見せるべき笑顔だったはず。
その淋しさとハジとの生活が終わる淋しさがキャロルの心を複雑にさせる。戦争を終わらせることの出来ない無力さをどこかで感じながら。

ハジとキャロルの物語が終わるとコーリャの物語もいよいよ終わりを迎える。戦場で遺体から金品を強奪するロシア兵に倣ってコーリャもハンディカメラを手に入れる。そしてこの肥溜めと見下したチェチェンの光景を撮り始めるが、その撮影内容に誰もが驚愕する。このくだりはOPと同じではないか。あの映像を撮っていたのはコーリャなのかと。

戦争は国家の指導者の思惑により、まず自国民を苦しめることから始まり、その苦しんだ者が人間性を失いながら、さらに弱い立場の者へとその苦しみを押し付ける。悲劇が悲劇を生み、負の連鎖がひたすら続く。
そんな戦争を終わらせる方法は大本である指導者を動かす。戦場での悲劇に無関心な指導者を動かす。「ただこれだけ」。
そのために我々が出来ることは無関心からの脱却。それもまた「ただこれだけ」。

なのに出来ないのはなぜなのだろうか…。

深夜らじお@の映画館はこれぞ見るべき映画の一本だと思います。

※お知らせとお願い
【元町映画館】に行こう!


トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by 隆   2015年05月07日 17:59
チェチェン紛争は、ソ連から誕生した独立国の先駆けであるだけに、崩壊後のロシアは容認出来なかったのでしょうが、中央アジアは、現在の混沌といい、中央から遠隔地にあって、それでいてヨーロッパやアラブへの橋頭堡として重視される、住民にとっては、ロシア人と共存せざるを得ない、分断の土地であると思います。

侵略に対する、自衛戦争において、少なからず移民と共存して行く事は、大国ロシアに対峙して行くチェチェンの地を、守って行く事に繋がるでしょう。国家に対する忠誠か、人民に対する誠実か、は、チェチェンのような小国ではなけなしの地を追われれば、流れる先も無いだけに、切実でしょうね。傲岸なロシアの政治家と、チェチェンの戦士たちの必死が、おそらくは見える作品なのでしょうね。
2. Posted by にゃむばなな   2015年05月07日 23:15
隆さんへ

チェチェンという土地の重要性。ロシアから見ればもあれば、チェチェンからも見ればもある。
でもそれは所詮政治の話。家族の話ではないのがこの映画を見ると伝わってきますよ。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
昨日の訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

※オススメです♪※
『KANO~1931海の向こうの甲子園〜』主題歌
ぷろふぃ〜る

にゃむばなな

Twitter始めますた
nyamu_bananaをフォローしましょう
livedoor 天気
ちょいとした広告掲載