2015年12月02日

『父と暮せば』

父と暮せば父が娘を想う。娘が父を想う。
井上ひさし先生の同名戯曲を黒木和雄監督が戦争レクイエム3部作の完結作として映画化したこの作品は、しんみりとした会話の中に少しずつ見せていく淋しさを感じさせる物語の構成が素晴らしい反面、演出が完全に舞台用となっているため、映画としての魅力が皆無に近いことが残念でならない作品でした。

人類史上、最大にして最悪の人道的犯罪行為でもある原子爆弾の投下。いかなる理由があろうと何十万という一般市民を巻き込んだこの愚行は、被害に遭われた方に身体だけでなく心にも一生の傷を残すもの。

この映画のOPでも普通に見れば単なる雷を怖がる美津江も、押し入れに逃げ込んで父親の竹造と話す会話の内容を聞くと、その心の傷の深さは我々の想像を遥かに超えるものだと分かってくるんですよね。

上空で光る。それだけで怖い。
雷の音がどうしても怖いといったものではなく、上空で爆発して強烈な光を広島の街に浴びせたピカドンがどんな恐ろしい光景を生み出したのかを否が応でも思い出してしまう。
これは戦争体験のない我々の世代ではどんなに頑張って想像力を働かせても、決して想像することの出来ない、まさに地獄絵図の世界。

そんな原爆被害の記憶が色濃く残る美津江が楽しそうに会話をする相手でもある竹造は娘の幸せを最優先に考えてくれる優しい父親。死してなお娘の前に現れるのは、男手一つで娘を育ててきた親としての最後の心残りだからなんでしょう。そのお茶目に動いては常に娘の背中を押す優しさは、原田芳雄さんの好演もあってか、凄く心が温かくなるもの。

だからこそ、倒れた木材に挟まれた父親を置いて自分だけ逃げてしまったことを、大好きな父親を見殺しにしてしまったがために自分は幸せにはなってはいけないと思い込んでしまう美津江の苦しさも本当に切ないもの。

ただこの映画からはそんな戦争の悲惨さも、父親の深く温かい愛も、そして美津江の苦しみもさほど伝わってこないのが残念なところ。この物語からは伝わってくるのに、なぜ映画からは伝わってこないのか。
それはこの作品の演出が映画用ではなく舞台用だからではないでしょうか。

ネット検索をしても分かるように、この井上ひさし先生の作品は何度も舞台化されている名作。なので、この映画も舞台として見ると戦争の悲惨さ・竹造や美津江の気持ちも心にもっと響いてきたことでしょう。

でも映画は映画、舞台は舞台。舞台を映画化している訳ではないのですから、映画化する以上は映画としての見せ方というものをもっと追求すべきだったはず。
つまり舞台では見せることの出来なかったこの作品の良さを映画化することによって見せることが出来れば、「まるで舞台みたい」という感想も方々から出てくることもなかったと思うのです。

常識的に考えると、現実として亡くなった方が幽霊として我々の前に現れることはあり得ないこと。精神的に不安定になっている美津江の心の中で父親の竹造が形成され、目の前にいるように思えているだけで、それくらい被爆者の方々の苦悩も大変だったということを映像技術などを用いて描いてこそ、映画化の意味があるというもの。

その辺りを考えると、作品としては素晴らしいが映画としては魅力に欠ける、残念というよりも「もったいない」映画でした。

深夜らじお@の映画館は山田洋二監督が『母と暮せば』でどのような映画的演出をしているのか楽しみにしています。

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