2017年02月18日

『たかが世界の終わり』

たかが世界の終わり家族はあなたが望む港ではない。
親しき中にも礼儀あり。例え家族であってもその例外に漏れないはずなのに、誰もが望む。家族だから分かってくれるだろうと。その甘えが家族をまとまりのない集団へと変えることも理解せずに。
だがそれでも愛する家族には変わりない。例え私が死ぬとしても、それはたかが私の世界が終わるだけだから。

ケベックの美しき天才:グザヴィエ・ドランが描く、とある家族。その物語の中心にいるのは劇作家として成功したルイ。12年ぶりに自分の死が近いことを家族に伝えるために帰郷したルイ。

冒頭、ルイがタクシーで帰郷するシーンで彼が見た様々な人たちの表情が描かれる。談笑する者、余所者に警戒心を強める者、走るタクシーさえ気に留めない者。その誰もに家族がいる。帰るべきはずの家がある。

けれど「家族」という言葉を聞いて好意的な印象を持つ者もいれば、そうでない者もいる。
幼少期に会って以来の再会となる妹シュザンヌは次兄ルイを有名人として、騒がしい母マルティーヌは息子ルイを成功者として、天邪鬼な長兄アントワーヌは弟ルイを嫉妬の対象として、アントワーヌの妻カトリーヌは義弟ルイを初対面の他人として接する彼らは恐らく本心では前者でも、その言動は外からは後者にしか見えない。

ではなぜこの家族には言い争いが絶えないのか。それはここに父親がいないからではないだろうか。
恐らくこの家族の言い争いは昔からあったもの。それを父親が一喝して収めていたのだろうが、その重しがなくなった途端、家族だから分かってくれるはずという甘えが素直になる心を忘れさせ、こんな家族へと変貌させたのではないだろうか。

だからルイも家を出たのではないだろうか。だから彼にとって12年ぶりの帰郷で最も話し易かったのは元は他人でもある義姉カトリーヌではなかったのではないだろうか。

人は誰でも相手を想い、言葉を選び、会話をする。特に相手が他人であれば、人は誰でも無闇に言葉を選ばない会話はしない。礼儀を弁えた言動をとる。
でも相手が家族となると、相手を想う優しさを忘れる。言葉を選ぶ慎重さを忘れる。会話をするという大切さを忘れる。ただただ相手が「家族だからという理由だけで」自分の話を聞いてくれると思い込んで。

この家族が言い争いをすることで絆を保てるのなら、間違いなくその輪に入ろうとしないルイは「他人」である。
けれど、そんな言い争いが絶えない家族でも大切にしたいという想いを優先させるルイは間違いなくここの「家族」でもある。

彼がデザートの時間に兄アントワーヌの妄言に付き合い、急に帰ると言い出したのも、彼なりにどの選択をすれば家族が傷つかないで済むかを一人で悩み抜いた結果だろう。
兄一人を悪者にするよりも、ここで自分が身を引けば少なくとも現状より家族の関係性が悪くなることはないだろうと。

しかしそこにはルイの意志が存在していない。12年ぶりに帰郷して、自分の死期を伝えて、その後家族にどうして欲しかったのかというのが彼の望みだったはず。
なのに、その望みさえも言葉にせず、彼は言い争いの絶えない家族を残して実家を去る。まるで外に出られずに死んだ小鳥のように、自分一人が死んだところで誰も気に留めないだろう。たかが私の世界が終わるだけではないかという悲しい背中を見せながら。

けれどそれは彼なりのこの家族への愛情表現。12年ぶりの帰郷により他人のような状態でもこの家族と共に育った人生。そこに家族に対する愛がないはずがない。
でもその愛情表現がこんなにも切ないのは、天邪鬼な兄が、浮き立つ妹が、騒がしい母が、何も関わろうとしない義姉が、ルイが大切にしている「家族であっても親しき中にも礼儀あり」という大切な心を忘れてしまっているからだろう。

昔のゲイの恋人がガンで死んだ。その恋人に逢いに行ける。もしルイがそう思ってしまっていたのなら、「たかが世界の終わり」は彼なりの強がりでもあるが、そんな悲しい強がりなんて家族には必要ない…。

深夜らじお@の映画館はグザヴィエ・ドランの登場人物の表情を上下左右多角的に撮るカメラワークも選曲センスと同じく凄い才能だと思います。

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