2017年12月23日

『ビジランテ』

ビジランテ誰も守ってくれない。誰も守ってやれない。
地方都市に生きる道はあるのか。個性のない、閉鎖的な地方都市にそれでもしがみつくのは、そこで生きていくしかないからか。
入江悠監督の地方都市が持つ暗部を描くオリジナル脚本。それは多くの撮影が行われた埼玉県深谷市だけではない、日本のどこにでもある闇が描かれた力作だ。

関西に住む者にとって、埼玉県はあまり個性を感じない場所だ。これといった観光名所も食文化も思い浮かばない。東京のベッドタウンとして発展したという認識しかない。都会でも田舎でもない、中途半端な存在だ。

そんなサイタマ県のとある地方都市で市会議員を務める次男・神藤二郎、デリヘルの雇われ店長をしている三男・三郎の元に、幼き頃に行方をくらませて以降、暴力的な父親の死を機に30年ぶりに帰郷した長男・一郎が波風を立たせる。

一郎が遺産相続を主張する土地は、二郎がショッピングモールの建設予定地にと目論む場所。三郎にとってはどうでもいい場所だが、政治家のお偉いさんが闇の仕事を依頼した先の下請けヤクザが三郎の雇い主とあっては、もはや蚊帳の外とはいかない。否が応にも地方都市が持つ闇が別々の道を歩んでいた三兄弟を引き摺り込むのだ。

本来なら子供を守るはずの親が暴力を振るう。本来なら街を守るはずの議員がヤクザを動かす。そんな現代日本のどこにでもある地方都市。
強き者が弱き者を守らない。弱き者が強き者に虐げられ、選択を迫られる。自分より弱い者を虐げるか、それとも自分自身だけを守るかと。

中国人移民の勝手な振る舞いに怒り、自警団に入った若者・石原に街を守る意思はない。移民排斥という暴力で、勝手な振る舞いには勝手な振る舞いで応える。
デリヘル嬢をモノとして扱うヤクザ・大迫も、舎弟である三郎を守る気はない。小さな猿山のボス気取りが生む暴力は、大海を知らない井の中の蛙としての結末しか導かない。
そして二郎の妻である美希は動き続ける。若手議員の妻としてではなく、夫を人情ではなく損得で動く、自分たちのことだけを守る人間に仕立て上げるために。

誰もが自分を守るためだけに生きている。他人を守る自警団員ではなく、自分だけを守る自警団員:ビジランテとして生きている。

二郎が涙を押し殺した挨拶の最後に深々と頭を下げた表情には、妻の意を酌み、自分たちだけを守るビジランテになると決めた苦悩と覚悟が見え隠れする。それはある意味、地方都市で賢く生きる姿でもある。

一方で、コンテナに閉じ込められたデリヘル嬢たちを救うべく、二郎を頼るも断られ、一郎も説得出来ずに、横浜のヤクザと地元のヤクザの話し合いという流れに身を任すしかなかった三郎は、最後まで他人を守るビジランテという道を歩み続ける。
ヤクザの抗争に巻き込まれて命を落とした一郎の遺体までをも渡すまいと最後まで大きな敵に挑み続け、最後まで守るべき者のために地を這った姿は、愛を知る者の姿だ。

そして頑なに土地の相続放棄を拒んだ理由が一切明かされない一郎は、どちらのビジランテになろうとしたのかも明かされない。
特にあれだけ忌み嫌った父親の家を荒らしておきながら、靴を脱げと言い続けた大迫をあのナイフで刺し殺しす様が、まるで借金返済のためではなく、祖父の代から土地が家族の、3兄弟の唯一の絆の証とでも語っているかのようでもあるからだ。

誰も守ってくれないから、自分たちだけは守れるようになるべきなのか。
誰も守ってやれないけれど、それでも守りたいと挑み続けるべきなのか。

移民排斥と自国ファーストがワンセットになりつつある現代。アメリカやヨーロッパだけの問題ではない。この日本でもそんな風潮が本当に正しき道を迷わせている。

私たちは誰に守ってもらっているのか。誰を守ってやれているのか。
いや、正しくは誰に守られ、誰を守っているのかだ。
わずかな言葉の違いが互いの心の距離を表している。

深夜らじお@の映画館も兵庫県明石市という地方都市に住んでおります。

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acideigakan at 12:00│Comments(0)clip!映画レビュー【は行】 

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