2018年01月19日

『わたしは、フェリシテ』

わたしは、フェリシテ現実を愛せよ。さすれば、「わたしは、幸福」と言えるだろう。
セネガル系フランス人のアラン・ゴミス監督がコンゴの首都キンシャサを舞台に描く、現代アフリカの現実と愛と音楽。
ほとんど変化のない表情を貫くヒロインに笑顔と安らぎという「感情」が見え始めた時、改めて「フェリシテ:幸福」の意味と温かさを知る。

一人息子のサモを育てるため、夜な夜なバーで歌うことで生計を立てているシングルマザーのフェリシテは、幼い頃に一度死ぬも棺桶で生き返ったことでカピンガから「幸福」という名前に変わるも、そのほぼ変化のない表情からは彼女に幸せを感じることはない。

むしろ壊れた冷蔵庫を修理してもらうも2週間でまた故障するといった修理詐欺に合うなど、彼女は発展を続けるコンゴ社会が生み出す「現実」に苦しんでいる。

そんなシングルマザーに訪れた悲劇は一人息子の交通事故だけではない。
費用の一部前払いがなければ、手術さえしてもらえないドライな現実。代わりに薬を買ってきてあげると言って老女に金を騙し取られる汚い現実。金を貸した相手に督促をすると罵られる理不尽な現実。そして見ず知らずの金持ちの家でゴネてまで医療費を集めるしかない淋しい現実。

そう、様々な現実が彼女から感情という名の表情を奪っていく。

だが、このシングルマザーは決して絶望しない。子を持つ母親の強さだけではない。彼女のためにカンパをしてくれた優しき音楽仲間がいるからだけではない。タブーという陽気な大男が好意を寄せてくれるからだけではない。

彼女が歌う時に見せるパワー、つまりはこの地に生きる人々に根付く、音楽が生み出すソウルパワーが、例え息子が片足を切断するということになっても、彼女から絶望という2文字を奪い続けているのだ。

だからこの映画では前半の一部以外、彼女がカサイ・オールスターズと共に歌う歌詞が表記されることはない。ただアフリカの音楽が持つソウルパワーを感じさせてくれると同時に、その音楽がアマチュア交響楽団が演奏する音楽:エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの「フラトレス」と同じパワーを持つものだと気付かされる。

そして髪を切ったフェリシテが、片足を失ったサモが、タブーの陽気さに笑顔を取り戻していく終盤。
本来なら悲観するしかない現実にいるフェリシテとサモの表情には希望が満ち溢れている。タブーの陽気さに背中を押されただけではない明るさが満ち溢れている。

なぜ彼女たちにはこんなにも希望が、明るさが満ち溢れているのか。これだけ辛く厳しい現実に打ちのめされても、なぜ笑顔が絶えないのか。

それを具体的に説明することは出来ないが、ただそこにかつての戦後日本も持っていたであろう、現代社会の人間にとっては羨ましいくらいの「パワフルな愛」があるからではないだろうか。
フェリシテもサモのその「パワフルな愛」の存在を知り、受け入れようとしたからこそ、あんなにも明るく希望に満ち溢れ、そして安らぎの表情も見せ始めたのではないだろうか。

現実に不満を抱かぬ人などこの世には一人としていないだろう。
でもそんな現実でも愛する。それが出来る人こそが、「幸福:フェリシテ」を実感出来る人なのだろう。

幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだね。
一日一歩、三日で三歩。三歩進んで二歩下がる。

そんな現実を愛せていますか?

深夜らじお@の映画館にとっては初めてのセネガル映画です。

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acideigakan at 23:59│Comments(2)clip!映画レビュー【ら行】 

この記事へのコメント

1. Posted by onscreen   2018年01月20日 13:01
年初から、強力な一本でしたね!
2. Posted by にゃむばなな   2018年01月21日 23:14
onscreenさんへ

パワフルな映画でした。
やっぱり発展を続けるアフリカ諸国は凄いですわ。

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